「やっぱり、降ってる」
雨の音に混じって、桐子がつぶやく声がする。
緒沢は会計を済ませ、カウンターに向かって「ごちそうさん」と声をかけると、桐子が開けたガラス戸から店の外に出た。後ろ手で戸を閉め、桐子の隣に並ぶ。
桐子は軒下で雨を避けながら、腕だけを外に伸ばし、空から落ちてくる雨粒を受け止めていた。
「結構すごい降りだわ」
「予報どおりだな」
二人は揃って雨雲の立ち込めた空を見上げた。

緒沢は会議に出席するために警視庁に来ていた。会議自体は最近多発している警察不祥事の再発防止とか、年末に向けての綱紀粛正とか、そういうものを伝達するだけの簡単なもので、昼前に終わった。
あらかじめ約束していたとおり、緒沢はエントランスで桐子と落ち合い、昼食を食べに外に出た。
緒沢が本庁に来たときは必ず寄るという、庁舎から歩いて10分ほどのところにある小さな天ぷら屋で、ランチタイムにしかやってない、かきあげ天丼を二人で食べて、店を出たところだった。

「ちょっと待ってろ、折りたたみ、出すから」
そう言って緒沢は右手に持っていた茶色の鞄のファスナーを開けて、中に手を突っ込んだ。
「用意いいじゃない」
「予報で言ってたろうが」
言いながら小さな紺色の折りたたみ傘を取り出した。緒沢は鞄を右脇に挟んで両手を自由にすると、カバーを取り去って、スナップを外し、傘を開いた。ばさっと音をたてて紺色の大きな傘が広がる。
「行くぞ」
緒沢は右手に鞄を持ちなおし、左手で傘をさして雨の中に出た。桐子は緒沢があけた左側に並んだ。踏み出した拍子に肩がぶつかる。
「あ、ごめん」
「いいって、濡れるからもっと寄れよ」

「駅まででいいわ。署に戻るんでしょ?」
歩き始めると桐子が言った。食事をしているときに、緒沢はこれから地下鉄で多摩まで戻って職場に出ると言っていた。
「お前、職場には傘あるのか?」
「持ってないわ」
さらりと桐子が返事をする。
「・・・え?」
緒沢は聞き間違えたかと思って、自分の左肩にある桐子の顔を覗き込だ。桐子は緒沢の視線から目をそらし、前を見つめて言った。
「傘さすの嫌いだから、持ってない」
「なんで?」
傘を持ってない人間なんて、この世にいるのかよ?そう思いつつ、緒沢は疑問の言葉を口にのせた。桐子は少し考えてから答えた。
「手ぶらでいたいのよ」

緒沢は今まで桐子と会ったときのことを思い返してみた。
そう言えば、手に何か持っているところは見たことがないような気がする。
「女は普通、バック持つだろ?」
「動くのに邪魔だし、手がふさがってるのって嫌いなのよ」
「でも、最低限、持ち歩かなくっちゃいけないものってあるだろ?」
「こいつに収まってるわ」
そう言って桐子は自分の上着を指差した。いつも身に付けている、明るい茶色のレザージャケット。
「アドレス帳とか」
「警察手帳はここ」
桐子は上着の左前をはだけて、内ポケットを示す。
「携帯とか」
「それはここ」
右側の腰の位置にあるポケットを指差す。
「財布とか」
「それはこっち」
ジャケットの右胸のあたりに触れる。
「筆記用具とか」
「優作から借りるから」
「化粧道具とか」
「優作から借りるから」
「・・・それは嘘だろう」

「あんたの鞄には何が入ってるの?」
桐子が緒沢の右手の鞄を指差した。それは茶色い革でできた、小ぶりな鞄だった。
「いつ現場に駆けつけてもいいように捜査の七つ道具と、電車の中で読む本と・・・」
「出たよ、心配性」
桐子はからかいを含んだ口調で言う。
「これが普通だ」
緒沢は横目で桐子を見ながら言い返す。

