1 柿と羊羹
柿の原産については、日本自生説と中国渡来説の二説がある。いずれにしても、柿は奈良時代以前から日本人に親しまれた大切な食べ物であった。「厨事類記1296年以降・紀宗長著」によると、貴族の大饗宴の献立の中に木菓子として、橘 【聖仁天皇の命により、田道問守(菓子の神)が持ち帰った非時の香菓】・ 杏・ 李・ 桃 などと共に 柿 が、また、干菓子には、松実・ 拍実・ 柘梱・ 干稟・ 干し柿 などが記されている。また 「和名類聚抄−931〜938・源順著」にも、柿・ 鹿心柿(やまがき) の記載があることなどから、奈良・ 平安・ 鎌倉
の中世には、かなり良く利用されていたことがうかがえる。これらの柿果は、生柿 (奈良時代は渋柿のみ、鎌倉時代に甘柿が出現した)、熟し柿 として用いられ さらに、右記に示した 干し柿・ のし柿・ すみ柿・ 巻柿・ 柿羊羹 などに加工されて利用されて来た。柿は他の果実と異なり、酸味が極めて少なく、リンゴ酸を微量に含む程度である。一方、糖はスクロース、
フルクトース、 グルコース などを 15〜20%
含み,干し柿にすると、40〜70%にも達する。このように、水羊羹
(糖度20〜25%)・ 煉羊羹 (40〜70%)にほぼ等しい糖度で、天然の羊羹ともいうべき甘味を主体とした果実である。そのため、古くから、菓子,茶の子,甘味料として利用されてきた。そこで、先ず柿羊羹に視点をおき、柿周辺の食物文化にフいて考えてみることにする。
〔柿の加工品〕
- 柿羊羹…・・‥・・干し柿・熟し柿などを煮くずし.果肉を裏ごしにして、あめ、砂糖、
寒天などを練り込んだものである。岐阜の大垣では、堂上蜂屋柿の干し柿を応用して、槌谷右助が1838年に創製した。広島では、北端牛田の不動院の修行僧義
念が、祇園妨柿より創製したといわれている。
- 拳柿‥‥・・白粉のふいた干し柿を2つに割り,種を抜き、
いくつも重ね合せて、竹皮で包み、その外部をわらで強く巻いてしめる。
輪切りにして、茶の子などに用いられた。徳島のものが名高い。
天の柿・…‥‥・干し柿の果肉に寒天を加えて、平たく固めたもので、適当に切って食べる。 山形で作られている。
- のし柿・・・‥・‥広島では祇園妨柿の果肉を求肥の中に練り込んで薄くのばし、短冊型に切ったものを
「のし柿」、少し細長く拍子木型に切ったものを
「すみ柿」 という。岐阜では、透明な水飴の中に果肉を混合し、ゼラチン質で固めて短冊型にする
1)羊羹と羹(あつもの)
- 羊糞は、古代中国で “ようこう”といい,日本に伝わってから、‘‘ようかん”と呼ぶようになった。締木によると、羊羹は羊の稟(あつもの)の意という。古代中国では羊の国アラビアの影響で羊を良く飼い、また,食したという。当時、羊は極めて貴重なもので、優れたもの,善(よ)いものに羊の字を当てた。〔羊+食一養(すすめる),羊+大一美(うつくしい.うまい,良い),羊+次一羨(よだれを流すほどうまい)
羊+火 一羔 (培った羊の肉、 うまいもの)〕。多くの羊料理の中に、羊の頭と脚をトロトロになるまで湯煮し柔らかくして食べる羹(あつもの)と呼ばれる料理があった。これは、冷やすとゼリー状に固まり、羊羹のはじまりといわれている。この羹は軽食(点心)に用いられた。
2)点心と仏教
- 唐や宋に学んだ僧たちにより、豆腐、 納豆、たくあんと共に、羹が日本へ伝えられた。
この僧たちの食事は朝に粥、 昼に普通食で、昼すぎは食事をしなかった。この昼の食事を「斎(とき)」 「時食(とき)」 といい、斎以外の軽食のことを 非時食 (ときじき) といい、羹、干し果実、菓子などを食した。これは、軽い食事をして気分を変えること、すなわち点心(心胸を点改する)であった。
日本に伝来した羹は、当時、日本では羊を飼育していなかったため、魚の煮こごりを代用した。
