「聖書と心のページ」(130)
2012年2月1日 更新
(聖書を黙想する)

三浦神父 作成
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( 目 次 )
1. (はじめに) 『巻頭言』 「祈る人」
2. (心に響く聖書の言葉) 「計り知れない神の愛」
3. (心の詩) 「詩編103の祈り 憐み深い神」
4. (主日のミサの福音書)
2月5日(日) 「悪魔と戦うイエス」
2月12日(日) 「イエスの慈悲心」
5. (おわりに)

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1.(はじめに) 「巻頭言」
「祈る人」
読者の皆様、 寒中お見舞い申し上げます。 こちらでもこのところ
いつもよりも寒く感じます。 ほんの少しでしたが、 雪も降りまし
た。 大体この湘南地方は、 冬でも割合に温かいのですが、
今年は少し寒さがきびしいです。 皆様はいかがお過しでしょう
か。 きっとお元気しょうね。 私は毎日、 とても元気に過ごして
います。 なんの薬も必要なく、 健康で生きられること、 働ける
ことを神様に感謝しています。
きょうもお約束の通り、 2月1日更新の130号をお送りいたします
毎回、どのようなことを書ばよいかと、 頭をひねるのですが、 そ
うしているうちに、 いつも何か書くことが浮かんでくるので不思議
です。 いつも聖霊が助けてくださるからでしょう。

練馬区の上石神井に、ロヨラ・ハウスという家があります。 ここは
高齢や病気のために、 体が十分に動かなくなり、 第一線を退
いた司祭たちが、 共同で過ごしているイエズス会の修道院です。
そこにはかつて、 社会の中で立派な働きをして、 多くの人々
のために貢献してこられた、 私たちの先輩や同僚などが、 今は
十数名、 余生を静養と祈りのうちに過ごしておられます。
ところで、 私たちは毎年、 会員名簿をもらうのですが、 その名
簿には、 名前のほかに仕事の役割もついています。 私の場合
は英語でpastoral ministerという役割が、 名前の後に付いていま
す。それは私がいろいろな司牧的な仕事や 活動をして、人々の
ために尽くし、貢献する人、または、しなさいという意味です。です
から私は、 いのちのある限りその目的のために、 毎日働いてい
るのです。
ロヨラ・ハウスで静養している司祭たちは、 もう現場で働くことがで
きませんから、 名簿の名前についている役割は、 どうなっている
のでしょうか。 幸いなことに、 もはや実際に何も活躍ができなくな
ったとしても、 イエズス会はまだその人々に、 静養しながらも、
祈りをもって働くことを、 願っているのです。 体が動かなくても、
寝たぎりになっても、 人間は誰でも神様に、 世界中の人々の真
の幸せと、 救いの恵みを、 祈ることはできる筈です。
ですから、 毎年、 受け取る名簿の中の名前には、 当然なことロ
ヨラ・ハウスで静養している人にも、 その名前の後に役割が付けら
れているのです。 それは、 「教会と社会のために祈る人」、 とい
うことなのです。 私はそれがとても美しい響きを持った言葉、 役割
で、 大変にいいなと思います。
司祭はその命を神様にお返しする時まで、 世の人々のために、
世界中の人々の罪のつぐのいと回心のために、 永遠のいのちのた
めに、 つまり真の救いのために、 ずっと祈りつづけているのです。
それは本当に素晴らしい霊的な働きですから、 このようにして人生
の終わりまで過ごせるのは、 とても意味も、価値もある生き方です。
でも、 司祭だけでなく、 どんな人でも、 同じように老後を家の中
で、 あるいは ベッドの上で過ごさねばならない人なら、 そのように
辛い日々を祈りとして神に捧げられたらいいのです。 そのようにして
毎日を有意義な、 価値ある ものに高めて、 いくことができるのです。
神様はそのようなお方の祈りを、 病気の苦しみや、 体の不自由と共
に、 慈しみのお心をもって受け取られ、 同時に祈る人々とより一層
の親しさと、絆を深め、 更に大きな恵みと祝福を、 祈る人々自身に
