葦書房

葦書房有限会社
福岡市中央区警固2丁目2-11
シャンボール警固202号(〒810-0023)
TEL092-761-2895 FAX092-761-2836
ashi@gold.ocn.ne.jp
http://www1.ocn.ne.jp/~ashi/
弦書房提訴裁判を公開 2010/6/5
 

去る5月21日に、弦書房を提訴した裁判で当社の全面敗訴の判決が出ました。当然控訴しました。6/4に、控訴状を福岡地裁に提出してきました。当社の印刷データまで無断で使うという窃盗行為を働き、超格安で『野十郎の炎』を出して、公正な競争を阻害する商売のやり方をする弦書房は、不法行為も、不正競争も働いていないとして一切責任を問われず、完全に無罪放免されました。

当社の印刷データを無断で使用した窃盗行為は、他人の財産権、所有権の侵害だという当社の主張は完全に無視され、日本の著作権法の不備の問題にすり替えて、弦書房の盗みを盗みとは認定しないという異常な判断が示されています。また不正競争防止法については、同法が保護の対象とする「商品等表示」を単に社名と解釈して、弦書房は葦書房や葦書房有限会社の名前は使っていないので、当社の商品の模倣はしていないという、これまた超異常な判断が示されています。これでは裁判所自らが、盗った者勝ちの、無法社会を容認しているも同然です。

しかも、当社は『野十郎の炎』を出版する権利(狭義の意味での出版権)を弦書房と争う気持ちはさらさらなく、その種の主張も一度もしたことはありません。むしろ本書の出版そのものは認めています。当社はただひたすら、弦書房が当社の『野十郎の炎』と全く同一物を全く無断で出版したことと、当社の印刷データを無断で使用したという、その出版手法の無法さ、つまりは弦書房の窃盗行為のみを問題にしてきました。

にもかかわらず判決では、当社があたかも出版する権利についても弦書房と争っているかのような、事実に反した形で争点をまとめて、当社が一貫して主張してきた弦書房の窃盗行為を争点から外しています。明らかに弦書房の主張のみを認め、弦書房を免責するための判決の運び方です。これほど一方にのみ偏った判決がなされるのであれば、裁判は全く意味はありません。

一体いかなる力が働けば、これほど異常な偏向判決が生まれるのか。裁判官が完全に中立の立場で裁判資料を読んで判決に臨んだのであれば、これほどひどい偏向判決がなされるはずはありません。外部からの力が働いた結果であることは明らかです。

余りにひどい判決ですので、1審の裁判資料を公開することにしました。分量が大量ですので、なくても差し支えない部分は省略しています。当社の分は、第4準備書面からパソコンで下書き(提出書面は全て手書き)をしていますので第4準備書面からはデジタル版ですが、それ以外は紙製の現物書面や判決をスキャンして公開します。

こういう偏向裁判を放置するならば、日本の裁判制度そのものの崩壊にもつながりかねません。法曹関係者の方々はもとより、日本中の人々にも是非ともここに公開しました裁判資料を読んでいただいて、日本の裁判制度の実態を知っていただきたいと思います。(6/8 追記)

訴状

「請求の原因」

甲第4号証の小野静男の回答書

 

当社の第1準備書面

 

当社の第2準備書面


第2準備書面では、当社刊も弦書房刊も「本件書籍」と書いておりますが、後に原告書籍、被告書籍と使い分けることを裁判官から指摘されました。

 

当社の第3準備書面

 

被告(弦書房)の第1準備書面

 

当社の第4準備書面

 

平成21年(ワ)第5717号 損害賠償請求事件 

原 告 葦書房有限会社

被 告 弦書房こと小野静男

第4準備書面

                 平成22年4月1日

福岡地方裁判所 第2民事部 3係御中

         原告代表者取締役 久本福子

           電話 092ー761ー2895

           FAX 092ー761ー2836

 

第1 背景事情について

1 被告は第一準備書面の第4の「2背景事情」において、原告との関係を示す背景事情についても事実に反した捏造を重ねている。原告と被告との関係を事実に即して明らかにすることなしには、本訴事件の責任糺明も不可能である。よって原告は本準備書面においては、まず本訴事件の背景事情を事実に即して明らかにする。

2 被告の第1準備書面「第4の2背景事情」について
(1)被告は「原告は、創業者である久本三多(以下「三多」という。)が代表者として経営されていたが、平成6年に三多が死亡したため、三原が代表権を引継ぎ」と主張するが、三原が正式に代表権を引継いだ事実はない。事実を詳細に以下のとおり、明らかにする。

(2)原告代表の久本福子(読みは「ひさもとよしこ」、以下「福子」と言う。)は、原告の創業者久本三多(以下三多と言う。)の元妻である。久本一魔(以下「一魔」と言う。)、久本呼子(以下「呼子」と言う。)、久本了平(以下「了平」と言う。)は、福子と三多の長男、長女、二男である。(甲10の1ないし3)

(3)三多は平成6年6月8日に死去したが、三多は原告の全株1000口、100万円を所有していた。三多の死去により、原告の全株は三多の3人の遺児一魔、呼子、了平が承継したが、平成8年3月13日に弁護士立会いのもと遺産分割協議をし、一魔が334口、呼子が333口、了平が333口承継した。なお当時了平は未成年であったので、母福子が了平の法廷代理人親権者母として遺産分割協議に参加し、署名、押印した。(甲11の1ないし2)

(4)遺産分割承継手続き終了後の平成8年3月18日に、原告の社員(株主)一魔、呼子、了平は、原告の資本金を100万円から300万円に増資するために、一魔は66万6000円、呼子は66万7000円、了平は66万7000円の合計200万円を出資した。この増資で、一魔、呼子、了平の原告の持株は、それぞれ1000口となり、3人の持株数は合計3000口となった。なおこの時の増資手続きは、弁護士同席の上、原告事務所内で行われたが、福子は了平の法廷代理人親権者母として出席し、了平に代わり署名、押印した。(甲12の1ないし2)

(5)上記増資は、会社法の改正で、有限会社の最低資本金が100万円から300万円に引き上げられることになり、三原から度重なる増資の要請を受けていたのであるが、応じるべきか否か迷っているうちに増資の猶予期限も迫ってきた。三原から、このままでは有限会社は消滅するともいわれ、三原の要請に応じたものである。しかし、この増資手続きに要した費用の30万円も一魔が代表して支払った。(甲13の1ないし2)後で原告側で払うべきであることに気づき、福子が三原に30万円の支払いを請求したが、三原は支払を拒否した。これほど身勝手な会社は、世界中どこを探しても、三原時代の原告以外には存在しないのは明らかである。

(6)その後、平成12年9月20日に福子は、一魔、呼子、了平からそれぞれの持ち分1000口株の譲渡を受け、原告の全株3000口の所有は福子に移った。(甲14)

(7)以上からも明らかなように、三原は原告に対しては、何ら法的な権限は有していない。

(8)しかるに三原は、三多の死の直前の平成6年6月6日に、原告の取締役に就任している。(甲15) この時三多はすでに、一言も言葉を発することができなくなっていた。

(9)当時も現在も原告の役員は一人である。当時は三多が原告の代表の取締役社長であったが、三原が法的手続きを経ずに勝手に取締役に就任したので、代表取締役のいない、つまり代表がいない取締役二人体制が生まれた。三多の死去により、6月6日から8日までの3日間だったとはいえ、原告では法的には代表不在という奇妙な状況が生まれている。役員を増やす場合は、社員(株主)総会を開く必要があるが、社員総会は開かれていない。そもそも社長が瀕死の床にある渦中に、そして社長の死去したその日に、法務局に役員の登記をするような会社は、この世には存在しない。しかし三原は、三多の死去した6月8日当日に、法務局に取締役の登記をしている。(甲15) 一魔も呼子も了平も福子も、当時は、三原が取締役に就任していたことは全く知らなかった。

(10)甲15の原告の旧会社謄本は、法的な手続きを無視して、三多の死のどさくさに紛れて、強引に原告の代表に就任しようとした、三原の異常さを明白に証明している。

(11)ところが、その後、デジタル化されて以降の原告の会社謄本では、平成6年6月8日の三原の原告取締役就任登記は削除されている。(甲16)

(12)法務局が不正に気づき削除したのか、三原本人が登記の削除を申請したのかどうかは不明であるが、平成6年6月8日の登記が、法的には認められないものであったことは、甲16の削除の事実からも明らかである。三原の取締役就任が登記されたのは、平成10年9月24日となっているが、この時も社員総会は開かれていない。三原の取締役就任が法務局に登記されたことは、一魔も呼子も了平も福子も全く知らなかった。こんな会社は、この世には三原時代の原告以外には存在しない。甲16からも、三原の違法、無法をものともとしない異常な強引さは明らかである。

(13)三多の死後、原告において社員総会が開かれたのは3回だけである。1回目は、平成8年の増資の時。2回目は、同12年に一魔、呼子、了平の株が福子に譲渡された時であるが、この時は福子は譲渡を示す文書を三原に送付した。この譲渡文書を受けて、三原が初めて臨時社員総会議事録を作成していたことは、全く知らなかった。福子には、この議事録は送られてこなかったからである。ここでも三原は違法を犯している。3回目は、同14年9月30日の三原解任を議題とした社員総会である。この時は司法書士が同席して、総会そのものはスムーズに進行し、終了した。三原もこの日の解任にはすんなりと応じ、署名、押印した。

