2001年10月18日(木) 西欧政治思想史

 

第7章 『共産党宣言』を読む(1)

 

7−1−1 書名──『共産党宣言』でよいのか

 今日から、カール・マルクス(Karl Marx, 1818-1883)とフリードリッヒ・エンゲルス(Friedrich Engels, 1820-1895)の『共産党宣言』(1848年)を読んでいくことにしたい。『共産党宣言』は、共産主義者同盟(Bund der Kommunisten)の綱領である。まず最初に考えたいのは、そもそも『共産党宣言』という書名でよいのかどうか、という問題である。

根拠1:第二版 こうした疑問を引き起こす一つの根拠は、1848年の初版の書名は『共産党宣言』(Manifest der Kommunistischen Partei)なのに、1872年の第二版の書名は『共産主義者宣言』(Das Kommunistische Manifest)となっていることである(実は二種類の初版があるが、それについては服部文男「『共産党宣言』の誕生」、『経済』第29号、1998年2月を参照)。著者が意図的に書名を変更したのであれば、第二版の書名を採用すべきだということになる。しかし、どうもそうではないらしい。ある研究者は、別称を採用したのは「通称」に倣ったためではないか、ドイツ社会民主労働者党と区別するために「党」(Partei)を外したのではないか、と示唆している(橋本直樹「『共産党宣言』普及史研究の諸成果」、『経済』第29号、1998年2月、6-137頁)。事実、その後に書かれた幾つかの「序文」では、『共産党宣言』という言葉が用いられている(12頁;14頁;29頁;32頁)。だとすれば、第二版の書名変更は、『共産党宣言』を否定する根拠にはならない。

根拠2:本文 しかし、別の根拠がある。『宣言』の本文では「共産主義者」という言葉は頻出しているのに、「共産党」という言葉はわずか二カ所しか出てこないことである(86頁)(石塚正英「共産党宣言は共産主義者宣言である」、篠原敏昭・石塚正英編『共産党宣言──解釈の革新』お茶の水書房、148頁)。しかし『宣言』の冒頭には「共産主義者がその考え方、その目的、その傾向を全世界のまえに公表し、共産主義の幽霊物語に党自身の宣言(ein Manifest der Partei selbst)を対立させる」(37頁)という決定的な文章がある。だとすれば、「共産党」という言葉が少ないという事実は、それだけでは『共産党宣言』を退ける決定的根拠にはならない。

根拠3:前衛政党 それでは、内容から考えるならば、どうであろうか。「共産党」という言葉は、ロシア革命の指導者レーニンの思想を色濃く反映している。なかでも重要なのが、唯一の「前衛政党」という観念である。それによれば、社会民主党は「修正主義」にほかならず、労働者階級を指導できるのは共産党以外にはありえない。ところが『宣言』は、共産主義者が様々な労働者政党に属し、そのなかで活動することを提唱しているのである(資料1)(なお、日本最初の翻訳はこの箇所を「共産党」と訳している[資料2])。『宣言』の第4章では、共産主義者がいかなる政党で活動すべきかを、国ごとに明記している。このように、唯一の「前衛政党」という観念を退けていることを考えるならば、『共産党宣言』よりも『共産主義者宣言』のほうが適切なのではないのだろうか。

根拠4:協同体 しかし『共産主義者宣言』でも十分とは言えない。「共産」という言葉は「共同生産」の意味であり、生産中心主義のニュアンスが付きまとっている。しかし『宣言』は、共産主義社会を自由な人間の「協同体」(Assoziation)と規定しているのである(資料3)。この点を重視するならば、『コンミューン主義者宣言』ないし『協同体主義者宣言』としたほうがよいのかもしれない。──以上は一つの解釈であって、唯一の解釈であることを主張するものではない。

 

資料1 共産主義者と労働者党

「共産主義者はプロレタリア一般に対してどんな関係に立っているか?/共産主義者は、他の労働者党にくらべて、特殊な党ではない。/かれらはプロレタリア階級全体の利益から離れた利益をもっていない。/かれらは、特別な原則をかかげてプロレタリア階級をその型にはめようとするものではない。/共産主義者は、他のプロレタリア政党から、次のことによって区別されるにすぎない。すなわち、一方では、共産主義者は、プロレタリアの種々な国民的闘争において、国籍とは無関係な、共通の、プロレタリア階級全体の利益を強調し、それを貫徹する。他方では、共産主義者は、プロレタリア階級とブルジョア階級のあいだの闘争が経過する種々の発展段階において、つねに運動全体の利益を代表する」(『共産党宣言』岩波文庫、57頁)。

 

資料2 幸徳秋水・堺利彦訳(1904年)