、また祈りを捧げる相手の人々にも、 注がれることでしょう。
@
このページをご覧になられて、 ご感想、 アイデア、 ご注文などなん
でも結構ですから、はがきかメールか、お手紙などで、 ご遠慮なくお
寄せくだされば、 感謝いたします。 寒いときですから、 どうかお風邪
を引かれませんように、 くれぐれもお気をつけください。 インフルエン
ザが流行っていますので、 どうかお大事に。 三浦神父
〒248−0001 鎌倉市十二所80 イエズス会修道院 黙想の家
(0467−25−1616) (090−7898−2265) kjmrsp@arrow.ocn.ne.jp
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2.(心に響く聖書の言葉)
(エフェゾ書2,3〜5) 「神の計り知れない愛」
「さて、 あなたがたは、 以前は自分の過ちと罪のために、 死んでいた
のです。 この世を支配する者、 すなわち不従順な者たちの内に、・・・
今も働く霊(悪霊、悪魔)に従い、 過ちと罪を犯して歩んでいました。 私
たちも皆、 こういう者たちの中にいて、 以前は肉の欲望の赴くままに生
活をし、 肉や心の欲するままに、 行動していたのであり、 ほかの人々
と同じように、 生まれながら神の怒りを受けるべきものでした。
しかし、 憐れみ豊かな神は、私たちをこの上なく愛してくださり、 その
愛によって、 罪のために死んでいた私たちを、 キリストと共に生かし
、−あなたがたの救われたのは恵みによるのですー キリスト・イエスに
よって共に復活させ、 共に天の王座に着かせてくださいました。 こう
して神は、 キリスト・イエスにおいて、 私たちにお示しになった慈しみ
により、 その限りなく豊かな恵みを、 来るべ世に現そうとされたので
す。 事実、 あなたがたは恵みにより、 信仰によって救われました。
このことは、 あなたがたの力によるのではなく、 神からの賜物です。」
聖パウロは、 ここで「私たち人間という者は皆、 アダムとエワが神に
対して犯した原罪という罪の結果を受け継いでおり、 このようにしてこ
の世に生まれてきた人間は皆、 惨めで弱い者になってしまい、また
そのためにすべての人は、 アダムとエワがあの悪魔によって誘惑さ
れて、 罪を犯したように、 悪魔のいざないを受けて、 いろいろな過
ちや罪を犯して、 生活しているものです。 それゆえ、人間は皆、生
まれながらにして罪びとであり、 神の怒りを受けるべき者だった」と、
主張するのです。
しかし聖パウロはそれにもかかわらず、 私たちに希望と平安を与え
てくれるのです。 すなわち「憐み深い神は、 原罪の結果を受け継
ぎ、 また自分が犯していた数々の罪のために、 死んでいた(永遠
の滅びの道を歩んでいた)にもかかわらず、 このような私たち人間を
、 限りなく愛しておられたのです。 そしてその愛のゆえに、 神は御
子イエスによって私たち人間を救い、 生きるものとしてくださり、 永
遠なる神の国へと導き、 そこで計り知れない豊かな恵みをもって、
満たそうとなさるのです。
このことは私たちの人間の力や、 努力や、 働きの結果ではなく、
ただ神から頂いた、 信仰の恵みによるものであり、 神の賜物にほ
かならないのです。 私たちは神から恵みを頂き、 神を信じるという
ことが出来たからこそ、 その信仰によって救われたのだ」と強調する
のです。
@
こんな罪深い私たちでも、 神様は変わらない愛をもって、 日々愛し
続けておられることを思い、 私たちも同じく日々、 神様の愛に満ち
たお心に応えながら、 愛を実行して行かねばならないと思います。

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3.(心の詩)
(詩編103の祈り) 「主に賛美と感謝を捧げる」)
私の魂よ、主をたたえよ。私の内にあるものはこぞって、聖なる
御名を称えよ。 私の魂よ、主をたたえよ。主の御計らいを、何
ひとつ忘れてはならない。
主はお前の罪をことごとく赦し、 病をすべて癒し、命を墓から贖
い出してくださる。