(14)ただし、三原解任時の社員総会議事録は原告の事務所内にはどこにもない。のみならず、原告の資本金を、一魔、呼子、了平が300万円に増資した時の、弁護士が作成した甲12の1ないし2の議事録も消えている。いずれも金庫やロッカーなどを何度も探したが、どこを探してもみつからない。増資関連の甲12の1ないし2は、福子が保管していた総会議事録を書証として提出したものである。原告事務所内に社員総会議事録が残されているのは、子供たち3人の全株が福子に譲渡されたことを議題にした、三原自身が作成した甲14のみである。増資関連書類や議事録類の紛失は、この準備書面を書くために資料探しをしていて初めて知ったばかりで、衝撃を受けている。

(15)ではなぜ福子が三原を解任し、原告の代表に就任するに至ったのか、その経緯について以下に明らかにする。

(16)福子は、平成2年頃から河合塾などの予備校で講師を始めたが、純真女子短期大学の教員になってからは、予備校の講師は辞めた。福子は、平成6年4月から同11年3月まで、福岡市南区筑紫丘1丁目にある学校法人純真女子短期大学(以下「純真短大」と言う。)国文科の教員をしていた。同6年4月から7年3月までは非常勤講師として、同7年4月から8年3月までは選任講師として、同8年4月から11年3月までは助教授として勤務していた。(甲17、甲18の1ないし7)

(17)現在、純真短大は大幅に改編されて国文科も消滅しているが、当時福子は、甲18の1ないし7の講義要項に紹介しているような、日本の近代文学の授業を担当していた。短大教員としての経験は浅いが、福子の授業は評判もよく、西日本新聞から取材にきたほどであった。オープンキャンパスの国文科の模擬授業も国文科を代表して福子が受け持ったが、この授業には朝日新聞の記者が聴講に来たこともあった。

(18)ところが評判の高い福子の授業は、外部から無断で盗聴されていた。この事実に気づくと、福子にとって授業は苦行と化した。福子は授業盗聴の疑惑を短大側に伝えたが、証拠を示せといわれ、やむなく純真短大を退職することを選択した。著作物の盗作は歴然と証拠は残るが、授業の盗聴では証拠を示すことは困難だったからである。

(19)福子は昭和42年3月に大阪市立大学国語国文学専攻科を卒業後、教科書出版の東京書籍株式会社関西支社に入社し、教師用指導書の副教材の編集に従事し、編集の基本を習得した。三多も同じ東京書籍の九州支社に福子の一年後に入社した。その後福子と三多は昭和46年8月に結婚した。二人の間には一魔、呼子、了平の3人の子供が生まれた。(甲10の1〜3)

(20)福子は育児の傍ら、内職として原告の編集の仕事を手伝った。この時は、原稿整理からブックデザインまで一冊の本の編集の全てを福子一人でこなしたので、この編集内職は、福子にとっては編集の全ての工程に習熟する格好の機会となった。

(21)福子はその一方で、文芸評論も執筆し、1973年(昭和48年)秋に原告を発行元に創刊された季刊誌「暗河(くらごう)」にも投稿し始めた。「暗河」そのものも全国的に注目を集めたが、福子の評論も評判を呼んだ。福子は「暗河」投稿の際には、三多の妻であることを隠すために、旧姓の明石福子をペンネームとして使用した。

(22)甲20の1ないし5は、昭和55年12月原告刊の渡辺京二著「地方という鏡」の一部コピーであるが、昭和51年4月から55年7月まで渡辺氏が西日本新聞に連載した同人月評を一冊にまとめたものである。この月評で渡辺氏は福子の評論を激賞している。(甲20の2ないし3)

(23)福子はその後も評論を書き続け、評論集を出版したり、新聞各紙や雑誌などにもエッセーや評論を多数発表しているが、書証が膨大になるのでこれらの書証の提出は割愛した。求めがあれば何時でも提出するが、福子が純真短大に採用されたのも、こうした実績が評価された結果であることはいうまでもない。

(24)以上のように福子の能力は非常に高いものであるが、純真短大退職後は福岡で職探しをつづけたが、職は見つからなかった。やむなく福子は東京でも職探しを始めたが、東京でも見つからなかった。福子は途方に暮ながらも、自ら起業するしか道は残されていないと悟り、平成12年4月19日に、東京都新宿区高田馬場1ー18ー26ー107に出版社エディター・ショップ有限会社を設立した。まずは自著2点「柄谷行人論」(平成12年7月15日刊)と「文化ファシズム」(同13年6月8日刊)を出版した。(甲21の1ないし2、甲22の1ないし4) 現物を裁判所に提出する。

(25)福子はこの2著の執筆から、執筆時も旧姓の明石福子(あかしよしこ)は使わずに、本名の久本福子(ひさもとよしこ)を使用することにした。この2著を出版するかなり前から、明石福子と久本福子とを別人に仕立て上げようという異様な工作が進行していることを知り、この異様な犯罪に対抗するためには、執筆時も本名に統一すべきだと考えたからである。

(26)福子がエディター・ショップを設立した当時東京には、早稲田大学の学生であった呼子が暮らしていたが、他には全く知り合いはなかった。そんな中で福子は出版業を始めたのであるが、実際に営業を始めてみると出版の流通特有の問題に、本を作ればすぐにも取次を通して、全国の書店に配本されるほど簡単な業界ではないということを、いやというほど思い知らされた。

(27)そこで福子は販売を書店での直販方式に変え、協力書店開拓のために、自著を持って東京の主な書店を回った。どこもすぐには協力してくれなかったが、繰り返し営業を続ける中で、営業で回った東京の書店の内、リブロ全店とパルコ全店を除いては、全ての書店が協力書店として福子の本を平積みで販売してくれた。大学生協の協力も得ることができた。

(28)福子はさらに協力書店を拡げるために、大阪と京都と福岡の書店も回った。東京外の三都市での営業も成功し、主な書店の協力も得ることができた。直接訪問できなかった書店や大学生協は、電話での営業で協力を得た。その成果が福子の自著「文化ファシズム」の巻末に掲載した、54店の販売協力書店である。東京が中心であるが、北から南まで、主な都市の主要書店の協力を得ることが出来た。(甲22の2ないし3)

(29)創業したばかりのまったく無名の出版社から、全く無名の著者の本を出したばかりで広告も出さぬまま、たった一人でわずか数カ月の間に、54店もの書店の直販協力を得るということは、出版業界の長い歴史の中でも前例のない快挙であることは言うまでもない。おそらくこの記録は今後も破られないはずだ。

(30)福子の書店営業での前例のない快挙は、福子の誠意と熱意いのこもった高い営業能力の賜物であり、福子の非常に優れた営業能力を証明するものであるが、福子の本の売行きが非常に好調だったことが、この快挙を可能にした最大の理由であった。どれほど熱心に営業をしても、売れない本は、どこの書店でも置いてくれないからである。

(31)最初に直販に協力してくれたのは、エディター・ショップの事務所の近くにあった芳林堂書店高田馬場店であったが、最初の20册があっという間に売切れ、すぐさま30册を追加したがこれもすぐに売切れた。この第一歩の勢いが、福子の営業の強力なエンジン役になったのは言うまでもない。芳林堂では100册あまりが売れた。芳林堂以外の53店には、いずれも5册以上置いてもらった。芳林堂以外からも追加注文を何度も受けた書店もあったが、最終的には1店から2册の返品があっただけである。これがどれほどの快挙であるかは、出版業界の人間ならば即座に分かるはずだ。

(32)しかし執筆から営業まで全て一人でこなし、これほど目覚ましい反響を得ているにもかかわらず、マスコミは完全に無視し続けた。広告はなし、マスコミで取り上げられたことも皆無。広告やマスコミの後押しが全くない中での快挙である。それだけにかえって、福子の著書の掛け値なしの面白さと、福子の営業能力の優秀さが正味として証明されたことは明白である。

(33)ところで福子の長男一魔は、平成8年3月に立命館大学地理学科卒業後、中央大学哲学科に学士入学したが、中央大を中退し、就職活動を始めた。一魔は数年に渡って、福岡や東京で就職活動を続けたが、就職先が見つからず、アルバイトや派遣労働を続けていたが、福子が東京でエディター・ショップを開業した頃、一魔も上京し、何度目かの東京での職探しを始めた。しかし職は見つからず、一魔は東京でもアルバイトを始めた。福子と一魔と呼子はそれぞれ別にアパートを借りて、別々に暮らしていた。二男の了平はアメリカ留学中であった。

(34)一魔は何度かアルバイト先を変えながらアルバイトを続けていたが、平成14年の4月頃、突如、葦書房(原告)で働きたいと言い出した。福子は一魔の突然の申し出に驚くとともに、猛反対した。さらに驚いたことには、一魔が原告に入社するには、原告の株が必要なので株を持って来るように三原から言われたとのことであった。

