バッハの肖像画
↑ハウスマンによるバッハの肖像画。
ライプツィヒ市歴史博物館所蔵の油彩画。
ハウスマン(1695-1774)は市参事会付画家として、ライプツィヒの重要人物の肖像画を数多く描いた。
この肖像画はバッハが1747年に「音楽学術協会」に入会したとき提出されたもので、前年の1746年に描かれた。
右手の楽譜は、謎のカノン(6声の三重カノン)<BWV-1076>
  
↑ワイマールの宮廷楽師の服をつけたワイマール時代の
バッハを描いたものといわれているが、確証はない。
↑アイゼナッハのバッハ・ハウスにあるケーテンの
宮廷楽長としてのバッハの肖像画。真偽は疑わしい。
     
バッハの資料
↑ドルンハイムの聖バルトロメオ教会の入口にある木彫りに
「ヨハン・セバスティアン・バッハの思い出に.1685年3月
21日にアイゼナッハに生まれ.1707年10月17日ここで
結婚し.1750年7月28日ライプツィヒで亡くなった」
と書かれてある。
↑ブランデンブルク協奏曲第5番<BWV-1050)の自筆譜
1721年3月、バッハは就職の期待も込めた丁重な献辞と
ともに、6曲の協奏曲をブランデンブルク辺境伯
クリスティアン・ルートヴィヒに献呈した。
     
↑1723年5月5日付けの、バッハのライプツィヒトーマス
カントール就任契約書。
←(無伴奏ヴァイオリンにためのソナタ第1番)<BWV-1001>
の自筆譜。無伴奏ヴァイオリンにための3つのソナタと
パルティータはヴァイオリンのポリフォニックな可能性を
極度に広げた、極めて精巧な芸術作品。

     
↑クラヴィーア練習曲集第1部として、6つのパルティータ
<BWV825-830>が出版された。その表紙。
↑フーガの技法<BWV‐1080>の自筆譜。
最後に次男のカール・フィリップ・エマヌエル・バッハの
書き込みで、「対位主題にBACHの名が持ち込まれた
このフーガの途中で、作曲者は死去した」とある。

バッハゆかりの人々たち
↑バッハの父 ヨハン・アンブロージウス・バッハ
(1645-95)。23歳の時結婚し、26歳の1671年に宮廷楽師兼
町楽師としてアイゼナッハに定住することとなった。
教会の礼拝音楽のヴァイオリン奏者も努めたが、その演奏
は人々の賞讃の的だったと伝えられている。  
  
↑ヨハン・クリストフ・バッハ(1642-1703)
父アンブロージウスの従兄にあたり、セバスティアン以前
における一族最高の音楽家。1665年以来アイゼナッハの
聖ゲオルク教会のオルガニストとして、後には公爵宮廷の
チェンバリストとして活躍。バッハに大いに影響を与えたも
のと思はれる。性格は頑固一徹なところがありバッハにも
受け継がれたのかもしれない。
     
↑アンハルト=ケーテン侯レオポルト(1694-1728)
バッハがケーテンで仕えたレオポルト侯は音楽のすぐれた
識者で愛好家であった。バッハを尊敬すべき友人として扱
い、その友情はバッハがライプツィヒに移ってからも続いた
が、1728年11月に34歳の若さで亡くなった。

↑アントニオ・ヴィヴァルディ(1678-1741)
彼は多作家であり、オペラ・教会音楽・協奏曲その他広範
わたっているが、特に協奏曲は彼の中心的位置を占め、
イタリア様式の協奏曲形式を確立した。バッハはワイマール
で、最新のイタリア音楽に接する機会を得たが、中でも
ヴィヴァルディの協奏曲はバッハの興味を引きつけ、後の
創作に大きな影響を与えた。

    
↑ゲオルク・フィリップ・テレマン(1681-1767)
バッハ時代の最も有名な音楽家の1人で、その人気は当時
バッハをしのいでいた。1708‐12年までアイゼナッハの宮廷
楽長を努め当時ワイマールにいたバッハと親交を結び、
1714年にはバッハの次男カール・フィリップ・エマヌエルの
代父となった。1712‐21年までフランクフルトで活躍した後
ハンブルグの音楽監督として活躍した。テレマンの作品から
バッハが得たものは多く、テレマンもバッハの才能を高く評
価し、バッハの死の際彼を讃美する追悼文を寄せている。
↑ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685-1759)
バッハと同年の1685年ハレで生れる。ハンブルクを振り出
しに、ローマやヴェネツィアをはじめとするイタリア各地をめ
ぐり、再びドイツへ戻ってハノーファー、そしてロンドンと国境
を越えた活躍をした。バッハは1719年帰郷していたヘンデル
に会おうとケーテンからハレの家を訪ねたが、ヘンデルは
すでに旅立った後だった。10年後再び帰郷していたヘンデ
ルに病身のバッハは長男のフリーデマンを使いとして、ライ
プツィヒに招いたが、病気の母がいることを理由に断られ
る。バッハは会いたかったヘンデルに一生会えなかった。
     
