季節はめぐり
僕らは繰り返す
この世に生きる
喜びと悲しみ
打ち上げと称して、桐子、緒沢、白砂、優作の4人が飲みにいったのは10月に入ってからだった。緒沢が幹事となり、渋谷にある、ちょっと感じのいい小料理屋の座敷で、その席は設けられた。
「元気そうね、白砂さん」
白砂と桐子は久しぶりの再会だった。
「桐子さんも、お元気そうで。わたくし、あれ以来、ゾンビと言うあだ名がつきまして」
「はっ、殺しても死ないあなたにはぴったりね」
二人の間にはなんとも言えない、優しい空気が流れている。桐子は穏やかな顔で笑っている。
その顔を横目で眺めながら、緒沢はかすかに胸が痛むのを感じた。しかし、その痛みは無理やり心の隅っこに押しやった。今夜は4人で楽しく飲もうと決めたのだから、つまらない感情に捕らわれて台無しにしたくない。
乾杯のビールが空いて、料理が運ばれてくると、桐子が俺の方を向いて言う。
「お酒は何にする?」
「ここ「浦霞」置いてんだよ、それにしようぜ」
「前にあそこで飲んだやつ?いいわね」
「緒沢さんと桐子さん。結構、二人して、飲みに行ってるんですよね」
二人の間に優作が割って入った。
「こいつがよ、うまいもん食わせろってうるさくって」
「何よ、いろいろ食えってうるさいのはそっちじゃない」
あの事件が終わり、桐子と優作が引き上げてから数週間後。
本庁に出張した緒沢は廊下でばったり桐子と会った。その夜、緒沢の誘いで一緒に食事をしてから、二人は月に1回ほど飲みに行くようになっていた。本庁に出張した緒沢が、桐子を自分の知っている店に連れて行くというパターンだったが。
「あやしいですねー」
からかいを含んだ口調で優作が言うと、半眼にした二人に思いっきり睨まれて、震え上がった。
そんな優作を見ながら、緒沢は思っていた。あやしいもなにも、二人の間にはあやしいことなど、これっぽっちもない。あるのは緒沢自身の気持ちだけだった。
二週間前、二人で松茸を食べに行った帰り。狭い路地を地下鉄の駅まで歩いていると、一台の乗用車が突っ込んできた。緒沢は咄嗟に桐子の肩に腕を回して、道路縁へ避けた。
「ったく、あぶねぇなぁ」
走り去る車に悪態をついた後、桐子に声をかけた。
「大丈夫か?」
「大げさだなぁ」
顔を上げた拍子に、桐子の髪が緒沢の頬をかすめた。緒沢は急に腕の中にある桐子の身体を意識した。肩をつかんだ手に力がこもる。
「何?」
「…桐子」
緒沢はかすれた声で名前を呼び、桐子の目を覗き込んだ。
見つめ返す瞳のなかには、かすかな怯えがあった。
30をとうにすぎた男と女が、こんなふうに時間を共有することがどういうことか、桐子にもわかっていないはずはなかった。しかし、緒沢から桐子への気持ちがそこはかとなくにじみだすとき、桐子は決まって瞳の中にその色を浮かべた。
一緒にいるときの桐子はよく喋るし、緒沢をからかってはよく笑う。真面目な話もする。心を許してくれていると感じられる。
ただ、緒沢のこの気持ちだけは受け入れたがらない。
このことは緒沢の心に暗い影を落としたが、緒沢は桐子と二人でいるときの心地よさを手放したくなくて、桐子の瞳に浮かんだ拒絶にも目をふさいで、何もなかったことにしていた。
しかし、それも限界がきていた。
今夜、白砂に笑いかける桐子を見て、その思いはどんどん加速していた。
そろそろ、自分の気持ちにけりをつけるときなのかもしれない。
緒沢はそう思った。
勝算のない恋をするほどガキじゃない。
それから、1週間後。
課長席で書類を読んでいた緒沢の胸から、「Gメン'75」のメロディが流れ出した。課内の人間の注目がいっせいに集まる。
「すまん。音切り忘れてた」
誰に言うともなく謝りながら、ディスプレイの表示を見ると「森村優作」の文字。不審に思いながら、緒沢は通話ボタンを押した。
「はい」
「森村です。緒沢さん、大変なんです」
優作の慌てた声が聞こえてきた。
「どうした?優作」
「あの事件の加害者の少年と、その両親が車ごと海に飛び込んだそうです。どうも自殺らしいです」
「なんだと!」
緒沢は思わず椅子から立ち上がっていた。
