十字架の信仰と人権

堀井 滋

 

ただ今ご紹介いただきました堀井でございます。

 わたしが聖書を読み始めたのは、大学2回生の時であります。いろいろな経過がありまして、無教会の信仰に導かれました。大阪で行われた内村鑑三講演会も、3回生のときにはじめて伺ったように記憶しております。41年前のことでございます。今日はこのような講演会で初めてお話をするわけですが、みなさまの前で、とりたてて印象的なお話ができるわけではございません。平凡なお話になると思いますが、イエス・キリストを信ずる信仰を与えられた者として、小さい者は小さいなりに受けし御惠みを語る、ということは、御惠みを受けた者の当然の責任でございます。また、そのことを神様は喜んでくださるのではないか、そんな思いでこの場に立たされております。

 さて、21世紀は人権の世紀だと言われておりますが、これは過ぎし20世紀にいかに多くの人権問題が提起されて今日に至っているか、ということの裏返しでもあります。1948年に国際連合で世界人権宣言が採択されておりますが、その第1条には、

「すべての人間は、生まれながらに自由であり、かつ尊厳と権利とについて平等である。」

とうたわれております。しかし、20世紀には民族・人種による差別、女性差別、障害者・高齢者などの社会的弱者に対する差別あるいは虐待、公害による人権侵害とか、こういった人権の問題があとを絶ちませんでした。児童に対する虐待も、世界的な規模で、うなぎのぼりに増加しておりまして、1999年の児童相談所における児童虐待処理件数は11,631件に達しており、実に、これは10年前の10.5倍に達する数値であります。家庭における虐待から児童を守る筈の児童養護施設においてすら、虐待の事実が明るみに出ております。最近報じられました、児童養護施設における虐待18件のうち、9件がキリスト教系の施設であるという指摘もあります。高齢者に対する虐待も、児童の虐待の影に隠れておりますけれども、高齢社会に生きる私たちに突きつけられている大きな問題であります。それから、長引く経済不況のなかで増えつづけている野宿生活者の問題もわたしどもの前にあるわけであります。

 しかし、言うまでもなく、人権侵害がその規模において、その悪質さにおいて、極点に達するのは戦争であります。20世紀には二度にわたる世界大戦を含むたくさんの戦争を人類は経験いたしました。第二次世界大戦における日本の罪責問題も、いまだにその歴史的認識をめぐってくすぶっておりますし、従軍慰安婦の問題も未解決のまま残っています。内村鑑三は、ご承知のとおり日露戦争の時に非戦論を唱えましたが、彼は「日露戦争より余が受けし利益」という文章のなかで、戦争は「人を禽獣化するもの」、「社会をその根底において破壊するもの」であり、「真理を尊ぶ念」「人命を尊ぶ念」を失わしめるものであると言っております。わたしどもの信ずる神様は、先ほど歌いました讃美歌にありますように、真の愛なる神様であり、また、どこまでも正義を貫徹しようとなさる真の義なる神様でもあります。内村鑑三は、人類の歴史は「神の審判の歴史」であるといっておりますが、わたしたちはその神様の審判の歴史の中から、個人の歩み方においても、国の歩み方においても、歴史の教訓を読み取り、神様の御声を聴き取っていかなければならないのであります。

わたしは、本日、「十字架の信仰と人権」という演題をかかげておりますが、河島幸夫著「戦争・ナチズム・教会」という書物のなかの、第二次世界大戦におけるナチスの障害者抹殺計画とそれに対するドイツキリスト教会の抵抗を取り上げ、著者の事実分析を参照しながら、今日われわれの直面する人権の問題、とりわけ障害者の人権ということを念頭におきまして、内村鑑三の著作に学びつつ、十字架の信仰という一つの側面から光を当てて見たいと思うのであります。

 はじめに、年代的なことを申しますが、内村鑑三が召されたのは1930年3月28日でありますが、1930年という年は、ドイツではナチ党が躍進致しまして、議席を12議席から107議席に増やした年であります。1933年1月にヒトラー内閣が誕生、3月には議会の過半数を制しました。ドイツ福音主義教会の反ナチ闘争が始まり、1934年にはバルメン宣言が出され、ニーメラーの逮捕(1937年)が続きます。ナチスドイツの障害者抹殺はそういった流れの中で起こったことであります。

