第十二話
昭和58年8月22日、殺人犯引取りのため、ペルーのホルヘチャバス空港に着陸したときは、突然、機内で大きな拍手が沸き上がり、我々を驚かせたものだが、タイのドン・ムアン空港では、全く静かな着陸であった。昭和63年12月、年の瀬も押し迫ったというのに、4泊5日のバンコク旅行を急に思い立ち、同月20日午前10時30分、成田を出発して6時間余り、現地時間午後2時40分頃、無事にジャンボ機の脚が地に付いてほっとした瞬間である。
この時の渡航目的は、個人的な観光旅行という形ではあったが、当時タイ国貨物船による拳銃や大麻の密輸事件が多発しつつあったことから、できればそういう関係の情報収集もして来ることであった。当時私は、3年間の油津海上保安部勤務を経て、その年の4月、再び本庁警備第一課の麻薬・覚せい剤事犯担当専門官として勤務していた。タイは勿論初めてであったが、幸い同年10月、警備第一課が東京で開催した、東南アジア各国政府の麻薬取締関係機関による国際会議のとき来られた、タイ国麻薬取締局副局長のプリジャ・チャンパラトナ氏や、水上警察部次長のチャリオドビッド・スガンダビット氏、それに警察庁主催の麻薬犯罪取締セミナーで知り合ったタイ国麻薬取締局取締課補佐官ラサミー・ベスタベス女史等の知人もできていたので、これらの人達を表敬訪問すれば、何とか目的は達せられるのではないか、との期待は持っていた。
機内では、隣り合わせたT氏との話が弾み、6時間はあっという間に過ぎた。T氏は私と同年輩で、鉱山関係の仕事をしており、タイにはもう30数回も来ているという。この時彼から得た予備知識は、胸の中にもやもやとしていた様々の不安を拭い去るのに十分であった。タイ人の国民性、治安状況、ホテルでの注意事項、食べ物、タクシーの乗り方、買い物、土産物、女性、大麻、拳銃、観光地等、30数回の渡航歴に裏打ちされたその語り口には、やはりそれなりの説得力がある。
同氏は、空港での私の危なっかしげな素振りを素早く見抜き、
「良かったらホテルまでご一緒しましょう。」
といって、私を先導した。彼は、その日はバンコクのホテルに泊まり、翌日飛行機でチェンマイに行く予定であるという。入国の手続きでは、仕事の捌けない係官の列に並んだため、1時間以上も待たされ、手荷物を取りに行ったときは、他の旅客はもう誰も居らず、荷物も見当たらない。2人で右往左往しながら付近を探し回り、案内所の横に無造作に放置されているのをやっと見つけた。次は税関だが、機内で書いたはずの申告書がない。先ほど入国の書類と一緒に出してしまったらしい。
「何とかなりますよ、私に付いて来なさい。」
という彼の後を、キャスター付きの大きなバッグをゴロゴロと引き摺りながら付いて行くと、何時の間にか外に出てしまった。制服を着た官憲は一杯居たが、全くノーチェックである。
外はさすがにむっとするような暑さだが、思ったほどではない。バンコクの市街地まではタクシーで約一時間かかる。T氏が運転手と交渉の結果、300バーツ(1バーツは約5円)で行くことになった。タクシーにはメーターが付いていないから、必ず乗る前に運賃を決めておかなければならない。T氏のやることを見ていると、如何にも旅慣れした者の振る舞いである。タクシーはおんぼろであったが、一応冷房は付いている。車はすぐ高速道路に入り、南に向け一直線に突っ走った。日は既に西に傾き、地平線の彼方に沈みかけていた。
5年前、ペルーのリマでは、幽霊のようなボロボロの車が平気で走っていたが、ここではそんなに酷い車は見当たらない。車は、その国の経済力を判断する格好の材料である。タイも新興工業国の仲間入りをすべく、既に離陸の態勢に入ったのかもしれない。
二 インドラ・リーゼント・ホテル
バンコクの市街地に入ると、丁度ラッシュ・アワーにかかり、かなりの渋滞である。地下鉄や路面電車がないため、市民の足は、バスとタクシーとサムロ(マツダ三輪トラックを改造したタクシー)と自家用車とバイクに依存している。したがって、ラッシュ・アワーともなれば、これらの車が路上に氾濫し、車で行くより歩いた方が早いのではないかと苛々させる。その所為かどうか判らないが、やたらにバイクが多い。バイクであれば、車の間をすいすいと縫って走れるからだ。
