遠くで雷鳴が轟く。
激しく叩きつける雨。
窓の外を見つめる黒い人影。
サングラスに隠された顔からは、どんな感情も読み取れない。
ただ、彼は待っていた。
終わりが来る瞬間を。
それはすぐそこに来ていた。
コツコツと響く足音。ゆっくりと音をたてて開くドア。
拳銃を構えた桐子。
振り返る蓮見。
「・・・私はあなたを許さない」
搾り出すような桐子の声が響いた。
白砂を見舞って署に戻る途中、桐子はあの現場で拘束されたはずの蓮見が逃亡したという無線連絡を受け取った。
蓮見の逃亡先。
桐子には一つだけ心当たりがあった。
都心にありながら、長い間放置され、荒れ果てた病院。
桐子が蓮見と初めて出会った場所だった。
埃っぽく薄汚れた診察室。
両手で構えた銃は蓮見の胸を狙っている。
「パソコンも、盗撮カメラも、ボウガンも、すべてあなたが調達した。いくら動機があったって、子どもたちだけじゃ、こんなことできるはずがない。あなたが手出しをしなければ、あの子達は罪を犯すことなんてなかった」
「それは違う」
蓮見は低い声で恫喝した。
「お前も見ただろう、あの子達の親を。不倫に走る母親。家庭を顧みない父親。娘を殺そうとする母親。子どもを利用して金を騙し取ろうとした父親。この事件が起きなかったら・・・」
蓮見の顔が凶悪な表情を浮かべる。
「高野啓と舞は離婚し、舞に引き取られた生は、17のときに見ず知らずの老女をメッタ刺しにして殺す」
「柴崎なつみは寂しさのあまり身体を売ることを覚え相手の男に殺される」
「菅井芳貴は家族を金属バットで滅多打ちにして殺す」
調書を読み上げるような、抑揚のない声が響く。
「そうなるとは、限らない」
「そうなったのだ」
桐子の言葉を、蓮見の声が途中で遮る。
「私はあの子達の未来を見た」
何かを思い浮かべる表情で、蓮見は言う。
蓮見には桐子と同じ人の心を読む能力がある。
しかし、それは超能力のようなものではない。ふとした仕草や表情から、その人の思考の断片が伝わってくるのだ。その力で、蓮見は子どもたちの心の中に抱えている闇を読み取った。
「私が見た未来にあの子達を送り出すことはできなかった。私はあの子たちの心を救いたかったのだ」
「救いですって?ふざけないで!」
桐子が叫ぶ。
「母親の愛情を確かめるための狂言誘拐や、母親の不倫相手を殺すことの、どこが救いだって言うの?!」
「彼らの心を大きな破壊から救うためだ、小さな罪など大したことではない」
「罪に大きい、小さいなんてない。誰の人生も、他人の作為や干渉なんて受けるべきじゃない!」
桐子は全身を怒りに震わせていた。
「わたしはあなたを許さない。あなたは罰を受けるべきよ」
また一つ雷鳴が響き、一瞬の光が二人を照らした。
二人の間の空気が痛いほど張り詰める。
先に口を開いたのは蓮見だった。
「親が子どもを殺すのと、子どもが親を殺すのと、どんな違いがあるというのだ?」
びくっと桐子の身体が震え、瞳が見開かれた。
「育てることができないから、自分の人生に邪魔だからと言って、親は自分の勝手で子どもを殺す。それは罪ではないのか?この病院で、お前が、高野の子どもを、堕したように」
蓮見の口の端が笑いの形に引き上げられた。
その時の光景が桐子の脳裏によみがえる。
愛していた、自分が生きる全てだった男に裏切られたという絶望の中で、自分で自分の腹を殴り、殺した子ども。身体が二つに引き裂かれるような痛みと、内股を伝わるぬるぬるとした血。
気が付いたとき、桐子はこの病院の診察台に横たわっていた。
最初に目に入ったのは、医者の手に握られた血に染まった鋏。
「いやああああ」
桐子は絶叫した。
処置が終わり、病室に移されてから、桐子は一言も口を聞かず、ものも食べず、眠りもしなかった。診察に来た医者から奪った鋏を手で弄びながら、瞳はあらぬ場所を眺めていた。
そこに蓮見は訪れたのだった。
「あの男はお前の心を殺した。だが、お前は人殺しだ。」
人殺し、という言葉に桐子は反応した。
「死んで楽になるつもりか?お前が殺した子どもは、お前が来ることなど望んでいない。もっと苦しんで苦しんで苦しみぬけ」
その言葉は桐子の閉ざされていた心に、罪と生きる目的を与えた。
「連れてってやろう、生き地獄へ。そこでお前は自分の罪を贖うのだ」
そして、桐子はSITに配属されることになった。
桐子の鼓動が早くなる。蓮見への怒りに張り詰めていた心に過去の記憶が流れ込んでくる。追い討ちをかけるように蓮見は告げる。
「すべての元凶はおまえだ、桐子。私とお前が出会わなければ、この事件は起きなかった」
「何を・・言って・・?」
桐子の身体が震えだす。
「私はずっと高野を監視していた。いつ記憶を取り戻して、お前のところに現れるかもしれないと思ったからだ。医者に戻り、結婚をし、子どもが生まれ、家を買い。その全てを見ていた。そこで知ったのだ。傍から見れば何一つ曇りのない家庭。しかし、家族の心はバラバラ。高野生の心は深く傷ついていた」
