仕事が忙しくて会えないのは仕方がない。
男たるもの、やはり仕事が基本。プライドも金もここから貰っている。奴隷になる気はないが、疎かにするつもりもない。それが俺の考え。
しかし、
「今のヤマ、長引きそうなの。明日は無理」
「わかった。飯はちゃんと食えよ」
携帯電話で交わした短いやりとりを最後に、もう3週間も桐子の声すら聞いていないというこの状況は正直言って不満だ。
仕事の邪魔をしたくなかったので、桐子の部屋の方に何度か電話したが、応答メッセージは冷たい機械音。一度伝言を残したが返事は来なかった。
俺も同業者だから桐子がどういう状況に置かれているか嫌と言うほどわかっている。それによくよく考えてみれば、桐子の対応は俺がこれまで付き合ってきた女性に対してしてきたことと同じだ。
「私と仕事、どっちが大事なの?」
こう詰め寄られて終わったことも確かにあった。
仕事をきちんとやり遂げるのは社会人の基本。そのことに対して不満を言われるのは理に合わない。その考えに変わりはない。けれども、そんな理屈では割り切れない感情もあるのだと俺は初めて知った。
一人の時間を過ごすことは嫌いじゃない。むしろ、やりたいことは山のようにあって忙しいくらいだ。このあいだの休みはゆっくりと朝寝をして(それでも7時には目が覚める・・・歳かな)、洗濯と掃除をして、街に出かけて新しい靴と新聞の書評を読んで気になっていた本を買って、同期の奴と会って居酒屋とバーを梯子して飲んで終電で帰った。
仕事だって家に帰れないほどではないが、余裕があるわけでもない。
それなのに仕事と仕事の間のわずかな空白の時間、駅から自宅まで夜空を見上げて歩くとき、ベッドに入って眠りに落ちるまでのあいだ、決まって頭のなかをよぎるのは白い面影。
桐子は一度も俺を好きだと口にしたことはない。しかし、俺と付き合っているという自覚があることは知っている。(「結婚したくなったら言ってね。別れるから」なんて口にするのはその証拠だ。)
誘えば四の五の文句を言うが結局は待ち合わせ場所に時間通りに来る。来れない時には連絡をよこす。人前では断固として許さないが、二人きりのときに伸ばした腕を拒まれたことは一度もない。あいつの性格を考えればそれで十分すぎるほどだと思っている。
でも、会えない時間が積み重なることには焦る。会えないということは桐子に対して何もできないということだ。
桐子は自分からこうしたい、こうして欲しいとは決して言わない。理由はわかっている。自分にはそんな資格はないと思っているからだ。
俺としてはそんなわけあるか、と思うが、人の考えはそれぞれだ。ましてや桐子の今までのことを思えばそんなことは容易に言えない。
だから、桐子が口にできないのなら、俺は俺のできることをしようと決心したのだ。それは俺が生きていて良かったと感じる瞬間を共有することだった。
デートの時には必ず美味い料理と酒の店に行った。
季節が巡るごとに渋る桐子を引っ張っては出かけた。
秋には銀杏の葉をしきつめた黄金の絨毯を、クリスマスの時期には冬枯れの木々に灯る明かりを、暖かくなれば次々と開いていく春の花を見に行った。
そして、抱き合うときには桐子が感じるところ全てに唇を落とした。
桐子とともに体験するそれは、目から、口から、皮膚から、身体の隅々に浸透していって、俺を暖かく満たしてくれる。同じように桐子の心と身体が満たされて欲しい。俺は桐子を嬉しがらせる存在でありたい。付き合い始めた時からずっとそう思っていた。
それなのに、桐子が目の前にいなければどうしようもない。自分の無力さにいてもたってもいられなくなる。
付き合うことだって、もともと俺が押し切ったような形だし、俺がいなくてもいいなんて思ってたら・・・。