慈しみと憐みの冠を授け、 長らえる限り良いものに満ち足らせ
鷲のような若さを新たにしてくださる。
主は憐み深く、 恵みに富み、 忍耐強く、慈しみは大きい。
永久に責めることはなく、 とこしえに怒り続けられることはない。
主はわたしたちを、 罪に応じてあしらわれることなく、
わたしたちの悪に従って、 報いられることもない。
天が地を超えて高いように、 慈しみは主を畏れる人を超えて大
きい。 東が西から遠いほど、 私たちの背きの罪を遠ざけてくだ
さる。
父がその子を憐れむように、
主は、 主を畏れる人をあわれんでくださる。
主に造られたものはすべて、 主を称えよ。
私の魂よ、 主を称えよ。

私たち人間がどんなに罪深い者であっても、 主は私たちを愛して
おられるのです。 その寛大な愛のゆえに、 咎めることなく、 赦し
てくださるのです。 それゆえ、 私たちも神のその寛大な愛を思い
、心からなる賛美と感謝を捧げましょう。 そして私たちも神のような
広い心で、 私たちに悪を行う人をも、 憎む人をも、 ひどいことを
する人をも赦しましょう。 そうすることで、 私たちは神に近づき、一
致できるのです。そんな人を神は祝福してくださるのです。 そのし
るしは心が平安になり、 大きな喜びがあふれてくるのです。
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4.(主日のミサの福音書)
2月5日 年間第5の主日
(マルコ福音書1,29〜39) 「悪魔と戦うイエス」
@ ペトロの義理の母の回復
すぐに一行は会堂を出て、シモンと、アンデレの家に行った。ヤコブ
とヨハネも一緒であった。シモンのしゅうとめが、 熱を出して寝てい
たので、 人々は早速、 彼女のことをイエスに話した。 イエスがそ
ばに行き、 手を取って起こされると、 熱は去り、 彼女は一同を
もてなした。 (マルコ1、29〜31)
21節のところで、 イエスが安息日に、 会堂で教えを述べられた、
とありますが、 その時、 汚れた霊、 悪魔が取りついていた人か
ら、 その悪霊を追い出し、 彼を救われたのでした。 そのために、
大勢の人々はイエスに関心を示し、 取り巻いたので、 きっと疲れて
しまわれたのでしょう。 それで、 イエスは会堂からすぐ近くの、 シ
モンとアンデレの家に行き、 休息をとり、 安息日の主な食事を取ろ
うとされたのです。 当時のユダヤ人の習慣は、 会堂での礼拝が終
わってから、 家に帰って昼の十二時ごろに、 主な安息日の食事を
したようです。 (バークレー著「マルコ福音書」46ページ参照)
ところがシモンの家に行ってみると、 シモンの姑が熱を出して床に
就いていたので、 人々はそのことをイエスに知らせたのです。 イエ
スは病人を見ると、 すぐさま彼女の手を取り、 起き上がらせると、
すぐに熱が去り、 元気になってしまったのです。 こうしてここでもイ
エスは、 すぐに人を助けるという愛の行いを実行され、 またご自分
が神であることを示されたのです。 すなわち奇跡をもって姑を一
瞬のうちに癒されたのです。
姑というと、 それはシモンの妻の母親ということになりますが、 です
からシモンは妻帯者であったことが分かります。 イエスはそのような
人をも、 ご自分の弟子にされたことは、 意味深いことです。
また姑はすぐに元気になり、 一行をもてなしたことも、 驚くべきこと
であり、 素晴らしいことでもあります。 きっと姑はもちろんのこと、ま
わりの人々も、 イエスの不思議な力に驚き、 喜び、 感謝したこと
でしょう。 それゆえ姑は一生懸命に、 食事のお世話をしてイエス
の一行を、 手厚く親切にもてなしたと思います。 またそのことから、
姑は愛の心に優れた親切な人だったのでしょう。
私たちも、毎日の生活において、 どのようなことが起こるかもしれませ
ん。そのために、 人助けをしなければならないような機会を、 神様
は与えてくださることでしょうが、 そんな時、 積極的に困っている人
のために、 手を差し伸べて助けることは、 キリスト信者の務めである
と思います。
Aイエスは多くの人を癒す
