「小 説」
風吹け、波たて
=依田勉三 十勝を拓(ひら)く=
松 本 晴 雄
第4部「十勝野編」(59〜73歳) ※年齢は数え年
第一章 明治天皇の御名代(明治44〜45年 59〜60歳)
@明治四十四年「皇太子殿下御巡啓」
勉三は函館に二日間滞在して明治四十四年の元日を迎えるが、正月を祝う余裕はなかっ
た。伊豆での晩成社重役会の期日が迫るからで、午後、青森行きの汽船に乗った。そして
各地で小作人を募集し、三日、常磐線の中村(現相馬市)へ下車した。そこには二宮尊親
が牛首別より帰省していて、鉄道敷設についてその筋への陳情を相談した。ついには時間
が長引いて夕刻となり、酒飯を御馳走になって食後に報徳談を拝聴した。そして提灯を借
りて駅前の福島屋へ戻り、しばらく二階で休息をとり、夜十時駅へ向かった。汽車は八十
分遅れで到着し、午前〇時の発車となった。
四日、午前九時、勉三は上野に着いて人力車で上車坂の善吾を訪ね、屠蘇、酒、雑煮で
正月らしい気分を味わった。そして正午に出て電車で小石川の真へ行き、気ままに体を伸
ばして旅の疲れを癒した。また五日から各所で用事をすませ、九日午前、東京を発って沼
津に投宿した。
十日、勉三は早朝、沼津港より愛鷹丸に乗り、波静かな中を富士を背にして進み、午前
十一時に松崎港へ着いた。そして塗り屋で昼食をとり、善六と用談して橋を渡って監査役
・直吉に会った。いつもながら中瀬(依田)呉服店は賑わい、船底天井の渡り廊下から離
れで話すが、そのざわめきが伝わった。話が終わって歩いて大沢へ着いたのは夜となって
いた。
翌日より勉三は会議にかける議案を練り、十六日、塗り屋で開かれた晩成社重役会に提
出した。ここに善六、佐二平、直吉が顔を揃え、十勝の状況を勉三が説明して晩成社経営
を討議した。それは綱渡りのようで、絶えず倒産の危機はつきまとい、勉三の熱意が筋を
つなぐ会議であった。
それより勉三は伊豆、京浜での用事を済ませ、二月十四日、樋口林太郎を伴って帯広晩
成社へ着いた。そして生花苗住民の冬期副業として薄板製造に関する協議のため河西支庁
を訪ねた。
二十二日、薄板製造の技師・苅辺が来社し、翌日、技師は林太郎、雇い人・宇吉を伴っ
て帯広を発ち、翌日、生花苗へ着いた。
三月二十五日、勉三は苅辺技師の指導を見届けて帯広へ来社し、Iの(宅地六十四坪、
建物二棟四十六坪)を伊藤を代理人として帯広区裁判所へ強制競売の申請を決めた。
四月一日、伊豆から浅賀長五郎が事務員として帯広へ着任した。七日、途別水田の用水
溝拡張と浚渫工事に着手し、また途別道路橋腐朽につき昨年末架替寄付出願許可の工事が
十二日竣工し、これを見届けて勉三は生花苗へ帰った。
二十日、Iの宅地、建物の競売が区裁判所で執行され、総額百十一円で晩成社が落札し
た。
二十七日、勉三は生花苗より帯広へ着き、翌日から波多腰と浅賀と共に途別水田の浸水
状況を視察すると、途別川は氾濫して道路を越え、水田一面が水で覆われていた。また翌
日は売買の浸水個所を見回り、帯広を発ち、三十日、生花苗へ帰った。
五月八日、猪之吉は生花苗より帯広陸軍種馬牧場種牡馬と交尾させるため、牝馬四頭を
曳き、牧夫一名を伴って来社した。また種馬牧場に馬を預け、十日、生花苗へ帰った。
九日、社営苗代田を耕して籾種を蒔き、小作人が苗不足になった時の備えとした。
二十日、大日本麦酒株式会社取締役・植村澄三郎、十勝開墾合資会社農場管理者・吉田
嘉市が帯広晩成社に来訪した。
三十日、勉三は税務署召喚により生花苗から帯広へ来て、翌日、同署へ出頭するが、財
産目録、貸借対照表にかかわる件で、答弁書を作成して提出した。また生花苗潅漑願書を
河西支庁へ提出し、六月一日、途別水田を見回った。そして札内駅から汽車で豊頃に降り、
大津を経て終夜歩き、二日、空が明るむ頃に生花苗へ着いた。
五日、帯広区裁判所において落札した大津の宅地、建物の登記証を受領した。
十二日、晩成社は途別用水に新たに二つの水門を設置した。
十三日、猪之吉は新たに牝馬一頭を曳き、先の交尾馬の状況視察をかねて陸軍種馬牧場