(35)当時は福子は一魔とは一緒に住んでいなかったので、どういう経緯で一魔の原告入社話が出てきたのかは不明であったが、株の持参を条件に一魔の原告への入社を認めるとは、何という残酷な話なのか。福子は即座に一魔に対して、株持参でなければ入れてもらえないような会社には入るなと答えた。

(36)それから間もなく、一魔は、株なしでも葦書房(原告)に入れるようになったと嬉しそうに報告に来た。そしてすぐに福岡に戻るので、福岡までの交通費を出してほしいと言った。しかし福子は一魔の原告行きそのものに反対だったので、交通費は出さないと答えた。一魔は執拗に交通費を要求し続けたが、福子は拒否し続けた。

(37)ところが後に知ったのであるが、一魔は、福子の近くに住んでいた妹の呼子を訪ね、旅費を借りて福岡に戻り、原告に入社した。当時呼子は早大を卒業し、勤め始めていた。福子は呼子から一魔がお金を借りに来たことを聞き驚いたが、しばらくして一魔本人から非常に明るい声の電話がかかってきた。東京では聞いたこともなかったような明るい声で、嬉しそうに原告で仕事を始めたことを報告してきたので、福子の心配は杞憂だったのかと驚くとともに安心した。

(38)しかし安心したのもつかの間。それから3ヶ月ほどして、三原から3ヶ月の試用期間が終わったが、一魔は適性を欠いていたので解雇したことと、解雇の理由を書いた長い手紙が福子の許に届いた。合わせて、解雇したのに一魔は健康保険証を何度催促しても返さないので、福子から一魔に健康保険証を返還するように言ってくれとも書いてあった。

(39)健康保険証を巡っては、三多の死去時にも、三原から健康保険証の返還を何度も催促された。一魔と呼子と了平は、三多の扶養家族として三多の健康保険に入っていたからである。三多の死去時は、福子は純真短大の非常勤講師だったので、私立学校共済組合の健康保険にはまだ未加入だった。その一方で、三多存命中の平成6年5月までは、毎月25日には福子の銀行口座に25万円振込まれていた生活費も、6月以降は振込まれなくなった。福子は三原に対して、6月分は三多の給料は出ているはずだがどうなっているのかと尋ねたところ、死亡したので三多の6月分の給料は出ないと答えて、一銭も振込まれななかった。その上、三多の退職金も9月まで待たされた。さらには三多個人の保険金まで原告で保管されて、9月に退職金と同時に振込まれるまで、相続人である一魔、呼子、了平には払われなかった。

(40)三多の退職金と弔慰金は3900万円であったが、三多が生前出張旅費などの仮払い金を未精算のまま残していたという約800万円が差し引かれており、実際に一魔、呼子、了平に支払われた三多の退職弔慰金は3100万円にまで減らされていた。未清算金として差し引かれた800万円の内、167万円は仮払い未清算金に対する利息である。しかもこれらの明細は、皿山の自宅宛にFAXで送られてきただけである。こんな会社は、三原時代の原告以外にはない。

(41)福子は三原に対して、なぜ800万円も引くのかと尋ねたところ、三多の未清算金の処理に困っていたので、その分を退職金から差し引いたが、3000万円を超えると相続税がかかるので、一魔君たちの受け取り額には変わりはないと答えた。なお皿山の自宅の家賃は毎月三多が原告に払っていたが、三多の死去後1年分は三多の退職金から差し引かれ、平成8年からは、一魔、呼子、了平(福子へ全株譲渡後は福子)所有の原告全株の配当金との相殺となった。

(42)三多は生前、死去のかなり前から原告の代表として役員生命保険に入っていた。最初は1億円の保険に入っていたが、その後さらにその役員生命保険の保険金額を5000万円追加したとのことを、福子は三多から聞かされていた。三多の死去により、その役員生命保険の死亡保険金が原告に支払われているが、原告の三原からは三多の死亡保険金に関しては、遺族である一魔、呼子、了平に対しては一切報告はなかった。

(43)原告が受け取った三多の役員死亡保険金が明らかになったのは、三多が死去した翌年の平成7年31日決算の決算書においてであった。しかし決算書には、受取り保険金として1億3500万円しか計上されていない。なぜ1億5000万円ではなく、1億3500万円なのかは不明である。また三多の死亡保険金1億5000万円には、かなりの配当金もついていたはずであるが、決算書にはなぜ1億3500万円しか計上されていないのかも不明である。

(44)三多の通夜は皿山の自宅の近くの葬祭場で営まれたが、葬儀は原告の近くの大きな葬祭場で行なわれた。葬儀では長男一魔が喪主を務め、葬儀場でも久本家の葬儀であることが一目で分かるような案内になっていた。しかしそれは形の上だけで、実質的には葦書房による社葬として執り行なわれた。従って香典も含めて、葬儀に係るお金の出入りも全て原告で管理、処理された。香典の総額は500数十万円あったが、500数十万円全額を葬儀関係費用に使ったとのことで、差し引き0と記載されたわずか数行の簡単な報告が、三原からFAXで送られてきただけである。仮に社葬だとしても、遺族に対してこういう報告の仕方をする会社は、三原時代の原告以外にはないことは明らかである。

(45)香典の総額にも疑問が残る。6月9日の葬儀当日には515人もの個人、団体の方々の参列をいただいたのであるが、500数十万円は葬儀当日にいただいた香典の金額である。初七日、49日には皿山の自宅に仕事関係をはじめとした色々な方にお参りいただいたが、その際にも香典をいただいた。お返しは原告でまとめてするとのことで、福子は、総額で40万円近くになった皿山の自宅に届けられた香典もすべて原告に渡したが、この分は上記FAXによる、三原からのわずか数行の葬儀関係収支報告書の中には含まれていない。香典については、余りあからさまに口にすることは憚られるが、三原時代の原告の異様さを示すものである。

(46)その三原時代の原告に、三多の死去から8年経って一魔は喜び勇んで入社したのであるが、3ヶ月でクビになった。三原の手紙には一魔は精神病にかかっていると書かれていた。そこで福子は8月に入って福岡の自宅に戻った。三原時代に残された原告の借金のカタに取られて今はない、福岡市南区皿山4ー12ー17の自宅である。久しぶりに顔を合わせた一魔は、何を尋ねても一言も言葉を発しなかった。3ヶ月前に、明るい声で嬉しそうに原告で仕事を始めたことを電話で報告してきた一魔とは、全く別人のような変わりようであった。福子が散らかっている部屋を片づけていると、三原からの一魔に宛てた、健康保険証の返還を催促するハガキが2通も届いているのを発見し、驚くととともに、怒りすら覚えた。

(47)しかし発見物はそれだけではなかった。一魔が三原宛に書いた、解雇の撤回を求めた嘆願書が見つかった。きちんとした文字で、読めば誰もが思わず目頭が熱くなるような、切々たる思いを綴った嘆願書であった。三原に実際に出したのかどうかは、一魔に尋ねても答えないので不明であるが、一魔が人知れず抱いていた原告に対する熱い思いが記されていることだけははっきりしていた。

(48)福子はこの嘆願書を目にするや、どっと涙が溢れ出て止まらなかった。福子は、一魔がこれほどまでに葦書房(原告)で働きたかったのかという驚きに襲われたが、単なる驚きではなかった。福子は、この瞬間まで想像もしなかった、一魔の父親三多の残した仕事に対する思いの深さに激しい衝撃を受けた。と同時に、一魔の思いは永遠に届くはずもない、三原の過酷さとの余りの落差に、思わず涙が溢れてきたのである。そして、これだけの文章が書ける一魔がほんとうに精神異常のなか、福子は三原の指摘に強い疑いを抱いた。

(49)福子は三原の過酷さを見るにつけ、原告と完全に関係を断つために、この事件よりもかなり前に、三原に原告の株を全株買い取るように申し出たことがあった。しかしその時は、三原は額面の100万円(裁判所に提出した書面には、うっかり300万円と書いてしまいましたが、増資前の話です。)なら買うと答えた。原告の全株には、地方出版の雄とまで言われ、全国にその名を知られた老舗としてののれん代、原告の名を全国に知らしめ、評判を呼んだ数々の書籍、数十年もの超ロングセラーを続ける書籍の数々、昭和58年8月に原告で購入後、三多と福子と三人の子供たちが住んでいた約70坪の敷地をもつ、福岡市南区皿山4ー12ー17の自宅も含まれている。これらの原告の全資産がたった300万円だとは、タダも同然である。福子は、当然のことながら原告の株を三原に売ることは諦めた。

(50)しかし福子は一魔の嘆願書を目にした瞬間から、一魔の原告に対する思いをたとえ一部でも実現させてやりたいとの思いに突き動かされて原告に出向き、三原と会うことにした。福子は三原に会うと、まず健康保険証を返した。そして三原に、今東京で出版の仕事をしているが、生活が苦しいので、原告の仕事を手伝わせてほしいと頼んだ。当時原告では、三原の知人に東京での原告の営業を一月15万円に諸経費をプラスした金額で委託していたので、その仕事を回してもらえないかと頼んだ。この東京での営業外注は、福子宛(株譲渡前は一魔、呼子、了平宛)に原告から毎年送られてくる決算書に、雑費が雑費とは思えぬほど高額な金額で計上されていたので、その内訳を尋ねたところ、三原から営業外注費が含まれているからだとの説明を受けて知ったのであるが、その営業請負人は、東京の三原の友人の勤める出版社を定年退職した人物だとの話であった。