 ナチスドイツによって抹殺された心身障害者の数は二十万、あるいは二十数万とも言われますが、これは600万の無辜の民を死に追いやった、ホロコーストの序幕となったわけであります。ナチスドイツの障害者抹殺計画の理論的根拠になったものは、<社会進化論>(社会ダーウイニズム)と呼ばれるものであり、「生きるに値せぬ生命」を抹殺して、ドイツ民族の純化あるいは強化を図ろうとするものでありました。

 ヒトラーは、すでに政権獲得の4年前の1929年8月に、ナチ党大会で、「ドイツに生まれる新生児のうちで最も弱い子どもが除去されるならば、おそらく最後には、その果実がドイツの力の強化となって現われるだろう。最も危険なことは、われわれ自身が(病人や弱者を保護することによって)自然の淘汰過程を妨害することである。」と公然と述べています。

 進化論によれば、動物の世界は弱肉強食の世界であり、弱いものが強いものによって淘汰されていきます。ヒトラーは、人間の世界において、そういう淘汰を人為的に作り出そうとしたのであります。1939年8月18日、ヒトラーは秘密通達を出し、全国の医師および助産婦に対して、新生児および3歳以下の子どもで重度の先天性疾患(知的障害、ダウン症、小頭症、水頭症など)に罹っている恐れのある事例を保健所に申告することを義務づけました。3人の鑑定医がおりまして、これは<生きるに値せぬ生命>ということになりますと殺害が決定されるということになります。これは秘密裏に行われていたのであります。

 さらに、10月9日、<大人の安楽死>作戦を開始するにあたり、ドイツ内務省は全国の病院、療養所などの関係施設に入所者の実態を把握するための調査用紙を配り、回答を求めましたが、その対象となったのは、

@ 精神分裂病、てんかん、老人性疾患、知的障害などがあり、草引きなどの単純労働にのみ従事している者

A 5年以上施設にいる者

B 犯罪歴のある精神病者

C ドイツ国籍なき者

でありました。

 これは1939年の話でありますが、1920年に、その前史がありまして、「生きるに値せぬ生命の抹殺の解除」という一冊の書物が出ております。抹殺の解除というのは、要するに、<生きるに値せぬ生命>の安楽死を許容してもいいということなのです。この書物は刑法学者のカール・ビンデイングと精神科医のアルフレート・ホーヘによって書かれております。生存への意思も、人間としての感情も、精神交流も持たない人を「人間以下の人間」と呼び、さらに、「全く無目的で、生きる意思も死ぬ意思もない、生きるに値しない生命に一つの職業が成り立つ。------何も役に立たない存在を介護するために莫大な費用と人員を投入することは国家・社会にとって大変な無駄使いである」と言っています。ビンデイングとホーヘ両氏は自分の専門領域を越えて、経済的な問題も視野に入れてこういう驚くべき発言をしているわけです。

 キリスト教会では、パウル・ゲルハルト・ブラウネ牧師が、1940年5月、ゴッテスシュッツ・ホームに入所している25人の知的障害の娘を移送するようにという当局からの指令を受けとっていましたが、彼は何の移送準備も出来ていないことを口実にして、灰色のバスを拒否し、移送の引き延ばしに成功しました。そして、同時に、全国の諸施設における移送状況の事実調査を開始しました。ブラウネは、この調査をもとにして、1940年7月、ヒトラーに「建白書」を提出し、移送された多くの施設入所者が秘密裏に特別収容所で殺されているという事実を指摘しました。これによって、闇の業である、ナチスドイツの安楽死計画が白日の下にさらされたのであります。ブラウネ牧師は、この「建白書」のなかで、「正義や法を守る」こと、「人間の生命の不可侵性」ということが国家のよって立つ基盤であり、国家を支える根本支柱の一つであると言っております。さらに、「健康なものが病人や弱者を引き受け、家族が自らに課せられた重荷を喜んで背負うこと、これこそ真の民族共同体である。」と言って、社会的弱者の「いのち」を守り、支えることが国家、民族共同体の大切な責務であると力説しています。

