白くて四角い取っ手には、さり気なく「PULL」という文字が刻まれている。

緒沢の大きな手が、それをつかんでぐいっと引っ張ると、暖められた空気とともに焼きたてのパンの匂いが流れ出してきた。
「いらっしゃいませ」
青いバンダナを頭に巻いた女性が笑顔で出迎える。手には濃厚なバターの香りをたちのぼらせるクロワッサンが山とはいった籠を抱えていた。
入り口に面している壁はすべてガラスばりになっていて、差し込む朝の光が壁を埋めつくす白いタイルの滑らかな肌を照らしている。
耳障りにならない程度にかすかに流れている、軽やかな弦楽器の調べ。

緒沢と桐子は、入り口のすぐ側に積み重ねてあるベージュのプラスティックのトレイと銀色のトングをそれぞれ手にとって壁にぐるりと並べてあるパンの棚に歩みよった。
「お、また新しいのが出てる」
注意深く棚に並べられたパンを眺めながら緒沢が言う。
「何?」
「マスタードドッグだって、これにしてみるかな」
「あんたってほんと、新しいもの好きよね。落ち着きがないったら」
「んなこと言ってると、やんないぞ」
そういって、緒沢はソーセージが挟まった細長いパンをトレイにとる。そして、冷蔵棚のところでローストビーフのサンドイッチを選んだ。
桐子はタルトほどの小ささのほうれん草のキッシュロレーヌと、透明なプラスティックの容器に入ったバゲットのフレンチトーストをトレイにとってカウンターに向かった。
「プレーンチャイ、ホットで」
「フレンチトーストを温めますので、少々お待ちください」
レジのなかの丸顔の女性は、フレンチトーストの容器のふたをあけてレンジに入れた。回りだしたターンテーブルをそのままに、銀色のマシンを操作して、紙コップにキャラメル色の液体を抽出する。
隣のレジで注文したコーヒーを受け取った緒沢がトレイを取り上げて言った。
「席、とってる」
桐子が無言で頷いたのを確かめて、緒沢はレジの右奥にある階段へと向かった。


桐子のマンションから歩いて5分のところにあるこのベーカリーは持ち帰りはもちろんのこと、ドリンクメニューもあり、二階には椅子とテーブルが並べてあって、その場で食べることもできる。


「そろそろ、起きないか?」
緒沢が桐子の部屋に泊まった何度目かの朝、二人の休日が初めて重なったその日。
カーテンを開けながら緒沢は振り返ってベッドの上の桐子に声をかけた。冬の低い太陽の光が鋭く入り込んで、桐子のガウンを着た彼の輪郭を白く浮き上がらせている。桐子は覚醒していく意識のなかで、ぼんやりとその光を目で辿った。
「おはよう」
照れくさそうな笑みを浮かべて、緒沢はベッドに歩み寄った。
「おはよ」
緒沢の顔から視線を外し、かすかな声で桐子が答える。
「腹減ったな。朝飯、どうする?なんか作るか?」
「台所が汚れるから、料理しないで」
「・・・お前、絶対なんか間違ってるぞ。台所は料理するためにあるんだろうが」
心底あきれ果てたという緒沢の声を聞き流して、桐子はベッドから起き上がった。
「行ってみたいとこ、あるんだけど」

そして二人で出かけたのが、このベーカリー。

桐子は通勤のとき、いつもこの店の前を通っていた。ガラス越しに見える白い清潔そうな店内、ふと鼻先をかすめるパンの香りがなんとなく気になっていた。しかし、朝は出勤時間ギリギリだし、帰りにはもうシャッターが降りているので、中に入ったことはなかった。

見覚えのある店名から全国チェーンの店だと知れた。
中に入ってみると、接客の女性たちははきはきと喋ってとても感じがよく、天然酵母のパン、ぱりっとしたレタスが瑞々しいサンドイッチ、きれいにカットされた果実をのせたデニッシュ、カリカリに焼けたクロワッサンなど食欲をそそられるものばかりだった。食べてみると見た目を裏切らないおいしさで、二人ともいっぺんに気に入ってしまった。
それ以来、緒沢が泊まった次の朝、休みが重なっているときにはこの店に来て、朝昼兼用の食事をとることが二人の習慣になった。


緒沢が二階にあがると、テーブル席は女性客で半分ほど埋まっていた。そのあいだを通り過ぎて窓際のカウンター席へ向かう。こちらは誰もいない。
左端から二つ目の席にトレイを置き、パーカーを脱いで右隣の席にかけた。
桐子は一緒に食事をするとき、向かい合って座るのを好まない。食べているところを面と向かって見られるのは嫌だと言う。だから、緒沢はどこに行っても桐子の右側に座るようになった。
グリーンの紙コップをとりあげ、コーヒーを一口飲んで窓の外を見やると、通りを行き交う人たちの頭が見える。