を訪れて社宅へ泊まり、十四日、生花苗へ向かった。
十六日、勉三は鉄道路線測量請願の用件で生花苗を発ち、翌日、帯広へ着いた。そして
十八日、札幌へ行き鉄道管理局長に会って陳情し、鉄道院総裁あてに請願書を発送した。
二十二日、帯広へ着き、二十四日、生花苗へ帰った。
二十日、明治四十二年十二月出願の生花苗南一線、二線、三線のうち原野八十八町四反
五畝歩の売払許可指令を受けた。また二十二日、途別南七線三十七番地から途別川に沿っ
た堤防地拝借願書を幕別村役場へ提出し、その筋へ進達方依頼した。
二十九日、十勝農事試験場長・黒沢信良、同技手・住永勇義、同・菅原文雄の三名は途
別水田状況、用水、排水配置など視察し、彼らを波多腰が案内した。
七月十七日、勉三は帯広へ来て、十九日、社用で釧路へ出向き、二十二日、その足で生
花苗へ帰った。
二十四日、皇太子殿下(大正天皇)が近日、御巡啓されることから、勉三は奉迎委員に
任命され、御手植え松の係となった。
二十九日、晩成社は途別水田堤防工事に着手した。
八月二十四日、晩成社は皇太子殿下御行啓につき、十勝公会堂物産陳列場にバターを出
品した。
二十八日、勉三は生花苗より帯広晩成社へ来た。
九月二日、明治天皇御名代として皇太子殿下が行啓され、十二時五十五分帯広駅に着か
れた。そして十勝公会堂で御休憩をとられ、午後、釧路へ向けて発たれた。なお勉三は奉
迎のため、牝馬オサボーク号に付き添って十勝公会堂へ行き、馬をご覧に供した。
なお明治天皇を崇拝する勉三の思いは格別で、皇太子であっても一入のものがあった。
また入地早々の正月、開拓目標を「天皇御行啓を仰ぐ」とした漢詩がある。
ちなみに宮内庁御用写真家・伯父の鈴木真(旧真一)が宮家よりの拝命で、明治天皇の
御尊像三十六体(約六十センチ)を謹製した。そして真が一体を下賜されたと聞くや、勉
三は大正十一年に上京し、熱意をうち明けて手に入れた。(とは、「拓聖・依田勉三」に記
載されている新聞記事である。だが真は大正八年に八十三歳、二代目真一は明治四十五年
没である)。また 真の辞世は「立つ鳥の跡をにごして其侭にゆく秋風と共に消えけり」で
ある。
そして勉三は、明治天皇像を奉安する神社を建立しようと私財を基金とし、広く浄財を
集めたが、病となって果たせなかった。やがて死後、帯広中学校に真影奉安殿完成を機会
にこの御尊像も安置されたと伝えられる。
三日、勉三は御召しに応じて釧路の殿下宿泊所へ行き、波多野東宮大夫から「多年開拓
に尽力し、殿下は御満足であらせられ、なお精励従事せよ」との御言葉をかけられ、紅白
の菊章菓子が下賜され、勉三はうやうやしく拝受した。また殿下は四日釧路を発ち、帯広
を通過した。
五日、勉三は社用で浦幌へ泊まり、六日、帯広へ帰社すると北海道長官より記念絵葉書
が贈与され、十六日、生花苗へ帰った。
二十八日、勉三は生花苗を発ち、茂岩駅へ出向いた。これは鉄道院技手一行が、豊頃駅
より生花苗を経由して広尾へ達する鉄道路線測量の情報を得たためであった。だが夢を見
たかのように一行は現れなかった。この日、椎茸の巡回教師・楢崎ら二名が生花苗へ来て、
三十日、帰途についた。
三十日、晩成社は生花苗北一線二十八番地売り払い許可分が成功したことで、成功証明
下付願書を河西支庁へ提出した。
十月一日、佐二平が近藤正鉄次男・尚二を伴って帯広へ着くが、勉三不在であった。
なお尚二は義甥にあたり、田方農学校二期生で二十歳、勉三の生き方に敬服し、農学を修
めての来社であった。また共に十一名の小作人が伊豆より来た。なお勉三は夕刻、生花苗
より来て佐二平に会った。
二日、勉三は佐二平、尚二、波多腰と途別水田を見回り、翌日も予定したが雨で中止さ
れ、四日、勉三と佐二平、尚二は生花苗へ向かった。
五日、鉄道院技手・福田輝吉一行が豊頃〜広尾間線路測量に来ると聞き、勉三は泥川ま
で行って迎えた。そして翌日、一行は沿道を踏査し、生花苗に泊まった。また七日、勉三
は広尾まで同行して泊まり、八日、大樹で別れて生花苗へ戻った。