ブラウネ牧師の最も頼りにしている人物は、ドイツの最も大きな施設である「ベーテル」という施設の二代目施設長であるフリッツ・フォン・ボーデルシュヴィンク牧師でありました。ベーテルというのは、1867年に、ルーテル教会の関係者が、一軒の農家を買い取って5人のてんかんの子どもを保護したのが始まりだと言われていますが、この事件のあった当時は3000人の入所者、3000人の職員のいる、非常に大きな施設であり、今では病院、教会、学校、大学などもある巨大な、隣人愛に生きる町になっております。

 この二代目の施設長ボーデルシュビンクは、ブラウネ牧師と協力して当局に真相をただすと共に、「ベーテルの入所者の世話をし、守る」ということがすべての事柄を判断するための根本基準であり、自分たちに委ねられている障害者の生命が危険にさらされている限り、<生きるに値しない生命>を特定するような調査には、良心に基づき断じて協力できない、として殺害措置の中止を求めていきます。

 実は、ベーテルには1940年に初めて調査用紙がきました。1942年にも来ています。ボーデルシュヴィンクは、「神によって造られた人間の中には一人として<生きるに値しない生命>は存在しない」と述べ、障害者抹殺計画に抵抗いたしました。ボーデルシュヴィンクがやり取りしていたのは、ヒトラーの主治医であり、安楽死作戦の中心人物であるカール・ブラント医師でありましたが、ブラントが「交流能力のないものは消えてもらわなくてはならない」と述べたのに対して、ボーデルシュヴィンクは「先生、交流能力というのは二つの側面を持っています。そして重要なのは、私のほうもまた相手に対して交流能力があるかどうかという側面なのです。この点で私はこれまで交流能力のない人間に出会ったことがありません。」と反論します。

 わたしは重症心身障害者の施設にかかわりを持ったことはありませんが、滋賀県に近江学園という知的障害者の施設があります。それが枝分かれしまして、びわこ学園という重症心身障害者の施設ができました。そこでは青年期を迎えてもおしめをしているような人が入っていたのですが、近江学園の園長であった糸賀一雄先生がいわれるには、重度の障害者がおしめを換えるときにお尻をすっと浮かすようになった。そういういうことの中にも寮母さんと障害者の心の交流を見ることができるわけです。

 話が横道にそれましたが、ボーデルシュヴィンクは、また、こうも言っています。

「(その人の)有用性や能力は人格の基準とはなりえない。また、<安楽死作戦>は(殺すなかれ)という神の戒めに背くものである。なぜなら、そこではキリストが最も悲惨なものたちのためにも十字架にかけられ、復活されたことが忘れられているからだ。」

 彼は用意周到な、ねばり強い、果敢な抵抗によりまして、ヒトラーの魔の手からベーテルを守るという戦いをみごとに貫き、1943年、カールブラントから「ベーテルは例外」という言質をとります。べーテルは長い間、一人の犠牲者も出さなかったと言われていたようですが、実はそれまでに、施設入所者全員の連行・殺害という最悪事態を避け、被害を最小限にとどめるためにベーテルの入所者を7つのカテゴリーに分け、一番、障害の重い「精神的交流能力をもたない者」あるいは「労働能力のない者」をどうしても抵抗しきれない時には見捨てるという、苦渋に満ちた選択をする決断をしていたことが明らかとなってきました。少なくとも89名の入所者が移送されたのち、殺害されたといわれています。入所者の大部分が抹殺された施設もあった中で、3000人の入所者のうち89人というのは少ない人数ではありますが、「戦争・ナチズム・教会」の著者、河島幸夫氏は、マタイによる福音書25・40にある、

「あなたがたによく言っておく、わたしの兄弟である最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」

を引用して、「この最重症者である、最も小さい者を見捨てる覚悟をすることによって、ひょっとしたら、ベーテルはイエス・キリストを見捨てる覚悟をしてしまったのではなかろうか」と指摘しています。