「共産党(Communist)は、平民全体との関係に於て、果して如何なる地位に立てりや。共産党は、他の労働階級の諸党派に反対せる別個の党派を組織するものに非ず。/彼等は平民全体の利害と分離し相異せる利害を有するものに非ず。/彼等は彼等独自の宗義を造設して、之に依て平民の運動を規律し遡造せんとするものに非ず。/共産党が他の労働階級諸党派と異なる所は、唯だ是れのみ、曰く、諸国平民の一国的闘争に際して、共産党は総ての国枠以外に脱出して、平民全体共通の利害を指示し、標榜する、其一なり」(石塚論文、150-151頁からの再引用)。

 

資料3 自由な協同体

「階級と階級対立をもつ旧ブルジョア社会の代りに、一つの協同体があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である」(『共産党宣言』岩波文庫、69頁)。

"An die Stelle der alten buegerlichen Gesellschaft mit ihren Klassen und Klassengegensaetzen tritt eine Assoziation, worin die freie Entwicklung eines jeden die Bedingung fuer die freie Entwicklung aller ist."

 

7−1−2 文体──なぜ『宣言』は問答体を放棄したのか

『宣言』の前史 次に『宣言』の文体について考えることにしたい。ここで手がかりになるのは、『宣言』にいたる諸草稿である(マルクス/エンゲルス『共産党宣言/共産主義の諸原理』新日本出版社に所収)。『宣言』は、共産主義者同盟の第2回大会(1847年11-12月)の後、エンゲルスの協力のもとに、マルクスが執筆したものである。しかし『宣言』には、その前史ともいうべき原稿──両者ともエンゲルスの筆による──が残っている。一つは、第1回大会(1847年6月)で作成された「共産主義的信条表明草案」(1847年6月)である。もう一つは、新しい草案である『共産主義の諸原理』(1847年10-11月)である。『宣言』と「草案」『諸原理』とのあいだには、文体上の決定的相違がある。『宣言』とは違い、「草案」や『諸原理』は「問答体」で書かれていることである(資料4)。

 

 1847年6月 「共産主義的信条表明草案」 書記ヴォルフ/議長シャッパー

 1847年10-11月 『共産主義の諸原理』 エンゲルス

 1848年2月 『共産党宣言』 マルクス/エンゲルス

 

『宣言』における文体変更 なぜ『宣言』は、問答体という文体を放棄しているのであろうか。わざわざ文体に変更を加えている以上、何らかの理由があるはずである。実は、マルクス宛のエンゲルスの手紙のなかに、この問いにたいする答えがある。エンゲルスは、問答体は「歴史」の叙述に相応しくないという理由で、問答体の放棄を提案しているのである(資料5)。しかし我々は、これ以外の意味──必ずしもマルクスやエンゲルスが意識していたとはかぎらない──を考えることはできないだろうか。ここで、問答体の短所に関する前回のブレインストーミングを整理することにしたい。

短所A:問答体では、深い議論の展開が難しいこと。

短所B:問答体では、誘導的になること。

前回の資料(=資料4)を見れば、短所Aは正しいようにみえるかもしれない。しかし、たとえば『諸原理』では、かなり長い「答」がある(最も長い第20問の答は、新日本出版社版で4頁=69行にもわたっている)。このことを考えれば、短所Aは問答体に不可避な短所とはいえない。しかし、短所Bは、問答体──正確に言えば、ある種の問答体──に必然的なのではないのだろうか。この短所Bを仮説として、問答体を放棄した理由について考えてみることにしたい。

プロレタリアート像→問答体の放棄 唐突に感じるかもしれないが、ここで一つのことを確認しておきたい。それは、マルクスとエンゲルスにとってプロレタリアート(賃金労働者)は解放の対象ではなく、解放の主体であることである。「労働者階級の解放は労働者階級自身の仕事であらねばならない」(19頁;cf. 25頁)。こうしたプロレタリアート像を踏まえるならば、問答体という文体は不適切なのではないだろうか。というのは、問答体は、一つには、キリスト教を「布教」するカテキズム(教理問答)として発達した文体だからである(ただし問答体には、古代ギリシアに端を発する別の伝統もある)。こうした「布教」というスタンスは、『宣言』のスタンスとはほど遠い。『宣言』には、プロレタリアートを共産主義者に「オルグ」しようなどという発想は微塵もない。その証拠に、「草案」とは対照的に(資料4−第三問)、『宣言』での「諸君」という呼びかけは、ブルジョアジーに向けられている(資料6)。以上を踏まえれば、次のようにも解釈できるのではないのだろうか。なぜ『宣言』は問答体を放棄したのか──問答体が、解放の主体としてのプロレタリアート像と相容れないから、と。

 

資料4 「共産主義的信条表明草案」の抜粋

「第一問 君は共産主義者であるか?

 答── そうだ。

 第二問 共産主義者の目的はなにか?

 答── 社会の各成員が、その素質および力の総体を完全に自由に、そしてそのことによってこの社会の根本的諸条件をそこなうことなしに、発展させ、かつ実証することができるように、社会を編成すること。

 第三問 君たちは、どのようにしてこの目的を達するつもりであるか?