サムロはタイ独特のもので、主に観光客が利用しているが、あれには乗らない方がいい、というのがT氏の忠告である。タクシーよりも料金は幾分安いが、三輪車のくせにぶっ飛ばすから、横転する事故が多い。それで死んだり怪我をしても、加害者側に損害賠償の支払能力はなく、やられ損ということだ。
やっとホテルに着いたときは、日もどっぷりと暮れていた。T氏にそこで鄭重にお礼を述べ、再会を約して別れた。
宿泊先のインドラ・リーゼント・ホテルは、17階建て、1泊8,700円の、一流とはいえないまでも、バンコクでは中の上というところか。繁華街からはやや外れにあるが、ラーチャブラロップ通りという大通りに面しており、また、近くに観光客相手のマーケットが沢山あって、周辺は結構大賑わいである。ホテルの客は、日本人と白人が大半を占めている。
チェックインをして一五階の部屋に入り、早速日本大使館のK一等書記官に電話を入れる。K一等書記官には、今回の表敬訪問の関係先に対するアポイントメントや通訳の手配について、予めお願いしてあったところ、お忙しい中にも拘わらず、木目細かな調整を図ってくれていた。彼から知らされた滞在中のスケジュールは、次のとおりであった。
21日 午前9時30分 麻薬取締局副局長表敬訪問
通訳として、国際観光振興会バンコク観光宣伝事務所の女性職員ウライワンさんを予定しており、午前8時50分頃ホテルに彼女が迎えに来ることになっている。
なお、副局長は、同日午後から出張し、23日午後に帰ってくる予定。午後はショッピングでも済まされては如何か。
22日 副局長の計らいで、何処か観光地を案内してくれることになっている。
23日 午前10時水上警察部次長表敬訪問
午前9時ころK一等書記官と通訳人(前記事務所の女性職員)がホテルまで迎えに来て、車で案内する。
午後2時からジェトロ・バンコク・センターのA氏が、バンコク海港に案内してくれる。
夜は、麻薬取締局副局長他若干名との会食。K一等書記官も同席する予定。水上警察部のチャリオドビット次長は、業務多忙で会食には出席できない。
以上のことを素早くメモすると、K一等書記官に感謝の言葉を述べ、服を半袖シャツと白のズボンに着替え、1階のロビーへ出た。高い天井まで届く大きなクリスマス・ツリーが賑やかに飾られ、音楽が華やいだ雰囲気を盛り上げているが、人々の動きは比較的静かである。ホテルのレストランで食事を済ませ、ホテルに接続するインドラ・マーケットやプラチナ・マーケットを一回りしてホテルに帰り、その日はおとなしくベッドに潜り込んだ。
三 麻薬取締局
21日朝、夜明けとともに目を覚まし、軽く朝食を済ませ部屋で待っていると、通訳のウライワンさんから電話が架かった。下のロビーで待っているという。若い女性を期待していたが、ロビーで待っていたのは、50年配の人のよさそうなおばさんである。
タクシーで約20分、予定より10分早く麻薬取締局に到着。5階建てのこじんまりとした近代的な庁舎である。2階の副局長室に通されて待っていると、間もなく温厚な表情のプリジャ副局長が出勤して来た。固い握手を交わし、暫し東京での思い出話に花が咲いた後、庁舎内の施設を案内してくれた。
まず薬物分析室。白衣を着た7〜8名の職員が物珍しそうに出迎えた。若い女性が半数はいる。日本製のガスクロや計器類が所狭しと並んでいるところは、当庁の管区本部公害分析室とほぼ同じである。ここでは、12の出先機関から毎日送られてくる押収ヘロイン等の分析鑑定が主な仕事である。出先機関では簡易な予試験しかできないため、本鑑定は全てここで行われる。