(51)しかし三原は、福子のこの申し出を、あなたには営業は無理だと言って拒否した。福子は自著の2点はともに刊行時に、三原用と従業員用にそれぞれ2册ずつ送っていたので、三原は福子の営業力は知っているはずであるが、あらためて東京での書店営業の経験も話した。しかし、三原は拒否し続けた。そこで福子は、営業がダメなら編集を手伝わせてもらえないかと頼んだ。編集関係は校正も含めると、営業よりもはるかに多数の外注をしていたので、校正の一部でも回してほしいと頼んだが、三原からはとことん拒否された。その挙句、三原はあなたとは一緒に仕事をしたくないとまで言った。株主のささやかな願いをここまで拒否する経営者は、三原以外にはこの世には存在しないことは明らかである。

(52)そこで福子は三原に原告の全株を買い取ってほしいと申し出た。しかしこの時は三原は、額面の300万円で買うとさえ言わず、株を買い取る気はないと即座に答えた。

(53)原告の100%の株主である福子に対して、三原は原告の仕事には指一本触れさせまいと拒否し続け、その一方で、原告の株の買い取りも拒否する。この異常な宙づり状態を打破するためには、福子が原告の代表に就任する以外には道は残されていなかった。

(54)当時原告では数年来、売り上げ減少が続いていた。その一方で人件費も含めて経費は高止まりしたままである。この件に関して三原は、何ら打開策は示さなかった。そのこともあり、福子は三原に対し社長退任を求め、福子が社長に就任することを申し出た。意外なことには、福子のこの申し出には、三原は株主の退任要求は拒めないので受け入れると答えた。それまで何を申し入れても拒否されつづけてきたので、福子は三原が退任要求をあっさりと了解したことには心底驚いた。ただ三原は、今期の決算だけは自分でやりたいので、決算の申告が終わった9月末に退任すると言った。

(55)福子は三原との面談までは原告の代表をやろうとは夢にも考えていなかったので、急いで東京に戻り、移転の準備に取りっかった。福子は三原との話合いで、代表交代はスムーズに進むものと信じて疑わず、事実上、東京のエディター・ショップの事務所も閉鎖し、東京の荷物のほとんど全てを福岡に移し、原告の代表就任に備えた。

(56)ところが福子が9月20日過ぎに福岡に戻って原告に出向いたところ、三原が態度を変えて、社長退任に難色を示し始め、いろいろと条件をつけてきた。その上、小野静男(被告代表。原告の従業員であった被告小野静男を指す時は、以下「小野」という。)を筆頭にした当時の原告の全従業員が福子の社長就任に対し、露骨に反対を表明した。特には小野は福子を激しく面罵して、福子に対して、原告には入ってくるなとまで言った。

(56)しかし小野はこれほど激しく福子を拒み、排除しながら、福子が小野に対して、では原告の株を全部買い取ってほしいと申し出ても、小野も三原同様、株の買取りは拒否した。小野同様、福子が原告の代表に就任することに猛反発していた他の従業員も誰一人として、原告の株を買うと申し出る者はいなかった。そこでやむなく福子は、三原を解任することにした。福子は従業員に対して、不安はあるだろうが、このまま一緒にやってほしいと頼んだ。それでも全従業員は辞めるというので、福子は全従業員に対して、せめて退社を3ヶ月待ってほしいと繰り返し頼んだが、福子の必死の引き留めも空しく従業員全員も、平成14年9月30日の三原解任と同時に退社した。ただし三原は、従業員が退職後すぐに失業保険をもらえるように、失業保険の申請書類には任意退職とは書かずに解雇と書いたと言った。9月30日の新聞各紙には、三原解雇と全従業員の退社が大きく報道された。(甲19)

(57)三原解任の前日の9月29日の夜9時過ぎ、ある全国紙の記者から皿山の自宅の福子に電話があり、なぜ三原さんを解雇するのか、余りにも身勝手だと福子を非難し、明日の社員総会は中止せよとまで言った。福子はその記者に、三原解任のことは誰に聞いたのかを尋ねたが、記者は答えなかった。越権行為もはなはだしい記者の電話抗議の理由は、福子が原告の代表に就任後しばらくして判明した。小野が福子を誹謗中傷する文書を各所にばらまいていたのである。(甲23)

(58)甲23の小野の福子に対する事実無根のひどい中傷文が、29日夜、皿山の自宅に電話をかけてきた記者の、福子に対する、新聞記者の取材とは言えぬ断罪的抗議を促したことは明白である。その後も、福子が原告の代表に就任して2ヶ月ほどの間は各紙の新聞記者が入れ代わり立ち代わり原告を訪れ、資金繰り状況などを根掘り葉掘り詮索してきた。そうした新聞記者の一人であった、29日とは別の全国紙の記者からは、葦書房(原告)が何時潰れるか、みんな今か、今かと待ってますよとまで言われた。新聞記者にあるまじき言動であるが、いずれも三原の出身である毎日新聞とは別の大手の全国紙の記者たちである。毎日新聞なら身内意識から、三原を擁護するために福子に敵意を見せるということも、心情的にはありうることかもしれないが、いずれも毎日新聞ではない別の全国紙2紙の記者である。しかも福子は、これらの記者たちとは、原告の代表に就任後初めて会ったばかりである。それまで福子とは全く無縁であったこの記者たちが、福子に対して敵意を抱くに至ったのは、甲23の小野の文書によるものであることは明らかである。呆れたことには、原告が倒産しそうもないと悟ってからは、新聞各社の取材はばったりと止まってしまった。

(59)非常に長くなったが、以上が、福子が原告の代表に就任するに至った経緯と周辺の動きである。以上からも「平成6年に三多が死亡したため、三原が代表権を引継ぎ」という被告の主張には、何ら法的な根拠のないことは明白である。ただし三原は長年に渡って、原告の借入金の保証人を引き受けてくれたことは事実である。しかし三原の保証額は500万円を超えたことはない。また「ところが、平成14年秋ころ、現在の原告代表者である久本福子(以下「福子」という。)は、子供らが相続した原告に関する三多の出資分に基づき、事業を自分が行うとして原告に乗り込み、強引に当時の代表者であった三原を退職させて、原告の経営権を取得した。」という被告の主張は、事実を歪めたものであることは明白である。さらに「福子は予備校でアルバイトなどをしていたものの出版業界の経験はほとんどなく、」という被告の主張も事実に反する捏造であることも明白である。

(60)以上の被告による事実に反した捏造工作は、被告会社を創業し、同前代表であり、原告の前代表でもあった三原を含めた被告らが、原告の権利財産を侵害して平然としているという態度においては、一貫していることを隠蔽するためのものであることは明らかである。その上被告は姑息にも、福子の能力を事実に反して不当にも貶めることで、被告の不法行為を正当化しようとしている。本訴事件は、被告が原告の権利財産を侵害することを、被告の権利だとさえ考えているとしか思えぬ一貫した態度が引き起こしたものであり、被告の不法行為による原告に対する新たな被害であることは明らかである。

(61)次に、福子が原告の代表に就任後に判明した事実や福子の原告での仕事の実態を明らかにする。まず、第一の驚くべき事実は、三原は平成14年8月25日に原告内において、福子と代表を交代することについて合意したのであるが、その数日後の8月29日から3回に分けて、原告から三原からの借入金に対する返済が始まったことである。8月29日に200万円、9月2日に300万円、9月18日に600万円の合計1100万円が、三原の銀行口座に入金されている。(甲24) これらの資金には、原告の全従業員に掛けていた退職金充当用の保険金の解約金も含まれている。三原がなぜ代表解任にすんなりと応じたのか、その理由を如実に示すものである。

(62)甲25は、福子が原告の代表に就任した平成14年9月30日から同16年7月31日までに、原告で出版した出版目録である。全部で16点、その内自費出版が8点、企画出版が8点である。企画出版の内、重版が5点なので、新規の企画出版は3点である。自費出版の8点と新規企画出版の3点の合計11点は、福子が原告の代表就任後に新たに出版したものである。つまりこれら11点は全て福子が一人で受注し、福子が一人で編集して出版したものである。

(63)甲25には自費出版には受注日も記載しているが、受注日とは編集作業に着手した日ではなく、自費制作費の40%の前受金を受領した日である。従って、編集作業着手日は受注日以降になる。通常、一冊の本を編集して出版するまでには、3ヶ月かかるというのが業界標準であるが、甲25の自費出版本の中には、2ヶ月足らずで出版したものや一月足らずで出版したものもある。原稿整理や割付や校正はもとより、表紙、カバーのデザインも全て福子一人で担当した。福子の編集実務能力が非常に優れていることは明らかである。現物見本をいくつか裁判所に提出する。