 答── 私的所有──財貨共有制がこれに代わる──の廃止によって。

 ・・・・・・ 以下、省略 ・・・・・・

(「共産主義的信条表明草案」、『共産党宣言/共産主義の諸原理』新日本出版社、149頁)。

 

資料5 1847年11月23日付けのエンゲルスのマルクス宛の手紙

「信条のことをもう少し考えてくれたまえ。ぼくは、問答形式をやめて、それを共産主義宣言という題にするのがいちばんだと思う。その中では多少とも歴史を述べなければならないのだから、これまでの形式ではまったく不適当だ」(石塚論文、151頁からの再引用)。

 

資料6 『宣言』における「諸君」の用法

「諸君は、われわれが私有財産を廃止しようと欲することにおどろく。ところが、諸君の現存社会では、私有財産は社会成員の十分の九にとっては廃止されているのだ。それは、十分の九の人にとって存在しないというまさにそのことによって、存在しているのだ。すなわち諸君は、社会の途方もない多数者が財産をもたないことを必然的前提条件とするような財産を、われわれが廃止しようとすることに対して、われわれを非難しているのである」(『共産党宣言』岩波文庫、61頁)。


2001年10月25日(木) 西欧政治思想史

 

第7章 『共産党宣言』を読む(2)

 

7−2−1 階級──ブルジョア/プロレタリアの二分法は何を無視しているのか

歴史=階級闘争 今日から『宣言』の本文を読んでいくことにしたい。『宣言』は、有名な文章で始まっている。「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」(Die Geschichte aller bisherigen Gesellschaft ist die Geschichte von Klassenk確pfen)(38頁)。マルクス=エンゲルスによれば、近代資本主義社会も、階級対立を廃止したわけではなく、ブルジョアとプロレタリアという単純な階級対立に置き換えたにすぎない(資料1)。『宣言』の英語版(1888年)に追加された脚注に従えば、ブルジョアとは、生産手段を所有する近代資本家階級であり、プロレタリアとは、生産手段を所有しないために労働力を売らざるをえない近代賃金労働者階級である(資料2)。プロレタリアは、真に革命的な階級であるという。「現代ブルジョア階級に対立しているすべての階級のうちで、プロレタリア階級のみがほんとうに革命的な階級である」(53頁)。かつてのブルジョアの革命的役割と同じく、プロレタリアは、近代資本主義社会の「墓掘人」だというのである(資料3)。

 

注 岩波文庫95-103頁に「1888年英語版との対照」がある。

 

二分法→様々なアイデンティティの軽視 ここで指摘したいのは、こうしたブルジョア/プロレタリアという二分法の難点である。我々は、性別、民族、宗教、といった様々なアイデンティティを抱いている。そして、いかなるアイデンティティを中心に据えるか、あるいは据えないかは、各人の自由な選択に委ねられている。ある人は、職業を中心に自己のアイデンティティーを解釈するであろうし、別の人は、宗教を中心に解釈するであろう。なかには、アイデンティティを持たないことをアイデンティティとしている人もいるかもしれない。だが、ブルジョア/プロレタリアという二分法は、階級的アイデンティティに還元されない様々なアイデンティティを脇に追いやりかねない。しばしば指摘されているように、マルクス主義者は、近代資本主義社会における女性や「障害者」(the handicapped)というアイデンティティを二次的なものとしてしか捉えてこなかった。階級に還元されない問題が浮上するには、「冷戦」の終結をまたなければならなかった。

二分法→啓蒙と暴力 ブルジョア/プロレタリアの二分法の難点は、これにとどまらない。マルクス主義者は、階級的アイデンティティを中心に据える結果、「階級意識」に目覚めていない労働者に、階級意識を「注入」しようとする。そこには、「前衛」が「意識の低い」労働者を「啓蒙」するという、見下した態度がつきまとわざるをえない。それどころか、手を尽くしたのに真の階級意識に目覚めないとなると、その人を「敵」とみなして暴力を行使することになる(「粛清」や「内ゲバ」)。ブルジョア/プロレタリアという階級的アイデンティティには、こうした難点がつきまとっているのではないのだろうか。だとすれば、こうした危険を避けるために、階級的アイデンティティを中心に据えるのではなく、様々なアイデンティティを複合的に捉えなければならないであろう。そして、アイデンティティの解釈権を各人に委ねなければならないであろう。そうした留保を付けたうえであれば、ブルジョア/プロレタリアという二分法も、労働力を売らざるをえない多くの人々の境遇を理解する際に、重要な概念として役に立つであろう。

 

資料1 近代ブルジョア社会における階級対立

「封建社会の没落から生れた近代ブルジョア社会は、階級対立を廃止しなかった。この社会はただ、あたらしい階級を、圧制のあたらしい条件を、闘争のあたらしい形態を、旧いものとおきかえたにすぎない。/しかしわれわれの時代、すなわちブルジョア階級の時代は、階級対立を単純にしたという特徴をもっている。全社会は、敵対する二大陣営、たがいに直接に対立する二大階級──ブルジョア階級とプロレタリア階級に、だんたんとわかれていく」(『共産党宣言』岩波文庫、40頁)。

