空は五月晴れ。
日差しは柔らかく、緑は明るく、風は穏やか。

自然の全てが生命の歌を高らかに歌い上げる上機嫌な日。
昼前の爽やかな日差しが緑をきらめかせる欅並木の下を緒沢と桐子は歩いていた。
ゆったりとしたグレーのシャツを着た緒沢は緩やかな歩調で、時に足を停め、足元に咲く花を見つけては桐子に示す。白い半袖のサマーニットから伸びた桐子の手が艶々とした葉や花弁をするりと撫でる。
花に別れを告げ二人が立ち上がったときに耳慣れた声が聞こえた。


「課長!」
声の方向を見ると車通りを挟んで向こう側に市井の白髪頭があった。派手な柄のシャツを着てベージュのベストを着ている。なかなか粋な出で立ちだった。市井の隣には淡いピンクのツインニットを着た慎ましかやな佇まいの老婦人と、オレンジ色のワンピースを着た三才くらいの少女と、そして少女と手をつないだ若い女性がいた。
緒沢と桐子は道を渡り、市井の傍に近づいた。
「お出かけですか?」
緒沢が声をかける。職場では上司と部下という関係でも、それ以外の場所では緒沢は市井に対して敬語で喋る。緒沢なりのけじめだった。
「孫と一緒に初めて旅行に行くんですよ」
そう言って目を細めた視線の先には母親の白いパンツにしがみつく少女がいた。
「お名前は?」
桐子は少女の前にしゃがんで尋ねた。
「めい」
少女は桐子を興味深げに見返した。
「木の芽の「芽」に「衣」と書くんです」
市井の妻が言い添える。
「芽衣ちゃん。おじいちゃんと何処行くの?」
「あのねー、でんしゃのってーおべんとーたべるのー」
「そう、いいねー」
「熱海ですよ。一泊ですがね」
はにかんだ笑みを浮かべながら、市井が答えた。
「ゆっくりしてきてください」
「課長も良い休日を。それでは行ってまいります」
市井は緒沢に含みのある笑顔を向け頭を下げた。
「いってらっしゃい」
桐子が芽衣に手を振る。芽衣は手だけでなく身体ごとぶんぶんと振り返す。
その姿に桐子の胸には暖かな気持ちが溢れた。

みどり児。
萌え出ずる緑のような命と、それを包み込む深い愛情。
この世で桐子がもっとも愛する光景だ。
親との縁が薄い桐子自身にはまるで縁がなく、初めて恋をしたときに一度だけ手に入れられるかもしれないと期待を抱いた。
夢が破れてからは、ただ見つめるだけの日々だった。けれど、それだけで充分幸福な気持ちになれた。
子供は桐子の希望そのものだった。

市井一家の姿が見えなくなるまで見送ってから、桐子は隣にいる緒沢を振り返った。すると極上の笑みを浮かべた緒沢が桐子を見つめていた。
「どうしたの?すごい上機嫌。まさか、小さい女の子が好き?犯罪よ、それ」
「んなわけねぇだろ、お前だよ」
「え?」
桐子は一瞬何を言われたのかわからず、口を半開きにしたまま緒沢を見返した。
「すっげぇいい顔」
大きな口が笑いの形に開いて八重歯が見えた。その顔に桐子の心臓が大きく脈打った。

そっちの方がよっぽどいい笑顔じゃない。

口には出さずに呟いた軽口も、桐子の胸の高鳴りを止められない。
「何、赤くなってんだよ」
「そんなことないわよ」
「ん?ようやく俺の魅力に気づいたか?」
「馬鹿なこと言わないで。日に火照っただけよ」
桐子は緒沢の先に立って歩き始めた。
「お店、こっちでいいの?」
「ああ。そこのおやっさんは自分で山に行っていろいろ採ってくるんだよ。今は山菜が最高。この辺じゃちょっとお目にかかれないもんばっかり」
「どんなの?」
「たらの芽、わらび、こごみ・・・」
誇らしげに山の幸の名前を列挙する緒沢の声を背中で聞きながら桐子は思う。

まったく油断のならない男。
計算なのか、天然なのか。
ほんの些細な変化も見逃さずに、するりと懐に入ってくる。
悔しいのはそれが少しも嫌じゃないということだ。

桐子は顔を上げて、目の前に続いている欅並木を眺めた。さやさやとそよぐ葉はどんどん輝きを増している。

全てはこの世界に満ちた光のせいだ。生命を照らし、育む光。
緒沢の笑顔に甘く切ない思いが溢れるのも、声の響きを聞いていたいと思うのも、全部。だから、今日は素直になろう。
全ては五月の光のせいなのだから。

そう結論づけると、桐子は後ろを振り返った。

「好きよ」
「どれが?」
「全部」

そう言って桐子は上機嫌な笑顔を見せた。




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