(64)甲25の期間を「平成14年10月1日〜同16年7月31日」としたのは、福子が原告の代表に就任した同9月30日時点で残されていた、支払手形2196万8099円を35期(同16年7月31日決算日)の決算で完済し、ゼロにした期間に対応させるためである。
(65)つまり福子は重版分も含めて16点の書籍を出版しながら、三原時代に6ヶ月ないしは8ヶ月という長期サイトの支払手形で印刷所に支払われていた、2196万8099円という巨額の支払い手形による残債務を、期末を待たずに同16年2月5日に完済し、ゼロにした。(甲26、甲27)

(66)支払手形の決済ができなければ、即倒産である。福子は三原や小野らが、巨額の支払手形のみならず、巨額の借入金4249万6000円の巨額負債だけを残し、現預金はほとんど空にして退社した後、一人で原告の倒産の危機を乗り越えたのである。この事実は、福子の経営能力も非常に優れていることを証明していることは明らかである。

(67)しかも同年9月30日時点で、4001万6000円残されていた長期借入金も、35期末までに、福子は一人で853万9000円を返済し、3146万7000円に縮小させた。(甲28、甲29) ただ短期借入金は、福子本人をはじめ福子の親族や友人、知人から借入れたので同14年9月30日時点よりはかなり増えている。

(68)以上、わずか1年4ヶ月の間になした福子の仕事は、超人的だと言っても過言ではないはずだ。被告が「原告の従業員が同年9月末で退職したので、事実上、原告の会社としての機能は同時期に喪失した。」と主張するのは、全く事実に反した捏造であることは明らかである。被告ら自身が原告に残して逃げ去った巨額借金を、福子は一人で返済してきたのである。

(69)また被告が「一方、原告の平成15年以降の出版実績は、福子が個人的に書いた本やその他の書籍を数点出したことがある程度で、出版社としての見るべき活動はない状態である。」と主張するのも、全く事実に反した捏造であることも明白である。

(70)福子はさらに、経費を抑え、売上増を図るために、既刊本の販売促進にも力を入れてきた。新刊を出すと印刷費などの経費が発生するが、既刊本の在庫ならば、売上はほぼ純粋に利益になるからである。福子は原告の代表就任後、原告のホームページを自ら新らたに作成し、倉庫の中に眠っている既刊本を発掘し、次々と原告のホームページ上で紹介しつづけてきた。その結果、20年前、30年前の忘れられていた古い既刊本も売れ始め、古い既刊本は原告の経営を支える重要な柱となっている。福子は新刊のみならず、既刊本の価値発掘にも力を注ぎ、原告の資産を十二分に活かすような経営をつづけてきた。被告らが残した巨額借金に潰れなかったのも、そのためである。福子の経営能力、編集能力の優秀さを証明していることは明白である。

(71)被告は「同(4)」において「福子は、このように正常な出版事業を行わない一方で、それまでの原告会社の出版物との関連で、さまざまな方面でトラブルを抱えており、訴訟等も本人でいくつか行うなどしており、」と主張しているが、これも事実に反する捏造であり、福子が原告の代表に就任後に遭遇した「トラブル」は、全て小野らに起因するものばかりである。事実は以下の通りである。

(72)福子が原告の代表に就任後、最初に遭遇した「トラブル」は、自費出版の著者からの精算を巡る問題であった。原告では自費出版本を販売した場合、売上額の40%を著者に支払うことになっているが、著書を何冊預かって、何冊売ったのか、その数字を原告側で把握できなければ精算することはできない。ところが福子には三原時代の経理担当者からは甲30の、便箋一枚に書名と著者名だけが書かれた簡単な自費出版一覧が渡されただけである。最も重要な預かり部数はもとより、発行部数すら書かれていない。

(73)しかも平成12年までは、原告では創業以来、毎年その年に出版した企画出版と自費出版とを合わせた、詳しい出版リストを作成していたが、三原時代の原告では8人も9人も従業員がいたというのに、三原時代末期の同13年と14年は出版リストすら作成されていない。出版リストすら作成されていないので、それぞれいくら出版されたのか、出版部数すら分からない。印刷所が分かれば、請求書等で確認できるが、それをいちいち調べることがどれほど大変か。

(74)原告に数を確認する資料がなければ、著者の請求額をそのまま支払わなければならない。福子は請求額の少ない分については、著者の請求通りの額で精算したが、請求額の大きい分については、即座に支払うことはできなかった。当時の原告の編集責任者であった小野は、全く引継ぎなしに辞めた。その上、未精算分の自費出版関連の資料は、甲30以外には全く何一つ残されていなかった。

(75)福子は著者に対して、精算を待ってほしいと繰り返し頼んだが、甲30のリストのうち三日月直之氏と西村雅彦氏の二人が、待てないといって原告に対して、自費出版本の販売代金未清算金の支払い請求訴訟を起こしたのである。しかし両裁判とも和解で終結し、いずれも原告に対する請求額は減額され、支払い条件も緩和された。しかも三日月直之氏との裁判の中で、三日月氏の著書を小野が、福子には全く無断で原告から持ち出していたことも判明した。裁判がなければ、出版部数から原告内にある在庫数を引いた数を、販売部数として精算する可能性も大であった。小野の行為は窃盗にあたるはずだ。

(76)さらに自費出版に関しては、原告は被告らによって債務だけを負わされるという被害を被っている。甲30の自費出版本14点の自費制作売上額は3000万円ほどあったが、この3000万円は、これら14点の印刷費を含んだ額である。しかし印刷代は長期の支払手形で払っており、著者から入金された3000万円は全て、三原や小野らによって消費されてしまっていた。のみならず、これら14点を販売した売上げ金も、ほどんど全て三原と小野らによって消費されてしまっていた。その一方で、これら14点の自費出版本の印刷費は、企画出版本同様に6ヶ月ないしは8ヶ月サイトの長期の支払手形で印刷所に支払われているので、福子が代表になった原告にはこれら14点全ての支払手形の債務だけが残された。その上さらに、これら14点を含む自費出版本を販売した売上げに対する、著者への40%返還の未精算分が、簿外債務として残されていた。福子がこの隠された簿外債務を知ったのは、原告の代表就任後のことである。

(77)乙2の掘雅昭は、三原時代の平成13年3月に「戦争歌が映す近代」を出版したが、同年5月に同書の2刷を1500部出版した。2刷分の印税の内、15万4560円が未払いであるが、この分は実売に応じて支払う契約になっている。2刷は大半が売れ残っているので、三原時代から未払いのまま残されていたものである。福子の代に代わっても、残りの実売印税を支払う状況には至っていないので支払っていないだけである。

(78)上記(27)で取上げたリブロは、福子が原告の代表に就任するや、今度は原告の本を締め出した。現在の岩田屋本館(当時は岩田屋本館は現在の福岡パルコだったので、Zサイドとの名称であった。)の8Fに出店したリブロの郷土本コーナーから、代表交代後、原告の本の全てを撤去した。リブロ他店も同様であった。福子はリブロ福岡店には何度も出向き、原告の本の復活を頼んだが、福岡店が閉鎖されるまで原告は拒否されつづけた。リブロ西新店(現在のリブロ福岡店)や岩田屋久留米店内にあるリブロ久留米店でも全く同様であった。原告代表として福子が直接訪問したリブロはこの3店だけであったが、東京のリブロ池袋本店からは露骨な嫌がらせを受けた。リブロ池袋本店から原告に対して同じ本を数十冊も立続けに注文してきたのである。かなり残っていた社内在庫が切れてしまったので、福子はリブロからの注文に、在庫切れになったと答えたが、なおも注文が続いた。重版せざるをえない状況に置かれたが、福子は倉庫でその本を発見した。福子がその旨リブロに連絡すると、途端に注文は止まった。挙句に、それまで注文してきた数十冊の本を一挙に返品してきた。

(79)福子が原告の代表に就任した当時は、一時的に混乱もあったが、リブロのような意図的かつ執拗な原告排除、嫌がらせはリブロ以外にはない。リブロのみとはいえ、全国展開する大書店から執拗な嫌がらせを受けながら、しかも新聞をはじめマスコミからも、いわれなき敵意を持たれて排除されつづけてきた中で、巨額負債だけが残された原告を、福子は倒産させずに今日まで支えてきた。福子のその能力の高さは、身勝手きわまりない被告といえども、否定はできないはずだ。

(80)以上により、被告による原告に対する権利侵害は、本訴事件以前から続く、被告の一貫した姿勢であることは明白である。

(81)なお原告書籍の発行年は、平成15年ではなく、平成13である。訂正する。

第2 出版契約について

1 原告は、原告書籍出版に際して著者多田茂治(以下「多田」という。)と、2001年(平成13年)5月25日に出版契約を交した。(甲31の1ないし2)

2 甲31の1ないし2の出版契約書並びに出版契約約款(以下「約款」という。)は、現在も有効であることは明白である。

3 多田は、被告から被告書籍を出版することについては原告の了解を得ていない。原告は多田から、被告書籍を被告から出版することについては、その旨の連絡すら受けたことはない。ましてや、約款第8条の「2前項の場合、それぞれの具体的条件については協議する。」との定めにある協議がなされていないことは言うまでもない。

