| 吉野川第十堰のルーツ 第十堰ライブ画像 | |
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吉野川河口から上流へ14km、石井町と上板町の間にある第十堰。江戸時代に建設が始まった古い堰は今もその働きを果たしています。第十堰は下堰(しもぜき)と上堰(かみぜき)とからできています。下堰は長さ800m、最高地点の高さ5.5m。上堰は長さ1200m、最高地点の高さ6.4mです。 今切川の河口堰などと違い、動かないので固定堰と呼ばれています。堰本体は青石は砂利ででき、上流から流れてきた淡水が堰の中を自然に通過する構造です。堰の下流は海水と淡水が混じった汽水域で、豊かな自然が残っています。それは堰の構造が自然を壊さないようにできているからです。昭和の補修工事でかなりの部分がコンクリートで覆われましたが上堰には青石張りの場所が残っています。第十堰ができたきっかけは、江戸時代前期の1672(寛文12)年ごろにあった吉野川と別宮川(べっくがわ)をつなぐ水路工事にさかのぼります。当時、吉野川の本流は今の旧吉野川で、今の第十堰の下流に別宮川が流れていました。そのころ、阿波、淡路の二国を治めていた徳島藩の四代藩主・蜂須賀綱通は、この二つの川を結ぶ水路を造りました。 しかし、水のほとんどが別宮川へ流れ、別宮川の川幅が広がって吉野川本流となりました。これに対し、旧吉野川に流れる水は大きく減ったうえ、地下水の塩水化が進んで米の栽培に困るようになります。そこで、江戸中期の1752(宝暦2)年に吉野川の水位をかさ上げし、旧吉野川へ水を送るため、農民の手で堰(今の下堰)が造られたのです。 当時の堰は今のように川を横断するものではなく、旧吉野川に沿って作られていました。けれども、その後も別宮川の川幅は広がり、それに合わせて第十堰の継ぎ足しが進められました。やがて第十堰上流の川の流れは南北方面から東西の方向に変わります。旧吉野川への分かれ場近くにたくさんの砂が溜まるようになり、水が流れにくくなりました。このため、1878(明治11)年、旧吉野川に水を流れやすくするため、上堰が築かれ、今のような二段堰が出来上がったのです。 上堰ができても砂が溜まることは収まりませんでした。そこで設けられたのが分かれ道のすぐ上流にある第十樋門(ひもん)です。樋門は用水の取り入れや排水、舟の通航のため、堤防の下に設けられた水路で、水門をつけて水位を調節するものです。第十樋門は国の吉野川改修工事により、1923( 大正12)年にできました。第十堰を可動堰に改築する計画が持ち上がり、賛成派、反対派が徳島県を2分する論争を繰り広げたことを覚えています。 論争の舞台となった第十堰はこのように古い歴史を持っているのです。 <徳島新聞より抜粋> |