↑ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハ(1710-1784)
セバスティアンとマリア・バルバラの間に生れた長男で
バッハは大きな期待をかけ、熱心に教育を施した。
↑カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ(1710-1784)
マリア・バルバラの間に生れた次男で1738年から
フリードリヒ大王のクラヴィーア奏者として約30年大王の
もとに仕える。1768年からは、彼の代父でもあったテレマン
の後任としてハンブルグの楽長及び同市の5大教会の
音楽監督に就任し同市で21年間活躍した。
前古典派の代表的作曲家としてハイドンやベートーヴェン
に影響を与えた。
     
↑ヨハン・クリスティアン・バッハ(1735-1782)
バッハが50歳のときに、アンナ・マグダレーナとの間に生れ
た末男で、バッハ一族では唯一の、国際的音楽家として
活躍し、「ミラノのバッハ」あるいは「ロンドンのバッハ」と
呼ばれている。ロンドンでは8歳のモーツァルトに会い、この
神童に大きな影響を及ぼした。
↑ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)
ウィーンで自立の道を選び、コンスタンツェと結婚し新生活
を始めたその年にスヴィーテン男爵と知り合い、彼の家庭
音楽会でバッハを演奏し、また「平均律」中の5つのフーガ
を弦楽四重奏曲に編曲している。
     
↑フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)
18世紀後半のウィーン古典派の中心人物で、モーツァルト
と同様スヴィーテン男爵のもとでバッハの多くの作品を知り
、そのすぐれた対位法様式を自分の作品に取り入れた。
↑ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)
少年時代に「平均律」を学んで以来、バッハに深い敬意を
払うようになった。バッハの楽譜の出版を計画しているウィ
ーンの出版業者に宛てた1801年1月15日付の手紙には「私
の心はこの和声の父の高く偉大な芸術にすっかり傾倒して
いるので、まことに喜ばしいことで、その計画が早く軌道に
乗るのを見たいものです。予約募集を始めたらすぐさま、私
もいくばくか寄金したいと、今から希望しておきましょう」と
いうような内容が書かれてある。
     
↑メンデルスゾーン(1770-1827)
少年時代から、ベルリンのツェルターのもとでバッハの音楽
に親しんでいた彼は、「マタイ受難曲」の歴史的な復活上演
をはじめ、バッハのオルガン曲や教会カンタータを数多く演
奏することによって、19世紀前半におけるバッハ復活の最
も重要な担い手となった。
↑ショパン(1810-1849)
24の長短調すべてを用いた彼の「前奏曲」は、バッハの
「平均律」をその範としている。ロマン派ピアノ音楽に新しい
地平を開いた彼にとっても、バッハはまさに「導きの星」だ
ったのである。
     
↑シューマン(1810-1856)
メンデルスゾーン等によるバッハ演奏を高く評価し、彼自身
も1850年の「バッハ協会」の設立に尽力した。バッハの作品
の研究が動機となり、メンデルスゾーンの先例にならって
「無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ」全曲のピアノ伴奏も
書いている。
↑リスト(1811-1886)
1847年までピアニストとして活躍し、その後バッハゆかりの
地ワイマールでの創作生活に入った彼のピアノ曲の中には
バッハへの敬意の表れとして、オルガンのための6つの
「前奏曲とフーガ」を原曲とした編曲も含まれている。
     
↑ブラームス(1833-1897)
シューマンの志を継いで「バッハ全集」の刊行に協力した
ほか、ウィーンのジングアカデミーや楽友協会合唱団を指揮
して、バッハのカンタータや受難曲の演奏も行っている。交
響曲第4番ホ短調の第4楽章に用いられたパッサカリアの
主題はバッハのカンタータ「主よ、われ汝を求む」<BWV-150
>の終曲の主題からとられている。
↑シェーンベルク(1874-1951)
12音技法の創始によって現代音楽の進路に決定的な方向
を示したこの作曲家も、厳格な枠内ですべての可能性を
実現するバッハの作曲技法から多くを学んでいる。バッハ
の「前奏曲とフーガ変ホ長調」<BWV-552>の管弦楽編曲
では、ロマン派の作曲家とは異なる新しい意味での創造的
関心が、その根底に見られる。
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