 

資料2 ブルジョアとプロレタリアの定義

「ブルジョア階級とは、近代的資本家階級を意味する。すなわち、社会的生産の諸手段の所有者にして賃金労働者の雇傭者である階級である。プロレタリア階級とは、自分自身の生産手段をもたないので、生きるためには自分の労働力を売ることをしいられる近代賃金労働者の階級を意味する」(『共産党宣言』岩波文庫、38頁)。

 

資料3 プロレタリア=墓掘人

「われわれの眼のまえに、その同じ運動が進行している。ブルジョア的生産ならびに交通諸関係、ブルジョア的所有諸関係、かくも巨大な生産手段や交通手段を魔法で呼び出した近代ブルジョア社会は、自分が呼び出した地下の悪魔をもう使いこなせなくなった魔法使いに似ている。数十年来の工業および商業の歴史は、まさしく、近代的生産諸関係に対する、ブルジョア階級とその支配の生存条件である所有諸関係に対する、近代的生産諸力の反逆の歴史にほかならない。ここには、かの商業恐慌をあげれば充分である。・・・・・・ ブルジョア階級が封建制を打ち倒すのに用いた武器は、いまやブルジョア階級自身に向けられる。/しかしブルジョア階級は、みずからに死をもたらす武器をきたえたばかりではない。かれらはまた、この武器を使う人々をも作り出した──近代的労働者、プロレタリアを。・・・・・・ かれらは何よりも、かれら自身の墓掘人を生産する。かれらの没落とプロレタリア階級の勝利は、ともに不可避である」(『共産党宣言』岩波文庫、46-56頁)。

 

7−2−2 国家──近代国家は「全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会」か

国家 次に、『宣言』における「国家」の概念について考えることにしたい。マルクス=エンゲルスは、近代国家を「全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会」と規定している(資料4)。我々は、こうした「国家」概念に無条件に与することはできないであろう。少なくとも普通選挙後の近代国家は、すべての「国民」を法的に平等に処遇している。このことを考えるならば、近代国家は「全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会」だとは言えない。しかし、「全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会」というマルクス=エンゲルスの「国家」概念は、まったく的外れなものなのであろうか。たしかに近代国家は、形式的に言えば、階級性を帯びてはいない。普通選挙や競争試験の下では、立法・行政・司法のポストをブルジョアに特権的に割り当てているわけではない。しかし実質的には、階級性を帯びているのではないのだろうか(資料5)。

国家の階級性 多額の費用を要する選挙がブルジョアに有利であることは、改めて言うまでもない。公務員試験や司法試験では、経済上の格差は選挙ほどではないかもしれない。しかし、話し方や振る舞い方などの「文化資本」(ピエール・ブルデュー)の格差は決して小さくはない。これが、ブルジョア支配を「再生産」するメカニズムになっている。このように考えるならば、近代国家は、ブルジョアに有利であることは否めない。それでは、成員上の階級性を取り除くならば、近代国家は、階級的に中立的になるのであろうか。そうとは言えない。たとえば、バブル崩壊後、銀行に「公的資金」を投入しなければ、金融システムが崩壊し、失業者があふれた可能性は否定しきれない。そうであるならば、仮に共産党内閣ができたところで、銀行に「公的資金」を投入する政策を採らざるをえなかったかもしれない。ここに、近代国家の構造上の階級性がある。しばしば社会主義政権が「転向」したようにみえるのは、社会主義政党幹部の「堕落」のせいだけではない。構造上、ブルジョアに有利な政策を採らざるをえないことに起因する場合も少なくない。このように成員上・構造上の階級性を考えるならば、国家は「全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会」とは言えないにしても、国家の階級性という問題は、決して過去のものとはいえないのではないのだろうか。

 

注 マルクス主義の国家論としては、エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』(岩波文庫)やレーニン『国家と革命』(岩波文庫)などが重要である。

 

資料4 『宣言』における「国家」の定義

「近代的国家権力は、単に、全ブルジョア階級の共通の事務をつかさどる委員会にすぎない」(Die moderne Staatgewalt ist nur ein Ausschuァ, der die gemeinschaftlichen Gesch廓te der ganzen Bourgeoisklasse verwaltet.)(『共産党宣言』岩波文庫、41頁)。

 

資料5 官僚の出身階級  [省略]

(村松岐夫『戦後日本の官僚制』東洋経済新報社、49頁)

 

参考資料 官僚の出身府県 [省略]

(村松岐夫『戦後日本の官僚制』東洋経済新報社、54頁)

 

次回のための質問

いわゆるアルバイトは低賃金であり、また雇用も不安定です。アルバイト制度は廃止したほうがよいと考えますか。それとも、アルバイトという雇用形態があったほうがよいと考えますか。あなたの考えと、そのように考える理由を簡単に書いてください。


2001年11月1日(木) 西欧政治思想史

 

第7章 『共産党宣言』を読む(3)

 

