予兆は何もなかった。


その瞬間まで二人はベッドに背中を預け、足を投げ出して床に座り、緒沢が持ってきたテレビでサッカー中継を見ていた。
緒沢が応援しているチームがこぼれ球をひろって攻め上がり、ゴール前で敵味方入り乱れての混戦状態になった。緒沢も飲んでいたワインのグラスをトレイの上に置いて、身を乗り出してテレビを見ていた。
そのとき、太い綱が切り落とされるような音とともにテレビ画面と室内が真っ暗になった。
「何?」
「停電だな」
その言葉を口にのぼらせた途端、二人の脳裏に浮かんだのはテロか?という考えだった。
緒沢はものも言わずに立ち上がり、カーテンと窓をあけてベランダに出た。桐子もすぐにその後を追った。
周囲に見える建物はそこかしこに明かりが点いており、特に普段と変わった様子はなかった。なおも異常が見られないかと見回していた二人の視界に入ったのはマンションのすぐ下の道路脇に停まる黄色い工事車両と、それが掘っているらしい地中を照らすライトだった。眼下に広がる窓を見てみれば明かりがついているところは一つもなかった。
「そういえば、何か工事をするってビラが郵便受けに入ってたわ」
「間違えて、このマンションの電線を切っちまったようだな」
「まぬけな話ね」
「まったくだ。せっかくいいところだったのに」
緒沢の右手が空を切る。二人は部屋に戻って窓を閉めた。
「懐中電灯、ロウソク」
「そんなのないわよ」
「だと思ったぜ。刑事たるもの非常持ち出し袋ぐらい用意しとけ」
「あなたのことだから二週間分の食料とかも用意してそうね」
「当然だ。年に一度の定期チェックも怠らんぞ」
「はいはい」
予想通りの緒沢の答えになおざりに答えながら、桐子は窓から差し込む周囲の建物が放つかすかな明かりをたよりにベッド脇に置いてあるサイドテーブルに歩み寄った。テーブルの上に投げ出してあった携帯電話を手にとる。折りたたみ式のそれを開くと液晶ディスプレイの青白い光がほのかに室内を照らした。その明かりのもと、緒沢は床に置いたワインのボトルとグラスが二つ、そして灰皿をのせたトレイを持ち上げてサイドテーブルに移した。
「結構明るいな」
ベッドに腰掛けながら緒沢がつぶやく。
「そんなにはもたないわよ」
桐子は緒沢の隣に腰を下ろすと、携帯電話を閉じてベッドの枕元に投げ出した。窓の外に明かりがあるとはいえ、互いのシルエットしか判別できないような暗闇が室内を満たした。
「帰る?まだ終電あるでしょ?」
「真っ暗じゃ心細いだろ。予定通り泊まってく」
「暗闇なんて平気よ。それにこんなんじゃ、テレビも見れないし、音楽も聴けないし、本も読めないし」
「酒は飲めるし、話もできるし。それに・・・」
緒沢の腕が桐子の腰に回された。
「・・・それしか考えてないの?」
「今はな」
ささやきは闇に溶けて消えた。




「まだ、つかないな」
ベッドのなかで桐子の髪を梳きながら緒沢が言う。
触れ合った素肌からは、直前の行為によって感じあった激しさとは異なる穏やかな快さが沁みこみ二人の身体を満たしていた。
されるがままに緒沢の胸にうずめていた桐子だったが、突然顔を上げてつぶやいた。
「ねえ。ずっとこのままだったらどうする?」
緒沢は桐子の顔を覗き込んだ。しかし、闇に目は馴染むとはいえ、光を発するものが一つもない室内では桐子の表情までははっきりとは見えなかった。
「こうしてよう。朝が来るまで」
「朝も来なかったら?ずっと真っ暗だったら?」
なおも言い募る桐子に緒沢は不審を覚えた。こんな非現実的な質問を桐子が発するのを初めて聞いたからだ。
何を不安がっている?
「仕事にもならないしな。ずっとこうしてるさ」
腕の中の身体を抱く腕に力を込めながら、緒沢は努めて明るい声で答えた。
しかし、この答えでよかったのかと、緒沢の胸に不安がよぎる。暗闇にまぎれて桐子の顔は見えず緒沢には確かめることができない。
桐子は少しの沈黙の後、手を伸ばして、緒沢の二の腕を強く掴んだ。
「ごめんなさい」
どうして謝るのか、緒沢には全く理解できなかった。
こんなにもそばにいるのに、桐子は遠い。
それでも、
「いいから寝ろ」
桐子がこの腕をふりほどかないかぎり、そばにいつづける。
初めて桐子が受け入れてくれた夜に、誓ったとおりに。
「絶対に離さないから」



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