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葦書房有限会社
1月20日に追記してアップしたところ、前文がすべて消えてしまいました。枠取りしていましたので、その部分が何かの拍子に選択されて消えたのかも知れません。そこで、裁判資料とは区別するためにも、枠をはずして直接書きこむことにしました。 本裁判はちょうど1年前の昨年1月25日に、当社が朝日新聞社に対して、福岡地裁に名誉毀損による損害賠償請求を求めて提訴したものです。朝日新聞の夕刊に掲載されていた「ニッポン人脈記 わが町で本を出す」というシリーズ記事の2回目、平成20年1月28日付け記事で、久本三多と当社葦書房が取り上げられていましたが、この記事はウソ八百の捏造記事で埋め尽されていました。この捏造記事による名誉毀損裁判を起こしたのですが、事前に公開するのは当社にはプラスにはならないと感じておりましたので、以前のようには公開せずに裁判をつづけてきました。判決は、昨年9月6日、事務所の移転渦中にありました。わたしはこれまで9件の裁判を経験しておりますが、判決に出廷しなかったのは本裁判だけです。判決は当社の敗訴でした。 敗訴判決にはいつも不服を感じずにはいられませんが、本裁判では敗訴しても控訴しないと決めておりました。というのは、ウソ八百の捏造記事でいくら三多の名誉が毀損されても、法人としての葦書房有限会社の名誉を毀損したとは見なされないらしいと分かったからです。わたしは事実であるという朝日新聞の主張が事実でないことを証明するために、朝日新聞に対してその証拠を提出することを求めましたが、無視されたまま。そこでわたしは裁判官にまず口頭で、石牟礼道子、西俊明、三原浩良の3氏を共同被告に加えるための訴えの変更をしたい旨申し出ましたが、裁判官は裁判が長くなるから共同被告の追加は認められない。訴えるなら別の裁判で訴えるようにと言われました。ぞれならばと、せめて3氏の証人尋問をしたいと思い、証人申請をしましたが、こちらも認められませんでした。 ということは本裁判では記事が事実であるか否かは、さして重要な問題だとは見なされていないらしいと考えざるをえない成行きで裁判が進みましたので、何らかの形で3氏を個人的に訴えたいと裁判中から考えていました。3氏を訴えた裁判が終わるまでは本裁判は公開しないことにしていましたが、移転の整理に手間取ったこともあり、また次々続く裁判にいささか疲れたこともあり、新しく裁判を起こす気力も出てきませんでした。さらには、裁判中は停止していた時効も、判決確定後は即カウントが始まることも分かり、3氏の提訴は中止することにしました。 そこで一年遅れではありますが、本日公開することといたしました。わたしの年齢を考えると何時何があっても不思議はありませんが、これほどひどい捏造記事を放置したままあの世に旅立つことなどとうてい我慢はできませんし、3氏の中でもっともご高齢の石牟礼道子氏がご健在のうちに、是が非でもこの記事が捏造であることを広く世界中に向かって訴えたいとの思いも日々強くなって参りました。合わせて、巨大新聞はウソ八百を並べ立てた捏造記事を書いても何ら責任を問われないとした、敗訴判決の不当さをも広く世に訴えたいと、ここに裁判資料を公開することにいたしました。 ただ、公開を決めたつい先日、気がついたのですが、判決文が見つかりません。移転渦中に判決文を受取ったのでファイルできなかったのですが、大事なものですのでどこかになおしているはずです。判決文は見つかり次第公開いたします。ちなみに本裁判では途中で裁判官が交代しています。よくあることなのかどうか。わたしが経験した9件の裁判の中で、裁判官の途中交代は初体験です。 詳細は、以下に掲載します裁判資料をご覧いただきたいと思いますが、まずは甲第1号証と甲第2号証をご紹介しました後、訴状などを掲載いたします。(2012/1/18 書き直し1/20 久本福子)
甲2号証として提出した「いわゆる地域主義について」の鮮明な画像は以下でご覧ください。
ご夫婦仲が余りよろしくなかった石牟礼氏にとっては、家族がばらばらで新年を迎えることはさほど異様なことではないとの認識だったのかもしれませんが、それはきわめて例外的なケースであり、この捏造記事から受ける印象はきわめて異様なものであると言わざるをえません。ここまで書くつもりはなかったのですが、捏造記事の余りのひどさと、証人申請さえ拒否されたまま、当社の主張が一顧だにされず敗訴したことへの抗議の意味で書かせていただきました。 また年末になると、三多が借金取りから逃げ回るなどということもありえぬ話です。当社の借金は、銀行や国民生活金融公庫からのものばかりですので、金融機関が年末に返済を迫って債務者を追い回すなどということはありえません。そもそも年末まで債務者を追い回すなどとは、落語の世界ではありえても、現代では起こりえぬ事態であることは、わざわざ説明する必要もないほど自明のことです。にもかかわらず、三多が年末まで借金取りに追い回されたとなれば、三多はヤクザなどからのよほど筋の悪い借金をしていたのかとの、不名誉きわまりない想像すら惹起させずにはいない捏造です。ここでも再び、朝日新聞と石牟礼道子氏に、恥を知りなさいと申し上げたい。 海鳥社の西俊明氏の捏造話も、西氏が自ら捏造したものではないはずですが、この捏造記事に対して西氏が朝日新聞に抗議したのかどうか。これは不明です。(2012/1/18 久本福子) 1/20 上記の注に加えて、本日さらに書き加えさせていただきます。朝日新聞や佐野眞一氏をはじめとしたマスコミ及びその関係者が熱烈に讃美した、三原浩良氏についてです。三多は経営者保険に入っておりましたので、死亡保険金はもとより、6ヶ月近く入院していた入院給付金も支払われています。死亡保険金は会社(葦書房)に対して支払らわれていますが、入院給付金は経営者本人、つまりは三多本人に支払われることになっています。