7−3−1 生産──賃金労働の廃止は労働者にとって望ましいか

賃金労働の廃止 今日は、『宣言』における共産主義像について考えていくことにしたい。『宣言』の共産主義像は、後の『ゴータ綱領批判』と比べた場合、極めて萌芽的であることは否めない。とはいえ、共産主義像を読みとることは不可能ではない。最も重要なポイントは、賃金労働を廃止し、資本家による労働者の「搾取」を根絶しようとしている点である(資料1)。マルクス主義的意味での「搾取」とは、労働者の生産した「剰余価値」を資本家が取得することを意味している(資料2)。マルクス主義者は、賃金労働の廃止は労働者にとって望ましい、と見なしている。しかし賃金労働の廃止は、労働者にとって望ましいものなのであろうか。ここで、アルバイトの是非に関する、前回の質問への回答を整理することにしたい(全員が是と回答)。

 

・雇用者にとってのメリット

  ・低賃金で済むこと。

  ・雇用=解雇しやすいこと。

・被雇用者にとってのメリット

  ・責任が軽い。

  ・学業や趣味などと両立可能であること。

  ・職業体験の機会を学生に提供すること。

  ・雇用者からの自由度が高いこと。

 

賃金労働の廃止論の検討 以上を念頭に置きつつ、賃金労働の廃止の是非について考えていくことにしたい。賃金労働は、労働者にとってもメリットがある。たしかに、賃金労働を廃止すれば、資本家による「搾取」の余地はなくなるであろう。しかし、別の問題が生じるのではないだろうか。一般に、生産手段の所有者になることは、所有者としての責任を引き受けなければならないことを意味している。経営のために時間を割いたり、破産した場合には借金を返済しなければならない。すべての労働者が、そうした生産手段の所有者としての責任を引き受けたいと考えているわけではあるまい。学業や趣味を生活の中心に置いている人にとっては、学業や趣味に没頭する時間的・精神的余裕がなくなるくらいであれば、賃金労働に従事したほうがよいと考えるかもしれない。このように考えるならば、賃金労働の廃止は一概に望ましいとは言えない。

賃金労働の擁護論の検討 しかしこのことは、賃金労働が全面的に望ましいことを意味するのであろうか。マルクス主義者が批判を加えているように、賃金労働にも「搾取」や「疎外」といった難点があることは否めない。そもそも、賃金労働か否か、という二者択一の問題設定が間違っているのではないのだろうか。重要なのは、賃金労働を選択する余地を残しつつも、各人が様々な就業形態を自由に選択できるようにすることではないのだろうか。そのために、様々な終業形態の割合を、社会の構成員の選好の割合に近づけることではないのだろうか。もしそうであるとすれば、賃金労働を全面廃止する立場も、賃金労働を全面擁護する立場も、就業形態の多様性を保証できないという、同一の難点に陥っているといわざるをえない。

 

資料1 賃金労働の廃止

「共産主義の特徴をなすものは、所有一般の廃棄ではなく、ブルジョア的所有の廃棄である。・・・・・・ この意味において共産主義者は、その理論を、私有財産の廃止という一つの言葉に要約することができる。・・・・・・ ところで、賃金労働、プロレタリアの労働は、プロレタリアに財産をあたえるだろうか? 決してあたえはしない。賃金労働は資本という財産を作り出す。それは賃金労働を搾取するものであり、そしてまたそれは、あたらしい賃金労働を生産してそれをふたたび搾取するという条件がなくては、みずからふえることのない財産である。・・・・・・ われわれは、生命そのものを再生産するにしかすぎないような労働生産物を、個人が取得することを廃棄しようとは決して思わない、そういう取得は、他人の労働を支配する力となるほどの純益を残しはしないからである。われわれのあくまでも廃止しようと欲するものは、ただ、労働者は資本を増殖するためにのみ生活し、そして支配階級の利益が必要としなければ生活することができないという、そんなみじめな取得の性格である」(『共産党宣言』岩波文庫、58-60頁)。

 

資料2 資本主義的生産

 

氈@商人資本 貨幣─商品─貨幣’

 

 産業資本 貨幣 ─商品…生産 …商品’─貨幣’

 

        ┌生産手段5┐         ┌    5┐

貨幣10─商品10─┴ 労働力5┴ …生産…商品15─┼    5┼─貨幣15

    剰余労働5          └剰余価値5┘

 

☆ 『資本論』の入門としては、内田義彦『資本論の世界』(岩波新書)を読むとよい。『資本論』の翻訳は、新日本出版社版が最も信頼できると思う。新書版で13冊。

 

