「今年最高の冬型の気圧配置で、今夜半から明日にかけて雪で大荒れになる見込みです。ご注意ください。」
二人の目の前にあるテレビはから聞こえてくる滑舌が良い男の声。画面には日本列島の北の太平洋の海上に低気圧と、それを幾重にも取り巻く等圧線が描かれた天気図が映っていた。
「今夜は間違いなく電車、停まるわね」
マグカップを口元に運びながら桐子は呟いた。
「ったく、大して降るわけじゃねえのに、東京の交通機関は軟弱だぜ」
「何言ってんの。大して降らないから対策してないんじゃない」
「そりゃそうだけどさぁ」
緒沢は深いため息をつきながら、剥き終えた林檎を桐子に差し出した。



前日から泊まりに来ていた緒沢と桐子はテレビを見ながら遅めの朝昼兼用の食事をとっていた。
桐子の部屋にはダイニングテーブルはない。ちょっとした食事のときはベッドに腰掛けて、サイドテーブルを使う。それに載りきらないときには床にトレイを並べてベッドにもたれる。
今日のメニューは夕食の残りのライ麦パンにバターとハチミツを添えて。それから、桐子が淹れたカフェオレと緒沢の実家から送られてきた蜜のたっぷり入った林檎。サイドテーブルの上に載せたそれらをつまみながら、二人はテレビを見ていた。



「ごちそうさん」
くし型に剥いた林檎の最後のひとつを口に放り込むと、緒沢はテーブルの上の皿を手に立ち上がってキッチンに消えた。桐子は定位置にテーブルを戻すと窓に向かった。
桐子の部屋は8階の角部屋で、周囲を背の高いビルや真新しいマンションに囲まれているが、ちょうど窓のあたりは建物の隙間にあたっていて空が見える。
目が覚めてカーテンを開けたときよりも雲を厚みを増しており、いつ降り出してもおかしくない様子だった。
緒沢が後片付けを終えてキッチンから戻ってきても、まだ桐子は窓の外を眺めていた。
「洗剤もうないぞ、ゴミ袋もあと2枚」
「そう」
桐子は空を見上げたまま気のない返事をする。
緒沢はそんな桐子の目の前に回り込み、顔を覗き込んで言った。
「買い物、行こう」
桐子は眉を顰めた。
「後で行くからいい」
「んなこと言って、お前の場合いつになるかわかんねぇだろ」
緒沢の大きな目がさらに開かれて桐子を見る。
「いいじゃない、別に」
吐き捨てるように言うと桐子は視線を外してしまった。
「とにかく出かけよう」
さらに言い募る緒沢に桐子はだんだんイライラしてきた。
「やだったら」
「なんで?」
「寒いから」
「寒いの平気だろ」
「眠いから」
「起きたばっかじゃねえか」
「食べたら眠くなったの。行きたければ一人で行けばいいじゃない」
「一緒に行こうぜ」
「しつこいわね、いやだってば」
語気を強め、桐子は緒沢を睨みつけた。その視線を受け止めて緒沢は二度ほど目をしばたかせたが、桐子の表情が変わらないのを認めると小さなため息を一つついた。
「・・・わかったよ」
緒沢は鴨居にかけたハンガーから上着をとり桐子の部屋を出て行った。



「何なのよ、いったい」
拍子抜けなほど静かに閉じられたドアに向かって桐子は呟いた。
桐子には緒沢の行動が理解できなかった。どうして出かけようと言うのか、どうして一人で出て行ってしまうのか。
二人とも休みは今日一日だけで明日は仕事が待っている。これまでの逢瀬では緒沢の家に向かう最終電車の時刻が一緒にいられるリミットだった。けれど、悪化の一途を辿る今日の天候では、交通機関に支障が出る前にここを発たなければ、緒沢が家に帰り着くのが何時になるかわからない。
「あと何時間あると思ってんの?」
桐子は窓の外を見上げた。



緒沢が戻ってきたとき、桐子はベッドのうえに寝転んで本を読んでいた。けれども、目は字の形を追うばかりで文章の内容はほとんど頭に入らず苛立ちばかりが募っていた。そして、その怒りの矛先は、元凶であり、ただいまの声は聞いたきり、一向にリビングに入ってこない緒沢に向いた。桐子は乱暴に本を閉じるとベッドから飛び降りてキッチンへと向かった。
「いったい何を買い込んできたのよ?」
桐子の声に冷蔵庫の前に屈みこんでいた緒沢が大きな目をさらに見開いて振り返る。そして、口元を緩めて目の前の棚を指差した。
「非常食だよ。大丈夫だ、足の早いものは買ってない。冷凍物とか缶詰とかだ。ちゃんと食えよ」
「そんなに買い込まなくても、ちゃんと食べてるわよ」
「お前のそれはあてにならねえ。前に会った時よりも痩せたじゃねえか」
「多少の増減は誰だってあるでしょ。いちいちうるさいったら」
「心配なんだよ」
「それが大きなお世話なのよ!」
言い放たれた言葉の強さに緒沢の眉がわずかに寄った。それを見た途端、桐子は売り言葉を買ってしまった自分に気がついた。けれど、それを表に出すことはできないまま緒沢の顔を見つめていた。桐子の視線を苦笑いで軽く受け流すと、緒沢は冷蔵庫の扉を閉めて立ち上がった。
「じゃ。降る前に帰るわ」
桐子の部屋に戻ってきてからも脱ぐことのなかった砂色のタウンパーカーの背中は玄関へと向かう。そして、ドアの前で桐子を振り返り、「鍵、ちゃんと閉めろよ」と一言を残して去っていった。



