八月の暑い日のことだった。


「ちはっす」
卒業してから二年と四カ月。
何も音沙汰もなかった沢田慎が黒田一家の門を叩いた。
テツに呼ばれて駆けつけた久美子は、夏の強い日差しを背負い、濃い影に縁取られた慎の顔を見た途端、戸惑いの表情を浮かべた。しかし、それは一瞬で消え、つり上がった三白眼を見開き、ゆっくりと口角が引き上げられた。
「随分とご無沙汰だったな。」
腕組みをしながら、かつての教え子を見下ろす。
小汚いスニーカーとジーンズ、クリーム色のTシャツ、右肩にくすんだグリーンのディバッグ、そして、最後に見たときよりもわずかに短くなった赤い髪。逆光が影を落とす顔は相変わらずの無表情。しかし、久美子の姿を下から上へ眺め終えると、にやりと片頬を上げた。
「変わらねえな。」
「お前こそ。他人の釜の飯を食ったら少しは成長するかと思ったら。」
「生まれつきなんだろ。」
二人の笑みが深くなる。
「こんなところじゃ何だ、あがってけ。」
久美子が顎をしゃくるが、返ってきたのはそっけない返事。
「土産、置きにきただけだ。五時までに家に行かなきゃねえ。」
「お前、まだ帰ってねえのか?」
細いフレームの眼鏡の奥の瞳が驚きに見開かれる。それに構わず、慎の左腕は流麗な書体で紺色の文字が書かれた紙袋を突き出した。
「これ。」
久美子は両手で受け取りながら、中味を覗いた。
「なんだ?」
「蒲鉾。はもが入ってるヤツ。味は保証する。」
「ありがとよ。でも、無理しなくていいんだぞ。」
「バイト先の人に持たされたんだ。三代目と京さんによろしく言っといてくれ。」
久美子が玄関に来る前に、二人が出かけていることをテツから聞いていたのだろう。慎はそれだけを告げると踵を返して、組名が書かれた引き戸に手をかけた。
「待てよ、駅まで送ってく。」
脇に控えていたテツに紙袋を預け、三和土に飛び降りると久美子は慎の後を追った。



駅へと向かう道筋は商店街になっている。夕食の買い物で込み合うにはまだ少し早く、店も行き交う人たちものんびりとしていた。
「いつまでこっちにいるんだ?」
隣りを歩く慎を見上げながら久美子が問う。
「三日。明日はクマたちと会う予定。お前は?」
歩く方向を見つめたまま慎が答える。
「そろそろ新学期の準備で、毎日学校だよ。」
話しながら久美子は慎の横顔を盗み見る。
卒業してから二年と四カ月。
それは気が遠くなるほど長い時間ではないが、短い時間でもなかったと思う。なのに、この男が視界に収まることに違和感が感じられないのはどういうわけだろう。
外見的な変化は少なからずある。顔からは少しだけ残っていた少年っぽい丸みがなくなり、体つきも一回り逞しくなっていた。
「バイトって何してんだ?」
慎の二の腕に視線を走らせながら久美子は訊ねた。
「魚屋の下働き。」
「ええ!?お前が?何やんの?」
久美子は大声を出した。
「魚おろしたり、並べたり、なんでも。」
慎は平然と答える。
「朝早いんじゃないのか?起きられるのか?遅刻魔のお前が。」
「最初はキツかったけど、慣れた。早いっつっても五時だし。店の人は二時に起きてるし。」
「・・・なんだか悔しいぞ。」
「何が?」
「お前、学校には一度もまともに来たことねえだろ。なのに、バイトにはちゃんと行くなんて。私よりバイト先の人の言うことのほうがきけるってのが。」
「・・・変なやつ。」
立ち止まって言い募る久美子の顔を見下ろして、慎はぽつりと呟いた。



商店街が切れると右手に小さな神社が現れた。慎は足をとめて鳥居に掲げられた額を見上げた。
「ここ、天神さんだったんだな。お参りしてこ。」
慎はすたすたと鳥居に向かって歩いていった。久美子は慌ててその後を追った。背中を見ながら、さっきの慎の言葉に感じた違和感を反芻する。
こいつって、こんな言い方をする奴だっけ?その疑問をそのまま口にする。
「沢田。言葉、おかしくないか?」
「そうか?」
「「天神さん」って。」
「ああ、バイト先の人が、何かっていうと仏さんや神さんにお参りする人だから。・・・うつってっか?」
「ちょっと。」
自分で言った言葉が久美子の胸をちくりと刺す。
私は知らない。朝は早起きで、魚をおろすのが上手で、少しだけ関西訛り。そんな沢田慎は知らない。



「なんで、京大なんだ?お前だったら、東大だって狙えるだろう?」
三年生の夏休み明けに提出された進路希望調査票を見て久美子は訊ねた。
「親父と一緒はごめんだ。」
久美子の目を見据えて慎は答えた。
それから六ヵ月後。届いた合格通知は白金学院に開校以来の大騒ぎを巻き起こし、その張本人は涼しい顔をして西へと旅立った。
久美子は黙ってそれを見送った。



結局、教師なんて損な立場なのだ。学校という限られた時間と場所で、見守ることしかできない無力な立場なのだ。こいつをこんなにも変えた時間の中に自分はいない、そう思うと無性に悔しかった。
隣りで手をあわせる気配を感じながら、二年四カ月前に一瞬だけ頭をよぎった考えを久美子は思い出していた。



「何をお願いしたんだ?」
参道を歩きながら久美子は訊ねた。
「何も。神さんにはお願いをするもんじゃない、感謝するもんなんだって、バイト先の人が言ってた。」
「・・・そうか。」
鳥居の真下にくると慎の歩みが止まった。ゆっくりと久美子の方へ向き直る。
「今夜、親父と話すんだ。就職について。」
「何になることにしたんだ?」
「親父を納得させられたら、報告する。」
「そうか。がんばれ。」
「・・・そいつが聞きたかった。」
久美子は一瞬自分の耳を疑った。しかし、慎は表情には何の変化もおきておらず、ただ、切れ長の目が懐かしそうに細められただけだった。
それから二人は駅までの道のりを黙って歩き続け、改札口のところで別れた。
見送った後ろ姿に久美子の胸は何故か熱くなった。



電車のドアに寄りかかって、窓の外を流れていく町並みを眺めながら、慎はさっきの久美子の姿を思い起こした。
化粧気のない顔、無造作な長い髪、そして、誰よりも強い瞳。
等しく流れた月日なのに、久美子の姿が変わらないのは大人だからなんだろう、と慎は思う。
知らない街で二年間一人で暮らして、どうしてもやりたいことを見つけた。それもこれも大人になりたい、負けたくない、という意志を授けてくれた女のおかげだと、今は素直に認めることができる。
だから、こんなに時間が経っても借りが増えていくのなら、今度はあいつに近い場所で返していこうと決めたのだ。
まずは、あいつが助けてくれた最初の難関を今度は自分の力だけで突破する。慎はそのために戻ってきた。
そして、戦いの前に、一人の夜に何度も思い起こした自分の女神の姿をこの目に焼き付けるために。

「でも、親父サンダルはないよな。」

女神の足元は急いでつっかけてきたらしい男物のサンダル。
この記憶を塗り替えるためにも絶対に勝ってみせると、慎は決意を新たにしたのだった。




top