 苦しんで、苦しんで、悩みぬいて決断したことであったとはいえ、いや、そうであればこそボーデルシュヴィンクの苦悩、罪責の念は深かったはずであります。ドイツが戦いに敗れた、1945年5月、ボーデルシュヴィンクは三位一体書簡を出し、自らの罪責を告白して次のようにに語っています。

「5年前に十字架に対する戦いが公然と始まった時(つまり障害者抹殺計画が始まった時)、戦争は基本的にすでに敗北していたのだ。というのは、創造主なる神の御手から生じ、神に属する生命への畏敬が、今やすべて消え去ったからである。」

 また、こうも言っています。

「われわれ(同じ戦いを戦った全国の施設の人々)は信仰において近くに立っていたがまとまることができなかった。地上の権力者の前で説得力を失っていた。」

 彼はブラウネ牧師と連絡をとっており、ブラウネが単独で出した「建白書」にも彼の意見が入っているのではないかと言われていますが、自分の巨大な施設を守るということに精力を費やして助けを求めている施設に手を差し伸べる余裕がなかったのです。

「われわれはわが民族と共に神の裁きの前に立つ。この裁きは人間のいっさいの高慢を打ち砕く。人間は自分自身の力だけを頼った。」

と、こういう風に告白しております。

 これらの言葉に、ボーデルシュヴィンクのサタンの業に対する戦い方に対する反省、すなわち、自分の力だけでサタンの策略を食い止めようとしたこと、信仰に基づく戦いの連帯を組まなかったことに対する反省を読み取ることができるのであります。

 わたしたちは、この神の審判の歴史から何を学ぶことができるでありましょうか。第一に、神の創造された生命に「生きるに値せぬ生命」はあるのか、ということであります。

 創世記には、第1章27節に、「神は自分の形に人を創造された」とあります。さらに、第2章6節に、「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。こうして人は生きるものとなった」とあります。神は人を「神の似姿」として造られた。そして、その鼻に命の息を吹き込まれた。すべての人は、例外なく、神の命をそのうちに宿しているのです。そこに生命の尊厳があるのです。もうひとつ、ボーデルシュヴィンクは、「キリストは最も悲惨な者たちのためにも十字架にかけられ、復活された」と言いました。彼はキリストが十字架にかかり給うた事実の中に生命の尊厳の根拠を見出しているのです。

 わたしは内村鑑三の書物を読んでおりまして、障害者虐殺に抵抗した牧師の言葉と非常に似通ったことを彼もまた言っていることを発見します。

「人命の貴重なのはキリストの世に降り給うたこととその贖罪の死とによって最も明白に人類に示された。人の生命は宇宙の主宰なる神がその独り子を送ってまでもこれを救わんと欲し給うほどの価値あるものである」

ご承知のように、内村鑑三は若き日に結婚に破れましてアメリカに渡り、ペンシルヴァニア州にある知的障害者訓練施設で看護人として働いていました。彼が働いていたのはたったの七ヶ月間という短い期間でしたけれども、この訓練施設での体験が彼の人間観、教育観に極めて大きな影響を残したことは間違いのないことだとわたしは思います。訓練施設の所長はカーリンという人物でしたが、彼は常々「神は無益な人間を一人も造り給わざるなり」ということを言っておりました。で、内村は「余は如何にして基督信徒となりし乎」の中で、知的障害者にも「父なる神」を教えることができるということを非常に感動的に書いております。その人の「有用さ」や「能力」だけで人間に序列をつけるような価値判断、あるいは「優勝劣敗主義」の人間観、教育観は内村の採らざるところでした。内村は言います。

 「路頭に迷う無宿童子、警官に追い立てられる乞食、経済的には何の価値もなき知的障害者、肢体不自由者、視覚障害者、聴覚障害者も『キリストが代わって死にたまいし弱き者』である。ゆえに貴くある。」