夕方になって日が沈むと、 人々は病人や悪霊につかれたものを皆
、イエスのもとに連れてきた。 町中の人々が、 戸口に集まった。イ
エスは、 いろいろな病気にかかっている、 大勢の人たちを癒し、
また、 悪霊を追い出して、 悪霊にものを言うことを、お許しになら
なかった。悪霊はイエスを知っていたからである。(マルコ1、32〜34)
夕暮れになって、 少し涼しくなってきたからでしょうか。 またイエス
も休養を取り、 元気を回復されたからでしょうか、 多くの人々がイ
エスの所へ、 自分の家族の病人や、 悪霊に取りつかれている人
々を連れてきたので、 イエスはその不思議な神の力をもって、その
ような気の毒な人々を、 たちどころに治してしまわれました。

当時は現代のような立派な病院も、 医者も、 薬すらもなかったの
で、 当然にイエスの素晴らしい、 奇跡的な病気の治癒の噂は、
多くの人々に伝わり、 人々はイエスの所に押しかけてきたのでし
た。 本当に、 イエスだけが人々の唯一の頼りでしたから。
またイエスは病気を癒すだけではなく、 悪魔に取りつかれていた
人から、 悪魔そのものをも追い出し、 元通りの元気な人々にして
あげられました。 このようにイエスに助けられた人びとは、 どんな
に喜び、 また嬉しかったことでしょう。 イエスがなさったこのような
愛の行いは、 多くの人々の心に深い感動と、 尊敬と感謝と信頼
をもたらし、 またイエスに対して、 心を開かせることにもなったで
しょう。 ですから、 イエスがお話になられた教えは、 砂が水を吸
うように人々の心にしみとおって行ったことでしょう。
イエスはこのことをもって、 教えを宣べ伝える為には、 人が実際に
今ここで一番に必要とし、 求めているものを先ず与え、 助けて、
信頼を勝ち得ることが、 大事なのだということを、 ご自分の弟子
達にも教えられ、 また現在に生き、 働いている私たちにも、 教
え諭されているのだと思います。
当時は一般に、 病気は悪魔の働きの結果であると、 考えられて
いたようです。 現在のような進んだ医学的な知識が、 なかった
時代ですから、 仕方がなかったことでしょう。 でも、現代でも悪
魔は確かにいろいろな人々に取りついて、 様々な訳の分からな
いないような病気を引き起こしたり、 人々を不幸な目に遭わすこ
ともあるのです。

イエス様は神様でしたから、 そのような神に敵対する悪魔的な力
に対して、 このように愛の業をもって、 人を癒すということをなさ
り、 悪魔に打ち勝っておられたのです。 悪魔は愛という行いや
心が、 大嫌いなのです。 なぜなら愛そのものは、 神様の心、
力、 働き、 神様そのものだからです。 雪だるまが、 太陽の光
と熱を浴びるならば、 すぐに溶けて消えてしまうように、 私達が
いくら悪魔的な力に攻撃されても、 愛の心を持ち、 愛の行いを
実行しているならば、 悪魔は私たちから退散してしまうでしょう。
悪魔は目には見えない恐ろしい霊的な存在です。 でも現実に私
たちの心身や、 生活や働きや活動にも、 その恐ろしい力をもっ
て働きかけ、 邪魔をし、 壊し、 不幸に陥れ、 神への信仰を失
わせ、 神から決定的に引き離し、 滅ぼそうとしているのです。
だから、 私たちはイエスが教えられた主の祈りの中に、「私たちを
誘惑に陥らせず、 悪からお救いください」とあるように(マタイ9,13)
、 熱心に祈ることは、 とても大切なのです。 悪魔が一番嫌うのは
神様であり、 神の力であり、 また神への祈りなのです。 悪魔はそ
れに打ち勝てず、 私たちから退散していくのです。
B巡回して宣教する
イエスは朝早く、まだ暗いうちに起きて、人里離れたところへ出てい
き、 そこで祈っておられた。 シモンとその仲間はイエスの後を追
い、 見つけると「皆が探しています」と言った。 イエスは言われた
。 「近くのほかの町や村へ行こう。 そこでも、 私は宣教する。 そ
のために私は出てきたのである。」 そして、 ガリラヤ中の会堂に
行き、 宣教し、 悪霊を追い出された。」 (マルコ1、35〜39)
イエスの一日のはじめは、 まず早朝の祈りから始まったようです。