ああ、こんなネガティブなことを考えるなんて。俺もヤキが回ったぜ。
深いため息をつく緒沢を乗せて、中澤が運転する覆面パトカーは走る。
三日前に所轄内で発生した強盗事件の犯人の行方を掴むために、隣の市にある犯人の親類の家へ向かう途中だった。
「課長、どうしたんですか?そんなため息ついて。ため息をつくと幸せが逃げるんですよ」
中澤は前を向いたままおどけた口調で言う。
「なんだそれ?」
「いや、うちのばあちゃんの口癖なんですけどね」
「いいおばあさんだな」
そう呟きながら緒沢が窓の外に目をやると、交差点の信号は赤に変わり、ゆっくりと車は停った。フロントガラスの前を人々が横切り始める。右から左へと流れていく人たちを何気なく目で追うと、交差点の脇にある小さな駐車場が見えた。一番手前に停まっている白い乗用車の脇に数人の人物が集まっているのが目に入る。紺やグレーのスーツを着た男たちの輪の真ん中に一つ低い茶色の頭を見つけた。
・・・あれは、もしかして。
緒沢は一瞬自分の目を疑った。けれど、それはまぎれもなく桐子カヲルその人だった。
桐子は目の前の若い男が喋っているのをベージュのジャケットに両手を突っ込んだ猫背気味の姿勢で聞いていた。そして、男が口を閉じると、顔にかかる前髪をうっとうしげにかき上げ、威圧的な眼差しで周囲の男たちを一瞥した。
緒沢はその瞳を見てはっとした。
仕事中の桐子の顔を見たのは、あの事件のときと、それから6ヶ月後に起こった悲しい事件の時以来だったからだ。
あの瞳の先に犯人がいると確信するようになったのはいつだったろう。
そう、あれは生死の境をさ迷う白砂の病室を訪れたときのこと。初めて聞いた桐子の懸命な呼び声に白砂の目は涙を一粒こぼしながら開いた。目の前で起きた奇跡は諦めに傾いていた緒沢の気持ちを正しい位置に戻すのに十分だった。
そして、捜査へ戻るために病院の廊下を確かな足取りで進んでいく桐子を追いかけ、横に並んだとき、一瞬だけ向けられた強い瞳。
白砂をこんな目に合わせた奴を許さない。必ず、高野生を救う。
交わした眼差しでそう誓いあったと思ったのは俺だけではなかったはずだ。
こいつとは同じ目的のために走っていける。そう確信したときから、桐子は俺の特別な人間になった。
今までの俺は女性に対して全てを忘れさせてくれる優しい笑顔を求めてばかりいた。仕事の話をしたことはあったが、自分がたてた手柄の話ばかりで悩みや愚痴は言ったことがなかった。これで自分のことを理解してくれなんて、俺はなんて身勝手だっただろう。
桐子の前では俺は全然格好がつけられない。それなのに、今まで付き合ったどんな女よりも一緒にいて心が開放される。どんな労わりの言葉よりもあの強い眼差しは俺の背筋を伸ばしてくれる。
桐子に会えなくて、何もできなくて不安で不満で、何かしてやりたくて。
そんなのは俺のちっぽけな独占欲でしかないことに気づく。あいつはちゃんと一人で立っている。自分のなすべきことにいつだってひたむきに。
あいつの隣にいることを恥じない自分でありたい。それが俺のやるべきことだ。
信号は変わり、中澤はゆっくりと車をスタートさせた。
緒沢は小さな敬礼をしながら視界から消えてゆく桐子の姿を見ていた。
それから一週間後。
桐子の部屋にて。
「ちょっと待って。まだするの?」
「一ヶ月ぶりなんだぞ。全然足りない」
「そんなにしたかったら、他の人とすれば良かったじゃない」
「ばーか。お前以外の女となんて、もうできねえんだよ」
「・・・」
「責任とれよ」
「・・・もう、勝手にしてよ」
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