東京を吹き過ぎた春一番は、勢いあまって冬将軍を呼び戻してしまった。
弥生も半ばの東京の夜空に白い花が舞っていた。

「ついてねぇな」
隣で上がる心底残念そうな呟きを聞き流しながら、桐子はさらに脚を早めた。

始まったばかりの逢瀬を打ち切ったのは緒沢の携帯電話に入った呼び出し。
冷気が痛いほど突き刺さるこんな夜は鮟鱇鍋に限ると、緒沢の行きつけの店の最寄り駅で待ち合わせ、二人揃って歩き始めてまもなくのことだった。
緒沢が電話を切った後、二人はすぐさま来た道を駆け足で戻り、地下道へ降り、改札口の手前で立ち止まった。桐子のマンションへ行く路線の駅は地下道で繋がってはいたが、ここから数百メートル離れていた。
「この埋め合わせはまた今度な」
「いいから、早く乗って」
「今日は寒いから、ちゃんと風呂入って温まって寝ろよ」
「何それ?子供じゃないんだから」
「お前、薄着だし、すげー寒そうだし、心配なんだよ」
「・・・心配、心配って、あなたはそればっかり。そんなこと言ったって、あなたは行ってしまうんでしょ?呼び出されれば。自分ができない言い訳に「心配」なんて言葉を使うのは止めて」
「・・・」
「早く行ってよ」
「わかったよ。じゃあな」

肩を落として立ち去るグレーのコートの後姿が見えなくなった途端、桐子は踵を返して来た道を足早に戻った。

わかっている、こんなのは八つ当たりだ。

歩きながら桐子は思う。
お互いに同業者。仕事の呼び出しには何をおいても駆けつけるのは当然。そのことには何の拘りもない。なのに今夜は、気遣わしげな緒沢の様子が桐子の苛立ちをかきたてた。

会えることを待ち望んでいた気持ちを見透かされたようで。

・・・そんなこと、気づかないで。

頭を振りながら、桐子は階段を駆け上がる。
足元が平らになると同時に、風花を含んだ北風が頬に触れた。
その冷たさに見開いた目に飛び込んできたのは糸月。ビルの隙間に浮かぶそれは、血塗られたように朱に染まっていた。

ああ、月よ。
その鋭い刃で私を切り刻んで。空を漂う雪ほどに小さく。
そして、北風よ。
私を宙に飛ばして、この空にばら撒いて。

あなたを温める、そんな温もりを持たない私だから。
せめて、あなたを傷つけない、そういうものになりたい。

そういうものに、私はなりたいのに。




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