誰もいない所へ行かれ、 そこでおん父なる神に向かって心を向け
られ、 おん父との深い霊的な一致の内に留まり、 そしてその日に
どこへ行くか、 誰に出会うべきか、 何をなすべきかなどと、 いろ
いろと語り合われたことでしょう。 このようにしておん父との、 深い
霊的な一致と交わりの中で、 御父からの全知全能の神の力を汲み
取られ、 その日の働きに備えておられたのです。 このようにして
イエスの一日の活動は始まったのです。 このことは私たちにとって
も、 見倣うべき、 大切なことであることは、 言うまでもありません。
@
でも朝早くから、 イエスの姿が見えなくなったので、 心配した弟子
たちがイエスを探しに行った所、 イエスを人里離れた静かなところ
で見つけ、「皆が心配して探しています。」と伝えました。 彼らはイ
エスの姿が見えなくなると、 いつも不安や心配に見舞われていた
のでしょう。 だが、 もしそうならば、 彼らはまだ、 イエスが本当
に神だということを、深く信じきってはいなかったのでしょう。

イエスを真の神として、 彼らが確信していたならば、 イエスにつ
いて何も心配することもなかったはずです。 弟子たちのイエスへ
の信仰が、 まだ完全ではなかったからこそ、 不安や心配が起き
て来たのです。 それは今に生きる私たちにも言えることです。
なぜ私たちは、 毎日いろいろなことで、 悩み、 心配し、 不安
になるのでしょうか。 それは、 イエスが絶対に真の神であること
を、 信じていないからなのです。 神を絶対的に信じているなら
ば、 私たちはもう、 どんなことも、 何も心配することはないはず
です。 たとえイエスの姿が見えなくなったとしても、 何も心配す
ることはないはずです。 イエスは神ですから、 必要なことは何で
もおできになるし、 どんな困難も自分で解決される筈です。
@
あるいは、弟子たちがイエスを探しに来たのは、 その日の行動の
予定を彼らが、 まだイエスから聞いていなかった、 からかもしれ
ません。 だから「今日はどこへ行くのでしょうか。 なにをするので
しょうか。」という感じで、 イエスに聞きに来たのかもしれません。
それゆえイエスはその弟子たちに、 その日の予定を告げられた
のでしょう。 「そうだ、 今日は近くの町や村へ行こう。 そしてそこ
でも、 福音の教えを宣べ伝えよう。 そのためにこそ、 自分はこ
の世にやってきたし、 またそれこそが、 御父のみ旨なのだから」
と言われたことでしょう。
そしてガリラヤ中の会堂へ行き、 教え、 悪霊を追い出されておら
れたのでした。 この短い記述の中にも、 イエスの宣教への熱意、
真剣さ、 人々を救いたいというお心を 、強く感じ取ることができま
す。 私たちもそのお心に倣いましょう。 そして何をしたらいいか。ど
こへいけばよいか、と、祈りのなかでいつも、 神様のみ旨を聞きまし
ょう。神様はきっとなすべきことを、教え、それを行う知恵と、力と、方
法を与えてくださり、そして私たちと共に働いてくださるでしょう。
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2月12日(日) 年間第6の主日、
(マルコ福音書1、40〜45)「イエスの慈悲心」
@
さて、重い皮膚病を患っている人が、 イエスのところに来てひざ
まずいて願い、 「み心ならば、 私を清くすることが、 おできに
なります」と言った。 イスが深く憐れんで、 手を差し伸べてその
人に触れ、 「よろしい、 清くなれ」と言われると、 たちまち重い
皮膚病は去り、 その人は清くなった。(1、40〜42)
A
イエスはすぐにその人を立ち去らせようとして、 厳しく注意して
言われた。 「誰にも、 何も話さないように気をつけなさい。 た
だ、 行って祭司に体を見せ、 モーセが定めたものを、 清めの
ために献げて、 人々に証明しなさい」と。(1、43〜44)
B
しかし彼はそこを立ち去ると、 大いにこの出来事を人々に告げ、
言い広め始めた。 それでイエスはもはや、 公然と町に入ること
ができず、 町の外の人のいない所におられた。 それでも人々
