仕事が終わって家に着いたとき、慎が見上げた時計は午後八時を回っていた。
冷え切った室内に吐く息も白い。ダイニングテーブルのうえに無造作に放置されているリモコンを手にして、エアコンとテレビをつける。それから、リビング右手の引き戸を開けて隣の部屋に行き、いつもの場所に鞄を置いて、紺色のスーツを脱いだ。寒さに震えながら椅子のうえにひっかかっているトレーナーとゆったりとしたジーンズに着替える。そして、フローリングの床の上で、裸足の足をぺたぺたと踏み鳴らしながら慎は台所に向かった。
リビングと続いているカウンターキッチン。エアコンから発せられる暖かい空気はまだ満たされていない。
慎は両手をこすりあわせながらシンクの周りをざっと見回した。
ガス台のうえには寸胴鍋が一つ。昨日作ったポトフの残りだ。
電子レンジと一緒に専用の台に置かれた電気釜は保温状態を示すグリーンのランプが光っている。

今日は忘れなかったようだな。

慎は声に出さない声で呟く。
この部屋で一緒に暮らしている相棒は、あまり料理が得意ではない。このため、三度の食事はほとんど慎が用意している。しかし、朝食の後片付けと夕食の米を研いで炊飯器にセットすることだけは相棒の役割だった。相棒の方が出勤時間が遅いというただそれだけの理由で。たびたび、スイッチを入れ忘れたり、水加減を間違えて固すぎるご飯ができても、この部屋で暮らし始めてから続いている二人のルール。

「さて、今日は何にすっかな」

そう呟きながら、慎は冷蔵庫を開けた。





包丁を動かしていた慎の手が止まる。
顔を上げるとテレビには暗い色のスーツを来た生真面目そうな男性キャスターがわずかな笑みを浮かべてニュースを伝えていた。

「…緊張のあまり乗り間違えてしまった女子中学生は舞浜駅付近で間違いに気付いたそうです。それから、周りの乗客が中学生の様子がおかしいことに気付いて事情を聞き、両親に連絡するための携帯電話を貸したり、列車最後尾の車掌室に連れていき…」

へえ。あいつが聞いたら、涙を流して感動しそうな話。

「日本人の人情って奴はまだ生きてるんだなあ、捨てたもんじゃねえよな」

そう言って鼻を鳴らすことだろう。
けれど、あいつは今夜も遅くまで補習に追われていて、とてもニュースなど見ている余裕はないはず。
慎はジャージ姿で教壇に立つ凛とした久美子の姿を思い浮かべた。その映像は自分が受験生だったときの記憶へとつながっていった。





「なんでいんの?」
二次試験の二日間の日程を終え、もしかしたら四月から通うことになるかもしれない門を出たとき、見忘れるはずのない顔を見つけて自分すら驚くような声が出た。
あふれ出てくる受験生たちの流れから少し外れたところで仁王立ちしているお下げ髪。眼鏡の奥の瞳がくるりと動いた。
「出張」
「嘘つけ」
「本当だってば、修学旅行の下見」
「旅行は沖縄だろうが」
「来年から京都なんだってよ」
そこまで言い合ってから周りの注目を浴びていることに気づき、二人はとりあえず流れにのって歩き始めた。
並んで歩く横顔を盗み見ると淡々としたもので、これは案外本当かもしれないと慎は思った。
「終わったのかよ?」
「何が?」
「仕事」
「ああ、もう帰るだけだ。お前は?」
「俺も」
「じゃあ、ちょっとだけお参りしていかないか?」
そう言って久美子は立ち止まった。





タクシーを止めて向かった先は清水寺。
「合格祈願なら、天満宮とかじゃねえの?」
「こっちのほうが京都っぽいだろ?駅も近いし」
お参りを終え、清水の舞台の手すりにつかまり、街を見下ろしながら久美子が答える。すぐそこまで迫っている夕闇が久美子の顔に影を落とし、整った輪郭を浮き上がらせていた。
その顔を見ながら慎は思う。
あとどれぐらいこうして一緒にいられるのだろう。
途方にくれるような痛みが慎の胸をしめつける。
今まで受験勉強で逸らしてきた想いの行き着く先が目の前にあった。

この女は特別だった。
ただ、どういう風に特別なのか二年かかっても色をつけることができなかった。三月でなくなる教師と生徒という枠。けれど、こいつにとって俺は永遠に生徒のままだろう。埋まることのない年齢の壁。それにこの焦げ付くような思いが借りを返せない悔しさなのか、同等に見てもらえない苛立ちなのか、もっと違う感情なのかそれすら見えない。
だから、自分の進路を決めるとき、もう二度と会えなくなる可能性を知りながらも、この地へ来ることを選んだのだ。
離れることが嫌だと感じる自分が確かにいたけれど、今みたいな状態で側にいても、何になるというのだろう。始めから勝ち目のない勝負。
なのに、どうしてこいつは今ここにいるのだろう?