「だから、こんな事件を起こしたっていうの?」
桐子の苦痛の色を浮かべて顔が歪む。
「お前には感謝している。生くんは素晴らしい才能の持ち主だ。あの洞察力、知性、行動力。それがなければこの事件は不可能だったはずだ。そんな彼と出会わせてくれたおかげで、私の計画はうまくいった。私は金塊を持って国外に脱出する」
蓮見がゆっくりと近づいてくる。
「お前はいるだけで回りの人間を不幸にする」
次々と浮かぶビジョン。悪意に満ちた人の声。我が子を風呂に静める母親。泣き叫ぶ男の子。偽り、裏切り、そして死。
「お前のせいだ」
心臓がどくどくと脈打ち、胸がすうっと冷たくなる。全身がこわばって動かない。
不意に蓮見が回し蹴りを繰り出し、桐子の右わき腹を直撃した。衝撃で、銃が手から飛び、桐子は壁に激突した。
「あっ!」
苦悶の声をあげて、桐子は左肩を押さえた。ボウガンで撃たれた傷に、もろにぶつかったらしい。左肩を押さえてうずくまる桐子のもとに蓮見は近づく。
「お前の望みどおり、子どものところへ送ってやろう」
蓮見は桐子の首に向かって両手を伸ばした。
「・・っ!」
苦痛の声をあげたのは蓮見だった。
蓮見の手の甲から血が流れる。
桐子の右手には鋏が握られていた。
「・・馬鹿な・」
「いつまでも、あなたの手の中で踊らされてると思わないで」
桐子は肩を押さえながら立ち上がる。
「あいにくとこの傷の痛みが、私を正気に戻してくれたわ」
血をしたらせる手を押さえもせず、桐子の手の中の鋏と、顔を見比べながら、蓮見は言う。
「お前にも見えるはずだ?あの親たちの心が。自分のことしか考えていない。そのためにはどんなものも、自分の子どもすら犠牲にする。お前だってそうだ。そんな世界で、どんな正義を振りかざす!」
「正義なんかじゃない」
桐子は穏やかな声音で言う。
「私たちが、高野生を追いかけたのはそんなことのためじゃない。あの人は自分の死に場所を探してた。あいつは自分の出世と名誉がかかってた。あの子は仕事だから仕方なくやってた。そんなものよ。全部自分勝手な動機、自己満足。でも、あの人は高野舞に刺されて血を流しながら、中森あゆみや芳貴くんを助けた。あいつは私を庇って後藤に撃たれた」
口許に誇らしげな笑みを浮かべ。
「何かを考えるよりも先に、身体が動いてた。誰だって自分のことが一番大事。でも、そんなことを忘れて、人を傷つけるものから、誰かを守りたいって本能が身体を動かすの」
まっすぐに蓮見を見据える。
「いくら、人の心が読めたって、そんなもので計れないことが、この世の中にはある」
きっぱりと桐子は言い切った。そんな彼女を蓮見は身動き一つせずに見つめていた。
「桐子!」
「桐子さん!」
口々に桐子の名前を叫びながら、優作が、中澤が、市井が銃を構えて、飛び込んできた。緒沢、白砂をのぞく誘拐事件捜査班全員が揃った。
「・・・桐子。人を信じるようになったか・・・」
その顔を見回しながら、小さな声で蓮見が呟いた。
「蓮見礼二。あなたを逮捕する」
桐子は蓮見の両手に手錠をかけた。
市井と中澤が両側から蓮見の腕をつかみ、診察室から出ていった。その後に続いて、優作も出て行こうとすると、窓をじっと見つめている桐子に気がついた。不審に思って声をかける。
「桐子さん?」
「先に行って、すぐに行くから」
桐子は振り向きもせずに言った。
少しの間、優作は心配そうな眼差しで、桐子の背中を見つめていたが、
「車で待ってます」
そう言い残して、ドアの外に出た。
誰もいなくなった診察室。
窓の外の雨はいつのまにか止んでいて、何の音もしなくなっていた。
桐子が口を開く。
「そこに、いるんでしょう?」
その言葉と同時に色褪せたカーテンがふわっと動いた。陰から詰襟を着た少年が現れた。その顔の輪郭は蓮見によく似ていた。
「やっと僕を見つけてくれたね?ずっと待っていたんだ、この日が来るのを」
音もなく桐子の目の前に近づいてきた。
「あなたは、一人でここにいたの?」
少年の青い目を見つめながら桐子は尋ねた。
「そうだよ。誰も僕を見つけてくれなかった。でも、きっと君が見つけてくれるって思ってた」
桐子の胸に息が止まりそうなほど切なさが込み上げてきた。
「遅くなって、ごめんなさい」
「謝ることはない」
少年はきっぱりとそう言った。桐子は目の前にある頬にそっと触れる。
「・・・あなたは、もう傷つかなくていいのよ」
「・・ありがとう。これで、やっと、眠れる」
薄い笑みを浮かべ、少年が目を閉じると、その姿は消えた。
署に連行されて18時間後、蓮見は死んだ。
死因は脳腫瘍だった。検死をした医者は、動き回ることができるのが不思議なぐらいの状態だと言った。
蓮見の部屋に残された資料から、金塊が政治家が汚職事件もみ消しのために、蓮見に送った裏金であったことが判明した。このことは事件とあいまってスキャンダラスの報道され、政治家の後処理のまずさも手伝って、長くマスコミを騒がすことになった。このため、誘拐事件そのものの方は、早々とメディアから姿を消した。