雑記
管理者の私見、雑感など・・・。
1.立折襟の研究(陸軍、基本的にオーダーメイドで形状が自由な将校用は除く)。
昭和13(1938)年の服制改正で陸軍は、冬衣、夏衣の襟を立襟から立折襟に変えた。立襟とは現在も学生服に見られる詰襟のことであり、立折襟とは男性のYシャツを連想していただければよい。すなわち、一度襟元から上に立ち上がり、折り返された襟のことである。この立折襟については、ドイツ陸軍を真似たとする説も聞くが実際はどうであったか雑感を述べてみる。
陸軍は、立折襟を導入した試作服についての実験を昭和初期から行っていた。私の知る限りでは、昭和2(1927)年にすでに実験*14が行われている。ここで試作服を立折襟にした理由は、頚部の圧迫を緩和するためと記されている。実験部隊での判定は「襟部が寛なるため射撃乗馬には著しく便なり」とある。細かなデザインが記述されていないため想像になるが、襟は首との間にわずかな隙間を設けたらしい。また、この「寛」とは首と襟との間に隙間があるという意味だけではなく、襟の形状がもたらす運動のしやすさも指すと私は思っている。下士官兵用の九八式冬衣、夏衣を見ると分るように、立折襟では特に首の前面(喉元)の襟の高さが旧来の立襟に比較して低い。首を一周する折り返し部の長さを想像していただくと、ホック部が後部に比べて低い立折襟におけるの長さは、立襟の襟頂上の長さより多少長くなるはずである。この結果として諸動作における襟の自由度が増し、物理的に低い部分と相まって首は自由なはずである。もし、首との間に隙を設けてことが足りるのであれば、立襟でもできるのである。
立襟における首の不自由さは、陸軍において長いこと改善すべき命題であったと思われる。四五式から改四五式へ改正したとき、簡単に言えば首が突っ張るという理由で襟付の高さを下げた経緯がある*3。少し話を戻して、立襟のまま首を自由にするための方策を考えてみる。この場合は、襟の高さを下げ、同時に首との間に隙間を設ければよいのであろうが、これらは採用しにくいと思う。まず、襟の高さがない立襟は素人が考えても格好がよろしくない。この格好よさを、威容や体裁とも呼び試作服の実験において必ず評価させていることから、陸軍は格好よさに常にこだわっていたと言える。昭和2年の実験では、首との間の隙が少々大きいことについて、首の露出が大きく体裁が悪いと判定している。首を多く露出させることを格好悪いと嫌っていることから、高さのない立襟を試作しても嫌われたことと思われる。また隙間による首の露出は、一層の寒さを感じさせるとの評価もされていることから、隙間をやたらと与えるわけにはいかないのである。それらを踏まえた上で立折襟が注目されたのであろう。また、立折襟は襟の高さを下げたとしても折り下げられた部分がいかにも「襟です」と主張しているように見えるため体裁が崩れないと思われる。さらに、引用している実験では開襟着用を前提にはしていないが、立折襟が正式採用された九八式では開襟着用もその目的として含まれており*20、この点でも優れているのである。
陸軍が諸外国軍服のデザインを導入していたことは事実であろう。建軍時は幕末の名残でフランス軍、途中から普仏戦争で勝利し日本が国家の手本と考えたドイツ(プロシア)軍、そして、カーキ色軍衣は同盟国のイギリスに倣ったという*7。初期の陸軍軍服といえばいわゆる肋骨服を連想される方も多いと思うが、これは東京芸術大学の前身である東京美術学校の関係者がヨーロッパの流行を取り入れてデザインしたという服飾史の成書における記述を見たことがある。明治期、軍服は和服が主流の日本人に洋服文化をを浸透させる役割も担っていたため流行を取り入れる必要があったとのことである。また、昭和に至るまでの何度か陸軍は欧米各国の軍装一式を下着にいたるまで蒐集している。そこで立折襟がドイツの真似であるか考察してみたい。実験が行われていた昭和2(1927)年といえば、ドイツはワイマール共和国の中期にあたり、はっきり言えばいつまで経っても混乱から脱せないでいた敗戦国である。私には陸軍がこの国の軍服を真似たとは思えない。最初の立折襟式モデルである九八式は昭和13(1938)年に登場した。この時期すでにワイマール共和国は消滅し、ヒトラー総統の下でドイツ第三帝国の台頭が著しい時期である。ドイツ陸軍は立折襟の軍服を着用していたので九八式もそれの模倣に見えたのかも知れない。もちろん、引用した実験と立折襟の採用との間に直接の因果関係があったと即断はできないが陸軍における立折襟の採用は独自の実験と研究による合理的判断に基づき行われたものと思われる。
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