| 三保の藤五郎 | ||
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三保の土地は、やせた砂地で、その上、たび重なる災害を受け、農民たちは大へん苦労した。 三保村誌に、万治2年(1659)から元禄12年(1699)までの41年間に、13回の大暴風が起り、 そのたび毎にせっかく苦労を重ねて栽培した作物が、波に流され、うち2回は収穫が皆無であったと記録されている。 そんなことから、土地に見切りをつけて、家をすて、村をたちのくという状態で、捨てられた空家は倒れかかり、耕地は小石まじりの荒地と化する。そのあとに、他から移住して来たものが開こんするが、またも寄せてくる暴風で、せっかくの開こん地が波をかぶりあきらめて土地をすて去る。 このような悲惨な歴史がくりかえされて、現在この土地に居住している農民の大部分は、今から 約2百年前の安永年間以後の移住者であるといわれている。 彼らは、生きんがために、このきびしい自然とたたかいながら、開こんに涙ぐましい努力をつづけてきたが、三保の領主、太田神主は苦しい農民の生活に少しの同情もなく、私欲に汲々としていた。ここにおいて、小前百姓らは、藤五郎を代表として、窮乏のなかから立ちあがった。その結果藤五郎は領主のうらみをかって、遂に尊い一命を犠牲にしたのである。 物語は安政元年(1854)に初まる。この年は関東を中心に全国各地に大地震が起こり、ここ三保にも大災害を与えた。真崎の地は大陥没し、耕地の大部分は津波のため、砂でうずまってしまった。ことに代官領になっていた新田は、もっとも甚だしかった。この荒地復旧のため、百姓は名主の平左衛門と清左衛門、組頭の文助、百姓代表の与五兵衛を代表として年賦で返済する方法で3百両借りたいと、代官所へ願い出た。代官所としても、荒地のままでは年貢米も入らぬので、差しあたり50両、引きつづいて追加金として80両貸し与えた。しかし甚大な被害に対して130両ばかりの援助金では、焼け石に水で、どうにもならない。その上ひでりが打ちつづいたので、苦しみはたとえようもなかった。食うに困った百姓たちは、それにも屈せず耕地の復旧につとめたが、ほとんど効果がなかった。やむをえず翌年4月、再び相談して、代官へ荒地の税を免じて欲しいと願い出た。しかし、その願い出も許されなかった。困り果てた小前百姓たちは、10月8日、勘定奉行の大竹伊兵衛が清水の焼けあとを検分するため、当地に来ることを聞いて、与八郎・清六・幸右衛門の3人、(注)またまた願い出たが、聞き入れられなかった。 「(注)天保13年(1842)名主清右衛門と平左兵衛門、組頭勘兵衛、百姓伊兵衛門、寺社奉行の 松平伊賀守に、かご訴えをして所払いとなり、村から追放されたが、ようやく許された事件である。」 とやかくしているうちに、内海の一部に新しい土地が隆起した。これこそ神のめぐみであったと百姓たちは大いに喜んだ。海岸が隆起して、乾尻・江湖・平大夫島・貝島・迂豆久呂などの土地があらたに生まれたからである。そこで彼らはさっそく、この土地を開こんしたいと神官太田に依頼したところ、『海岸は社領であるから、もし開こんしたなら、また代官領にとられてしまうから、開こんは許されない。』とすげなくことわられた。 しかし、太田は困っている百姓の願いを断っておきながら、いっぽうでは代官所へ運動して、自分の親戚である野村戸作とともに、十数町歩にわたる土地を、村役人と親しい者たちに割り当てる予定で開こんをはじめた。 これをみた小前百姓たちは、もう我慢ができない。憤慨した百二十八名は、浜辺に集まって秘密会議を開いた。彼らの団結は強く、運動費として、一戸について砂糖二樽づつ集めることを取りきめた。また、藤五郎・平五郎・忠吉・栄次郎・次郎兵衛・七右衛門の六名を代表にえらんだ。そこで まず藤五郎と兵五郎が代官所へ訴え出た。しかし、代官は聞き入れるどころか、二人を投獄した。この投獄によって、百姓の怒りは頂点に達した。 このねばり強い訴えに対して太田はおどろいた。