緒沢は白砂と二人で本庁の近くにある警察病院に駆けつけた。待合室に入ると優作が立っていた。
「どういうことだ、説明しろ」
挨拶もそこそこに緒沢は優作に詰め寄った。
「今日の午後、横浜港に一台の乗用車が飛び込びました。昼間でしたし、目撃者がたくさんいたので、すぐに救助が進められたんです。救助の途中で車外に出てきた少年はなんとか命をとりとめましたが、両親は引き上げられた車内で死亡していました。車内の遺留品からすぐに身元は判明しました。元立栄学園小等部2年、伊藤司7歳、あの事件のとき、倉庫に立てこもった少年たちの一人です。それから、両親の伊藤英明、伊藤美樹、ともに35歳。事件の後、伊藤は勤めていたパソコンメーカーを辞め、宮城県の実家の近くに引越したそうなんですが、そこでも匿名の嫌がらせが相次いで、再就職先もなくて、ノイローゼ気味だったようです。一昨日、車で仙台から出てきて、都内のホテルに一泊、そのあと、親子でディズニーランドに行って一日過ごし、近くのホテルで一泊した後、ここにきたようです」
「最後の思い出づくり、ですか」
白砂が目を細めながら呟く。
「遺書は?」
「ホームページです。遺留品の中からURLを書いたメモが見つかりました。これがそれをプリントアウトしたものです」
顔のない悪意に
耐えることができなくなりました
もう憎むことにも疲れました
これを見ている
あなたは誰ですか?
「嫌がらせに耐え切れなくなっての自殺か、ちくしょう!なんてこった!」
緒沢は宙を殴った。
「報道規制はしいたんですが、たぶん、このホームページを見つけられるのも時間の問題でしょう。桐子さんの指示で、騒ぎになる前に司くんをこちらの病院に搬送し終わったところです」
「おい、桐子はどこだ?」
「あそこです」
優作はICUの文字が書かれたドアを指差した。
緒沢と白砂がドアをあけると、ガラスの壁の前に桐子がいた。壁の向こうには白い毛布につつまれた小さな塊が見えた。
3人は言葉もなく、そこに立ち尽くしていた。
「狂気にみちたボーガン少年」の家族が自殺というニュースは、爆発的に各メディアを駆け巡った。マスコミは一転して少年たちに対する同情を書き連ね、匿名の嫌がらせに対する抗議の声が集まった。
その一方、こんなうがった意見も飛び出した。
「生き残った子どもが両親を殺したということも考えられますね」
「遺書はホームページなんでしょう?子どもだって書けるわけですよ」
「だいたい、水中に沈んでいく車の中から這い出すなんて、普通はできないですよ」
「最初から、自分だけは助かるつもりだったんじゃない?」
そんな悪意に満ちた騒動に、吐き気がするほどの嫌悪を感じながらも、緒沢も白砂もじっと耐えるしかなかった。
「優作、桐子の様子はどうだ?」
あれ以来、緒沢は優作に毎日電話をかけた。
一人生き残った少年、伊藤司は、身体的な危機は脱していたが、4日経過しても目覚めなかったのだ。
「昨日も、仕事が終わると、司くんの様子を見にいきました。ただ、なんか、おかしいんですよ」
「なにが?」
「桐子さん、あれから、何も食べてないんじゃないかと思うんです」
優作の説明では、昨日見た桐子の顔がどうにもやつれている感じがして、気をつけて桐子の様子を観察したところ、職場で出されるお茶やお菓子にはいっさい手をつけていない、昼食の時間も外出はしたが、どうも食事をしてきた様子はないということだった。
「桐子さん、いったい、どうしちゃったんでしょう?」
優作の不安げな声が、緒沢の胸を騒がせた。
警察病院の廊下の長いすに桐子は座っていた。瞳はICUと書かれた扉に向けられている。その視界のなかに大きな茶色いスーツが入ってきた。
「桐子さん。こんばんは」
右手に持っていたコンビニのビニール袋を差し出しながら、白砂は言った。
「これ、「とろけるプリン」です。パステルの「なめらかプリン」ほどじゃないですが、うまいですよ」
桐子は黙ってそれを受け取った。
白砂は桐子のとなりに腰を降ろした。
「白砂さん」
ゆっくりとした口調で名前を呼んだ。
「はい」
「前に言ったわね。何かあってもあの事件のことを思い出せば、本当に大切なものを見失わずに生きていけるって」