4 多田が約款第2条及び第8条に違反し、不法にも被告から被告書籍を出版したことは明白である。

5 被告書籍は原告に対する多田の契約違反による不法行為の結果、被告からの出版が可能になったことは明らかである。よって被告による被告書籍の出版も、原告に対する不法行為に当ることは明白である。

 

証拠方法

甲第10号証の1ないし3   久本三多の戸籍謄本 写し 各1通
甲第11号証の1ないし2   遺産分割協議書 写し 各1通
甲第12号証の1ないし2   平成8年3月18日付原告社員総会議事録
甲第13号証の1ないし2   増資手続きの弁護士手数料の領収書 写し 各1通
甲第14号証         平成12年9月20日付原告臨時社員層会議事録 写し 1通
甲第15号証の1ないし2   平成6年9月6日付原告会社謄本 写し 各1通
甲第16号証         平成15年7月6日付原告会社謄本 写し 1通
甲第17号証         久本福子の純真女子短期大学国文科助教授の辞令 写し 1通
甲第18号証の1ないし7   純真女子短期大学国文科講義要項の久本福子の講義部分 写し 各1通
甲第19号証         平成14年9月30日付西日本新聞
甲第20号証の1ないし5   原告刊渡辺京二著「地方という鏡」 写し 各1通
甲第21号証の1ないし2   エディター・ショップ刊久本福子著「柄谷行人論」 写し 各1通
甲第22号証の1ないし4   エディター・ショップ刊久本福子著「文化ファシズム」 写し 各1通
甲第23号証         2002年9月26日付小野静男の文書 写し 各1通
甲第24号証         原告の34期元帳短期借入金 写し 各1通
甲25号証          原告の平成14年10月1日〜16年7月31日出版目録 写し 1通
甲第26号証         原告の34期の原告元帳支払手形 写し 1通
甲第27号証         原告の35期元帳支払手形 写し 1通
甲第28号証         原告の34期元帳長期借入金 写し 1通
甲第29号証         原告の35期元帳長期借入金 写し 1つ
甲第30号証         原告の34期自費出版リスト写し 1通
甲31号証の1ないし2    原告と多田茂治との原告書籍の出版契約書 

 

当社と多田氏との間で交した出版契約
多田氏と弦書房は、下記の条項に違反しています。
 

(甲は多田氏で乙は当社です。この契約書の表には甲乙双方の署名、捺印あり。なおこの契約の成立日は2001年5月25日、契約期間は10年です。)

当社の第5準備書面

 

平成21年(ワ)第5717号 損害賠償請求事件 

原 告 葦書房有限会社

被 告 弦書房こと小野静男

第5準備書面

                 平成22年4月5日

福岡地方裁判所 第2民事部3係御中

              原告代表者取締役 久本福子

          電話 092ー761ー2895

           FAX 092ー761ー2836

 

第1 「背景事情」に一魔の経歴並びに原告での仕事について追加

1 原告が平成22年4月1日に提出した第4準備書面の第1の、原告と被告との関係を示す「背景事情」においては、一魔に関する経歴並びに原告における一魔の仕事については省略しすぎた部分があり、本準備書面において追加主張する。

2 一魔は立命館大学在学中にイギリスに語学留学し、中央大学中退後はアメリカに1年間語学留学したが、アメリカから帰国後は、世界各地を旅行した。インドには2回旅行し、一月余りをかけてインド国内を旅行したこともある。

3 その後、一魔は帰国して福岡や東京で就職活動を始めたが、第4準備書面で述べたように、全く職は見つからなかった。福子が東京で開業した出版社エディター・ショップでも、一魔はしばらく福子の仕事を手伝っていたが、まともに給料を出せなかったこともあり、一魔はエディター・ショップを1、2ヶ月月ほどで辞め、東京でも、アルバイトや派遣の仕事を転々とするという生活を余儀なくされていた。一魔が原告に3ヶ月間、試用入社し、解雇されるに至った事情については、第4準備書面で主張した通りである。

4 平成14年9月30日に福子が原告の代表就任後、一魔も原告の従業員として入社した。一魔は原告への再入社後から現在まで、営業及び書籍の出荷業務を担当してきた。加えて、原告のホームページに一魔が創作した作品や、アメリカの作家の作品の邦訳を掲載してサイトへの集客に寄与するとともに、ホームページ作成時の入力業務や、福子が作成し、特許出願中の電子新聞やデジタルブックレットという電子出版物の英語版作成も担当している。

5 新聞をはじめマスコミからことごとく排除されつづけてきた福子に代表交代後の原告にとっては、ホームページからの発信は、読者に対する唯一の広報手段であり、唯一の広報の場となっている。一魔は福子をサポートしながら、原告の営業を今日まで支えてきた。ただし、一魔の創作作品及びアメリカの作家の邦訳は、原告のホームページに数年間公開した後、現在はホームページ上からは削除している。

 

被告(弦書房)の第2準備書面

 

当社の第6準備書面

 

平成21年(ワ)第5717号 損害賠償請求事件 

原 告 葦書房有限会社

被 告 弦書房こと小野静男

第6準備書面

            平成22年4月8日

福岡地方裁判所 第2民事部3係御中

            原告代表者取締役 久本福子

            電話 092ー761ー2895               FAX 092ー761ー2836

1 「出版契約」の有効性について

 甲31の1ないし2の出版契約は、出版権の登録なしでも、原告と著者の多田との当事者間では今なお有効であることは明白である。多田を共同被告として提訴する準備を進めている。

2 「不正競争防止法」の適用について

(1) 被告による被告書籍の出版は、不正競争防止法第2条1項1号及び3号に相当する行為であることは明白である。

(2)原告書籍は、一般消費者に広く知られた商品であるとは断定はできないが、書籍という商品の特性からするならば、出版業界関係者に広く知られるだけでも同1号に定める周知表示に相当する商品だと見なすことはできる。

(3)原告書籍は2500部発行したが、近年の出版業界では原告書籍のような人文書系の書籍が2500部売れるということは、出版業界関係者の間で広く認知されるには十分な部数である。すなわち原告書籍は、1号の「周知性」の要件を十分に満たした商品であることはきらかである。

(3)次に何をもって「商品等表示」や「自己の商品の形態」と見なすのかについては、以下の通り明らかにする。

(4)出版社が出版物を出版する際、素材となる文章や写真や図版等の原稿は、基本的には著者から提供されたものを使用することはいうまでもない。しかしこれらの原稿は編集という機能が介在しなければ、原稿は永久に本という形態には変身しえず、文章や写真や図版等は、それぞれが有機的関連性を明示しえず、永久に個々ばらばらのまま存在するだけである。

(5)出版社の編集とはこれらの原稿を有機的に関連づけ、一冊の本としての統一した形態を生み出す機能である。それぞれがばらばらに存在する文章や写真や図版等の原稿という素材は、編集によって、いわば一個の建築物のように、本という統一的な形態を獲得する。

(6)またどれほど優れた内容の原稿でも、原稿のままでは第三者の読者を獲得することはできない。ましてや原稿のままでは商品とはなりえず、市場にも流通せず、大勢の読者の手に渡ることもない。

(7)つまり出版社の編集とは、著者が渾身をこめて書き上げた原稿に命を吹き込み、本という形に脱皮をさせて世の中に出立させるという、重要な任務を帯びた仕事だということである。

(8)以上により、出版物の「商品等表示」および「自己の商品の形態」はともに、生の原稿を意味するものではなく、生の原稿を本の形態に変身させる編集機能と密接に関連したものとして捉えるべきであることは明白である。つまり原告書籍における「商品等表示」及び「自己の商品の形態」とは、原告の編集機能が生み出した原告書籍の本の形態をなす全てのものを意味することは明らかである。

(9)原告書籍における「商品等表示」及び「自己の商品の形態」について、以下の通り、さらに具体的に明示する。

(10)高島野十郎の作品「からすうり」を使ったカバー、無地の白い表紙、濃い緑色の見返し、モノクロの「からすうり」の写真の回りに書名と著者名を配置した扉と、4枚のカラーグラビア、本文とは文字の大きさや割付が異なる目次、12ポイントと14ポイントという2種類の大きさの文字で章題が表示された本文扉、天の余白20ミリ、地の余白25ミリ、左右の余白20ミリと設定された版面(印刷面)、その版面内に10ポイントの文字で42字×15行で組まれた7ページから199頁の本文、5行取りで12ポイントの大きさの文字で表示された本文内の小見出し等の全てが、「商品等表示」及び「自己の商品の形態」に当ることは明らかである。

(11)原告書籍を本の形態たらしめている(10)に列記した要素の全ては、原告の編集によって生み出されたものであるが、同じ原稿を使っても、ブックデザインや割付を含めた編集の仕方によって千差万別の姿形をした本が生まれることは言うまでもない。被告は出版社として最も重要な編集作業を完全に省略して、原告の印刷用電子データを無断で、タダで使用し、被告書籍を出版した。まさに被告の行為は窃盗そのものであることは明らかである。