経済的に何の価値もなきということは生産性というか、何か物を作るという点で人を見ているわけですが、そういう世間の評価のある人も、すべての人がキリストの代わって死に給いし弱き者である、ゆえに貴くある、と言っている。そして人を殺すことはキリストを十字架につけることである。ボーデルシュヴィンクは<安楽死作戦>は<殺すなかれ>という第6戒に背くものであると言いましたが、内村は十戒の釈義の中で、「凡そ兄弟を憎むものはすなわち人を殺すものなり」というヨハネの言葉を引用しまして、兄弟を憎むことも人を殺すことだと言っています。わたしたちは兄弟を憎んでいないだろうか、兄弟に対して「愚か者よ、痴れ者よ」と言っていないだろうか、ある場合にはある人の存在そのものを呪うがごときことを言っていないだろうかと問いかけています。これも人を殺すことである。

 彼は、アメリカ留学中、アマスト大学のシーリ−総長の「なぜ、おのれに省みることをやめて、十字架の上に君の罪をあがないたまいしイエスを仰ぎ見ないのか」という言葉によって、霊的に目覚め、十字架の信仰を神から与えられたのでありました。内村の一生は、この十字架に幼な子のごとく寄りすがる一生でありました。内村の信仰は十字架による罪の贖い、イエスの復活、再臨を信ずる極めてオーソドックな信仰でありましたが、その根底にはいつも十字架の信仰がありました。内村は再臨運動にもかかわりましたが、「十字架を除きし再臨の希望は害多くして益が少ない。」「十字架について浅き信仰にとどまる限り再臨を信ずるも健全たるを得ない」とも言っております。非戦論の中にも、あとから触れます万人救済論の中にも、大きな試練に遭遇した時にも、いつも十字架のイエスがそこにありました。十字架のイエスを仰ぎながらそこを切り抜けてきたのであります。内村は次のように言います。

 「余は著述家ではない。説教師ではない。文学者ではない。科学者ではない。教育家ではない。慈善家ではない。しかり、義人ではない。善人ではない。もちろん聖人ではない。世に認められるべき何者でもない。余はクリスチャンである。キリストに依り頼むものである。彼の十字架を仰ぐより何の芸も能も才も徳もない者である。 ---(中略)--- 余の生涯を顧みて、余は誇るべき、頼むべき一つの事業をも持たない。ただ残るのは、キリストの十字架を仰ぐ余の信仰である。これのみが余の義であり、聖であり、贖いである。しかり、余の有するすべてのすべてである。」

 社会的に華々しい活躍をした内村、自分の背丈を超える分量の書物を書いた内村、ロマ書講演に毎回何百人もの聴衆を集めた内村を知る者にとってこれは驚くべき告白であります。「十字架教」ということばを内村は残しましたが、十字架のキリストが彼の義であり、聖であり、贖いであり、彼の有するすべてのすべでありました。十字架につけられ、復活されたイエスこそが彼の生命の源泉であり、戦闘力の秘密でありました。そして、また、人の生命の尊厳を基礎づけるものでもあったのであります。そして、内村の依って立ったところは、そのまま、ナチスドイツの障害者抹殺計画に抵抗し、戦った人々の拠り所でありました。内村鑑三は2000年の教会史のなかにしっかりと接続した人物であったと思うわけであります。

 それからもう一つ、私たちを贖ってくださったキリストイエスを頭とする「一つの体」ということについて述べます。コリント人への第一の手紙1・21以下に、エクレシアを一つの有機体と見なした言葉がありますが、その中に、

 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。」

とあります。一つの体ですから、目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。人間社会がその健全さを保つには、弱いと見える部分がかえって必要なのです。ボンヘッファーが言っているように、「一番小さい環もしっかりと鎖全体に組み合わさっているときにのみ鎖は切れない」のであります。これこそが福祉を支える土台でなければならないのであり、わたしたちの実践の根拠となるべきものであります。

1972年、兵庫県で「不幸な子どもの生まれない」運動というのがありました。これは県の主導で行われ、障害児が生まれないために、県が費用を負担して胎児の出生前検診、羊水検査(羊水中の細胞を培養して胎児の染色体異常などを検査する)が行われました。そのときの県の最高責任者はNHK番組で、次のように言ったのであります。

