高層ビルは屹立する人の欲望。

それを誤魔化すために明るい色を塗りたくり、夜の闇のなかでは光を纏う。そして、隙間には公園と称して人の手で作り上げた「自然」を配置する。
しかし、欲望は高みに向かうものばかりではない。都市のそこかしこに離反者たちの集う場所がある。

街の南にある繁華街の奥に一軒の洋館がある。
レトロブームをあて込んで最新の建材を用いながら表面に古く見える塗装を施したものではない。不揃いなレンガを積み重ねた塀のなかには雑草がはびこり、門から玄関へと導く道を覆っている。しかし、折からの秋風が草を枯らして、地面に埋め込まれた臙脂色のタイルがわずかに見えていた。

この館に住むのは老婆がただ一人。その彼女も今朝、息を引き取った。

加齢によって全臓器の機能が低下しても頑なに義体化を拒み、病院に入ることもせず、機械やヘルパーの助けを借りながら、それまで生きてきたのと同じ日常を送り続けた。

彼女が亡くなる3ヶ月前、館に一匹の猫が住み始めた。老婆の髪のように白い毛並みの雌猫だった。ベッドから離れられる時間が日に日に減っていくなか、音もなく枕元に現われ、肩に頬と首を執拗に擦り付けては不意に興味がなくなったという風情で去ってゆく。猫の気ままな仕草を、老婆は好ましく思いつつもその柔らかな身体を撫でたりはしなかった。
来るものはやがて去る。それが摂理。明日も猫がいる保障などない。それは自分の命も同じ。いつまで長らえるものかわからない。出会いも命も意思の手など及ばない。
それでも老婆はもう来るはずがないと諦めながら猫のことを待っていた。

夕べ彼女は真夜中に目を覚ました。傍らの枕に猫が頭をのせて眠っていた。
しかし、彼女はその姿を見たわけではない。闇のせいではなく、衰えた彼女の視力はもう世界を映し出すことができなかった。
命の砂時計が空になる時が近いことを悟った老婆は安堵のため息をもらしながら猫に手を伸ばした。
・・・恐れるべき明日は、もう来ない。

骨ばった指と指の間に入り込む細く柔らかな獣毛を感じながら老婆は思った。

 時が全てを洗い流し、悔いも痛みも何もないと思っていた。けれど、人は生きている限り何かを願わずにはいられない。私の最後の時にそばにいてくれたお前。お前が逝く時には誰が抱きしめてくれるんだろう。もう何一つ動かす力もない私だけど、どうかお前が一人で逝くことのないように。

祈りながら老婆の意識は掌の温もりのなかに溶けていった。

意思と力の消えた手から逃れ、猫は老婆の顔を覗き込んだ。かすかに綻んでいる口元に頬をこすり付けるとすっと身をひき、ベッド脇に置かれたテーブルに飛び乗った。
そこには老婆が朝晩の薬を飲むために準備された水差しとグラスがあり、寝りにつく前にグラスに飲み残したわずかな水の表面に薄氷(うすらい)ができていた。時はすでに、太陽が昇る直前に地表の全ての熱を奪いつくしてしまう頃になっていた。




「お前の孤独は水のようだ」


ため息一つで消えてしまいそうな薄氷を猫の眼をとおして見つめながら、かつて草薙素子と呼ばれた女はある男の言葉を思い出していた。

「人は誰しも孤独だ。しかし、それは埋めることができる。生きているうちに何が欠けているか気付くからだ。でも、お前は何一つ欠けてなどいなかった。だから、俺がどうすればいいのかわからなかった。そのまま立ちすくんでいるうちにお前は行ってしまった。でも、今ならわかる。俺は器になれば良かったんだ。お前すら知らないお前の輪郭の」

刹那の再会の後、それまでと変わらない日常に戻った彼はセーフハウスで膝で眠る犬を撫でながら呟いた。





 そうかもしれないわね。


女は猫のなかで思った。


 寂しいなんて感じたことはない。ただ、孤独という字を知らないときからこの身のうちに消し去れないものがあることを知っていたわ。そして、貴方と出会ってその意味を知った。


テーブルの脇のカーテンが光を受けて色を変え始めた。猫はそちらに顔を向けるとカーテンを引き剥いで床に飛び降りた。鋭い光が部屋中に満ちる。


 貴方の器のなかで凍りつくことができたなら、私は私のままの私でいられたのかしら?


しかし、朝の光はあっけなく薄氷を溶かしてゆく。その様子を見届けた後、猫は音もなくドアから立ち去り、二度と戻ることはなかった。










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