いったい、どうしたんだろう
後藤はノートパソコンが置かれているデスクに肘をつき頭をのせた。
数時間前、後藤は由利恭平の名前でおびき出された中森あゆみを殺せとの指示を受け、中澤にパソコン番を交代してもらって区民センターに潜伏していた。
桐子と中森が話しに夢中になっている隙に背後から鉄パイプで襲いかかり、まず桐子の動きを封じてから中森を滅多打ちにした。桐子は殺せとは言われていなかったし、何より殺したくはなかった。わずかな期間とはいえ一緒に捜査にあたり、白砂を救ってくれた仲間だったからだ。
しかし、頭から血を流しながら立ち上がり向かって桐子は禍々しい殺気を放っていて気を飲まれた。
どうする?
桐子の顔を見ながら逡巡していたとき、ひゅっという空気を切る音とともに一本の矢が飛来して桐子の肩に突き刺さった。衝撃に転げまわり倒れ伏した桐子を呆然と見つめているともう一本の矢が後藤の目の前の地面に突き刺さった。それには細長く折りたたまれた白い紙がくくりつけられていた。後藤は緩慢な動作でその矢を拾い上げ、紙片を広げた。
あゆみせんせいをころさないで
紙片にはたどたどしい文字でそう書かれていた。
後藤は矢と紙片を握り締めた。見下ろせばガソリンを浴びた中森が苦痛に身体をよじっていた。抵抗する力を奪うためにかなりの力で打ち据えたはずだが、生命の危機を招くほどのダメージは与えていないようだ。ほっと安堵の息を吐くと後藤は近くに隠しておいた車に向かって一目散に走り出した。
車のなかで黒装束を脱ぎ、紙袋に突っ込んで助手席に放った。さっきの襲撃の痕跡がないか手早くミラーで身づくろいをチェックをしてから、多摩東署に向けて車をスタートさせた。
途中コンビニに車を停め、出入り口付近に置かれたゴミ箱に紙袋を突っ込む。そのまま店内に入り、ペットボトルの冷たいお茶と二個いりのシュークリームを買った。当番を替わってもらった中澤への礼だった。
「ごめん、中澤」
「後藤さん、大変だよ。便乗犯は中森あゆみだったんだよ!」
後藤の顔を見るなり、パソコンの前の椅子から立ち上がり中澤は区民センターでの一件をまくしたてた。
真犯人が現れたこと、中森が便乗犯として手配されていること、そして。
「桐子は真犯人にやられて病院だって」
「ひどいのか?」
「命には別状ないって。今、優作がついてる」
「そうか」
後藤は密かに胸を撫で下ろした。
「で、お母さんの具合はどうだったの?」
中澤の眼鏡の奥の瞳が気遣わしげに細められる。当番を替わってもらう言い訳に入院している母の見舞いだと言ったのだ。
「ああ、検査の立会いだから、大したことはなかったよ」
「なら、いいけど。休まなきゃならないときは言ってよ、課長だってわかってくれるよ、たった一人のお母さんが病気で入院してるんだから」
「うん」
「じゃあ、俺ちょっと休ませてもらうわ」
「恩に着るよ、中澤」
「落ち着いたらゆっくり奢ってくれよ、じゃあな」
真っ黒に刻まれた隈の上の瞳を笑いの形に細めながら中澤は仮眠を取るために出て行った。捜査本部には後藤一人が取り残された。
ノートパソコンの前に座り、ペットボトルの蓋を開けてお茶を一口飲む。まだ冷たさの残る液体が喉を潤す。
一息ついた後、後藤は自答する。
あのボーガンは生君なのか?それとも他の誰か?
すべて生の指示で始めたことだが、パソコン、ボーガンと道具立てが大きすぎる。まだ何か大きな力が隠れている。そして俺はそれに利用されている。
確かに自分で綱をほどいて船出したはずなのに、後藤は行き先のわからない船に乗り込んでしまった自分に気がついていた。
そして、もう引き返せないことも。
「なんだ?後藤だけか?」
思考が渕に沈みかけたとき、会議室中に響き渡る声が聞こえた。
「はい、中澤はもう12時間ぶっ続けだったので、休んでもらいました。ところで、桐子はどうだったんですか?」
「肩にボーガンが一発。頭と肩に鉄パイプによる打撲。まったく無茶しやがる」
緒沢は後藤の隣にどっかりと腰を下ろしながら呟く。その横顔には怒りと心配の色が深く刻まれていた。
「この落とし前は絶対につけてやるぜ」
緒沢は右の拳で己の左の掌を打つ。
その姿を見ながら、後藤は思う。
桐子を傷つけたのはあなたの目の前にいる自分だと、そのことを知ったら、この人はどうするんだろうか?
その拳で俺を打つのだろうか?
「後藤」
名前を呼ばれて後藤は我に返った。
「はい」
「去年の花見の幹事ってお前だったよな」
緒沢は意外なことを切り出した。
「ああ、そうでしたね」
「白砂が場所とりをして、市井さんが秘蔵の日本酒を持ってきて」
「課長が料理を作ってきて」
「中澤が交通課の婦警を連れてくるのに失敗して、男だけで飲みまくってべろべろになって」
「課長は帰るときに突然叫び声をあげながら走り出して顔面からコケましたよね」
緒沢は大きな目をぎょろりと動かして見開いて後藤を睨み付けた。後藤は慌てて笑顔をしまった。緒沢は目の前のホワイトボードに視線を戻して、椅子の背にもたれた。
「さっき戻ってくるときにあの場所を通って思い出したんだ。もう桜はだいぶ散ってた」
「そうですか」
「今年は無理だったけど、事件が終わったらまたぱっとやろうぜ」
「いいですね」
後藤は目を閉じた。
たぶんその日はもう一生来ないんですよ、課長。
心の中だけでそう呟くと後藤は立ち上がった。
「ちょっとトイレ行って来たいんですけど、お願いできますか?」
「ああ、いいぞ。ついでに少し休んだらどうだ?ひどい顔色だぞ」
「大丈夫です。すぐ戻ります」
言いながら後藤は小走りで会議室を立ち去った。
「なんだ?そんなに我慢してたのか?」
追いかけてくる緒沢の声がおかしくて、悲しかった。
節電のために廊下の明かりは一つおきに蛍光灯そのものを抜いてある。ほの暗い廊下を早足で歩きながら後藤は思った。
生たちが事件を起こすことを止められなかった理由が今はっきりとわかった。
仲間はずれになるのが嫌だったんだ。
もう一緒に遊ばないと言われるのが怖かったんだ、だから。
ここにも俺の仲間はいたのに。
いつも一緒に居すぎて、敵対心、劣等感、優越感、嫉妬、そういうもので一杯になってしまって見えなくなってた。
でも、もう遅い。
俺はもうすぐどちらの仲間も失うのだろう。
後藤はトイレに駆け込むと洗面台の蛇口をひねった。勢いよく飛び出した水を両手ですくい顔に浴びせた。
両目からあふれる熱い水がなくなるまで、何度も。
>TOP