さらに、仏教の影響で、羊や魚のゼラチンの代りに、葛粉、昆布、心太(ところてん)を用いてゼリー状に固めた。これらは,今の寒天、流し羊羹の原形である。
この頃はまだ羹に砂糖などを用いていない。
このように、羊のかわりとして葛粉や、昆布を用いたことは日本文化の大きな特徴の一つで、中国のものに似せて、より日本的なものを作ること、すなわち、如来
(来たるが如く) であった。 今の日本がアメリカ
や ヨーロッパの文化や料学技術を導入している姿に似ている。
3)羊羹と砂糖(スクロース)
- 黒砂糖は、唐僧の鑑真和上により753年に唐からはじめて伝えられた。しかし,その量は
極めて少なく、薬として用いたにすぎない。砂糖の輸入が本格的になったのは、幕府が平戸と長崎以外に外国船の寄港を禁止した1615年以後である。中国の安南
(現在の貴州省晴隆県) で作られた砂糖が章川から砂糖船で密かに、堺港に運ばれた。この砂糖は、三盆白 (三品自)、上白、太白 であったといわれている。、堺へ上がった砂糖は、京都、奈良の禁裏や寺院に献上品として納められた
。禁裏や寺院に献上されたものの一部が菓子司に流れ、月並 (朝生,浅生) や茶の子などの和菓子を発展させた。また、1589年に伏見から堺へ進出した駿河屋
(鶴屋善左衛門) によって、蒸し羊羹、煉羊羹が改良された。この駿河屋は、“みだれ髪“
や “君死にたまふことなかれ”と日露戦争当時歌った与謝野晶子の生家でもある。なお、羊羹のあずき色は、羊の肝臓
(羊肝) の色に似せたといわれている。
4)和菓子と果糖(フルクトース)
- 菓子などの食べ物に砂糖が用いられる前は、飴 (米芽飴は麦芽飴より古い)、柿や棗などの干し果物、甘葛や、甘茶の木の甘葛煎
(あまずらせん)などが、日本人の大切な甘味源であった。禁裏や寺院から菓子司に砂糖が払い下げられるようになっても、その量が少ないため、砂糖の使用量を減らし、数も限定して作った。砂糖の甘味をおさえ、材料の持ち味を生かした浅い加工の
浅生、朝生とよばれる季節の菓子が生まれた。この季節の菓子
(月並、月次)には、鶯餅、梅餅、桜餅、草餅、柏餅、葛餅、萩の餅、名月餅、菊餅、柚餅、水仙餅など 季節折々の風情を生かした、日本人の心を映した上生菓子が発達した。この和菓子の甘さは、砂糖の甘さであるが、砂糖の種類によって甘味の強さと質が異なる。これは、砂糖に含ま∧れる微量のカルシウムとフルクトースの影響によるもので、カルシウムやフルクトースが多いと甘味が強くなり、特にフルクトースが多いと甘ったるい感じになる。甘味の強いことを要求される菓子には、カルシウム(甜菜糖より砂糖キビ糖の方が多い)。フルクトースの多いものを用い、さらに、砂糖の0.5%量の食塩を使うと一層甘味が増す。逆に、甘味をおさえて、スッキリしたものにするには、カルシウムや、フルクトースを除くことが大切であり、以前は濃い砂糖液を沸騰させたところへ卵を加えて、アクヒキを行ったが、今は精製技術が進歩し、カルシウム、フルクトースなど
ほとんど含まないグラニュー糖が造られているため、アクヒキの必要はない。また柿の甘味については、後述するごとく、フルクトースがかなり多く含まれているが、タンニンなどの影響で比較的あっさりした甘味になっている。
5)柿 と 羊 羹
1)〜4)までで、羊羹の由来やその食文化につして述べて来たが、誠に、干し柿が羊羹に似ていると思うのである。筆者が長年 柿に関連した仕事をしてきて.柿に愛着があるばかりとは言い切れない。柿羊羹ならずとも、干し柿自体が、甘味、舌ざわり、色調ともに羊羹の特性を備えている。唐より伝来した羊の羹が、日本の文化や心に育まれて、羊から 葛、寒天へ、羊の血(肝臓)の色からあずきの色へ、さらに、砂糖の甘味を添え、旬の幸を取り入れて、日本の美しい四季を織り込んだすばらしい和菓子の羊羹ができ上った。最近は静かな一人の生活を大切にと、お一人様向きの一人分、一口分の商品が多くなった。このような羊羹の変遷とは別に、干し柿は羊羹が登場するよりずっと前から日本の食卓に溶け込んでいる。だから、干し柿が羊羹に似ているというより、羊羹が干し柿に似てきたのである。