「言いました」
桐子は何かを探すように視線を宙にさまよわせた。
「見失ってしまったのかしら?伊藤さんは」
「見失っているのは回りの人たちです!」
怒りのこもった声に驚いて、桐子は白砂の顔を見た。
「伊藤さん、相当ひどいことをされていたようですよ。そんなことする権利はどんな人間にだってありません」
「そうよね」
「でも、桐子さん」
白砂は明るい声を出した。
「司くんは生きています。まだ、やり直すチャンスはあります」
「…こんなところに、たった一人で残されても?」
「生きていれば、とてもつらくて、悲しい目にあうけれど、生きているから、こんなにおいしいものも食べられたり、いろんな人と出会えたりするんです。司くんにもきっとそんな瞬間がやってきますよ。生きてさえいれば」
今、白砂は死んでしまった自分の妻と子どものことを思い出している。そのことが桐子にはわかった。司に死んでしまった自分の子どもを重ねているのだろう、白砂の言葉は明るいが、痛々しかった。
「絶対に大丈夫です。わたくしも、こうやって、桐子さんに出会えたんですから」
そうして白砂は人のよさそうな顔に優しい笑みを浮かべた。
白砂が帰った後、桐子は袋をあけて、もらったプリンを一匙すくって口に入れてみた。でも、口の中に広がる甘さが気持ち悪くて、それ以上は食べられなかった。
「どうして、緒沢さん、桐子さんのところに行かないんですか?」
「今ごろ、白砂が行ってるし。俺まで行く必要ないだろ」
言い終わると緒沢は内ポケットからタバコを取り出し火をつけた。
桐子の様子を詳しく聞くために、緒沢は本庁まで出向いて、仕事帰りの優作と落ち合った。近くの喫茶店に入って、優作と向かい合って座っている。
「それに、俺は今のあいつになんて言っていいか、わからん」
煙を吐き出しながら、緒沢は言った。
緒沢には桐子が何かにとても傷ついていることはよくわかった。ただ、それをどうやったら、それが取り除けるのか、皆目検討がつかなかった。
人並みに挫折も苦悩も経験してきたつもりだが、死んでしまいたいほどの痛みや悲しみ、ましてや罪や苦悩なんて背負い込んだことはない。そんな人間が、何を言えるというんだろう。
あのとき。
ICUの中で横わたる白砂の悲しみを桐子は受け止めた。
その光景が緒沢の頭の中をよぎる。
あのとき生まれた二人の絆に敵うものなんかあるはずがない、そう知っていたのに、桐子に恋をしてしまったのは、大きな誤算だった。
そんな緒沢の思考を優作の言葉が断ち切った。
「緒沢さん、緒沢さんのいちばんたいせつなものってなんですか?」
顔をあげると、優作が真剣な眼差しで緒沢の顔を見つめていた。
「いちばん、たいせつなもの?」
「そうです」
あの事件のとき、一番最初のメールに書かれていた「くいず」と同じ言葉。
その言葉を自分にあてはめて考えたことなど一度もなく、緒沢は言葉につまった。
自分の一番大切なもの。それはいったいなんだろう?
「自分自身、なんじゃないですか?」
優作がはっきりとした口調で言った。
「自分自身?」
「桐子さんに何もしてあげられない自分がつらいから、自分自身の力のなさを思い知らされたくないから、だから桐子さんに会わないんですよ」
「なんだと?」
「俺だって、桐子さんのこと助けてあげたいって思うから、緒沢さんの気持ち、よくわかります。でも、俺じゃ駄目なんです。俺は桐子さんのことは好きですけど、そういう好きじゃないから」
「・・・・」
「緒沢さんは知らないかもしれないけど、緒沢さんと飲みに行ったときのこと、桐子さんはすっごく楽しそうに話すんですよ。桐子さんにあんな顔させられるの、緒沢さんだけなんです。あの事件のとき、子どもたちが教えてくれたじゃないですか!自分のことばかり考えてたんじゃ、本当に大切なものなんて、なくしてしまいますよ!」
緒沢は大きな目を見開いて、優作の言葉を聞いていた。
自分の一番大切なもの、それは自分自身。
拒絶されることがつらくて、
助けられないことが情けなくて
逃げ出した自分。
でも、本当に自分にとって大切なものは何なんだろう?
