いつからだろう。
彼の瞳に映る自分に、女を意識するようになったのは。
「しのぶさん」と下の名前で呼ばれるようになった時から?
いいえ、最初に耳にしたときは、馴れ馴れしさが嫌で何度も訂正を要求した。なのに、彼は意地の悪い笑みを浮かべてはぐらかし、そのうえ、私に何度も貸しを作るから、次第に何も言えなくなった。
それに馴染んでしまえば、彼の呼びかけは不快ではなかった。ただ、どんな女性も同じように呼ぶのだろうかという考えが、ふとした瞬間に頭をもたげることがあった。それだけ。
なら、いつからだろう。
書類を受け渡した時に触れる指先や、ロッカーの陰で着替える時の自分の衣擦れの音の大きさが気になり始めたのは。
ぺたん、ぺたんと安物のサンダルを引きずって歩く音がドアの向こうから聞こえてくる。耳を澄まさなくともそれが誰だかわかる。
小さなため息を一つついて、とっくに止まっていた手をノートパソコンのキーボードの上から外し、すっかり冷め切ったコーヒーが4分の1だけ残っているマグカップを手に立ち上がる。
廊下の一隅にある喫煙コーナーでの食後の一服が終わったのだ。
朝に淹れたコーヒーメーカーの後始末をして、午後の分を作らなくては。彼は煙草の後のコーヒーを、細い目をさらに細めて、大事そうに啜るから。
そう、彼の呼びかけだけではなく、こんなことまで馴染んでしまうくらい側に居すぎたから。
ここにいる理由が同僚だから、というただそれだけのことなのに。
ともに過ごした時間の濃密さが私を錯覚させている。
いつか必ず来る、ここを去る時には、「元同僚」という関係だけを持っていくつもりなのに。それ以上のことなんて、ありえないのに。
「コーヒー淹れてくれたの?ありがと」
この言葉を聞きたくて、コーヒーメーカーの前に立っている私は、どうして、こんなにも女なんだろう。
top