は四方からイエスの所に集まって来た。 (1、45)
@
ある重い皮膚病の人がイエスの所にやってきました。 イエスが沢山
の人々の病気を癒されたということを、 誰かから聞いたのでしょう。
その人はイエスの所へやってきてひざまづき、 「み心ならば、私を
清くすることがおできになります」と、 礼儀正しくお願いしたのです。
その言葉と態度は、 イエスに対して心からの尊敬と、 深い信仰
と、 謙虚さと、 そして礼儀正しい姿勢を、 示すものでした。

すなわち、 彼はイエスの所に来ると、 先ずひざまずいたのですが
、 それはイエスに対して、 謙虚でふさわしい心を示すものでした。
また病気を治してくださいとお願いするときに、 「ただ治してくださ
い」と言ったのではなく、「み心ならば、 治すことがおできになります
。」と言ったのです。
彼のこの言葉の裏には、 つまり彼の考えの中には、 「もしみ旨な
らば、 すなわち、 あなたがお望みになるならば、 治していただ
けると確信しています。 なぜならあなたは神様ですから、 何一つ
おできにならないことはないからです。 しかし、 み旨でないなら
ば、 それも甘んじてお受けいたします。」 という彼のイエスに対す
る深い謙遜と、 純真な本当な信仰が、彼にはあったのです。
イエスは瞬時にして彼の心を見抜き、 この人は治してあげるのに
ふさわしい人だと、 確信されたのです。 そして深い憐みの心をも
って、 自分の手を差し伸べてその体に触れ、 「よろしい、清くな
れ」と言われると、 すぐにその人は、 病気が癒され、 元通りの
きれいな体になったのです。
@
このエピソードから、 私たちがイエスに対して深い、 謙虚な信仰
の心をいつも持っていることが、 どんなにか大切であるか、 また
イエスをお喜ばせすることであるかが、 よくわかるでしょう。 また
そのことから、 神であるイエスは、 私たち人間がイエスを何の疑
いもなく、 真の神として信じ、 愛し、 そのお心に従って、 この
人生を生きることを望んでおられる、 ということも分かるでしょう。

またそのような生き方をしている人に、 イエス様は驚くような奇跡を
もっても助け 、癒すことにより、 大変に素晴らしい恵みをも与え、
生きる喜びをも、もたらされたのです。
このことを思いながら、 神であるイエス様に 対して、 私たちの信
仰が、 日々よりいっそう深められますように、 神に信仰のお恵み
をお願いしましょう。
A
イエスは彼が癒されると、 すぐにここから立ち去っていくように、 そ
してこのように体が癒されたことを、 誰にも話さないようにと、 厳し
く注意されたのですが、 それはなぜでしょうか。 ただいずれ社会
生活が認められるようになるために、 ユダヤ教の祭司のところへに
行き、 清めをしてもらい、 きれいな体になったことを、公に認めて
もらうようにと命じられたのです。 でもイエスは彼がすぐにその場か
ら立ち去り、 家に帰ることを命じられたのです。 それはなぜでしょ
うか。 皆様もどうかよく考えてみてください。 でも・・・私は次のよう
に考えます。
@
普通、人間はそのような不思議な恵みをもらうならば、 もうだまって
はおられず、 きっと大喜びをして周りの人にだれかれとなく、 その
ことを話し、 大騒ぎをすることでしょう。 そうするならば、 人々は奇
跡的に癒された彼を見て、 驚き、 感嘆し、彼を癒したイエスを賛美
しに集まってきて、 騒ぎが一層大きくなることでしょう。 イエスはその
ことがよく分かっておられたのです。
そうすると、 それを聞いたイエスの反対者、 敵対者であるファリ
サイ人や律法学者たち、 ユダヤ教の指導者たちは、 イエスがそ
のようにして民衆を扇動し、 自分たちの所から人々を離反させて
、 イエスのもとに集まることを画策したとして、 イエスに対して大
きな攻撃や宣教活動への妨害行為、 悪意の宣伝, いじわるな
どを引き起こすであろうことを、 イエスは分かっておられたのです。
それでは困るので、 イエスはそういうことにならないためにも、 今
はそっと自分の家に帰り、 おとなしくしているように命じられたので