緒沢はタバコを灰皿に押し付けて消した。
「優作、俺に説教するなんざ、100年早いんだよ」
そのころ、看護婦から病室の司が目を覚ましたと伝えられ、桐子はICUに入っていった。
ここ数日の間、閉ざされたままだった少年の目は開いていた。
桐子はそっと名前を呼んだ。
「司くん」
少年はゆっくりと桐子の方を向いた。桐子の顔を見つけると口元にふわっとした笑みを浮かべた。そして、一言。
「…お母さん」
桐子の心臓が大きく跳ね上がった。
司は言葉を続ける。
「僕、夢を見たんだ。お母さんが僕を殺す夢。僕は死んでもいいよ。僕のせいで、お父さんもお母さんも大変なことになっちゃったんだから。僕はただ、お父さんとお母さんと一緒にいたかっただけなんだ。お母さんがそんなに苦しいんなら、僕はもう生きていかなくてもいい」
司はゆっくりと左手を桐子に向かって伸ばした。
「僕を殺してください」
願いを込めて突き出された手、すがるような瞳。
桐子は我慢しきれずにICUを飛び出した。
司の言葉は自分の母親に向けられたものだったが、桐子には自分のなくした子どもの声とだぶって聞こえていた。
「お母さんが苦しいなら、僕はもう生きていかなくてもいい」
「僕を殺してください」
どうして、許すことができるの?
あなたをそこまで追い込んだ母親を。
瞳の中にはどんな憎悪もなく、ただ、すがるような色しかなかった。
薫、ここに来て、あんたは人殺しだと私を責めたてて。
誰も信じていなかったときは、どんな他人も、本当に私を傷つけることはできなかった。
でも、今は一人じゃないから、大切な人が、傷つけたくない人がいるから。
守りたいのに、助けたいのに、それができなくて苦しい。
誰が悪いわけでもない、ただみんな優しくて弱いから、またひとつの命がつらい運命を背負う。それをとめる力のない私。
憎しみのナイフで、傷をえぐられるほうがマシだ。
痛みを感じていれば、罰を受けている自分は生きていてもいいと思えた。
それなのに、どうして許すの?
許されたら、私はどうすればいいの?
「桐子!」
病院の玄関を飛び出すと、そこには緒沢が立っていた。
大きな目を見開いて、ひどく心配そうな表情で。その顔を認めると、桐子の身体はその場に崩れ落ちた。
桐子が目覚めると自分の部屋のベッドに横たわっていた。傍らにはソファに腰掛けた緒沢がいた。
「勝手に上がらせてもらったぞ。場所は優作に聞いた、ここまで運んだのも俺と優作だ。さっきまでいたけど、帰ったぜ」
桐子の顔を覗き込みながら、緒沢は言った。返事をしない桐子に、心配そうに眉をひそめたが、
「台所、借りるぜ」
と言い残して、立ち上がった。
戻ってきたときには白い湯気をあげるカップを持っていた。
「飲めよ」
渡されたカップを両手で受け取る。中からはコンソメの香りがたちのぼっていた。言われるままに一口飲み込むと、口の中に暖かくて豊かな味がひろがった。気がつくと桐子はカップの中味をすべて飲み干していた。
「よし」
緒沢はそう言って、空になったカップを桐子の手から取り上げて、サイドテーブルに置いた。
「ろくに寝てないんだろう?横になってろ」
桐子の肩をつかんでベッドに押し付けた。カップを持って立ち上がろうとした緒沢を桐子は呼び止めた。
「緒沢」
「なんだ?」
「私、自分の子どもを殺したの」
緒沢はソファに戻って、桐子の顔を覗き込んだ。
緒沢は、桐子がかつて高野啓と付き合っていたこと、そのとき身ごもった子どもを中絶したことは、あの事件の時に暴露ホームページなどから知っていた。
しかし、桐子の口からそのことを聞いたのは初めてだった。
「そうか」
「どうして、私を責めないの?私は人殺しなのに」
声を震わせて桐子は言う。
「どうして、お前は自分の子どもを殺したんだ?」
「え?」
桐子の瞳が驚きに見開かれる。
どうして子どもを殺したのか?