九日、佐二平は生花苗牧場を巡視し、勉三と猪之吉が案内した。また尚二もついて歩き、
広大な牧場と牛馬の多さに目を見張った。十日、雨で中止したが、十一日は耕地、十二日
は構内を半日ずつ巡視した。そして十三日、牧場を発つが午後より雨となり、豊頃駅より
汽車に乗り帯広へ着いた。これに勉三とヨシが随行し、尚二は牧場見習いで生花苗に滞在
した。
十五日、佐二平は上下売買農場、帯広公園地、神社境内、試験場など巡視した。またこ
れを勉三と波多腰が案内し、日暮れまで熱心に見回った。
十六日、佐二平は汽車で帯広を発ち、勉三は社用をかねて札幌まで同行した。十九日、
佐二平は伊豆へ向かい、勉三は帯広へ戻り、二十六日まで逗留した。
二十一日、長五郎は病弱を理由に「事務行い難し」と辞職し、伊豆へ向けて発った。
二十五日、勉三は生花苗郵便局設置を河西支庁長に陳情した。また十勝公会堂での十勝
産牛馬組合臨時総会に出席した。
二十六日、勉三は生花苗へ向けて発った。
十一月十九日、晩成社は事務員・野村直二を採用した。
十二月一日、勉三は生花苗より帯広へ来るが、税務署召喚によるもので同署指導により
財産目録を調整し、また他の社務をした。七日、帯広を発ち、八日、生花苗へ着いた。
五日、晩成社途別水田堤防全工事が竣工した。
十八日、勉三は生花苗より帯広へ来て、二十三日、釧路で社用し、二十四日、生花苗へ
帰った。
二十六日、九月の皇太子殿下御行啓奉迎関係者一同へ下賜金があり、勉三も配当を受け
た。
特 記 事 項
途別水田工事を列挙すると、用水掘り拡張延長五百二十五間、同敷き下げ八百三十一間、
用水縁改修九百十四間五尺、用水新掘り十二間、道路新設百五十七間、橋梁を架すこと一
個、土橋四個である。また水害予防の堤防を築くこと百四十八間、古川掘り拡張浚渫延長
百六十一間、用水道路および排水、古川など両縁草刈り延長四千五百十九間四尺である。
なお本年度途別水田開墾反別は二町五反五畝十五歩で、前年分と合わせ総反別九町五反五
畝三歩である。小作人は四十三年末、新来二戸、逃走したもの七戸、現今は十三戸である。
水田状況は、小作人二、三戸を除くほかは冬期間地方へ出稼ぎに出張して帰来が遅く、
苗代田の遅れと種籾発芽不良にして予定の苗育て難きに加え、小作人七戸逃走し、これら
開墾水田を荒廃すれば、翌年また困難不利となることを恐れ、この水田を現作人に分別し
て作らせた。苗秧の不足なるを以て苗数なく、株間遠く薄く植えさせ、これにより分蘖(け
つ)十分となり出穂したが、結実はほとんど無きがごとくであった。しかし上作の所は一
反歩約玄米八斗の収穫は得らるべきものと信ずる。
上売買水田は、水田作人として入作者なく、畑作のかたわらこれを為させた。秋穫はな
し。本年の気候は五月より六月中旬まで快晴続きにて気温高昇し、十勝近年にない良好な
天候となった。故に畑作の蒔き付けは進捗し、萌芽発育とも佳良となった。だが七、八月
の交開花期に当たり日々曇り雨がちに加え、八月中旬に至り西北より一陣の大暴風を起こ
して襲撃され、これがため結実災害となった。一般収穫は六、七分の作であった。
生花苗牧場は、◎牛=結核病検査の結果は健全であった。本年生産は牝四十二頭、牡三
十八頭、斃死牝二十頭、牡四十頭。◎馬=本年生産は牝十五頭、牡十六頭、斃死十頭であ
った。◎家作=浜ノ沢搾乳所百二十坪、同所釜屋八坪、同所倉庫六坪はバター製造に必要
なる建築で千百余円支出した。事務所付属としては厨家六坪。サイロ土台入れ、その他各
所修繕など百余円、合計千二百八十三円余であった。◎乳=バター製造費二千七十円余で
バター五千五百二十斤を製造した。◎缶詰=屠場、粉乳、缶詰は冬期飼育中屠殺を要する
もの出現し総て缶詰とした。◎記事=三月十五日降雪、引き続き十八日また降雪、十時ご
ろより激風を添え、十九日風雪一層激烈を加え、牛大いに疲れ斃死するものあり。これよ
り先、バター製造を始め、また缶詰(牛大和煮、牛味噌、公魚(こち)、海老)を製造し、
東京・横浜・北海道で販売した。五月一日当縁川沿い原野に火を放ち、他日の延焼を予防
