もう何がでてきても驚かない。

そう腹を括ったつもりだったが、高野生に続いて柴崎なつめが同じ手口で誘拐されるとは。あまりにも意表をついた展開に俺は戦慄した。
この事件は異常だ。今まで自分が抱いていた法則がことごとく通用しない。そして、初対面で俺の顔を殴りつけた女。こいつも俺の世界観を木っ端微塵にしやがる。
一緒に事件を追いかけていくにつれて、こいつのことがちょっと理解できたような気がしたのもつかの間、さっき緊急招集した柴崎なつめ誘拐対策会議では、突然訳わからんことを言い出したかと思うと、途中で出ていきやがった。そんなあいつの後を追いかけたのは白砂。ったく、お前の上司は誰だよ?
暴走しがちなあいつを止めることができるのは白砂だけだからしょうがないが、むかつく。従来の捜査方法でコツコツ地固めをしていくのだって大事なんだぜ。ちくしょー。
会議が終った後、それぞれの任務へ出発していく部下を送り出すと、対策本部を設置した大会議室から出て、捜査一課にある普段の自分の机に向かった。全員が誘拐事件に駆り出されているので、部屋には誰もおらず閑散としている。
本庁にいる同期に電話をかける。同期のなかでもっとも信頼できる奴に依頼した警察関係者の身辺調査状況について聞くためだ。
電話の声は、今夜中にはまとまる報告書を、でき次第部下に届けさせると告げた。
「恩に着るよ。今度一杯おごるぜ。」
「お前の行きつけはいつもうまいからな、楽しみにしてるよ。」
明るい余韻を残して切れる電話。二十年来の付き合いの友の言葉を聞いて、俺は落ち着きを取り戻した。そうさ、桐子のやり方を否定する気はもうないが、俺は俺のやり方でやるしかねえよ、不器用だからな。
すっきりした気分で対策本部に戻るために歩いていると、半分だけ開いたドアが目に飛び込んできた。この部屋は捜査記録を納めた資料室。今日は誰も使っていないはず。そっと覗き込むと、パイプ椅子に座るベージュ色の背中が見えた。あんな華奢な肩をした奴は一人しか知らない。
三分の一しかついていない蛍光灯。ゆっくりと上下する右腕。かすかに揚げ物の匂いが漂う。そういえば、さっき夜食の弁当を配ったっけ。
考えるよりも先に俺の手はドアの脇のスイッチを押していた。蛍光灯特有の白っぽい光が室内に満ちる。
「なに?」
振り向きもせずに桐子が問う。
「食ってるなら電気つけろよ。暗いところで食べてたらうまくないだろう?」
「ふうん。そういうもの?」
「あったり前だろ。」
静かに部屋のなかに滑りこみ、桐子の右隣に近づく。
「・・・確かに前よりはましに見えるわね。」
そう言って弁当の紙箱を覗き込む、どこかピントのずれた桐子の言葉に、こいつ、俺のことをからかってんのか?と一瞬思った。でも、その横顔は嘘をついているようには見えなかった。
犯罪者の心理を読むことには長けていても、自分が心配されていることを理解できない、アンバランスな感性の持ち主のこいつならありえない話ではない。
箱の中身は、どれも少しずつしか手がついていない。桐子は三分の一しか減っていない白いご飯のうえに割り箸を置き、蓋を閉じた。そして、小さなペットボトルの中味をくいっと飲み干した。
「おい、それで終わりかよ。もっとちゃんと食えよ。」
「食欲ない。」
「俺が邪魔なら出てくぞ。」
「そんなんじゃない。本当にもういいの。」
そう言って弁当の箱とペットボトルを手に立ち上がる。コツコツと足音をたてて出ていくのを、俺はなんとなく動けずに見送ってしまった。
確かに配達の弁当はそんなにうまいもんじゃないが、あんなにつまらなそうにものを食べる奴を初めて見た。
上の空で咀嚼する色の薄い唇。箸をつかむ細くて長い指。ペットボトルを口にあてたとき、のけぞった喉の白さ。

もったいねえな、すげえもったいねえ。

桐子の姿を思い返すと、俺の中にある衝動が突き上げた。



午前三時。
犯人からの身代金受け渡し方法を指示するメールの到着予告時刻は午前六時。
それまでのわずかな時間、捜査員たちに交代で仮眠を取るよう指示を出した。しかし、メールチェックだけは交代であたることとし、俺が休憩から戻ると捜査本部にはパソコンの前に座る中澤と、少し離れたパイプ椅子にもたれた桐子がいた。
「ちょっと来いよ。」
桐子のすぐ近くまで行って、囁くように言った。
「何?」
「ここじゃできない話だ。」
上目遣いで俺を見上げて、桐子はぴくりと眉を動かした。
「わかったわ。」

桐子と連れ立って捜査一課室に入る。俺のデスクのあたりだけ照明をつけ、左斜め前にある白砂の席に桐子を座らせた。
「警察関係者の調査報告書だ。読んでくれ。」
引き出しの鍵を開けて取り出したファイルを手渡す。桐子は黙ってそれを受け取るとページを開いた。
桐子が読み始めたのを確認すると、俺は席を立った。

白砂の机の上に湯気をあげる白いプラスティックのカップとスプーンを置く。
気づいた桐子が、顔を上げて目で尋ねる。
「夜食、付き合えよ。」
そう言って自分のデスクに座り、俺はカップを取り上げた。
桐子はスプーンを取り上げて一口すくって飲んだ。
「レトルトじゃないわね。」
「へえ。」
「何?」
「味、わかんだな。」
じろりと横目で睨まれる。
「これ、どうしたの?」
「さっき、その報告書受け取りに出たんだ。そのついでに買った。」
左斜め前に桐子が食べる気配を感じながら、俺は自分のスプーンを動かした。どんな顔をして食べているのか非常に興味がわいたが、そちらに視線を送るようなことはしなかった。
「動機がありそうな奴はいなかったな。」
「・・・。」
「桐子?」
「ええ、そうね。あたしぐらいだわ。」
「対象範囲を広げてみるか?」
「望み薄ね。それよりも今度の身代金受渡しでの逮捕に賭けたほうがいいと思うわ。」
「同感だな。」
桐子が立ち上がる。
「優作と打ち合わせあるの。行くわ。」
「おう。」
すうっと白い手が伸びて俺の前に置いたカップをつかみ、自分の分と重ねてスプーンを二つ放り込む。それを右手に持ち、桐子は静かに出て行った。

おいおい、俺の分まで片付けてくれるって、もしかして礼のつもりかよ?
こみ上げてくる笑みを押さえられない。
まるで、くれた人間がいなくなってから餌にありつく野良猫。


なあ、桐子。
人間、生きているうちに食べられる回数なんて限られているんだぜ。
つまんねえ顔して食べてるなんてもったいねえよ。
お前はもっと楽しんでいい、喜んでいい、笑っていい。
今は人に馴れない野良猫でも、いつか俺の目の前でうまいと言う顔が見たい。

こうと決めたら俺は絶対にやるぜ、覚悟してろよ、桐子。



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