入院給付金は総額300万円近くが支払われていますが、その内、三多存命中に90万円が支払われていますので、これは三多本人が受取っています。しかし残りの200万円近くは三多の死後に支払われましたので、三多本人は受取っていません。遺族にも支払われていません。古い帳簿を調べたところ、これらのお金は預り金として計上されてはいるものの、会社の経費として全額消費されてしまっています。三原氏に問い合わせたところ、会社が掛けた保険なので、入院給付金も会社が受取るのは当然だとの返事でした。ちなみに死亡保険金の方は雑収入として計上されていました。 また三多の存命中は、毎月25日には必ずわたしの銀行口座に25万円が振込まれていました。これとは別に三多は、葦書房所有のわたしたちが住んでいた皿山の自宅の家賃も、毎月葦書房に支払っていました。三多の死去前の5月25日までは、25万円がわたしの口座にきちんと振込まれていましたが、6月25日には一銭の振込もありません。当然のこととはいえ、それ以降もゼロです。そこで三原氏に問い合わたところ、三多は6月に亡くなっているので6月分は支払わないと答えました。月給制なので6月分は支払われているはずだと思いながらも、支払われていないと言われたら仕方がありません。しかしわたしが葦書房に入り、かなり時間が経った後ですが、多少は時間的余裕も出てきたので、古い経理関係の書類を探し出して調べたところ、三多の6月分の役員報酬90万円も支払われいることが分かりましたが、これらも預かり金として計上されたまま、三多が会社の近くで借りていたアパートの最後の家賃の一月分を支払った残りは、全額会社の経費として消費されています。この90万円は三多の死去前の4月に、一気に30万円も引き上げられた金額です。三多はおそらく元気であれば、自分の役員報酬だけを一気に30万円も引き上げるはずはありません。創業以来、三多は自分の給料は従業員とはさほど大きな差のない金額で設定してきたからです。しかし三多は自分の死の遠くないことを悟って、退職金などの算定の基礎額となる役員報酬を、超異例にも一気に30万円も引き上げたのだろうと思います。 しかし三多の思いも空しく、三原氏は、三多の死亡退職金と退職慰労金から800万円も差し引いて、遺族には3000万円しか支払っていません。わたしは800万円も引かれたことを三原氏に問いただしましたが、三原氏からは、800万円は出張旅費などの未処理分の合計額で、処理に困っていたので退職金から差し引いて処理したが、3000万円を超えると税金がかかるので、800万円を差し引かなくても、受け取り額は同じだと言われて納得しました。しかしかなり経ってから、3800万円でも税金はかからないことが分かりましたが、後の祭りです。 その一方三原氏は、株主であるわたしたちには全く無断で、三多の死後、即社長に就任した6月分の役員報酬から、三多が特殊な状況下で引き上げたこの90万円をそのまま引継いでいます。通常ならば、まずは60万円からスタートするはずですが、三原氏の違法もものともとしない図々しさが如実に現れています。三多の死亡保険金は約1億4000万円でした。その中から3000万円が遺族に支払われましたが、残りの1億円1000万円はとんど借金返済には使われず、会社の経費として消えてしまっています。のみならず、三原氏は在任中の8年余りの間(1994年6月〜2002年9月)に、三多が残した2倍もの大借金を残しています。三原氏解任時は約1億円もの負債が残されていました。三原氏が残したこの巨額借金の抵当に入っていた皿山の自宅も、平成18年1月に手放さざるをえなくなりました。新聞や出版物を介して流される三原評、三多評がいかに捏造に満ちたものであるかは、葦書房の経理を巡る事実一つとっても明白です。石風社の福元満治氏も、三原氏をベタベタボメしていました。(1/20 久本福子)
<注> 朝日新聞が提出した唯一の証拠乙第1号証は、石風社の福元氏が当社を告訴した事件で、当社が不起訴になったことを福岡版の片隅で小さく報道した記事のコピーです。
なお、事務所移転後、荷物を整理していたところ、思いもかけない三多への追悼文を発見いたしました。地方小出版流通センターが発行していた「アクセス」という小冊子の、三多の死の直後に発行された1994年7月1日号掲載されていたものです。三多の死後は、悪意に満ちた三多をめぐる捏造記事があふれかえる中で、ここに掲載されている追悼文は、悪意とは無縁な唯一例外的なものではないかと思われますので、最後に紹介させていただきます。
石風社の福元満治氏は三多の告別式で友人代表で弔辞を読んだのですが、わたしは式当日まで知りませんでした。葬儀全般を三原氏が采配していましたので、福元氏を選んだのも三原氏だったのだろうと思います。よりにもよって三多に毛嫌いされていた福元氏を友人代表に選ぶとは、弔いの場には最もふさわしからぬ人選でした。安倍氏が、そういう事情をご存じなかったのは無理からぬことでした。 三多の死後、厚顔無恥にも三多の親友よろしく振る舞い始めた福元氏は、葬儀の一年後に刊行された、三多の追悼録の刊行委員としても関与しています。この追悼録も、遺族には一言の相談もなく進められましたが、福元氏の名前の入った原稿執筆の依頼だけがわたし宛に届きました。この追悼録はおぞましい工作に使われることが明白でしたので、わたしはこの追悼録への執筆依頼は無視しました。追悼録完成後は葦書房から追悼録が送られてきましたが、わたしは追悼録の受け取りも拒否して、突き返しました。それでわたしは長い間、この追悼録を目にすることはありませんでしたが、初めて目にしたのは、わたしが葦書房に入ってから、かなり経ってからです。しかし中身はごく一部を見ただけで、ほとんど目を通していません。(1/20 久本福子)
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