こんなことを聞いた人は初めてだった。
桐子自身、そんなこと考えたこともなかった。
「どうしてだ?思い出してみろ」
「あのとき…」
桐子は言われるままに記憶をたどった。
「妊娠してるってわかったとき、とても嬉しかった。それなのに、啓がいなくなってしまって。私、どうしたらいいか、わからなくなってしまった」
「一人で生んで、育てようとは思わなかったのか?」
「啓は優しい人だったけど、弱い人だったから、いつか、私を捨ててどこかに行くかもしれないって思ってた。私も弱くて、一人では生きていけなかったから」
「私はあの時、あの子と一緒に死ぬつもりだった。でも、あの子が死んでから、私、気がついたの。私が、あの子を殺したんだって。私が人殺しなんだって。人を殺すことはもっとも重い罪なのよ。そんな私が、許されていいわけがない」
抑えていた思いを桐子は一気に吐き出した。喋りながら、緒沢はこんな私をどう思うだろうか?ということが頭をかすめた。こんな私をもう嫌いになるかもしれない、それでもいいと思った。しかし、緒沢の口から出たのは意外な言葉だった。
「桐子、お前はさ、そんなに自分の子どものことが、好きだったんだな」
「え?」
「だって、好きだから、一緒に死のうって思ったんだろ?好きだから、殺してしまったことを後悔してるんだろう?好きだから、何をしてもいいってわけじゃないけど、お前の本当のところの気持ちはそうだったんだろ」
「そんなこと言える資格なんて…」
「おまえ、女だよな、なんでわかんないんだよ。母親が子どもを愛するのに、資格なんていらないだろ?あのとき、わかったじゃないか。どんなお母さんでも子どもを愛してるってこと。そして、子どもだって、どんな母親でも母親のことが大好きなんだってこと」
緒沢の言葉は桐子に大きな衝撃を与えた。
罪を暴く人もいた、それを責める人もいた、その一方で、傷を優しくいたわる人もいた。だけど、この罪をこんなにシンプルに解きほぐした人は初めてだった。
桐子の胸の中にはどうしようもないやるせなさがあふれてきた。その思いに誘われるままに、緒沢の目を見つめ返す。
その眼差しに誘われるように緒沢は触れるだけの口付けをした。目を閉じてそれを受け止める桐子。
やがて、口付けは激しいものになっていき、緒沢の腕が桐子の肩に回されたとき、応えるように、桐子の手が緒沢の背中を抱いた。それを合図に二人の身体はベッドに沈んでいった。
穏やかな午後の日差しが差し込む頃。
桐子は司の病室にいた。
「海に飛び込んだとき、何があったの?」
「お父さんとお母さんが、窓を開けて、僕を車の外に押し出したんだ。やっぱり、僕を殺すことはできないって言って」
「そうだったの」
「ねぇ、桐子さん。僕のせいでお父さんもお母さんも死んでしまったんだよね。僕も死んでお父さんやお母さんのところに行きたいよ」
「せっかく、お父さんやお母さんが助けた命じゃないの。そんなことしちゃ駄目よ」
「だって、もう二人ともどこにもいないんだよ」
「つらいでしょうけど、忘れないで生きて。お父さんとお母さんは本当にあなたを愛していたってことを。そうすれば、きっと生きていて良かったって思えるときがくるから」
「本当に?」
「ええ、本当よ」
桐子は花のように笑った。
病院から出てくると、そこには緒沢が立っていた。
桐子は目をあわせずに緒沢の脇を通り過ぎようとした。
「桐子」
その声に桐子は立ち止まった。
「思い出させてくれて、ありがとう。私が女だってこと」
「お前が、好きだ」
搾り出すような緒沢の告白に桐子は顔色一つ変えなかった。そして、
「忘れて。でないと、もうあなたに会えない」
「なんで?」
桐子は無言で去っていった。
その後ろ姿を見つめながら、緒沢は思い出していた。
昨夜。
緒沢が矢を抜いた、桐子の左肩の傷を何度もなでて、口付けをしたとき。
声にならない叫びをあげてすがり付いてきた桐子。
一番大切なものは確かに腕のなかにあった。
だから、桐子がなんと言おうとも決してあきらめない。
何度でもこの腕に取り戻す。
そう思っていた。