タイでは、年間約30トンの麻薬が芥子から生産されているといわれている。ビルマ、ラオスに国境を接する、いわゆる黄金の三角地帯では、政府によるコーヒー等の代替産業の奨励政策にも拘わらず、依然として、芥子の栽培が続けられているようである。年間約1,000キログラムを超えるヘロインが、アメリカ、カナダ、ヨーロッパへと輸出されている。その年のタイ国内での押収量は、既に1,000キログラムを上回っているという。しかし、幸い日本向けは少ないようだ。
覚せい剤については、アンフェタミンやメタンフェタミンを含有する錠剤が密造されている。1錠の価格は、50円〜75円くらいであるらしい。この錠剤は、分析室で見せてもらった標本によれば、色や刻印の違うもの約30種類があった。前年9月23日、日本向け輸出予定であった5,800個の覚せい剤錠剤が、拳銃34丁とともに押収されているので、今後大いに警戒を要するところである。しかし、錠剤そのものは茶褐色の薄汚い色をしており、不純物も多く、何が入っているか判らないので、日本人向きではないかもしれない。然も、純粋な粉末のように増量剤の混入ができず、これが販売によって暴利を得ることができないため、暴力団が資金を得る手段としてこれを利用する可能性は少ないであろうと思われた。
また、大麻については、世界的な需要の伸びとタイ原産大麻の質の良さから、価格が急騰し、生産は年簡約3,000トンを越えるといわれている。輸出先は、ほとんどがアメリカである。前年は海上ルートによる密輸大麻約100トン前後が押収されている。その手口は、底曳漁船に10トンくらい積んで、警戒の手薄な地方港湾を出港し、沖で待機中の貨物船に積み替えているという。
大麻の価格は、バンコク市内で1キログラム当たり約7,000円前後。地方に行けはその約3分の1の価格で手に入る。T氏から聞いた話であるが、市内の三流ホテルでは、ボーイが観光客相手に大麻を売っており、値切ると半値までに負けるが、その代わり、数時間後には警察に踏み込まれることになるそうだ。
次に案内されたのは、コンピュータ・ルームである。日本からの援助によって設備されたというピカピカの機器が、冷房完備の部屋で稼動している。ここでは現在約3,000人分の前歴者、虞犯者のデータがインプットされているという。個人のプライバシー保護の観点から、入口は厳重にロックされ、関係者以外の入室を禁じている。
再び副局長室に戻ると、若い女性職員を紹介された。名刺に書かれた名前は、チュタヌイ・イェンバンローン。彼女は、現在日本語を勉強中であり、明日水上マーケット等の観光地を案内してくれるという。日本には10回くらい行ったことがあり、横浜と富山に友達がいる。あさって(23日)日本へ行き、それらの友達の所を回って、来年1月3日に帰って来ることになっているということである。タイでそういうことができるということは、きっと良家のお嬢さんなのであろう。
副局長は、
「午後から出張のため、今日はお相手ができず申し訳ないが、23日の夜は、一緒に食事でもしましょう。車と運転手を用意させているので、これからショッピングにでも使ってくれ。」
といった。私は、彼のご好意を快く受け、そこを辞した。
若い男の運転手とウライワンさんは、まず私を近くの国立土産物売り場「ナラヤン・パンド」に案内した。国立というだけあって豪華な造りで、金の指輪やネックレス、有名なタイ・シルクのネクタイやスカーフ、木彫りの象等、夥しい数の民芸調の土産品が陳列されていた。そこで、取り敢えず家族への物や役所に配るお土産の買い物を済ませた後、郊外の瀟洒なレストランに入り、3人で昼食を摂った。ウライワンさんに任せて適当に注文して出て来た料理は、何れもスパイスのよく利いたものばかりだった。タイの人達は、日に3度という決まった食習慣はなく、少しずつ何回も食べるそうで、1度にがつがつと食べる私の食欲に、彼女と運転手は目を丸くしていた。初めてのタイ料理であるが、結構口に合うものばかりであった。
午後は、ウライワンさんの案内で、王宮とワット・プラケオ(エメラルド寺院)を見物した。金色の壁に無数にちりばめられたエメラルド。思わず腰が抜けてしまいそうなその豪華さは、何と表現すればよいか。日本の仏教でいう極楽浄土には、蓮華の花が一面に咲いているというが、タイの仏教では、黄金とエメラルドがそれを象徴するのであろうか。構内の屋台に青いココナツの実が山と積まれて、観光客に売られていた。私が珍しそうに見ていると、ウライワンさんが、