代官所も大ぜいの百姓を向うにまわして対立することの不利をさとり、両者の言い分を聞き、公平な取り調べをしなければならなくなった。そして、藤五郎・兵五郎を釈放し、新地の配分は村役人と小前百姓の両方から代表者を出して、会議の上で取りきめることにした。 これは小前百姓にとって、今までにみられないことである。お互いの言い争いが幾日もつづいたが、ようやく妥結した。しかしこの妥協案も代官の裁定によって、村役人にたいへん有利に、小前百姓には不利にされてしまった。村役人の受けた土地は一戸平均四反四畝余、小前百姓の取り分は一戸平均四.四畝で、約十分の一にしかならない。その上、村役人が出した開こん用金も返さねばならないし、地震による大損害を受けているので、生活は決して楽にならず、今まで通り苦しかった。しかし、たとえ半反にも足りない土地であっても、はじめて自分の土地をえたことを喜んだ。 こうしているうちに、またも藤五郎は捕えられた。この度の藤五郎の投獄には何らの理由もなく、さまざまな無実の言いふらしをうけた。では、なぜ罰せられたか。領主太田について述べる。 慶応年間(1865〜67)まさに、徳川幕府が倒れて新時代が生まれようとする時代である。機を見るに早い太田は今まで幕府の保護の下に、支配的地位を保っていたが、幕府の力に見きりをつけて、幕府を倒して新しい政治に加わろうと赤心隊(注)に加入したのである。そして、いつまでも村の支配者になろうと考えた.しかし藤五郎の指導力は大きい。ことに、土地争いのことから、小前百姓の人気はすっかり藤五郎に集まっている.それに引きかえ、太田の評判はたいへんに悪い。それに時代のうつり変りとともに、村民の気持ちも変わってきた。あの闘争以来、すなおにしたがわない。太田にとっては、藤五郎が目の上のこぶである。藤五郎をこの世から無きものにしたい。 (注) 赤心隊とは、浜松の遠州報国隊、伊豆の伊吹隊などとともに神官たちによって組織された倒幕派 の一つである。 藤五郎の家では、老母と彼の妻、それに六人の子供をかかえて生活がいっそう苦しくなった。彼の妻は世間をしのび、末の子供を背負い、十数里の夜道を駿府まで、夫に会いに行った。みるにしのびなかった百姓たちは藤五郎一家に対し、心から同情したが、きびしい掟と強い太田の権力の前にはなんとも手の出しようがなかった。村松の海長寺・清水の妙慶寺・三保の釣江寺の和尚たちが連名で出獄を嘆願した。 時は、まさに明治の夜明けを告げようとする直前の慶応3年の春、ようやく藤五郎は許されて出獄されることになった。家族はもちろんのこと、百姓たちの喜びはたとえようもなく、前祝いをするという有様であった。しかし出獄の前夜、彼は牢の中で、何者かによって毒殺されてしまった。この知らせによって遺族・村民一同は深いかなしみに打たれた。太田にとっては、藤五郎が出獄することは、目の上のこぶで、彼を亡き者にしようと回し者の手で殺したのである。 のち、三保領主太田建太郎は赤心隊を組織し、尊王倒幕に加わり功を急いだ。 明治元年(1868)9月18日幕府軍をのせた咸臨丸が清水港に逃げこできた時、彼は百姓たちをつかってこれを捕らえたことが原因で、幕府方の残党に、12月18日遂に殺されてしまった。領主が殺されると誰いうとなく、あちこちから『三保の殿様(領主太田)は枕はいらぬ。いらぬはずだよ首がない。』という唄が広まった。これは長い間、苦しめられた小前百姓たちの怒りの感情が歌となってあらわれたものであろう。 いっぽう、藤五郎の死を悼んだ小前百姓たちはその尊い犠牲に感謝しようと、明治4年畑の中へ小さなお稲荷さんを建てた。昭和17年太平洋戦争のさなかに、鉄道線路の新設のため、現在のところへ邊座され、藤五郎神社と命名された。碑文に『郷党仰いで郷土の霊神となす』その功績を讃えている。この藤五郎祭は毎年3月第2日曜日に行われている。藤五郎が食えるようしてくれた恩を感謝する意味で、赤飯をおにぎりにし、お参りする人達にわけてやる習わしになっている。 三保本町三区・四区自治会発行「藤五郎神社の由来」より |