今日は何をしようか。

鮮やかなクリーム色のコートが風に翻るのを見るとはなしに見つめながら考える。

天気もいいし、あったかくなってきたし、外に行きてぇな。
そろそろアサリが出回る頃だし、深川飯でも食いに行くか。
きっとあいつも気に入るだろう。

そこに思考が達したとき、緒沢の目の端を白いものが横切った。
左隣に感じる、いつもの気配。
緒沢は笑顔で振り返った。



この店では、フレンチトーストを店内で食べるときには温めて、メイプルシロップを添えて出してくれる。バゲットの歯ごたえと、濃厚なメイプルシロップのバランスがちょうどいい。桐子がこの店でよく選ぶパンだ。
湯気を放つ紙コップと一緒にそれを受け取った桐子は、ゆっくりと階段を登る。
フロアに立ってあたりを見回すと、窓際のカウンターに柔らかそうなグレイのシャツを着た後姿が目に入った。見慣れた肩のラインに引き寄せられるように桐子は歩きだす。
緒沢の左隣にひとつだけあけられた白い丸椅子が、窓から差し込む光に照らされて輝いている。
桐子は眩しさに目を細めた。


「何、つったってんだよ」
斜め後ろに立ち尽くしている桐子に、緒沢は笑いながら声をかける。
桐子は弾かれたように歩き出して、緒沢の右隣のテーブルにトレイを置いて、皮のジャケットを脱ぎ、白いタートルネックのセーター一枚の姿になった。ジャケットは緒沢のパーカーの上に重ねる。
桐子が椅子に座ったのを確かめると、サンドイッチを包んでいた透明のビニールをはがして、緒沢は食べ始めた。
桐子も紙コップを両手で持ってふうっと息を吹きかけて一口飲んだ。
桐子は実は猫舌で、熱いものはそうして冷ましてから飲む。一緒に食事をするようになってから緒沢が気づいたくせだ。普段の彼女からは想像もつかない子供っぽい仕草を、緒沢はひそかに気に入っていた。
「ほら、食べてみろよ」
緒沢はパンを両手で二つに割って、桐子に差し出した。
「いいよ」
「いいから、試してみろって」
桐子の手の中に押し付ける。緒沢は新しいパンを選んだときには、必ず桐子に分けてよこす。やんないぞと口では言ってみても。
桐子は受け取ったパンを一口、かりりと噛んだ。
自分の分を食べ終わった緒沢は、桐子の反応をうかがおうと左隣にあるはずの顔を覗きこんだ。そのまま、息を飲む。
「・・・桐子?」
白い頬には涙が二筋伝わっていた。
「どうしたんだ?桐子」
桐子は右手で目を押さえて呟いた。
「か・・」
「か?」
「辛子が・・・しみた」
そう言って桐子は顔を伏せた。
「ごめん、大丈夫か?なんか飲むか?」
緒沢の手がいたわるように桐子の背中に触れた。
「いい。ちょっと、ほっといて」
「桐子」
不安げに眉をひそめ、耳元で名前を呼ぶ。
「・・・買ってきて」
俯いたままで桐子は言う。
「あ?」
「口直しになんか、甘いの、買ってきて」
「ああ、甘い奴な、わかった」
緒沢はほっと息をつくと、席を立って小走りに下へと降りていった。



緒沢の気配が遠ざかると、桐子はゆっくりと顔をあげ、辺りを見回した。
窓から差し込む光、室内を埋め尽くす人々のざわめき、かすかに聞こえるゆったりとした弦楽器の調べ。

自分の周りの世界がこんなにも穏やかで、優しくて、光に満ちていることに今、初めて気がついた。

ずっと忘れていたことを思い出す。
遠い昔。
啓に出会うよりももっともっと昔、私にはひとつの夢があった。
愛した人に裏切られ、憎しみに駆られて罪を犯した私には、もうその夢を見る資格すら失われてしまった。緒沢と過ごし始めたときにも、そんな夢のことなど、一度も考えたことはなかった。

なのにどうだろう。
私はいつのまにか、この光あふれる場所に連れ出されている。
そして、緒沢は惜しげもなく、私にパンを分け与えるのだ。

今、気がついた。
これが私が欲しかったものだ。
はるか昔に夢見たかたちとは全然違うけれど、これが私が望んでいたものだ。

神様、生まれて初めてあなたに感謝します。
私にこの場所を与えてくださって。


ざわめきをかき分けて、もう耳に馴染んでしまったうるさい足音が聞こえる。
顔を見なくてもどんな表情をしているのかわかる。
眉間に寄せられた皺、何かを問いたげな口元。鋭い眼差しに心配そうな色を浮かべている。
今まで生きてきて何よりも愛しいことは、この顔をずっと見ていたいと思えるようになったこと。

ひときわ鮮やかなトランペットの音が聞こえる。
明るい場所に向かって扉が開け放たれていくようなメロディ。

「ありがと」
すべての想いを込めて告げよう。
そして、声にしない言葉で伝えよう。
「さようなら」

二人が初めて出会った、春の日は一週間後のことだった。


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