「ジュースを飲みますか。」
といって、大きなのを二つ抱えて来た。殻を削って握り拳くらいの穴が開けてある。そこへストローを入れて飲んでみると、生温かく甘酸っぱい味がした。
王宮や寺院の目が眩むようなけばけばしさに閉口し、まだ日は高かったがホテルに帰った。シャワーで汗を流し、日の暮れるのを待った。独りでは迂闊に外を歩けないので、ホテルのバーで生バンドを聴きながら、スコッチを呷った。街で見掛ける女性とは違う垢抜けしたホステスが揃っていた。
四 水上マーケットと寺院

22日は、午前7時に麻薬取締局の彼女が迎えに来る約束であった。7時きっかりにロビーに下りて行くと、彼女と運転手と三菱ワゴンの新車が待っていた。真ん中付近に彼女と2人でぽつんと並んで座る。冷房がひんやりと効いて心地よい。車は、バンコクの市街を南北に流れるチャオ・プラヤ河の大橋を渡り、一路西へ西へとひた走る。市街地を出ると、広大な平野に道路が一直線に伸びる。人家は疎らで、ココナツの林が延々と続く。360度見回しても山は見えない。雲一つない抜けるような青空だった。
彼女の日本語は、まだたどたどしいものであった。そのことを済まなさそうに気にしているので、
「そのくらいできれば大したものですよ。」
と、滅多にいわないお世辞をいう。
「日本語の先生は、日本人ですか?」
「?」
「日本人の先生に習っているのですか?」
「シェンシェイ?」
「ア、スミマセン、セ、ン、セ、イ、デス。」
何のことはない、こちらの方が相当なまっているではないか。以後の会話は、お互いにゆっくりとカタカナの日本語となる。どんなムードかはお察しのとおりである。
チュタヌイ嬢は、国立タマサト大学を卒業し、麻薬取締局で法規を担当している。勿論独身(……と思う。)。タイには国立大学が12あるが、このタマサト大学とチュラロンコーン大学だけは、卒業のときプミボン国王から直接卒業証書が手渡されるという。タイではエリート中のエリートである。
平均70キロくらいのスピードで丁度2時間、午前9時にダムナーン・サドアクの水上マーケットに到着。早く出て来た甲斐があって、市場の賑わいは、今が丁度ピークである。ココナツの実や、バナナ、野菜、肉などを山積みにした手漕ぎの小舟で、狭い水路はごった返している。この辺に住むおばさん連中が、自分達の作物等をそれぞれ持ち寄って、物々交換をやっている光景は、如何にもタイ独特の風情がある。1868年に切り開かれたという水路の両側には、高床式の木造住宅が何キロメートルも建ち並んでいる。
水上マーケットは、元々バンコク市内にあったものが、観光客を乗せたモーター・ボートが増えすぎて、肝心の小舟が動き回れなくなったため、地元の人々の経済生活と観光客の希望を容れて、政府が新たにここダムナーン・サドアクに設けたものである。
私達は、観光用にしつらえた小奇麗なモーター・ボートに乗り、この異国情緒豊かな群れの中に溶け込んで行った。水路の水は暗褐色に濁り、水草や木切れが無数に浮いている。これだけの人間が生活しているのに、排泄物はどのように処理されているのであろうかと思うと、余り良い気持ちはしない。しかし、船頭はそんなことにはお構いなしに、前方がクリアーになると、顔が引きつるくらいにぶっ飛ばすので、水の飛沫が顔にかかる。ここの住民は、この濁った水で洗濯をし、体を洗い、食器や鍋を洗うのであろうか。
岸に佇む住民達は、日焼けした黒い顔に真っ白い歯を剥き出して、底抜けに明るい笑みを私達に投げかける。私はふと、昨日の午後見物した王宮や豪華な寺院を思いだし、これらの光景と対比していた。金箔とエメラルドに覆われたタイ寺院の絢爛たる豪華さと、この農民の生活との落差は何処から来るのか。