緒沢の視界に数メートル先のコンビニが入った。
あの角を右に曲がると地下鉄の駅、左に曲がると警視庁だ。
アスファルトに打ち付ける雨は勢いを増している。予報で言っていたとおり、雨は夜までずっと降り続くだろうと緒沢は思う。
俺の左肩に触れている女は傘を持っていないと言う。
あの角で別れて、この傘から出たら、ずぶ濡れになるのも構わずに歩くのだろうか?
そんなことはさせられない。
コンビニの前に着くと緒沢は立ち止まった。
「ちょっと、これ、持ってろ」
有無を言わさず、傘と鞄を桐子の手に押し付けると、緒沢はコンビニの中に駆け込んだ。

右手に緒沢の傘、左手に緒沢の茶色の鞄を持たされて、桐子は呆然と緒沢の後ろ姿を見送った。
「なんなの?あいつ」
そう呟くと左手にずっしりと感じる鞄に目をやった。緒沢の鞄は革が柔らかい感じになっていて、ところどころが擦り切れたり、小さな傷がたくさんついている。それも味があって、大切に使い込んでいることが感じられた。
桐子は落とさないように鞄をしっかりと持ち直して、あたりを見回した。
急な雨にも関わらず、色とりどりの傘を差した人たちが通っていく。雨に濡れたモノクロの街に鮮やかな彩りを添えている。
とても綺麗だと思う。
でも、私はこの中には入れない、入りたくない。
だって、私には傘がない。
さっき緒沢に告げたことは嘘ではないけれど。
昔、私にも大好きな傘があった。でもそれは、あのとき、置いてきてしまったから。
大切な思い出の詰った傘だったけれど、私は自分で手放してしまったから。
だからもう傘は持たない、そう自分で決めた。
それなのに、どうしてあいつはこんな無造作に、自分に傘を持たせるのか。
緒沢の傘はとても大きくて、暖かい紺色をしている。
傘を見つめていたら、大きな腕の中に抱きしめられるイメージが桐子の頭にかすめた。
・・・私は、いったい何を考えている?

「これ、持ってけ」
コンビニから戻ってきた緒沢は、右手に握った傘を桐子に差し出した。
銀色の細い柄がゆるやかなカーブを描き、布地はわずかに黄味がかった白い傘だった。
「もう秋だ、濡れたら風邪ひくぞ。後で捨てていいから、せめて本庁に戻るまでは、さしていけ」
緒沢は桐子の手から自分の傘と鞄をとりあげると、桐子の手に白い傘を握らせる。
「濡れ鼠になるのはお前の勝手だが、周りの迷惑も少しは考えろよ」
桐子に向かって傘をさしかけながら、緒沢は言う。
桐子は受け取った傘をまじまじと見つめる。
その傘は桐子がかつてなくした傘ととてもよく似ていた。
どうして?
知っているはずなんてないのに。
どうして、私がなくしたのとそっくりな傘を差し出すの?
「・・・おせっかい」
内心の動揺を押し隠して、桐子は一言だけを口にした。
「お前のそいつは聞き飽きたよ」
ため息混じりで緒沢は答えた。
緒沢がさし掛ける傘の下で、桐子は銀色の細い柄をたどって、白い傘を花開かせた。モノクロの街に一瞬光がさす。
桐子が傘をさしたのを見届けると、緒沢はにやっと笑った。
「じゃあ、またな」
紺色の傘を少しだけもちあげて降るとすたすたと駅に向かって歩きだした。
桐子は言葉もなく、その後ろ姿を見送った。

自分で自分の傘を持って歩いていく緒沢。
自分で傘をさして歩けと言う緒沢。
なくしてしまった傘とそっくりな傘を手渡してくれた緒沢。

なくしてしまったものは、永遠に取り戻すことはできないと思っていた。
失った痛みを感じつづけることだけが、全てを失わない唯一の方法だと思っていた。
でも、こんなふうにふたたび出会えることがあるのか?
取り戻すことができるのか?

その考えは私の中に生まれたばかりで、ほんのため息一つで消えてしまいそうなほど、はかないものだけれど。
あいつからもらったこの新しい傘をさして、怖いけれど、不安でたまらないけれど、一歩ずつ歩いてみようか。

雨の日の思いがけないプレゼント。



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