桐子が仕事を終えて本庁を後にしたのは、時計の針が午後九時を指し示す直前。
地下鉄を乗り継いで三〇分後には駅を出て、マンションまでの道すがらにある閉店間際のスーパーに立ち寄り適当な惣菜を買い、十時を少し過ぎた頃には自分の部屋の玄関に辿り着いていた。
あの事件の後、蓮見を通じて借りたマンションを出て、新しい部屋を借りることにしたとき、桐子が不動産屋に出した条件はただ一つ。通勤が一時間以内であること。
職業柄、急な呼び出しが多いうえに、人ごみは大がつくほど苦手なので、通勤にそれ以上の時間はかけられないと思ったからだ。
そして、入居した築二十三年のマンションは外観と共用部分は古めかしいが、室内はリフォームされていて清潔であるし、家賃も相場よりもずっと安い(それでも給料の三分の一だが)ので桐子は十分満足していた。
ジャケットのポケットから鍵を出して差し込む。ところどころ塗装が剥げた鋼の扉を開け、闇の中、電灯のスイッチがあるはずの場所に向かって手を伸ばす。そのとき、桐子の鼻先を常にはない香りがかすめた。
一瞬の逡巡の後、思い当たった原因に首をかしげつつ、桐子は手に触れた突起を押した。
蛍光灯の白い光が音もなく降る。
照らし出された室内をゆっくりと見回しながら、桐子は香りの源であるはずの男のことを思い出していた。
昨晩、桐子の部屋に初めて緒沢が泊まった。
桐子が鍵を開け、二人の身体が玄関に入った途端、緒沢は桐子の身体に腕を回して唇を寄せてきた。
「待って、鍵」
唇が触れる寸前に押しとどめ、桐子は身体に巻きついている緒沢の腕越しに手を伸ばしてドアの内側の鍵をかけた。金属が噛み合う音が響く。それを合図に、塞き止められていた流れが溢れるように激しい口付けが桐子を襲った。隅々まで舌を這わせ、絡ませ、強く吸い上げる。唇から広がる痺れに桐子は身じろぎをして、緒沢の二の腕を強く掴んだ。
名残惜しげに唇を離し、覗き込んでくる緒沢の視線と腕から逃れ、桐子は屈みこんだ。踝のジッパーを下げ、ブーツを脱ぐ。そして、靴下のままフローリングの床を進み、リビングダイニングを通り抜け、奥の引き戸を開けた。リビングと続きの六畳の洋室は、突き当たりのベランダから差し込む冬の午後の日差しに明るく照らされている。部屋の中央に置かれたベッドの上には紺色の部屋着らしきものが脱ぎ捨ててあった。
追いかけてきた緒沢が中に入り引き戸を閉めると、桐子は窓の端に折り畳まれた濃紺のカーテンに手をかけ、勢いよく引いた。
高めあった熱を悲鳴のような声とともに開放し終えると、二人の身体は離れ、それぞれベッドに沈んだ。互いの息遣いだけが部屋のなかに響く。
いつのまにか遮光カーテンをほのかに照らしていた光は消え、部屋は闇に包み込まれていた。呼吸が整うと緒沢は半身を起し、サイドテーブルのスタンドを点けた。
桐子は光から逃れるようにそっぽを向き、上掛けを引き上げて身体を隠す。
「喉、渇かないか?」
緒沢は白い肩に囁きかける。
「冷蔵庫に何か入ってる」
「開けていいのか」
「ん」
桐子は緒沢に背を向けたまま答えた。
緒沢はベッドを降りて脱ぎ捨てた衣服を下だけ身につけ、引き戸を開けた。
シンクと向かい合うように置かれた冷蔵庫の前へ行き、扉を開ける。中に入っているのはいくつかの調味料とワインと缶ビールだけ。
「酒しかねぇじゃんか」
呟きながら350mlの缶ビールを二本片手で持ちベッドに戻った。
「ほら」
一本を桐子に渡し、残りの一本はプルトップを開けて勢いよく飲み干した。缶をサイドテーブルに置き、緒沢は大きく息を吐いた。
桐子も身体を起し、缶を開けて口をつけた。
「煙草、いいか?」
「いいけど、灰皿、ない」
「こいつでいいよ」
緒沢は缶を指差す。脱ぎ捨てた上着から箱とライターを取り出し、ベッドに腰かけて火をつけた。立ち上る煙をスタンドが放つ黄味を帯びた光が照らす。桐子はそれを目で追いながらビールを一口飲んだ。
煙草を吸い終わり、吸殻を缶の中に押し込むと緒沢は立ち上がった。桐子の手から缶を取り上げてサイドテーブルに置く。
「ちょっと、ベッドのなかに入ってろ」