タイは、国民の64パーセントが仏教徒であり、寺院は2万5,000を数え、20万人を超える僧侶がいる。男性は、一生に1度は必ず仏門に入る習わしである。最近では、期間も短縮されているが、それでも数週間は、ほとんどの青年が僧籍に入るといわれている。タイ仏教は小乗仏教であるから、厳しい戒律があり、自分の力で悟りを開かねばならない。現世でできるだけ多くの徳を積み、来世の幸せを願う。現世の不幸は、前世の行いが悪かったからである。来世の幸せを願う者は、現世において寺院や王家に対し、可能な限りの御布施を行うこととされている。絢爛豪華な王宮や寺院には、こうした彼等の切実な願いが込められているのだ。タイ人のいわゆる「タイ・スマイル」というのは、現世の厳しさを来世の幸せに託した諦めの姿勢かもしれない。
このような仏教の教えは、統治者にとっても、ある意味では極めて都合のいいことではあろう。しかし、このような思想が国民の間に根強く残っている限りにおいては、社会の近代化と経済の発展は大きく阻害されるに違いない。韓国、台湾、シンガポール、香港に続く新興工業国と目されているタイにも、こうしたジレンマがあり、多難な前途が予想される。
顔にひりひりと刺さるような陽射しに、ココナツの葉が眩しく光る。この村の外れにも黄金色に輝く寺院の尖塔が、村人達の来世への願いを受けて、済みきった青空の中に鮮やかに屹立している。船頭の操る舵に身を任せたまま、水路をめぐること約1時間、私達は再び冷房の効いた車中の人となった。帰路、東洋一といわれるナコン・パトムの巨大な仏舎利塔を見物し、観光客に人気のあるローズ・ガーデンに寄った。公園の端で大きな象が何頭も調教されていた。ココナツの幹に着生したデンドロビュームが、ピンク色の清楚な花をつけていた。浮草が島のように固まって流れている大きな河のほとりにあるレストランで昼食を済ませ、午後2時頃バンコクに戻った。ホテルに帰るにはまだ早いので、市内のワット・ベンチャマ・ボピット(大理石寺)とワット・アルン(暁の寺)を一回りしたが、きんきらきんの寺院にはいささか食傷した。あのうんざりするような装飾に映える日光東照宮でもこれらには叶うまい。
午後4時頃、ホテルの前で彼等と別れた。チュタヌイ嬢は、明日日本へ出発する。お忙しい中、気配りの利いたアテンドに心から感謝の意を表した。
五 洪水の中の水上警察部

23日午前9時、ホテルのロビーで初めてK一等書記官と会う。通訳のメリーさんも一緒である。彼女は30歳前後で、日本人とほとんど変わらない顔付きをしている。K一等書記官と名刺を交換して、すぐ彼の車に乗った。水上警察部の表敬訪問は、午前10時の約束であった。水上警察部は、チャオ・プラヤ河の河口に近い。車は、ペチブリ通りからバンコク市街を縦断する高速道路に入って南下する。相変わらず良い天気だ。タイは、今頃が一番良い季節なのかもしれない。
約30分走って高速を出ると、もうのどかな田舎町に変わっている。幹線道路から水上警察部へ通じる道路に入ろうとすると、何と、道路は水浸しで、両側の家は床下浸水である。滅多にないことだが、たまに大潮のときにこういうことがあるらしい。水の中へ少し車を進めてみたが、どうも駄目なようだ。向こうから大型トラックがゆっくりとこちらへ向かって来る。警官が乗っていて、後戻れ、と合図している。乗用車が通れなくなったので、私達を迎えに来たのだという。
水上警察部は、チャオ・プラヤ河の河畔に立つ4階建ての小さなビルである。大型トラックの荷台に座って乗り着けた玄関は水浸しだが、踏み板で作った粗末な桟橋がちゃんとある。その先端に見覚えのあるチャリオドビッド次長が、にこやかに我々を出迎えている。警察上級大佐である彼のこげ茶色の制服の胸には、色鮮やかな勲功章がびっしりと貼り付けてある。彼と暫し再会の喜びに浸った後、2階の会議室へ案内され、警察少将である部長に紹介された。歳は60に近いと思われるが、鋭い目付きで私を見つめながら、固く手を握り締めた。歴戦で鍛え抜いた過去が、その精悍な体付きから滲み出ている。他に3〜4名の幹部も同席した。