7−3−2 分配──必要に応じた分配は労働者にとって望ましいか

必要に応じた分配 『宣言』は、生産手段の分配方法とは対照的に、生産物の分配方法については一言も論じていない。マルクス=エンゲルスは、共産主義社会における生産物の分配方法に関して、いかなる構想を持っているのであろうか。ここで、マルクス『ゴータ綱領批判』(岩波文庫)を参考にしたい。そこでは、一言でいえば、必要に応じた分配が提唱されている(資料3)。必要に応じた分配というフレーズは、魅力的に聴こえるかもしれない。しかし、必要に応じた分配は、労働者にとって望ましいのであろうか。賃金労働の廃止が必ずしも望ましくなかったように、必要に応じた分配も必ずしも望ましくないのではないのだろうか(以下、ウィル・キムリッカ『現代政治哲学』第3章;第5章、日本経済評論社、近刊予定を参照)。

贅沢な「必要」の問題 ここに、AとBという二人がいると想定してほしい。Aは身体が弱いため、高額の薬を「必要」としている。Bは、高額のステーキを毎晩食べたいという、贅沢な「必要」を持っている。我々は、Aの「必要」とBの「必要」とが同質のものであるとは考えないであろう。Aの「必要」>Bの「必要」という優先順位を付けるに違いない。しかるに、必要に応じた分配では、「必要」の質を考慮することができないため、Bの「必要」もAの「必要」と同様に満たされなければならない。その結果、Bの贅沢な「必要」を満たすために、社会全体の「労働」が増えることになる。たしかに『ゴータ綱領批判』では、能力に応じた労働を唱えているため、Bの贅沢な「必要」を満たすために、B自身も余計に働かなければならない。しかし必要に応じた分配では、Aのほうも、Bの贅沢な「必要」を見たすために余計に働かなければならないことになる。Aを含めて考えるならば、必要に応じた分配は望ましいとはいえない。

ハンデの問題 次に、もう一人Cが加わったと想定してほしい。Aと同じようにCも、贅沢な「必要」を持っていない。しかしAとは違い、身体が強いため、高額の薬を「必要」としてはいない。この場合、AとCの所得を同じにしたのでは、Aに不利になる。そこでAに、高額な薬を購入するための、余分な所得を補償することになる。たしかにこのことは、Cの分配が減少することを意味している。とはいえ、Cも、病気によって身体が弱くなるかもしれない。このことを考えれば、Aに余分な薬代を補償することは、決して不合理なことではない。必要に応じた分配は、ハンデの補償という点で、魅力的であることは間違いない。とはいえ、難点もある。必要に応じた分配では、Aの薬代が途方もなく高額な場合にも、Aの「必要」がある以上、全額を補償しなければならない。もしそうすれば、Cには何も残らないかもしれない。ドゥオーキンは「仮説的保険」を考案し、こうした難点を避けている。しかし必要に応じた分配では、ハンデの補償の限度を設定することができないため、Cを含めて考えるならば、決して望ましいものではない。

 

資料3 必要に応じた分配

「共産主義社会のより高度の段階において、すなわち諸個人が分業に奴隷的に従属することがなくなり、それとともに精神的労働と肉体的労働との対立もなくなったのち、また、労働がたんに生活のための手段であるだけでなく、生活にとってまっさきに必要なこととなったのち、また、諸個人の全面的な発展につれてかれらの生産諸力も成長し、協同組合的な富がそのすべての泉から溢れるばかりに湧きでるようになったのち──そのときはじめて、ブルジョア的権利の狭い地平は完全に踏みこえられ、そして社会はその旗にこう書くことができる。各人はその能力に応じて、各人にはその必要に応じて!・・・・・・ どんなばあいにも、消費諸手段の分配は生産諸条件の分配そのものの結果にすぎないのであって、生産様式そのもののひとつの特徴をなすのは生産諸条件の分配のほうである」(『ゴータ綱領批判』岩波文庫、38-39頁)。


2001年11月8日(木) 西欧政治思想史

 

第7章 『共産党宣言』を読む(4)

 

7−4−1 「共同体」はかえって対立を深刻にするのではないか

共同体 今日は、『宣言』の共産主義像について補足しておくことにしたい。今日考えたいのは「共同体」(Assoziation)の概念である。『宣言』は、共産主義社会を、階級対立や政治権力のない「共同体」として描いている(資料1)。たしかに、マルクス=エンゲルスは『宣言』のドイツ語版序文(1872年)において、『宣言』のいわば「国家主義的残滓」について自己批判している(資料2;資料3)。しかし『宣言』でも、共産主義社会を「共同体」と規定していることに変わりはない。『宣言』は、「社会主義国家」を自称する「現存社会主義」とは違い、コンミューン主義(communism)であるといえるであろう(『コンミューン主義者宣言』)。

共同体の非政治性 ここで、「共同体」はかえって対立を深刻にするのではないか、と問題提起したい。すでにみたように、仮にブルジョアとプロレタリアの階級対立がなくなったとしても、様々な対立が生じることは避けられそうにない。にもかかわらず、対立の存在を認めておらず、したがって、対立を解決する「政治」を用意していないのであれば、対立を解決することは難しい。それどころか、対立する者を「革命の敵」であるとして、こじらせかねない。この点、『宣言』の政治思想は「政治」思想と言えるかどうか、疑わしい。政治的なものの一つの特徴は、対立を解決することであるから。逆説的に聴こえるかもしれないが、『宣言』は「非政治的な政治思想」といったほうが適切なのかもしれない。

