耳慣れたはずの靴音の合間に、軽く硬い音が挟まる。
胸にかすかな軋みを走らせるそれを聞きながら、素子は自室のドアに辿り着いた荒巻の前に音もなく現れた。
「どうかしたか?」
「・・・」
「・・・入るか?」
黙ったままの素子に顎をしゃくりながら横のパネルに手をかざすと、ドアは二人が並んで通れるほどに開いた。
九課が発足した当初から、基地には荒巻のプライベートルームが備えられている。
笑い男事件の時に壊滅した基地にも、一年ほど前に組織拡大が行われ、大掛かりな移転が行われたときにもそれは確保された。
しかし、ビジネスホテルの一室ほどの広さと設備しかなく、生活感は皆無に近かった。
ただ一つのことを除いては。
「香り、変えた?」
「ああ、前のが製造中止になったんでな。前のとほぼ同じのを頼んだんだが、よくわかったな」
荒巻は奥行きの浅い粗末な事務机に向かって腰を下ろし杖を脇に立てかけた。そして、デスクの上に置かれた青磁の香炉の蓋を開けた。
閉じたドアにもたれた素子は荒巻を見ながら目を細めて答える。
「それは、この義体が軍仕様だからよ」
「だが、関心がなければ知覚すまい」
「・・・そんなことを言うの、課長ぐらいよ」
素子は懐かしそうに目を細めた。
荒巻は慣れた手つきで炭に火をつけ、少し離れた場所に新しい練香を置いて蓋を閉める。香が燻りはじめると同時に素子が口を開く。
「足、どうしたの?」
「ああ、これか。茅葺総理を狙った暗殺者がかなりの手練れでな。バトーがいなかったら死んでおったよ」
「そう」
「バトーに言われたぞ。「少佐が戻るまで、死ぬな」と」
「・・・勝手な男ね」
「全くだ。だが、わしもそうだと思った」
「待ってなんか、いなかったでしょう」
「そうだ、年寄りには待つ時間なぞ残されてはいない。最小のリスクで最大の成果、常にそのことだけを考えて行動してきた。期待は判断を狂わせる。そんなものは全て捨て去った。お前も知ってのとおり、ここにあるものがわしの全てだ。だが、希望は邪魔にならん」
「希望って?」
「口になど出せるか、それにもう叶った」
荒巻は椅子に深く身体を沈め、素子から視線を反らせた。
立ち上る香りが二人の間を満たしてゆく。
見えず、聞こえず、触れることもできない。
窓を開け、風を導いたなら、全ては瞬時に消え去ってしまう。
けれども、確かにここにある。
素子は目を閉じて小さく息を吸い込んだ。
そう、ここに確かにある。
「それ、負わなくてもいい傷だったかもしれないわ」
「自分をそんなに過信するものじゃない。それに杖を持っていると道や席を譲られたり、相手に警戒されなかったりで、結構便利なものだぞ」
「・・・課長には敵わないわ」
「年寄りには花を持たせておけ」
「そんなこと言ってられるのも今のうちよ。まだまだ引退なんてさせてあげないわ、覚悟しておいて」
「楽しみにしとるぞ」
不敵な笑顔を残して去ってゆく素子を見送りながら、この香りが消える日が来ても、自らの命が終わる日が来ても、消えないものが確かにあることを荒巻は確信していた。
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