3 原告書籍の印刷用データ

(1)被告は第1準備書面の第4の4において、被告書籍は印刷所に保管されていた原告書籍の原版フィルムを使用して「印刷・制作」したのではなく、「印刷所に保存されていた(注・原告 原告書籍の)電子データを利用して印刷・制作を行ったものであった。」と主張しているが、原告書籍の電子データを原告には無断で、タダで利用したことを、被告自らが自白したことは明らかである。

(2)被告は甲4おいて、「本文の文字データ(一部画像も含む)に関する権利は本来著者のものであり、それを再刊するかどうか等を決める権利も著者自身のものであります。」と述べているが、原告と著者多田との間には、甲31の1ないし2の契約が今なお継続中であることは明らかである。

(3)被告は同じく甲4の上記部分に続けて「(版面を再現するシステムは印刷所のもの)」と述べているが、「版面を再現するシステム」すなわち印刷機は印刷所のものであるが、版面に再現される中身、コンテンツは出版社のものである。上記2の(5)ないし(12)で原告が主張したように、生の原稿は著者のものであるが、生の原稿は版面そのものを意味するものではない。

(4)被告はさらに甲4において「出版社は著者との信頼関係のもとに、その文字データを管理しているにすぎず、何の権利も持っていません。」と述べているが、著作権法とは著者の権利のみならず、出版社の権利も出版権として保護する法律であることは、被告も重々承知のはずだ。甲31の1ないし2は、著作権法を基に作成された契約書であることは言うまでもない。

(5)著者から提供を受けた原稿を、印刷所のシステムを使って版面の再現を可能ならしめるためには、必ず編集の工程を経なければならない。原告が第1準備書面の第1の5の(2)ないし(8)において示した工程がそれに当る。また本を出版する際に果たす編集機能の重要性については、本準備書面の2の(4)ないし(11)において主張した通りである。

(6)以上により、「版面を再現するシステムは印刷所のもの」という主張は、原告が印刷所に発注して作らせた原告書籍の印刷用電子データを、被告が原告に無断でタダで利用することを正当化する根拠となりえぬことは明白である。

(7)なお原告書籍並びに被告書籍を印刷・製本した印刷所は、山口県防府市西仁井令1丁目21番55号(本社・工場の所在地)にある大村印刷株式会社(以下「大村印刷」という。)である。

4 被告の「3 本件著作物の作成経緯」に対する反論

(1)被告は第1準備書面の第4の「3 本件著作物の作成経緯」の(4)において、「多田から持ち込まれた文字原稿について、それのみを内容とする原稿を被告ら(つまり原告会社)が印刷所に持ち込み、文字の大きさ等を適切に組んでもらった上で、それを多田に「第1稿」として確認依頼を行った。」と主張しているが、割付指示なしで生の原稿そのものだけを直接印刷所に持ち込むなどいう作業の仕方は、どこの印刷所においてもやっていないと断言する。

(2)「それのみを内容とする原稿を被告ら(つまり原告会社)が印刷所に持ち込み」と被告は主張するが、大村印刷の印刷工場は山口県防府市内にある。被告は原告従業員時代は、わざわざ防府市にある大村印刷の工場にまで直接出向いていたというのか。通常は印刷所の営業担当者を介して作業を進めるものであるが、原告書籍に関しては、被告の手抜き作業により、防府市にある大村印刷所までの交通費が不当にも支出されたことになる。なぜ被告は、わざわざ交通費まで費やして大村印刷まで出向いたのか。また往復にかかった時間にも被告の給料は支出されているが、この間の給料は無用の作業に対して支払われたものだと認定せざるをえない。

(3)しかし「文字の大きさを適切に組んでもらった上で」という被告の主張は、現実にはありえぬ捏造である。「文字の大きさ」といっても、口頭での指示はありえない。そもそも印刷物の印刷所への指示は、細かく多岐に渡っているので口頭での指示は不可能である。仮に口頭の指示で作業をして、何か問題が発生した場合、どちらに責任があるのか分からなくなる。印刷所への印刷内容の指示は、必ず原稿や割付用紙に書き込んだものを印刷所に渡す。これは現在のDTP印刷の時代になっても不変の、出版印刷業界の基本法則であり、出版業界や印刷業界では、誰もが知っている基本の基本である。

(4)出版社が印刷所へ出す指示は、原告が第1準備書面の第1の5の(3)ないし(8)において示した通りである。またこの指示が意味する出版社の編集の必要性と重要性については、本準備書面の2の(4)ないし(11)で主張した通りである。こうした作業なしには、どんな著者の原稿も、印刷所で印刷されることはない。

(5)また大村印刷に限らず、どんな印刷所でも印刷所の工場内の作業現場に、いくら得意先の出版社といえども、外部者を入れるはずはない。しかし被告らは高い交通費を使い、何度も原告からは遠い、防府市にある大村印刷まで出向き「印刷所において多田の指示に従って割付を行い、写真等の図案が入った原稿(第二稿)が完成された。この時点で、すでに書籍の形態になっていることから、これを再度多田に渡し、最終確認を受けた上で、若干の修正や印刷の乱れの修正を印刷所に伝え、完成稿となった。」とまで主張する。被告らは編集者としての仕事を印刷所と著者任せにし、高給を詐取しているが、実際にはこういう作業方法などありえぬ大ウソであることは明らかである。なお多田は東京都町田市在住である。

(6)被告は原稿だけを印刷所に渡して、適当に文章を入力してもらった「第一稿」に多田の指示で写真等の図案を配置したものを「第二稿」とし、それに若干手を加えたものを「完成稿」としているが、被告の主張は、印刷の現場、印刷の実際については全く無知であることを曝け出した捏造主張であるか、無知を装った捏造主張である。なお被告の言う「第一稿」「第二稿」「完成稿」とは、通常は著者自身が書く原稿を指すものである。印刷所から出される原稿を印刷したものは「校正」ないし「校正紙」と呼ばれ、最初の校正を初校という。以下、2校、3校、4校等と続き、校正が完了し、印刷OKになると校正紙に「校了」と明記される。

(7)コンピュータを使うとはいえ、DTPは魔法の杖ではない。各頁の版面(印刷面)を作成する組版作業は、昔の活版印刷時代と異なり、専用ソフトを使えばパソコン一つでできる非常に簡便なものになったのは事実である。しかし、各頁の版面はキーを押せば瞬時に版面が作成されるのではなく、各頁毎にオペレーターの手作業で作成されるものである。

(8)仮に被告の主張通りに、印刷所に原稿だけを渡して、一般書籍の標準的な大きさである10ポか10、5ポの大きさで全文を印刷したとする。しかし割付なしなので、「第一稿」で写真等の図案を本文内に追加配置するだけではなく、本文とは別扱いになる扉や目次や見出し等も、「第一稿」で文字の大きさや文字の配置等も指定しなければならない。目次扉と、章題が表示されている本文内章扉を合わせると6個ある。本文内に組込んだ小見出しが12個。他に「あとがき」と「参考文献」も、本文とは別扱いになっている。さらには、各奇数頁の上に小さな文字で「第一章 画家への道」などと表示されている柱も、別に加えなければならない。これら全ての変更修正指示を、印刷所に出向き、直接印刷所に伝えることなどありえぬことは明白である。

(9)しかし問題はそれだけではない。「第一稿」で上記(8)の修正を加えたならば、頁は大幅に増える。DTPの組版作業は、パソコンのワードなどで文章を作成するのとは訳が違う。増加した分は次頁に順繰りに送り込む必要が出てくる。はみ出た文章は自動的に次々と次頁に順送りされるのではなく、はみ出た文章をオペレータが手作業で移動しなければならない。しかも頁が移動して章が変われば、柱も手作業で訂正しなければならなくなる。

(10)つまり被告による「第一稿」での修正は、印刷所にとっては版面を作成するための組版作業のほぼ全面的な作り替えを要求されることになる。全頁を大幅に訂正、移動を余儀なくされる作業は、初期作業よりもはるかに手間のかかるものである。こんな作業の仕方を印刷所が受け入れるはずはない。仮に受け入れたと仮定すると、その費用は標準よりもかなり高くなるはずだが、この手法では、印刷所は印刷発注前に見積を立てることは不可能である。原告も含めてどんな出版社も、見積なしには印刷所に発注するはずはなく、作業手順からしても被告の主張が意図的な捏造であることは明らかである。

(11)福子は活版印刷もDTP印刷も経験してるが、原告の代表就任後は、いくつかDTPの外注もした。印刷費節減のために、頁数の少ない自費出版本も1点、福子が自らDTPで版下(版面のコンテンツの全てが即、印刷可能な状態に配置されたもの)を作成したこともある。福子の活版印刷やDTPについての知識は仕事をしながら学んだものなので、経験したもの以外の領分については知識不足の面もあるかと思うが、活版印刷もDTPも、出版社自らが自社内でDTPを利用せずに、出版物の印刷の全てを印刷所などの外部に発注する場合は、原稿が電子化されたという点を除けば、出版社の編集者の編集作業工程には、活版もDTPもそれほど大きな違いはないといっても過言ではないはずだ。DTPの登場で激変したのは印刷所である。