そう言って窓に向かうとカーテンはそのままにして窓だけを開けた。冷え切った空気が一瞬のうちに部屋の中を満たす。
「何?」
「換気」
「そんな格好で、風邪ひくわよ」
「大丈夫だよ」
「・・・そうだったわね」
「どういう意味だよ」
部屋の空気が入れ替わったのを見計らって窓を閉めると、緒沢はベッドに戻り桐子の横に寝そべって上掛けの隙間から手を滑り込ませた。触れてきた手のあまりの冷たさに桐子は小さく悲鳴をあげた。
「何すんのよ!?」
「おまえなあ、せっかく寒さを我慢して換気してやった俺をあっためてあげようとか、思わないのかよ?」
「思わない。冷たいから離して」
桐子は緒沢の腕を掴んで引き離し、そのままベッドから押し出しにかかる。緒沢は抵抗したが桐子の驚異的な腕力と体勢の悪さには勝てず、背中から床に落下した。
尻餅をついた姿を見下ろし、桐子は意地の悪い笑みを浮かべる。少しの間、茫然としていた緒沢だが、自分を見下ろしている桐子の顔を認めると、やがて口元を綻ばせた。二人の身体が離れてから、桐子が緒沢と視線を合わせたのはそのときが初めてだったからだ。
激情が去った後の気恥ずかしさに、桐子はどんな顔で緒沢を見ればいいのかわからなくて目を逸らし続けていた。けれど、親密さを増しつつも馴れ馴れしくならない緒沢の言動に強張りが溶けていくのを桐子自身感じていた。
「晩飯どうする?食いに行くか?」
体勢を立て直した緒沢が訊ねる。
「外出たくない。何でもいいから買ってきて。鍵はジャケットに入ってるから」
そう言って桐子は再び上掛けの中に潜り込んでしまった。
苦笑いをしながら、床に落ちている桐子のジャケットから鍵を取り出した緒沢は、自分の服を拾って部屋を出た。
しばらくして、鍵がかかる音を聞こえると桐子はベッドの中で微笑んだ。
三〇分後、緒沢は大きなスーパーの袋を下げて帰ってきた。生春巻きとローストビーフのサラダと天むすを食べて、冷蔵庫にあったのと緒沢が買ってきたのと二本のワインをあけた。その間、緒沢は何本か煙草を吸い、空き缶に灰を落とした。そして、あらかた食べ尽くしたところで緒沢が桐子をベッドに押し倒し、もう一度長いセックスをして二人はそのまま眠ってしまった。
目が覚めた時には緒沢の出勤時間には完全に間に合わない時刻で、
「また連絡する」
という言葉と触れるだけの口付けを残して大慌てで飛び出していった。
それを見送ってから桐子はゆっくりとシャワーを浴び、夕べの残骸をゴミ箱に放り込んで自分の部屋を後にした。
そして、帰ってきた誰もいない部屋で、桐子を出迎えたのは煙草の香り。
人間の嗅覚というのは鈍感にできているから、どんな香りにもすぐに慣れて感じなくなってしまうという。
朝、部屋を後にしたときも、帰ってきた今も、この部屋には煙草の残り香がただよっているの?私が、気づかないだけで。
そのことに思い当たった瞬間、桐子の胸は大きく脈打った。
あくる日は急な事件の捜査で徹夜になり、桐子が自分の部屋に帰宅できたのはその次の日だった。閉店間際、いつものスーパーで夕食の買い物をしていると雑貨コーナーで桐子の足が止まった。数々の食器とともに置かれているガラスの灰皿。ビールの空き缶に煙草の灰を落としていた緒沢の姿が頭をよぎる。桐子はそっと手を伸ばした。
二日ぶりに辿り着いた部屋ではもう香りは消えてしまっていた。
苦笑いが混じったため息ともに桐子は部屋に入り、ダイニングに置いたテーブルの上にスーパーのビニール袋を投げ出す。そこから転げ出たのは使い捨てライターが同梱されたマイルドセブンが1カートン。パッケージに走る濃いブルーのラインを指でなぞりながら桐子は思う。
緒沢と香りはどこか似ている。
一緒にいるときには気づかないうちに忍び寄り、目の前から消えた後に包まれていたことに気づくのだ。
灰皿なんて買ってあげない。形あるもの、約束、そんなもので縛りたくない。
私もこの香りのようにあなたの側にいたいだけ。
桐子は細長いパッケージを手にして寝室に入り、サイドテーブルの引出しを開けてそれをしまった。
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