見上げるたびに色が違うことに驚き、目を離せなくなる。




「御馳走様でした。牡蠣、美味かったっすよ」
どっしりとした木製のカウンターの前で、緒沢は受け取った千円札をカジュアルなカーキのジャケットのポケットに押し込みながら、シェフコートの男に声をかけた。
「北海道からいいのが入ったんです。そろそろ時期も終わりですがね。今度、岩牡蠣も入れてみようと思ってるんですよ」
「へえ。そりゃ、楽しみだ。絶対に来ますよ」
「お連れ様と一緒に是非。お待ちしております」
言葉とともに円筒形の白いコック帽が下を向く。緒沢は小さな会釈を返しつつ、外側にカーブを描いた黒い鉄製の取っ手を押して外に出た。

そこは緒沢の数多くある行きつけの店の一つ、住宅街の片隅で、夫婦二人だけで営んでいる小さなリストランテ。ナポリで修行したという主人の腕は一級品。食材の旬の旨味を極限まで引き出したメインディッシュと、本格的なパスタに定評がある。マスコミや情報誌には一切登場しないので、知る人ぞ知る隠れた名店だった。

使い込まれて黒光りのする木製の扉を背に、緒沢は一足先に店を出た連れの姿を探す。すると、数歩先の歩道に立ち止まって空を見上げている、茶色のレザージャケットが目に入った。
「どうした?」
肩を並べてから声をかけると、返ってきたのはそっけない一言。
「月」
桐子の視線の先にはさっき二人で飲んだグラスの白ワインと同じ、丸くてほのかに黄色い月が浮かんでいた。
「綺麗だなあ」
思わずあげた嘆声に頷く気配を感じて隣を向くと、桐子の顔には心酔の微笑が浮かんでいた。アルコールによって薔薇色に染まった頬は月光を受けて輝きを増している。緒沢は息を飲んでその横顔に見入った。
「・・・どうしたの?」
緒沢の視線に気がついた桐子が振り返ると同時に、笑みは消え失せた。
そのことに深い失望を覚えながら、緒沢は桐子に右手を差し出した。
「釣り」
「サンキュ」
二人が一緒に食事をするときは、基本的にワリカン。持ち合わせがちょうどあってもなくても、緒沢が会計をするのが二人の不文律だった。桐子は受け取った札をジャケットの内ポケットから取り出した財布に仕舞う。緒沢は名残惜しげにその様子を見守っていた。
「なに?」
まとわりつく緒沢の視線を煩げに一蹴し、桐子は歩き出した。慌てて後を追いながら、緒沢は桐子に切り出す。
「お前、もうすぐ誕生日だよな。何か、欲しいものはないか?」
「別に」
「花とか、服とか、アクセサリーとか」
「懲りない男ね。クリスマスの時に言ったでしょ。欲しいものは自分で手に入れる主義なの。趣味の合わないものは持ちたくない」
「だから、お前の趣味を訊いてるんだろうが」
「しっつこいなあ。いらないって言ってるでしょ」
「誕生日ぐらいいいじゃないか」
「じゃあ、今日の店にまた来ましょ。すごく美味しかったし。それでいいじゃない」
「かたちが残るものをあげたいんだよ」
「そういうものは嫌」
即座に突きつけられた拒否の言葉。桐子はきつい瞳で緒沢を一瞥すると、足早に追い抜いて行ってしまった。
二人の間でこんなやりとりをするのは初めてのことではない。
クリスマスの前にも、緒沢が旅行に行こうと誘ったときにも、それ以外のときにも幾度となく繰り返した。
その度に緒沢は思い知らされた。桐子は自分との付き合いに対して何の期待も希望も持っていないということを。
それでも、側に居続けるのは離せない緒沢自身の強い願いと、伸ばした腕を振り払わない桐子に一筋の希望を見出しているからだ。
頑な桐子の反応に、緒沢はこの辺りが引き時かとも思ったが、今夜は食い下がらずにはいられなかった。
月を見上げたときの桐子の顔はあまりにも、あまりにも美しすぎて。
その笑みをもう一度見たい、自分の手で引き出したいという欲求を押さえきれなくなってしまったのだ。
「何でもいいから、言ってくれよ」
懇願の声が桐子の背中に投げかけられる。
桐子はゆっくりと振り返り、色のない目で緒沢を見返しながら右手を掲げて指差した。
「じゃあ、あの月を」
「・・・あ?」
緒沢の少し飛び出し気味の目がこぼれんばかりに見開かれた。
「あれが欲しい。何でもいいと言ったでしょう」
早春の風のようにひやりとする笑みを浮かべ、桐子は告げた。


まったく、なんて男だろう。
こんな素敵な夜を一言で台無しにする。

桐子は緒沢に対して憤っていた。
緒沢の、恋をする男としての率直で真摯な言動は、確かに過去の恋愛で傷つき、何もかも諦めていた桐子の目を何度も覚まさせた。しかし、その無邪気とさえ言える言葉に、痛みを覚えることが全くなかったわけではないのだ。

たとえ言葉の綾だとしても、「何でも」なんて、叶うはずがないのに。
私の罪を消して、私が殺めたあの子を取り戻して。
そんな一番叶えたい願いは、決して叶わないのだから。






「月をとってやるよ」
数日後、仕事中の桐子の携帯電話にかかってきた緒沢の第一声がそれだった。
続いて告げられた待ち合わせの時間は、その日の午後10時、場所は渋谷駅。