す。 イエスはいつも、 ユダヤ人たちとの間に、 つまらないトラブ
ルが起きるのを、 望まれなかったのです。
B
しかしこの人は、 イエスからそのように言われていたにもかかわら
ず、 イエスのもとから立ち去ると、 自分がイエスから癒されて、
こんなにきれいな体になったことを、 興奮しながら大声で人々に
吹聴し、 イエスのことを賛美し、 言い広めたのです。
なぜ彼はそうしたのでしょうか。 それは家に帰るまでに出会った人
々が、 彼の顔や体が以前とは全く異なり、 あまりにもきれいに変
わってしまったのに、 気づいたからです。 だから、 人々は驚き、
かれにどうしてそうなったのかと、 強く尋ねたので、 かれはもう黙
っておれなくなり、 イエスのおかげで癒されて、 このようになった
と、 大喜びで、 興奮しながら話し始めたのです。
彼は本当に嬉しかったのです。 イエスから禁じられていたにもかか
わらず、 もう黙ってはおれず、 イエスが自分になさった素晴らしい
御業を褒め称え、 感謝したのです。 あのお方が治してくださった
のだ。 イエス様が私の醜い顔を、 体を、 手足をこんなにもきれ
いにしてくださったのだと、 それを人々に見せ、 叫び、 イエス
を神だと誉め称え、 感謝をし始めたのです。

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(おわりに)
「聖書と心のページ」を130号に更新し、 皆様にお送りいたしました
ので、なにとぞよろしくお願い申し上げます。 あるお方から、このペ
ージの129号を開いたら、字がとても小さくなっていて、 しかも行間
が詰まっているので、 記事が読みにくいという、 ご指摘がありまし
たが、 大変に申し訳ございませんでした。
それで、自分で調べてみましたが、大体わかりました。私のパソコン
は最近に買った、 NEC の新しいものです。 この字の大きさを、
ページ編集の100%で記事を書いていますが、 それをプレビュー
に切り替えた活字で、 字を少し大きくして、 発信しています。なぜ
ならそうすると、 右肩上にページ数が記入され、 またいつも皆様
にお送りするように、 きちんと紙面が出来上がるからです。
私はそれを見て 、そんなに読みにくいとは思いませんが、 皆様の内
のあるお方のパソコンは、 私のと異なると、 そのようにいかないのか
もしれません。 それで、 パソコンのデスク・トップの画面のアイコンを
調べて、 どれが発信したページの拡大、 縮小を行うものかどうかを、
探していましたら、 見つかりました。
それはページの画面の一番上の右の所に、 左から小屋、星、歯車と
三つのアイコンがあり、 その歯車のアイコンをクリックすると、 その中
に印刷、ファイル、拡大、セーフティーなどが出てきますので、その拡
大をクリックすると、拡大の左側に、拡大数が出てきます。それでご希
望の大きさの数字をクリックすると、 自然に画面の字の大きさは変更
されます。
こうするとご自分のページの画面が、 あまりにも小さくて見えにくいと、
言われたお方も適当な大きさにして、 無理なく見ていただけると、
思いますので、 どうかよろしくお願い致します。
次回の更新日は、 2月15日(水)です。 しばらくは毎月2回の更新
を続けてみたいと思います。 それについても、何かご感想かご意見
など、お便りくだされば、幸いです。ページ作成の参考に致しますの
で、 よろしくお願い致します。
それから、 私が担当します2月の一泊黙想会は、 2月6日(月)15時
から〜7日15時までのものがあります。 またまた3月12日の午前10時
から16時までの、 日帰り黙想会がありますが、 どなたもご都合をつけ
られまして、 ぜひいらしてください。 ご希望のお方は、 修道院の事
務室まで、 お申込みください。
では皆様、寒いときですので、お体にはくれぐれも気を付けられます
ように。 お大事に。 どうも有難うございました。 三浦神父
鎌倉市十二所80 イエズス会修道院 (0467−25−1616)

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