「だいたい人の一生を考えますと、通常の状態で2億円くらいの収入があるわけですね。ところがそういう異常児っていえばね、そういうことははじめから、プラスはあまりないわけで、使う方が多いわけです。だからまあ、わたしはなるべくそういう人は出さないようにする。(そのことが)本人にとっても幸せだし、社会にとっても幸せだ、とこう思うわけです。」

 ここには経済的効率を人命に優先するという考えがあり、障害者は不幸な者だとする考えがあり、生きているものの幸福をつかむためには胎児を犠牲にしても許されるという考えがあります。日本脳性マヒ者協会「青い芝」等の強い抗議によって、この羊水検査の施策は2年後に中止されました。今は自治体や国で、行政の施策としては行われてはいません。しかし、遺伝子診断が進みまして、母体の血液検査をすることによって、例えばダウン症の子どもが生まれる確率が出る、そして確率の高い人にはさらに羊水検査をする。確率が高いから障害児が生まれるというわけでもないし、陰性の人から障害児が生まれるケースだってある。また、羊水検査をすることによって流産するケースもあります。妊娠中絶に容易に結びつくような遺伝子診断の問題性が指摘されています。女性の生む権利とか、生命の選択が許されるのかなど、非常に難しい問題をはらんでいますが、事実上、人工妊娠中絶が社会的規模で行われるという、倫理的な問題が指摘されておりまして、障害者団体、親の会等から問題提起がなされています。障害者抹殺計画の中で出た問題の今日性がここにあります。

 

 第二に、障害者の町ベーテルが直面した、「交流能力がない」「労働能力がない」という問題です。ボーデルシュヴィンクは、交流能力の中で大事なのは「私の方もまた相手に対して交流能力があるかどうか」いう側面であると申しました。彼は現場をあずかる施設長として、実践の場面で、人間の尊厳を認識する場面をたくさん見ていたに相違ありません。

 静岡県に、牧の原やまばと学園という知的障害者の施設があります。一つ、そこの例をお話します。やまばと学園では、毎月、「やまばと」と題する機関紙を発行しておられますが、今年の2月号に、「その道は不幸に至る道ではなく」という、長沢道子理事長の文章が掲載されています。その中に、小学校二年生のときうけた脳の動脈瘤摘出手術のため、四肢マヒや言語障害等の重いハンデイを負う身となった鈴木千奈津さんのことが出ています。

 彼女は重い障害を持ち、言葉もなく、体の動きも少なくて、知的な損傷がある、交流能力がないと推測されていたのですが、字を書き始めると自分の願いや意思を外に向かって発信できるようになり、スタッフと心を開いて交流できるようになりました。彼女の書いた、「幸せの時」という詩が紹介されています。

     幸せの時

   晴れた日が嬉しい

   雨もまた嬉しい

   風にゆれる草花を見て心和む

ここには、現代人の、忙しい現代人の忘れている喜びがあります。

   朝の目覚めが

   夜の眠りがやっぱり嬉しい

   ご飯を食べる

   お茶を飲む

   友だちと会う すべてうれしい

   当たり前のことが嬉しい今

   わたしは幸せなのだ

   生きていることが嬉しい

   それこそ

   幸せの時

何でもない、日常の動作が本当に喜びであるということを語っているわけですね。当たり前のことが嬉しい、当たり前の生活ができる、地域でそういう生活ができる環境をととのえるということが人権という観点で大切なところでございます。長沢理事長の文章はさらにつづきます。

 「重い知的障害を負った人々は、千奈津さんのように創作活動はできませんが、何もできないように見えても、それぞれ、なくてならない役割を担っていることに気づかされます。家族をしっかり結びつける役割を果たしている人もいれば、その存在ゆえに、両親も兄弟も福祉施設のスタッフとなったり、医療従事者へと変えられていった場合もあります。私の義姉のみぎわさんも重い知的障害を持っていましたが、弟の長沢巌に「やまばと学園」建設の願いを起こさせる存在となったのでした。