約束の十五分前に着いた桐子は井の頭線の改札口から少し離れた壁にもたれて立った。
五分も待つこともなく緒沢は現れ、すぐに桐子の姿を見つけ、人ごみをかきわけて近づいてきた。
「早かったな」
「今日は平和だったから」
「こっちもだ」
そう言うと緒沢は桐子の右腕を掴んで歩き出した。
「ちょっと、何するのよ?」
「いいから」
そのまま二人は駅を出て、道玄坂をどんどん登り、左に折れた。周りの建物には明かりはなく、若さを持て余す若者も、酔客もいない、渋谷とは思えない静かな通りを進んでいった。そして、古ぼけた雑居ビルの入り口をくぐると、突き当たりのエレベーターに入る。桐子の腕を離して、緒沢の指は一番上にある、9の数字を押した。
唸りを上げながら上っていく箱。目的階に到着すると、チンというチャイムと同時にドアが開き、冷たい風が流れ込んできた。
「屋上?」
「ああ」
すぐ脇にある開けっ放しのサッシ扉を通り抜けると、黒っぽくて幅の広い板が簀のように敷き詰められたフロアに出た。
「いらっしゃいませ」
目の前に置かれた、頭上と背後に色とりどりの酒瓶とあらゆる形状のグラスがびっしりと並べられた木製のカウンターのなかから、青地に灰色の花模様のシャツを着た髭の男が声をかける。その声を合図に白い開襟シャツに黒いギャルソンエプロンを身につけた若い男が近づてきた。
「いらっしゃいませ」
「予約してた緒沢です」
「お待ちしておりました、どうぞ」
男が差し伸べた腕の先にはネオンが瞬く渋谷の空があった。

ここは雑居ビルの屋上にウッドデッキを組んで設えられたバー。ビアガーデンのように季節限定でも、大衆向けでもなく、どことなく東南アジアを思わせる内装と、取り揃えた世界各国の酒と、渋谷の夜景が売りの、口コミでしか存在を知られていない、通向けのバーだった。

耳障りにならない程度に流れるレゲエ。20にも満たない席は8割方埋まり、そこかしこで静かな語らいがなされている。
二人が案内されたのはビルの西側の角に設えられたカウンター席。当然の目の前を遮る窓などなく、直に渋谷の夜景に触れられる。ウェイターは円筒形のグラスに入った白いキャンドルに火を灯して去っていった。揺らめく小さな炎は周りの夜景を邪魔することなく、二人の間だけをほのかに照らしていた。
「何飲む?」
「任せる」
そう言ってから、桐子は周りの探検を開始する。少し離れた右隣のビルの屋上には10秒おきに色を変える大きな電光の看板。道路を挟んで向側のビルの5階と6階の窓はまだ人がいるらしく、ブラインド越しに白い光を放っている。
街の明かりの一つ一つに、そこに生きている人がいる。
そんなことはわかっていたはずなのに、人の存在がはっきりと感じられる温かな光の数々に桐子は見とれた。
隣で緒沢がライターを使う音がした。ガスの匂いに続いて流れてくる嗅ぎなれた煙の香りに心が動く。周りの大気に拡散しているはずなのに、何故?
そんなことを考えていると、桐子の右上から声が降ってきた。
「お待たせいたしました」
目の前に置かれたのは青紫の液体を満たしたカクテルグラス。
「何?」
「約束の月だ」
緒沢の囁きに導かれて覗き込んだ小さな海面に、映るのは左側を少し削った月。はっとして見上げると、水面とは左右が反転した臥待月が桐子の真上にあった。
桐子はグラスに視線を戻し、小さな苦笑いを浮かべて言った。
「ロマンティック過ぎ」
「まあな」
「らしいけど。こんなとこ、何処で仕入れてきたの?」
「ここ、結構古いんだ。学生時代に先輩に連れてこられたのが最初。久しぶりに来た」
「一緒に来た女性はあたしで何人目?」
「お前が初めてだって言っても、信じないだろ?」
「当然」
「でも、女と来たのは初めてだ。これまでデートっていうと話題の場所とか、もっと高級な感じのとこに連れてってたから」
「ふうん」
「まずは乾杯しないか」
「いいわ」
細く長い首を持ち上げて互いのグラスを近づける。浮かぶ月が消えないようにそっと静かに。
一口含んだ液体は柑橘系の酸味とほんの少しの苦味があった。そして、ほのかに漂う花の香り。
「美味しい」
「ん」
「夜景とお酒と月に免じて、これで許してあげるわ」
「ほっとしたよ」
「随分と弱気ね。自画自賛ブラザーズはどうしたの?」
「返上だよ、お前に関しちゃな」
そう言って力なく笑った緒沢は次の瞬間、我が目を疑った。
緒沢の目の前で、双眸はいとも優しく細められ、薄い紅色の唇は三日月のような弧を描いた。グラスから立ち上る花の香りと相まって、咲き誇る花のような笑顔がそこにあった。



これは月が見せた魔法か?それとも?

その笑みが少しでも長く開き続けることを、緒沢は月に祈った。



緒沢の視線を受け止めながら桐子は思う。

私が気まぐれに吐いた言葉を不可能なことだと投げ出さずに、自分に対する拒絶だと受け取らずに、叶えるために必死に考える人間が彼以外にいるだろうか。
この頭でっかちで、ロマンティストで、負けず嫌いな男はこうやって意識せずに、私の心を揺さぶる。
その振動がどれほどかけがえのないものか、私は知っている。こうして出会えた奇跡を感謝している。
だから、私は自分から貴方の腕を振り解けない。いつか必ず来る別れの日まで、ずっと。

その日が少しでも遅く訪れることを、桐子は月に祈った。



「このカクテル、なんて名前?」
「Blue Moon」





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