後味の悪い事件だった。

「来るなぁ!」
一見平和そうに見える住宅街のマンションの6階。
ベランダで一人の少年が叫んでいた。
右手には長い包丁を持ち、左腕には彼の母親の身体があった。

所轄の警察署からSITに出動要請が出され、桐子と優作が現場に到着して、最初に見た光景がそれだった。
少年はその数時間前に、自らが通う中学校で、後輩の男子生徒を殺害していた。それは授業中に、人気のないサッカー部の部室で行われたため、目撃者はいなかったが、白昼、血まみれの包丁を下げて、マンションに向かって歩いていく少年の姿は何人かに目撃されていた。事件が発覚し、少年の自宅に警察が訪れたときには、母親に包丁をつきつける少年がいた。

現場の状況を見て、桐子は父親による少年の説得と、少年の隙を狙ってマンションに突入する計画の二つを提案した。
その配備が行われている最中に、悲劇は起こった。

「ママ、僕、人を殺しても、なんにも感じなかったんだよ」
「・・・」
「どうしてなんだよ?、ママ」
「やっぱり、ママじゃなくっちゃ、駄目なのかな?」
「・・・いやぁぁ」
叫びは急速に落下していった。
自分の子どもに血まみれの包丁を突きつけられた母親が、恐怖に耐え切れず逃げ出そうとしたときに、誤ってベランダから転落したのだ。

自宅にようやく帰り着いた父親が見たものは、
頭から血を流して倒れている母親と、
血まみれの包丁をベランダで握り締め放心している息子。

桐子と優作は少年の確保を手伝うと、その場を立ち去った。
本庁に戻り、事件の報告を終えると、桐子は優作の車に送られて、自宅マンションへたどり着いた。

「ありがと」
シートベルトを外しながら桐子は言った。
「お疲れさまでした」
優作の声にはいつもの覇気がなかった。
「・・・優作」
「はい」
「あたしたちは刑事ドラマの刑事じゃないのよ。全部が全部、うまくいくわけじゃないわ」
「・・・はい」
「あんまり考えてると・・・引きずられるよ?」
「え?」
「じゃあね」
ドアを閉めて、桐子はマンションに玄関に向かって歩いていった。

エレベーターに乗り込み、8という数字のボタンを押す。扉が閉じたのを目で確かめてから、身体を壁に預けた。身体の中に泥のような疲労が溜まっているのを感じる。

あの子はこれからどうなるんだろう?

誰もが自分の抱えた運命を生きていくしかない、そうわかっているのに。
胸を痛めることすら、単なる自己満足にすぎないとわかっているのに。

目を閉じれば想いはそこへ漂ってしまう。

軽やかな金属音が桐子の思考を止めた。ライトは8階の到着を告げている。
桐子はエレベーターを降りた。

コンクリートの廊下に足音を響かせながら、東南の角部屋にたどり着く。ポケットから取り出した鍵をノブに差し込み、ガチャリと音をたてて回す。
滑り込んだ室内は、夏の熱気がこもっていて息苦しい。桐子は電気もつけずにリビング兼寝室の窓に歩み寄ると、窓を開けた。
遠くで車の走り抜けていく音が聞こえる。

何も考えずに眠ってしまいたい。

薬のことが頭に浮かぶ。
いつも持ち歩いていた鎮静剤はサイドテーブルの引き出しにしまってある。
あの事件の後、もう飲むことはないと思ったから。
捨てないのは、自分の意志を確かめるため。
でも、こんな夜は飲んでしまいたくなる、飲めば眠れるとわかっている。


「桐子さん、疲れているときは、自分のしたいことを言葉にしたほうがいいですよ。お腹がすいたとか、あれが食べたいとか」
ふと白砂の言葉を思い出す。
あの事件のとき、中森あゆみを取り調べた後、会議室へ戻る廊下で、彼は突然そう言い出した。
「なんで?」
「そうすると自分が今一番何が必要かわかりますから、それを実行するといいんです。自分が何をしたいのかわからないのが一番よくないことです」

疲れきった私の表情を見かねたのか、そんなこと言っていた。
白砂さんのことだから、クリームパンが食べたいだの、プリンが食べたいだの、そんなことだろうけど。
その様子を思い浮かべて、桐子はくすっと笑った。
白砂さんは5年前から一人きりの夜をそうやって過ごしていたんだろう。
そう思うと少しだけ心が癒される気がした。

私たちの本当の望みは、決して叶うことはない。
そうわかっていても、ずっと願いつづけ、求めつづける、覚めることのない悪夢のように。そうすることが自分の望みのそばにいる、ただ一つの方法だと知っているから。

その想いはときどき、自分の身体を忘れさせる。
だから、言葉にして、思い出して、身体が欲することを満たしてあげよう、生きていくために。

「お風呂、入ろ」
呟いてみた。
すると身体にまとわりついていた湿気が急に肌にせまってきた。
あの現場で、照りつける夏の太陽の下で、じわじわと染み出す汗を不快に思いながら、ベランダを見上げていたことを思い出した。
窓とカーテンを閉め、着替えを持って風呂場に向かった。

素足にふれるタイルが冷たくて心地よい。コックをひねって噴き出してきた熱いシャワーが疲れにこわばった身体をほぐしていく。
「気持ちいい」
自然と言葉が出た。

ふと左肩を見ると、ボーガンの傷跡が目に入った。
その傷をなぞるといつも思い出す奴がいる。すごく嫌そうな顔をして、ここから矢を抜いた、あいつ。


「馬鹿」
大きな目に怒りによく似た色を湛えて、
「心配だから心配するんだ、そんなこともわからないで、この世の中わかったような口、聞くな」
そう言って奴は私をまっすぐに見つめた。


人の心を誰よりも理解できると思い込んでいた私に、その言葉は遅効性の毒のように、ゆっくりと効いていった。あの事件の最中、私は何度も思い知らされた、あいつと白砂さんの行動で。
何も考えずにこの言葉を発することができるあいつ。きっとあいつは何よりも大切な真実を、自分が知っていると思わずに知っているのだろう。

「日本語になってないって」
そう呟いて、身体を洗おうと石鹸に手を伸ばした。

バスローブを羽織り、部屋へ戻ると、テーブルの上においた留守番電話が目に入った。録音があることを示す赤いランプが点滅している。
部屋に入った直後に見たときには、何もなかったのに。
疑問に思いながら、ボタンを押した。
「イッケンデス・・ピッ」
「緒沢です。明日本庁に行く。昼飯一緒にどうだ?都合が良ければ電話くれ。じゃあな」

私があいつのことを思い出していた時間に、あいつも私のことを考えていたなんて。
その偶然に、いてもたってもいられない気持ちになる。

今ここであいつに電話をかければあいつの声が聞こえるのだ。
それは私の胸の中に広がる暗い痛みに、騒がしく鳴り響き、粉々にしてしまうだろう。
なんという誘惑。

でも、私は電話をかけない。
あいつの声に癒される、そんな資格はないのだ。
私とあいつの間には何もないのだ。

私は一人だ、これまでも、そしてこれからも。
それはつらいことでも寂しいことでもなかった。
でも、あいつは否応なしに気がつかせる、私の孤独を。
こんな夜にあんな声を聞かせて。

胸をかきむしる思いで、ベッドに身体を投げ出した。

こうしているとき、もう私のことなんか考えないで、眠りについている?
それとも?

そんなことを私に考えさせるなんて。
・・・最悪だ。

桐子はベッドの上でいつ果てるともない思考をめぐらしながら眠りについた。



桐子は気がついていなかった。
そんなふうに誰かのことを考えることが、すでにもう孤独ではないということを。



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