 障害者を抱える家族の苦悩や喜びは、第三者には計り知れないものがありますが、家族の連帯と絆、ともに歩む姿からは、いつも多くのことを学ばされます。」

 障害者を抱えるということは本当に大きな重荷であります。しかし、その中にあって、いたわり、やさしさ、愛、支えあうということの大切なことを学んでいくわけであります。高慢になっていたときに示されなかった人生の宝を示されるということがあるわけです。どんなに重症の子どもでも、大人でも交流能力は持っているのであり、自分が相手に対して、障害者に対して、あるいは高齢者に対して、痴呆性高齢者に対して交流能力を持っているかどうかが、いま、わたしたちに問われていると思います。こういう発見といいますか、学問的な成果というものがだんだんと進んでおりまして、労働能力ということにつきましても、援助付き雇用、ジョブコーチを導入した雇用のあり方、それに先立つ、一人一人を大切にする教育計画が注目され、実践に移されています。教育権、労働権の保障、一人の人間として地域の中で、当たり前の生活を営む権利を保障すること、これが人権の世紀と言われる21世紀に問われている問題でありましょう。

  第三に、一人の人間として地域の中で、当たり前の生活を営む権利と言えば、それはノーマライゼーションの思想でありますが、内村鑑三とかかわりの深いデンマークの、ノーマライゼーションの父といわれる、バンクミケルセンのことにも短く言及したいと思います。

 彼はナチスに対するレジスタンス活動、地下新聞の記者をしていて捕らえられ、数ヶ月間強制収容所に入れられました。第二次世界大戦後、社会省(日本における厚生労働省)に就職しまして知的障害者施設へのかかわりを持つようになり、その実態をはじめて知りました。当時のデンマークの施設は大規模施設だったようですが、彼は、そこの生活について、「強制収容所の生活と同じではないか。知的障害者も一人の人格を持っている。健常者と同じように生活する権利を持っている。」と主張しまして、親の会の活動に関わりました。その、彼の思想と働きがデンマークにおける1959年法、国際連合の障害者の権利宣言、国際障害者年の大きなうねりとなって世界中に広がっていきました。

 また、1989年に国際連合で採択されました、子どもの権利条約もユダヤ人の子どもたちの児童養護施設なるドム・シェロットの施設長をしていて、ナチスドイツの魔手にかかり、子どもたちと一緒に生命を絶たれた、ポーランドのコルチャックの存在なしには考えることができません。そういう事実を見てみますと、神様は「いまも、確かに生きておられる」ということを確信せずにはおれません。

 第四に、わたしはこの講演の準備をすすめながら、とても心を打たれたことがあります。それは、河島幸夫氏の指摘しておられることですけれども、

 「戦後、ベーテルは自らの患者3000人に加えて約二万五千人の難民を受け入れた。その中にはナチ親衛隊全国指導者兼ゲシュタポ(秘密国家警察)長官ハインリヒ・ヒムラーの夫人と娘も含まれていた。また、1947年8月20日、ニュルンベルク裁判(医師裁判)で、安楽死作戦の中心人物カール・ブラント博士が死刑判決を受けた時、ボーデルシュヴィンク亡き後(1946年になくなっている)の後継者ルードルフ・ハルト施設長はブラントの恩赦を申請した。それは、敵をも愛した<魂の配慮者>の意志を反映したものであったろう。」

という事実であります。「敵をも愛した<魂の配慮者>」というのはボーデルシュヴィンクのことですが、十字架によってわたしどもの罪を贖ってくださったお方は憎みても余りある敵に対しても祈る心を与えてくださる、真の愛なる神様であります。内村鑑三は「人を殺すな」という戒めは、文字通りの意味だけでなく、「人を憎む」ことも人を殺すことだ、と聖書の言葉を引用しながら言いました。わたしは、このくだりに至りまして、本当に、「神様を信ずる」ということはただ事ではない、大事業であるということを思わずにはいられませんでした。