(12)写真は現物写真をそのまま版下に貼付けるのではなく、写真には、現物写真を印刷可能な状態にするための製版という、本文とは別の処理が必要である。写真を製版するためには、現物写真のどの範囲を使うのか、あるいは左右何ミリに縮小するのか、原寸大なのか等の写真の縮尺寸法も指定しなければならない。これの工程なしには、写真は本文内に配置することもできない。写真単独のグラビア頁でも同様の作業が必要である。写真を保護するためとこれらの指定を書き込むために、写真一枚一枚にトレーシングペーパーを被せ、トレーシングペーパーの上に必要な指示を書き込む。この作業も結構時間はかかる。

(13)以上から明らかななように、割付指示なしに、原稿だけで版面の作成ができるのは、編集者自身が直接DTPを操作し、編集者自らが版下を作成する場合のみである。この場合は、完成した版下を台割表を添付して印刷所に渡す。台割表は、頁物の印刷は16頁を1セットにして印刷するので、その組み合わせを指示したものである。出版社が自らDTPを使って版下まで作成すると印刷費はその分安くなるが、原告書籍は、版下作成も含めて、全て大村印刷に頼んでいる。なお、従業員であった時代の被告は、DTPを操作する能力はなかった。

(14)また印刷所に編集を任せて本を出版する方法もあるが、その場合は出版社も編集者も不要である。被告らが印刷所に編集お任せで原告書籍を出版したのであれば、被告が原告従業員時代に、編集責任者として被告に支給されていた高額の給料は詐取されたに等しくなる。

(15)以上により、被告による事実に反した捏造主張は、どう解釈するにせよ、被告が原告に対して損害を与えたという事実を被告自らが自白したに等しいことは明らかである。

5自由競争について

(1)被告は第一準備書面第4の「5不法行為の成否」において、原告の訴えは「公正な自由競争」を阻害するものだと主張しているが、被告らだけが有利に儲けることや、被告らが他社のものをタダで無断で利用することこそが、「公正な自由競争」を阻害するものであることは明らかである。

(2)被告らが2ヶ月という短期間の内に被告書籍を発刊し、「高島野十郎展」開催に間に合わせることができ、通常の書店販売では不可能な販売機会を得ることができたのは、被告が原告書籍の印刷用電子データを無断でタダで利用したからである。被告は、被告と共同被告予定の多田の利益だけを主張している。自らの利益のためには他人のものでも勝手に利用してもよいという被告の主張は、まさに盗人の開き直りの論理以外の何ものでもない。盗人に「公正な自由競争」を口にする資格のないことは明白である。

(3)なお被告は、被告書籍を印刷するのに、「わずか2ヶ月しかなかったことから躊躇した」と主張しているが、原告の印刷用電子データを使っても被告書籍の出版まで2ヶ月かかったことになる。一方で被告は、被告が原告において原告書籍を出版した際、編集作業着手からを出版まで、「この間かかった期間は、全て合計しても2ヶ月半程度にすぎない」と主張している。原告が説明してきた一般的な編集、印刷工程からはもとより、現実にはありえぬとはいえ、被告の主張する作業工程からしても、原告書籍がたった2ヶ月半で出版されたという被告の主張も、大ウソであることは明白である。

(4)また被告は第一準備書面および第2準備書面において、原告が品切れになった原告書籍を重版できなかったことを、被告が原告の印刷用電子データを勝手に利用することを正当化する理由だと繰り返し主張しているが、重版するしないにかかわらず、原告が大村印刷に作らせた原告書籍の電子データの使用権は、被告に譲渡しない限り、原告にあることは明白である。

(5)被告が正当性を主張できるのは、多田の代理として甲31の1ないし2の「出版契約」に則った手続きを踏み、然るべき条件を提示して原告、被告が合意した後、多田の原稿内容のみを使用する時である。

(6)因みに甲5と甲7は、品切れ本が対象である。甲6の1ないし2は在庫僅少本が対象であるが、甲5ないし甲7のいずれの出版社も、原告の当該書籍の在庫状況は事前にリサーチし、在庫切れを承知の上で二次使用許諾書を送って来たのである。いずれの出版社にとっても、原告の在庫切れは同じ内容の本で競合せずに済むことを意味し、二次使用出版社の売上増に繋がるので、むしろ好ましいとさえ判断したようである。

(7)原告が重版しないことを理由に、原告書籍の本文データをタダで使用したのみならず、原告が大村印刷に作らせた印刷用データまでをも、原告には無断でタダで使用する出版社は、被告以外にはない。被告はまさに盗人猛々しいという外はない。法治国家日本においては、被告の盗みは法によって裁かれ、相応の責めを負うべきであることは明らかである。

この第6準備書面は、4月8日の午後4時30分から開催予定であった、3回目の弁論準備の日当日ギリギリになって提出したものです。当日の午後1時50分に裁判所と被告宛にFAXで送信しました。弁論準備は予定どおり始まりましたが、裁判官から今日で弁論準備は終わるとのことが告げられました。同時に午後4時40分に口頭弁論は終了するとのことも告げられました。これまで何度も経験した裁判の進行具合からすると、これほど早く終結するとは全く想定外のことで茫然としていましたが、判決は5月21日と告げられました。

当社はこの第6準備書面の冒頭に、著者の多田氏を被告に加えることを予告していましたが、余りにも早すぎる結審で、そのための訴えの変更の申立をする機会が永遠に奪われてしまいました。また4/8は弁論準備でしたので、傍聴可能な法廷ではなく、書記官室の近くにある傍聴席のない部屋でした。しかし、そこで口頭弁論も行われたことになっています。この裁判では法廷で口頭弁論が開かれたのは、平成22年1月22日に開かれた第1回の口頭弁論だけですが、この日は被告は欠席していました。

4/8当日は、弁論準備と口頭弁論の法律上の違いについては分からぬまま記録していましたが、余りにも異様な判決が出たことで、色々と疑問が沸き出てきました。そこで、弁論準備と口頭弁論の違いについても調べたところ、重大な違いのあることが分かり、この裁判は手続き上も問題があるのではないかとの疑惑まで生じてきました。

また、当社が4/8の午後2時前に裁判所と被告宛にFAX送信した第6準備書面は、裁判官が目を通す時間はなかったのではないかと思われます。つまり、原告である当社の陳述を確認せずに、弁論の終結を決めることは正しいのかどうかも大いに疑問です。ただ、著者の多田氏を被告に加える準備をしていることは冒頭に書いてありますので、第6準備書面全体に目を通すことはできなくとも、この冒頭部分は裁判官の目には入っているはずです。

にもかかわらず、当社が多田氏を被告に加えることを予告したその直後に、弁論準備の終了が告げられたのは、裁判所自らが、当社が多田氏を被告に加えることを阻止しようと意図したものではないのかとの疑惑すら萌してきます。少なくとも結果的には、そうなっています。控訴で多田氏を被告に加えることができるのかどうかを担当書記官に尋ねたところ、それはできないとのことでした。多田氏を訴えたいのであれば、新たに提訴する必要があるとのことでした。

これほどひどい判決が出ようととは夢にも思わず、4/8の弁論終結後の5/13に第7準備書面を提出しました。弦書房がこの無法出版でいくらの利益を得たかを、根拠を示して計算したものです。形の上では弁論終結が告げられた後ですので、特別の手続きをして認められなければ準備書面としては認められないことも、控訴準備中に知ったばかりですが、第7準備書面はパソコンには入力していませんので、結論だけを以下に抜粋します。

第7準備書面より抜粋

弦書房が得た利益

『野十郎の炎』の売上げで得た利益 702万円

二次使用料未払いにより得た利益 234万円

当社の印刷データの無断使用により得た利益 560万2500円
(内訳は本書の編集担当の人件費が450万円、大村印刷に支払った印刷費が110万2500円で合計560万2500円)

弦書房が得た利益の合計 1496万円2500円

こんなボロイ商売はあるのかと、怒りがこみ上げてきます。

平成22年5月22日言渡の福岡地方裁判所の判決

(上記「イ」については、当社の主張を意図的に歪めています。当社は出版そのものを了承しましたが、被告からは印刷データそのものまで使用するとの話は全くありませんでした。印刷データの無断使用は常識ではありえませんので、当社は被告が印刷データまで無断で使用するとは夢想だにしていませんでした。被告は当社には全く無断で印刷データを使用しておりますので、当社は被告の行為の不当さを訴えてきましたが、本判決では、対価を支払うことの合意はなかったと、当社が単に対価だけを要求しているかのように矮小化しています。)

 

 

裁判所を露骨に批判するのは、後々の裁判に不利になるのではないかとも思いましたが、こんなひどい裁判が許されるのであれば、裁判をする意味はありません。思いきって、裁判資料を公開することにしました。有形無形いずれにしろ、他人の権利を侵害するのは簡単ですが、侵害された方は、その被害を回復するためにはどれほどの労力を費やさなければならないのか。その上、弁護士に依頼せずに自分でやっても、裁判には費用もかかります。しかも控訴は1審の1、5倍と、上級審にいくほど増えていきます。権利が侵害された被害者にとってはまさに踏んだり蹴ったりですが、侵害した方は一切責任を問われないとは、いったい何のために法律や裁判があるのかと、根本的な疑問を感じざるをえない超偏向判決です。(6/8 追記) 

久本福子

葦書房有限会社
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