私は、通訳人のメリーさんを介して、このような手厚い歓迎に対する心からのお礼の言葉を述べるとともに、今回の訪問の目的を簡単に説明した。
訪問の目的は三つあった。
一つは、昭和63年10月、門司海上保安部が検挙したタイ国貨物船ハイ・ファ号拳銃密輸事件に関するものである。第七管区海上保安本部警備課が作成してくれた資料や写真を呈示し、背後に動いていたと思われる日本側関係者について、今後タイ入国等の関連情報があれば当方へ通報方協力をお願いした。
二つ目は、タイ国における拳銃の規制に関するものである。ハイ・ファ号乗組員の供述によれば、タイでは誰でも簡単に拳銃を手に入れることができるという。それが事実であれば、今回の被疑者の処分に若干の影響を及ぼすかもしれない。私の言葉に警察少将は、
「そんなことはない。」
と、大きく首を横に振った。彼の説明はこうである。
タイでは、善良な国民の生命、財産を警察が完全に保障することができないので、護身用として拳銃の所持を許可していることは事実であるが、誰でも自由に所持できるわけではない。拳銃の所持が許可されるのは、正当な理由があり、かつ、一定の職業を有し、前科がないことが条件である。所持を許可された拳銃であっても、これをさらに自宅から持ち出して携帯することは、余程その必要性が認められない限り許可されない。」
「一応の建前としてはそうかもしれませんが、実態は少し違うのではないですか?私の運転手も、この前、車のトランクの中に拳銃を隠し持っていましたよ。」
と、K一等書記官が横から切り出した。少将は、居並ぶ幹部と顔を見合わせ、
「それは違法所持ではないんですか?確かに、建前と実態は大きく違う。つい最近も、バンコクのボクシング・スタジアムで、タイ暴力団による拳銃乱射事件が発生し、我々も困っているところだ。しかし、日本も一般市民の拳銃所持を禁止しているが、ヤクザは幾らでも持っていると聞いている。」
といって、皆で大笑いした。
暫く日本のヤクザが話題になった。彼等にヤクザの性格をいくら説明しても、どうも良く呑み込めないようである。アメリカのマフィアのようなものだ、といったら、少しは納得がいったようであった。
雑談の合間に、拳銃の規制に関する法令のコピーを入手したい旨申し入れたところ、すぐ部長が部下に命じて作成してくれた。

目的の三つ目は、麻薬・覚せい剤密輸事犯の取締まりについての情報交換である。最近タイ国貨物船乗組員による大麻密輸事犯が多発の傾向にあり、また、タイで製造された覚せい剤の錠剤が、我が国でも出回っていることに鑑み、コントロールド・デリバリーをも含めて、今後お互いに情報の交換を行い、取締まりの実効を期したい旨申し入れた。コントロールド・デリバリーとは、捜査機関の統制下に置かれた捜査とでもいうか、密輸等にかかる麻薬等のブツの動きを完全に掌握しつつ追っていき、密輸当事者は勿論、中間に関与した者及び最終的にそのブツを受取った者まで、一網打尽に検挙するという捜査方法である。実際にはかなり困難が伴うが、相手側もこれに異存があろうはずがなく、皆大きく頷いていた。
最後に警察少将が立ち上がり、簡単な挨拶をした後、私とK一等書記官に、タイ国旗に三角の水上警察部の旗をくっつけたもの一振りを、それぞれ贈呈された。一同はそこで記念撮影を行い、午前11時に、私達は再び大型トラックの荷台に乗って、水上警察部を後にした。洪水は、来たときよりは幾分引いていた。
六 バンコク海港と船上レストラン

K一等書記官と通訳の女性と私の3人は、日本大使館の近くの「赤門」という料理店で昼食を済ませ、私はタクシーでホテルに向かった。午後2時に、ジェトロのA氏が車で迎えに来ることになっていた。A氏は、ジェトロ・バンコク・センターの造船部長である。以前、海上保安庁の船舶技術部に在籍していたことがあるという。ここに来られて1年半というから、タイ語もかなりできるかと思ったら、全く駄目で、日本語以外は使わないということである。それで不自由を感じることはほとんどないらしい。