 内村鑑三は「楕円形の話」という文章を書いておりまして、「真理は一個中心の円形にあらずして、二個中心の楕円形である」といっています。イエスが真の神であって同時に真の人であるということ、神様が真の義にして真の愛なるお方であるというのは中心が二つあるからである。これを思想的に調和させることは不可能である。しかし、人生の長い実験において調和点を発見することができる。真剣に生涯を送ろうとする者は苦しまざるを得ないけれども、十字架において調和点を発見する。すなわち、イエスの十字架において慈愛と公義に基づける審判の精神が合体したのである、と言っています。内村の信仰はすべて実験によって確かなものになったのであり、内村の生涯もそういう彼の信仰体験に裏づけられたものであった思います。この障害者虐殺事件を通しましても、このことは本当にそうだなあということを実感したのであります。

 わたしは、いままで余り内村鑑三の万人救済論に心を開かれなかったのですけれども、今回の準備をしておりまして非常に心を惹かれるものがありました。内村鑑三は、「余の信仰の真髄」という文章のなかで、

 「余の信仰の真髄は『神は愛なり』ということである。----『神はキリストにありて世を救いたまえり』ということである。しかして神が世を救いたまえりということは、余一人を救いたまえりということではない。また彼を信ずる少数の信者を救いたまえりということでもない。------神が世を救いたまえりということは世全体を救いたまえりということである。すなわち、人類全体を救いたまえりということである。」

と言っております。さらに、「戦場ヶ原に友人と語る」― 神の無窮の愛について― のなかで、その根拠について、

 「余は罪びとのかしらである。ゆえに(その罪びとの頭である)余が救いに漏れざらんがためには、すべての人が救われなければならない。万人救済は余一人の救済のために必要である」

さらに、「普遍的救済」なる文の中で、伝道ということに関わって、

 「もし神が救われんために余をあらかじめ選びたまいしならば、これ余一人が滅びんがためにあらずして、罪びとのかしらなる余をもって、多くの人もしくはすべての人を救わんがために相違ない。」

と述べています。私事で恐縮ですが、ちょうど、わたしが小さなことで、憎しみというか、またしても胸をかき乱されているときでありましたので、この思想に接したとき、人間というのは何とちっぽけな存在なのであろう。わたしどもの信じている神様はちっぽけな人間の頭の中に収まるようなお方では断じてない。そう思いました。神様は義を愛し、義を貫徹なさる方でありますが、創造された人類をどこまでも愛し、救おうとされる真の愛なる神であります。万人救済論はサタンに対する戦いの「連帯」の信仰的基礎をわたしどもに示しているようにも思われてなりませんでした。本当に新しい思いに満たされたわけであります。この万人救済論に接するとき、もはやキリスト者と非キリスト者の区別もありません。天の父なる神は、マタイ5・45にあるように、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせてくださる」お方であります。キリストは人類の救い主なのであります。

 はじめにお読みいただきました、ローマ人への手紙第3章には、

 「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」

とあります。義人は一人もいません。すべての人が罪を犯しています。しかし、神はこのイエスを、神の独り子なるイエスを罪を償う供え物として十字架にかけ、わたしたちの罪を帳消しにしてくださいました。この、神様の一方的な惠みにより、わたしたちは義とされたのであります。内村鑑三は「求安録」のなかで、このふるい、旧い福音を信ずる信仰も神様から与えられるものである、自分に出来ることは祈ることだけだと、テニスンの詩を引用して述べています。それを読んで終わりにしたいと思います。

   さらばわれは何なるか

   夜暗くして泣く赤子

   光ほしさに泣く赤子

   泣くよりほかにことばなし

 今朝、わたしは出エジプト記の2章に出合いました。あの、イスラエル人を率いてエジプトを脱出したモーセの生い立ちを書いた個所です。エジプトのファラオが「生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。」という命令を出していました。モーセを生んだレビ人の娘は、三ヶ月の間、子どもを隠していたのですが、隠しきれなくなってパピルスの籠に入れ、ナイル河畔の葦の茂みに置きました。男の子は「泣いていた」とあります。それをファラオの王女が救ったのです。神様は泣く赤子の声を聞き給うお方です。内村鑑三がそうであったように、わたしたちも幼な児のごとく、ひたすらキリストの十字架に寄りすがりつつ、キリストのいのちをいただいて御国に向かって前進したい、人権の世紀を歩んでいきたい、と切に願うものであります。

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