緒沢の姿が消えてからしばらくの間、桐子は見送った姿勢のまま動けなかった。やがて、ひどくゆっくりと歩き出し、緒沢に言われたとおりに玄関の鍵をかけ、その後、冷蔵庫の前にやってきた。扉を開けて中味を確認すると、冷凍室にはうどんやチャーハンなどの主食になるものが隙間無く詰まっていた。そして、冷蔵室にはミネラルウォーターのボトル。食品のストック置き場に決めたシンク下には、レトルトのスープと、パスタとパスタソースの缶詰、桐子が最近はまっているザワークラウトとソーセージの瓶詰めが並べてあった。どれも重くてかさばるものばかりだった。
桐子は扉を閉めて部屋に戻るとベッドに突っ伏した。



緒沢の行動は自分のことを思いやってのことだと理解できたが、桐子は少しも嬉しくなかった。
二人きりでいられる時間はとても短くて貴重なものだと桐子は思っている。だからこそ一緒にいる時間を桐子は桐子なりに大切にしていた。約束の日に休みを取るために何度か食事を抜いて残業したり、徹夜をするはめになっても平気でできた。そうした無理をしていることが緒沢に心配をかけていることを知ってはいた。
でも、桐子は自分の行動に干渉されたくはなかった。自分のことは自分が一番よく知っている、口を出す権利は誰にも、たとえ緒沢であってもないと思っている。だから、緒沢の気遣いはうっとおしいとしか思えない。
(人の好意をこんなふうにしか受け取れないなんて。)
桐子はベッドカバーに顔を埋めた。
(こんな自分が緒沢と付き合うことはそもそも無理なのかもしれない。)
付き合い始める前から何度も感じていた絶望が桐子を襲う。その重さに引きずられながら、桐子は柔らかな布地に残る緒沢の匂いを深く吸い込んで目を閉じた。



冬の日はあっけなく落ちて、雲越しのかすかな光すらなくなってしまった部屋のなか、桐子はベッドのうえでうずくまっていた。
サイドテーブルに置かれた携帯電話が鳴り始めると、桐子は緩慢な動作でそれに手を伸ばし、ディスプレイに表示された発信者の名前を確かめてから耳にあてた。
「はい」
「今、駅に着いた」
「ん」
「雪すごくなってきた。早めに出て正解だった」
「ん」
桐子の口から出るのはためいきのような返事だけだった。緒沢は普段と変わらない調子で続けた。
「明日歩く時は気をつけろよ。あんまり力を入れて勢いよく歩くと転ぶからな」
緒沢の言葉に桐子の脳裏でひらめくものがあり、それをそのまま口にした。
「・・・転んだの?」
「・・・なんでわかる?」
「雪国育ちも日和ったものね」
桐子のわずかに口元が緩む。しかし、返す皮肉にはいつもの覇気がなかった。それでも、桐子の言葉は全く不本意だと言わんばかりの緒沢の応えはいつもと変わらなかった。
「・・・空に気をとられたんだよ」
「なんで」
「見てみろよ」

桐子はベッドから降りた。
窓を見やるとほのかな光が見える。桐子は驚きに目を見開きつつ窓に駆け寄った。
突風が雲を吹き払ってしまったのか、重たげな灰色の塊は消え、中天で満月にわずかに足りない月が冴え冴えと光を放っている。そして、ふわふわと舞う花びらのように軽い雪が空中を埋め尽くしていた。
「きれいだろ」
「ん」
月光を受けて輝く雪はまるで星のようで、桐子は息を止めて見入った。

桐子の呼吸が再開したのを見計らってから、緒沢は静かに切り出した。
「さっきは悪かった、一方的に」
「・・・」
「お前が人の心配なんてわかんない奴だって忘れてたよ。でも、ちゃんと食ってくれよ」
緒沢の声にはすがるような響きがあった。
「・・・食べられない」
「おい」
「いくらあたしが好きだからって何よ、あの大きい瓶詰。一回じゃ食べ切れないじゃない」
「冷蔵庫に入れればいいだろ」
言い募る桐子の言葉に緒沢が不審気に呟く。
「そんなことしたら、美味しくなくなるでしょ」
そこまで聞いて、緒沢は桐子が言外に言わんとしていることに初めて気づいた。
「責任、とってよ」
「・・・わかったよ、今度一緒に食おう」
桐子の部屋から帰る道すがら、厄介な女に惚れちまったなあと緒沢は何度も思った。
けれど、この素直じゃない女が回りくどくい言葉で精一杯の気持ちを伝える。緒沢にはそれが嬉しくてたまらない。
「この雪も、一緒に見たかったな」
緒沢は立ち止まって空を見上げた。
「見てるじゃない、今」
それでも、この胸に溢れる愛しさを直接伝えたいと緒沢は思った。



「花びらみたいな雪だな」
「寒くない?」
「全然。雪の日ってあったかいんだよな」
携帯電話から聞こえてくる緒沢の声は冷え切った桐子の胸を温める。窓の外で降り積もる雪のように消せない過去の痛み、思いを返せない悲しみを包み込んで和らげる。
あの事件によって罪を背負って生きていくことになった子供たちのために、贖いを求め、罪に閉じこもった日々にはもう戻らないと桐子は誓った。けれど、人と触れ合うたびに感じる自分の醜さ、無力さに立ちすくんでしまうことともある。
そんなときにいつも道を照らしてくれる人がいる。世界は美しいと気づかせてくれる人がいる。生きるに値するかと自問自答する前に生きることそのものの喜びを教えてくれる人がいる。
桐子は空を見上げた。雪は何処から降ってくるのだろうかと。
そして、緒沢が家に帰り着くまで優しい雪が降り続くようにと天に向かって祈った。
祈れる自分がうれしかった。




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