バンコク海港視察の目的は、保税区域における税関等の監視状況を確認することであった。タイ国貨物船乗組員の話では、岸壁付近における税関等の監視はほとんどなく、大概はフリー・パスだという。約1時間走って、港の近くになると大型トラックが犇めき、急に渋滞が酷くなった。A氏の話では、埠頭の付近は何時もこうだという。
バンコク海港は、チャオ・プラヤ河の河口から数キロメートル上流にある。川幅は約1,000メートルで、東岸に沿って、上流側に一般貨物の埠頭約10バースと、下流側にコンテナ埠頭6バースくらいが並んでいる。沖アンカーも含めて約20隻の大型貨物船が停泊しており、岸壁は荷役作業で大混雑である。荷役設備の不備で効率が悪く、24時間ぶっ通しでやっているが、それでも1週間乃至10日間のバース待ちが普通だという。コンテナ埠頭では、夥しいコンテナが延々と野積みされている。それらの間を大型トラックがぎしぎしと隙間なく蠢き、にっちもさっちもいかないような状態だ。保税区域の入口には、一応検問所があって、警察官が4〜5人立っているが、密輸品のチェックなど不可能である。トラック、乗用車、単車がひっきりなしで、とてもそれどころではない。如何にして車の出入りを円滑にさせるかで精一杯なのだ。
午後4時頃ホテルの自室に戻ると、待っていたようにプリジャ副局長から電話が入った。船上レストランを予約してあるので、午後6時に自分の車で迎えに行く、ラサミー補佐官と通訳のウライワンさんも先に行って待っている、ということである。午後6時少し前になると、K一等書記官から電話があり、今から車で出るので30分ほど待ってもらいたいという。色々とお忙しいらしい。六時にロビーで副局長と会い、そのことを伝えると、今頃が渋滞のピークだから、日本大使館から30分で来るのは絶対無理だという。7時まで待ったが、レストラン船の出港時間に間に合わなくなるので、我々だけでホテルを出た。バンコク市内は、車が氾濫していた。
船上レストランは、バンコク北西部のチャオ・プラヤ河の支流へ少しはいったところにあった。それは、約100トンの木造遊覧船で、川岸に3〜4隻係留されている。クリスマス・イブも近づいており、物凄い人盛りでどれも超満員である。副局長の案内で乗船すると、上甲板中央部のテーブルに、ラサミー女史の優しい顔が待っていた。時計は午後8時を回っていたが、通訳のウライワンさんは、このお祭りのような人込みの中に紛れ込み、逸れてしまったようだ。
間もなく1隻ずつ岸を離れると、昼間の暑さが嘘のような、涼しい川風が動き出した。ビールで乾杯した後、副局長と私は、タイ・ウイスキーに切り替えて飲み始めた。「トム・ヤム・クン」という鍋料理や、その他見慣れない料理が色々出るが、独特のスパイスがよく利いていて案外いける。
リバー・サイドには、シャングリラやシェラトンなどの一流ホテルが、数百メートル間隔で一際高く聳え立ち、様々な形をしたオレンジ色のイルミネーションが、闇の中でその華麗さを競っている。遊覧船は、支流からチャオ・プラヤ河に出て川下へ下り、低い橋を幾つか潜り抜けた。乗客は鈴なりで、若い男女が外舷に大きく身を乗り出して戯れている。7〜8ノットのスピードだが、至近距離を2〜3隻の遊覧船がワイワイ競いながら走る。私は心配になり、
「何人くらい乗っているのでしょう?」
と、副局長に尋ねてみた。副局長は、
「ここまで来たら、仕事のことは忘れろ。」
といって向こうの船に手を振りながら笑っている。
ラマ九世橋の手前で反転し、元の桟橋に戻ったときは、午後11時に近かった。ラサミーは2人の息子の母である。
「こんなに遅くなって、息子さん達がお待ちでは?」
と、私は申しわけなさそうにいった。彼女は、
「ノープロブレム。おばぁちゃんと一緒ですから大丈夫です。」
といって、にっこり笑った。バンコクの夜も今夜で終わりだ。
24日朝、早めにタクシーで空港に向かった。短い期間ではあったが、関係各位のお陰で、すべて順調な旅であったことに感謝するとともに、車窓に過ぎ行く異国の風景を眺めながら、私は一人満足感に浸っていた。(おわり)