「家族国家」観との共通性 この点、戦前日本の「家族国家」観──「国家」を「権力装置」(state)としてではなく「家族」の拡大版として捉える──と軌を一にしている(資料4)。たしかに、問題を解決することがなかったわけではない(cf. 資料5)。しかし、激しい対立を前提にしていないため、いったん対立が生じると、それを合理的に解決することは難しかった。たしかに、個人析出(individuation)以後の、『宣言』における「共同体」(Assoziation)の概念と、個人析出以前の、「家族国家」における「共同体」(Gemeinschaft)の概念とは、根本的に相容れない。しかし両者とも、対立を前提にしていないため、対立を解決することが難しい、という難点を共有している。このように考えるならば、対立はあって当然と余裕をもって構え、対立を解決する技術=「交渉学」を身につけたほうが、成熟した態度であるといえるのではないだろうか。

交渉学 ここで、ハーバード大学交渉学研究所で開発された「ハーバード流交渉術」について紹介したい(フィッシャー&ユーリー『ハーバード流交渉術』三笠書房知的生きかた文庫)。一般に、交渉術について訊かれた場合、ハード型(北風政策)かソフト型(太陽政策)か、という選択肢を思い浮かべるのではないだろうか。ハード型を採るならば、相手がソフト型であれば、best の合意に達するであろう。しかし、相手がハード型であれば、交渉自体が決裂しかねない。それでは、ソフト型を採ればよいのであろうか。たしかに、相手もソフト型であれば、best ではないにしても、better の合意をもたらすことができるであろう。しかし、相手がハード型であれば、「つけこまれる」ことになる。ここにはジレンマがある。交渉決裂を避けようとすればソフト型にならざるをえないが、自分だけがソフト型になると「つけこまれる」というジレンマである。それでは、どうすればよいのであろうか。フィッシャーとユーリーは「ゲームのやり方を変える」ことを提唱している。彼等に言わせれば、ハード型とソフト型の対立は「駆け引き型交渉」──「一連の立場を次々に示しながら、相手の出方に応じてそれを少しずつ引っ込めていく」(19頁)──の内部対立にすぎない。こうした交渉術を「原則立脚型交渉」へと転換すべきだというのである。

 

 1)人  ──人と問題とを分離せよ

 2)利害 ──立場でなく利害に焦点を合わせよ

 3)選択肢──行動について決定する前に多くの可能性を考え出せ

 4)基準 ──結果はあくまでも客観的基準によるべきことを強調せよ

 

*注 対立を前提にしないと、対立を解決するのが難しいように、失敗を前提にしないと、それを訂正するのは難しい。むしろ、失敗を隠蔽(いんぺい)しやすい。失敗学については、畑村洋太郎『失敗学のすすめ』(講談社)を参照。

 

資料1 共同体

「発展の進行につれて、階級差別が消滅し、すべての生産が結合された個人の手に集中されると、公的権力は政治的性格を失う。本来の意味の政治的権力とは、他の階級を抑圧するための一階級の組織された権力である。・・・・・・ 階級と階級対立とをもつ旧ブルジョア社会の代りに、一つの共同体(Assoziation)があらわれる。ここでは、ひとりひとりの自由な発展が、すべての人々の自由な発展にとっての条件である」(『共産党宣言』岩波文庫、69頁)。

 

資料2 『宣言』のドイツ語版序文(1872年)における自己批判

「最近二十五年間における大工業のはかり知れない進歩や、それとともに前進する労働者階級の党組織や、二月革命をはじめとしさらに進んでプロレタリア階級がはじめて二か月のあいだ政権をにぎったパリ・コンミューンの実践的諸経験を考えれば、この綱領は今日ではところどころ時代おくれとなっている。特にコンミューンは、「労働者階級は、既成の国家機関をそのまま奪いとって、それを自分自身の目的のために動かすことはできない」という証明を提供した」(『共産党宣言』岩波文庫、8頁)。

 

資料3 共産主義革命と「国家」

「以上見てきたところによれば、労働者革命の第一歩は、プロレタリア階級を支配階級にまで高めること、民主主義を闘いとることである。/プロレタリア階級は、その政治的支配を利用して、ブルジョア階級から次第にすべての資本を奪い、すべての生産用具を国家の手に、すなわち支配階級として組織されたプロレタリア階級の手に集中し、そして生産諸力の量をできるだけ急速に増大させるであろう」(『共産党宣言』岩波文庫、68頁)。

 