叡智をかけて作り出されて来た羊羹と、はじめからあるがままの干し柿と全く同じ食品特性を持つところに限りないおもしろさがある。しかし、
目に見えぬ成分面で、干し柿は羊羹にない大きな長所がある。
生柿 および干し柿では、羊羹にはほとんど含まれていない
ビタミンA と C がかなり多い。ビタミンA(効力)は生の甘柿で
65 IU,熟し柿で 44 IU,干し柿で 180 IU,ビタミンCは、甘柿で
70 mg% ,熟し柿で 20 mg%,干し柿で 3mg%と、極めて多く栄養的にも優れている。
また、干し柿の白粉も美しい。何時の日か、白粉におおわれた羊羹や、ビタミンA
やC入りの羊羹が市販になる日もあろう。
2 柿と茶の湯
- 明菴栄西(1141〜1215)が中国から茶の木を持ち帰、茶の栽培と製茶法を教えた。その後、一休宗純
(1294〜1481) の禅と北向道陳 (1562〜1621)
の書院の茶、村田珠光 (1423〜1502) や武野紹鴎(1502〜1555)の佗び茶を学んだ千利休
(1522〜1591) により、茶の湯はさらに洗練され深められた。この千利休により深められたという佗び茶の心
(「和敬清寂」,「簡素枯淡」,「不均斉,
簡素, 枯稿, 自然, 幽玄, 脱俗, 静寂」,
「一期一会」) は以後400年以上も、 日本人の生活に生きつづけ、日本人の美意識の根底にある。茶の湯の自然と人と物との調和の世界に、柿が静かに溶け込んでいる。
茶の子に柿羊羹、巻柿 (10月の季語) が用いられる他に、茶人、茶碗、掛け物
と柿の名を持つ品々が多い。そこで、柿と茶の湯の係わりを理解する上から、柿の名を持つ茶道具を紹介しておこう。
1 ) 茶 入
- 抹茶には濃茶と薄茶があり, 濃茶を入れる器を茶入、薄茶を入れる器を薄茶器という。この茶入は、明菴栄西が明恵上人に
「漢柿形の茶壷」 に茶の種子を3つ入れて贈ったのにはじまる。その後、禅僧が
唐、 宋 (南宋) 時代に天目茶碗 と共に輸入した雑唐物
(茶人は下記のどとく分類されている) の茶入の中で、全体の形状が扁平なものを
柿 (木練柿) と呼称し、黄、柿色のものが多い。
名物には小名で、茜屋柿,薩摩屋柿,瀬戸柿,春慶柿,正盛 柿,等柿の名をもつ茶入れが多い。
2) 茶 碗
- 当初、中国の天目茶碗 (曜変天目, 油滴天日, 禾天目
など多くの種類があるが、黒飴色や、柿色をしたものが多い)
や青磁が用いられたが、利休などにより 佗び茶が盛んになるにつれ、高麗茶碗
(朝鮮茶碗) が多く用いられるようになった。李朝時代の高麗茶碗は、渋い茶褐色で、柿の蔕,井戸,玉子手などの佗びた茶碗が多く、 数も少ないこともあり、大変に珍重された。特に、裏面から見た形が、柿のへ夕に似ていることにより、柿の蔕と呼ばれる一群があり、小名 「毘沙門堂」 「京極 」 「大津」 「白両」 など極めて名高い。また・玉子手には「薄柿」 の名碗がある。一方和物には、茶の湯の茶碗を目的として作られたといわれている楽焼の本窯の中で、閑寂枯淡
の趣で名高い長次郎の「包柿」 や「西条柿」 また楽茶碗を大成させた道人には 「熟し柿」 があるなど、柿の名を持つ茶碗が多い。 国焼
(日本各地で焼かれ、個人名でなく、地名、窯名
で総括されているもの)には、比良焼 (江州比良山)
に干し柿が描かれたり、織部に全体が柿色をした柿繊部がある。このように、茶碗の形や色に、柿に由来するものが多く、佗び茶の世界に柿の素朴さが生きている。
3)掛 け 物
- 伝牧鉛筆で、東山御表装の 柿図 が有名で、 6コの柿の実が堂々と画かれている。
