付き合ってみたら彼女はインドア派。アウトドア派の俺にしてみりゃ新鮮。
お互いに刑事なんていうハードな仕事をしているから、休みの時ぐらいゆっくり過ごしたいという彼女の気持ちはよくわかる。実際、デートのたびに段取りを考えていた頃に比べれば、圧倒的に今の方が楽だ。晩飯を一緒に食べて彼女の部屋に泊まるというのがお決まりのパターン。
二人でいる時間の大半を過ごす彼女の部屋には驚くほど物がない。通い始めた頃はテレビすらなくて、どうしても野球とサッカーが見たいと頼み込み、現物(BSチューナ付き液晶テレビ17型)を持参して置かせてもらったほどだ。スポーツにはまったく関心のない彼女だったが、しばらく経つと俺のテレビ観戦に付き合っていろいろと質問をするようになった。
こんなふうに二人の距離が近づき始めたある雨の日のこと。俺はCDを3枚持って彼女の部屋を訪ねた。もともとある数少ない電化製品の一つであるCDラジカセは、俺がいる間、絶えず音楽を奏でている。
「ピアノが一番好き。チェンバロとか、パイプオルガンとか。シンセとかも。とにかく鍵盤楽器が好きなのよ」
ラジカセの脇に置かれた棚には、バッハ、ショパンはもちろんのこと、グレン・グールド、フジ子ヘミングや坂本龍一までもが揃っていた。聞いてみるとピアノの雄弁な音はたちまちに俺を魅了し、自分の車でも流したくてダビングした奴もかなりある。でも、たまには俺の趣味に付き合ってくれてもいいんじゃないか?
俺が差し出した3枚のCDを見ると、桐子の顔から表情が消えた。
「どうした?」
「別に。随分とセンチメンタルなのが好きなのね、顔に似合わず」
「悪かったな」
「どれがいいの?」
「これ」
俺は真っ赤な花が描かれたジャケットを指差した。
ラジカセが置かれた棚の前の腰を下ろし、銀色に輝く円盤をつまんでトレイにセットするとプレイボタンを押す。
スピーカーから発せられる音を正面から受け止めながら桐子は思った。
一つの恋が終わったとき、それにまつわるものは全て捨て去った。けれども、思い出を全て忘れ去ることはできない。あの人が好きだった、二人だけの部屋で何度も繰り返して聞いた、この歌を耳にした途端、鮮やかに甦る。こんなふうに記憶は身体に染み付くものなのだろうか。ならば、記憶を失ってしまったあの人がこの歌を耳にするときも、理由のわからない痛みが襲うこともあるのだろうか?
ラジカセの前で、桐子は膝をかかえて座っている。カーキ色のカーゴパンツから伸びた白い足首。爪は力なくフローリングの床を掴む。そして、ここではないどこかをさまよう瞳。
わざわざ確かめるまでもない。桐子は今、過去のなかにいる。そこに引き込んでしまったのは、俺が持ってきたCD。
昔から割と知られている歌い手だからしょうがない。こんなこともあるさと思いつつも、心が波立つのを抑えきれず、桐子のすぐ後ろに座り、背中から抱きしめた。
「いい曲ね、力強い優しさに包まれている感じ」
「うん」
「好きだわ」
「うん、俺も」
触れ合っている背中から直接響いてくる声はどことなく沈んでいる。私の膝の上で交差された彼の手も、所在なさげに自分の腕を掴んでいる。
馬鹿ね、何を動揺しているの?今、ここに私はいるのに。
私は首を伸ばして、目の前の骨ばった指に噛み付いた。
「何すんだよ」
「目の前にあるんだもの」
素直には言えないけど、ねえ、気づいて。
「好きよ」
私の膝の上の暖かい腕に顔をうずめる。
もう一度この歌と優しい腕に包まれることができたのも、思い出すことすら嫌だった記憶を愛しく感じさせてくれたのも、あなたのおかげよ。
「俺もだ」
耳元に寄せられた唇がそっと囁く。そしてそのまま私の耳と首筋をすべっていく。
窓の外、春に降る優しい雨のような歌と口づけ。私は目を閉じた。
新しい記憶が刻み付けられているのを感じながら。
>Top