「四月から、ここに住むんだな」
「まだ、決まってねえよ」
「お前は絶対に合格するよ」
「その確信はどこからきてるわけ?」
「お前はなんだかんだ言って努力家だから。こうと決めたらやりぬく力がある。だから大丈夫」

久美子の確信のこもった言葉に慎は自嘲の笑みを浮かべた。
今の俺にはこうと決める力すらない、だから逃げ出すのに。そんなことも知らずにお前は俺に笑いかける。この目茶目茶な想いのすべてを今ここでお前にぶつけたら、お前はどんな顔をするんだろう?
慎は久美子に向き直り、息を吸い込んだ。

「あたしさ、高校のときの修学旅行、奈良京都だったんだ」
慎が口を開くよりも先に久美子がくだけた口調で喋りだした。眼差しは遠い山の向こうをさまよう。
「でも、その頃のあたしって友達いなくてさ、自由行動のときも一人で回ってたんだ。ここもおじいさんにお土産を買うために一人で来たよ」
「……」
「あの頃とちっとも変わってないのに、なんだか今日は楽しいよ」
視線を戻して笑いかける顔を見て、慎は拳を握り締めた。

もういい。
お前が時折見せてくれる本音は、お前が心を許しているのではなく、俺を年下だと甘く見てるからなんだってわかってる。でも、もうなんだっていい。

「これからだって、たくさんいい思い出をつくれるだろ」
「…まあな」
「こっちに来たときは俺がいろいろと案内してやるよ」
「沢田。捕らぬ狸の皮算用は高くつくぞ?」
「今、お前、絶対合格するって言ったんじゃんか」

口では穏やかな言い合いを続けながら、慎の心は叫んでいた。
今、ようやく気がついた。
大事なんだ。とてつもなくお前のことが大事なんだ。俺の知らない時間に過ごした悲しい思い出すら歯がゆく思えるほどに。

「暖かいもんでも食べて帰ろうぜ」
「湯豆腐がいいなあ」
この安らいだ笑顔を俺のちっぽけな自尊心で壊すことなどできないほどに。

慎は顔を上げ、久美子が見ていたの同じ方向を見下ろした。眼下に広がる街にはもういくつかの明かりが点り始めていた。
それを見ながら心のなかでそっと誓う。
もしも、この地に来ることができたなら、俺はなりたい、この笑顔を守れる男に。この先、この思いが何処へ行くのかわからないけれど。
強い決意を胸に長く続く坂を二人で降りていった冬の夕暮れ。





「ただいま。ご飯なに?」
パタパタという足音で慎は我にかえった。
「おかえり。カレー」
そう言って顔を上げると、見慣れたお下げ髪が眼鏡の奥から鍋を覗き込んでいる。
「やった」
「すぐ飯にしていいか?」
「うん、着替えてくる」
風のように隣の部屋に消えていく姿を見送りながら慎は思う。
あれから七年かかって、二人は今こうしている。
ここにいたるまでの道のりは決して平坦ではなかった。何年も会わない時間もあった。あきらめようと思ったこともあった。傷つけあったこともあった。
でも、お前の予言どおり、俺はこうと決めた道を歩むことができている。今ならわかる。その力をくれたのは全部お前なんだと。




「何、見てんだよ?」
おいしそうにカレーを頬張る顔を見るともなしに見ていたら、不審気に問い掛けられた。
「いいや。この時期になると受験生のときのことを思い出してさ。二次試験の後、二人で清水寺行ったじゃん」
「ああ、あのときな」
「今年は出張ないのか?」
「…あれもな、出張じゃなかったんだよ、実は」
「へ?」
そいつは初耳だ。
「どういうこと?」
「お前が試験受けてると思ったら、いてもたってもいられなくなって気がついたら新幹線に乗ってたんだ」
「……」
「気づかなかったか?」
「今の今まで信じてたぞ」
「そういうことだ」
しれっとした口調で一言だけ口にすると、久美子は嬉々として食べるのを再開した。

…やっぱりお前にはかなわない。これからの二人の日々にはこんな瞬間がきっと何度でもあるのだろう。
この日々を与えてくれたすべてのものに感謝しながら、慎は自分のスプーンを取り上げた。




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