資料4 家族国家観──津田光造『日本ファッショの現勢』

「日本の家族主義においては、社会の基調を西洋近代の文明諸国に於いて見るが如く、個人の権利の主張に置かず、実に家族なる全体への奉仕に置くのである。家族は社会上、一個の独立した生命体或は生活体としてそれ自身一個の完全細胞である。個人はこの完全細胞の一部分或は一要素たるに外ならぬ。・・・・・・ 此の家族主義の延長拡大が取りも直さず吾等の国家主義でなければならぬ。蓋し吾等の国家主義は此の家族の民族的結合体に外ならぬからである。この民族結合体としての国家の元首、その家長、その中心、その総代表はすなわち天皇である」(丸山眞男「日本ファシズムの思想と運動」、丸山眞男『現代政治の思想と行動』未来社、43頁から再引用)。

 

資料5 寄りあい

「私にはこの寄りあいの情景が眼の底にしみついた。この寄りあい方式は近頃はじまったものではない。・・・・・・ 七十をこした老人の話ではその老人の子供の頃もやはりいまと同じようになされていたという。ただちがうところは、昔は腹がへったら家へたべにかえるというのでなく、家から誰かが弁当をもって来たものだそうで、それをたべて話をつづけ、夜になって話しがきれないとその場へ寝る者もあり、おきて話して夜を明かす者もあり、結論がでるまでそれがつづいたそうである。といっても三日でたいていのむずかしい話もかたがついたという。気の長い話だが、とにかく無理はしなかった。みんなが納得のいくまではなしあった。だから結論が出ると、それはキチンと守らねばならなかった。話といっても理窟をいうのではない。一つの事柄について自分の知っているかぎりの関係ある事例をあげていくのである。話に花がさくというのはこういう事なのであろう。・・・・・・ そうなると村里の中にはまた村里としての生活があったことがわかる。そしてそういう場での話しあいは今日のように論理づくめでは収拾のつかぬことになっていく場合が多かったと想像される。そういうところではたとえ話、すなわち自分たちのあるいて来、体験したことに事よせて話すのが、他人にも理解してもらいやすかったし、話す方もはなしやすかったに違いない。そして話の中にも冷却の時間をおいて、反対の意見が出れば出たで、しばらくそのままにしておき、そのうち賛成意見が出ると、また出たままにしておき、それについてみんなが考えあい、最後に最高責任者に決をとらせるのである。これならせまい村の中で毎日顔をつきあわせていても気まずい思いをすることはすくないであろう。と同時に寄りあいというものに権威のあったことがよくわかる」(宮本常一『忘れられた日本人』岩波文庫、16-21頁)。

 

7−4−2 西欧政治思想史における『共産党宣言』の意義

マルクス主義 すでにみたように、ルソーの政治思想は、フランス革命の綱領であったわけではない(6−1−1)。しかしマルクスの政治思想は、レーニンを媒介として、ロシア革命の綱領を形成していった。政治思想の影響力という点では、ルソーとは比べものにならない。たしかに、1989年の東欧市民革命によって、少なくとも「現存社会主義」は、実質的に終わりを告げたといってよい。しかし、忘れてはならないのは、マルクスの政治思想は、西側諸国を含めて、多くの人々を魅了してきた事実である。やはり、重要な政治思想を提示していると考えるべきであろう。マルクスの批判した資本主義の病理は、資本主義が資本主義である以上、なくなることはない。その意味において、今後もマルクス主義は重要でありつづけるに違いない。特に「西欧マルクス主義」は、マルクス主義の自己革新の端緒になるであろう(アンダースン『西欧マルクス主義』新評論)。

『自由からの逃走』へ しかしこの授業では、マルクス主義に内在する難点に焦点を合わせてきた。レポートでは、後期最初の授業で指定した4つの論点を含めて、レポートを書いてほしい(資料6)。第8章では、外在的批判になるかもしれないが、マルクス主義の「経済還元主義」を批判することになるであろう。現代政治を考える際に重要なのは「心理」の問題である。現在も、ネオナチやオウムといった問題を抱えていることはいうまでもない。マルクス主義では、こうした現象を説明することができるのであろうか。できるようには思えない。こうした現象を考えるために、ポスト・マルクス主義の政治思想として、フロムの『自由からの逃走』を読んでいくことにしたい。『自由からの逃走』は、これまでの5冊とは違い、岩波文庫には入っていない。しかし、少なくとも岩波文庫に入れる価値があると思う。少し高額であるが、現代を理解するのに重要な書物であると考え、あえて採りあげることにしたい(なお通常の政治思想史では、マルクスからウェーバーに移ることが多い。マックス・ウェーバー『職業としての政治』岩波文庫)。

 

資料6 『宣言』のドイツ語版序文(1872年)

「最近25年間に事情はおおいに変化したが、それでもこの『宣言』のなかにのべられている一般的諸原則は、だいたいにおいて、今日もなお完全な正しさを失っていない。個々の点はところどころなおさなくてはならないだろう。・・・・・・ しかし、この『宣言』は歴史的文書であって、われわれはもはやそれに変改を加える権利をもっていない。今後版を改めることがあれば、おそらく1847年から現在にいたる間の橋わたしをする序文をつけることになろう。この版は、こんなに早く出ると思っていなかったので、それをする時間がなかった」(『共産党宣言』岩波文庫、7-9頁)。