した。四日に水田の耕作を始め、七日直播、九日苗代に下種、十三日午後、野火北東より
来て沼川牧場を襲う。事務所員や牧夫などこれに赴く。夕刻より小作人が加わり、夜十一
時に消火された。このように本年北海道の山火事は広大にして、長官恐れおののき軫念(し
んねん)したほどであった。なお当牧場は早春より手配したため、大事に至らなかった。
十八日水田新開発は終了した。この秋、稲はわずかに稔るが、うち一部は肥料のためか藁
茎が長太く実らなかった。一、二月ごろより木材を運び、七、八月ごろ浜ノ沢搾乳所をほ
ぼ完成した。また厨屋一棟を作った。なお副業に藺草を栽培し編笠、畳表の教師を呼んで
一般農家の婦女子に教え、桑園を作って養蚕業を始めた。
十勝においては、一月、河西橋の渡橋式。二月、帯広神社に設立許可。八月、十勝公会
堂落成。九月、皇太子殿下行啓。十一月、第一回十勝競馬開催、帯広農産商組合が駅構内
に雑穀検査所を開設。大通りに下水溝が建設された。
全道的には、五月、全道で山火事が頻発。七月、函館〜釧路間に直通列車運転。九月、
網走線が野ケ牛まで開通。小樽商業学校が設立された。
A 明治四十五年「大正と改元」
一月六日、作田定次郎と八木末松らより本願寺別院敷地として本社畑地と交換または売
り渡しを受けたい旨の申し出があった。
十五日、生花苗牧場営業に関する回答書を税務署へ提出した。
十七日、勉三は生花苗より帯広へ来社、二月三日、生花苗へ帰った。
十九日、勉三は野村と税務署へ出頭し、晩成社決算報告について主任と面談した。
二十一日、勉三は日勝線鉄道敷設に関し、懇願書を白石代議士および北海道倶楽部幹事
・田中清輔へ送った。
二十四日、晩成社は水田小作人募集広告を北海タイムスに依頼した。
二十六日、税務署より口達で、三十九年分営業報告書、貸借対照表の土地売却代金につ
いて帳簿の取り調べを受け、税務署員・宮城が来社した。
二十七日、勉三は支庁内開催の河西五郡農会総会が出席した。この日、明治三十四年十
二月出願し、同月指令となった帯広町交換地十町二反歩未登記分の嘱託登記を支庁へ提出
した。
二十八日、勉三は地方開拓功労者取り調べ担当の道庁技手・三原の要望で北海館を訪れ
た。また支庁内で開催の十勝産牛馬組合総会へ出席した。
三十日、勉三は波多腰と野村と共に途別へ行き、皇太子殿下が下賜された御菓子に酒肴
料三十銭ずつを添え、各自に与えた。そして恩賜の光栄に浴した顛末を述べ、小作に対す
る注意事項や耕作上での集約的周到を期すよう縷々説いた。また佐二平より贈与された五
円を、収穫反当たの等級を決め、成績優秀者五名に賞与した。
二月二日、勉三が生花苗へ帰ったあと道庁技手・三原が晩成社事業経営調査のため来社
した。
二十一日、晩成社は水田小作人募集広告を北海旭新聞社へ依頼した。
二十三日、野村は十勝公会堂で開催の水田講演会に二十五日まで出席した。
三月四日、明治三十九年二月に競売した札内南四線東三十一番地の畑五町歩を、山口へ
売り渡し代金済だが、他へ転売されたことで移転登記した。
十三日、途別南六線の排水溝掘削許可指令を受けた。
三十日、晩成社は水田小作人募集広告を十勝新聞へ依頼した。また波多腰は途別用水路
掘削願いに要する幕別村共有地地主の承諾書をもらうため幕別役場へ出張し、その日帰社
した。
四月一日、途別用水路掘削願いを河西支庁へ提出した。
五日、晩成社は水田小作人募集広告を釧路新聞社依頼した。
十一日、水田小作人募集のため野村を石狩方面へ派遣した。
十七日、途別橋梁架け替え寄付につき、北海道庁長官より褒状および木杯一個を下賜さ
れた。
十八日、明治四十四年二月出願の上売買村南八線の畑二反一畝二十六歩を道路敷地とし
て寄付許可指令を受けた。
十九日、水田小作人募集のため石狩方面へ出張した野村が帰社した。
二十三日、水田小作人・及川が家計維持困難を理由に退場した。
五月六日、下売買南六線監獄用地境が浸水し、応急工事交渉のため波多腰が十勝監獄へ
出頭し同意を得た。
八日、生花苗用水路掘削願いを河西支庁へ提出した。
十二日、途別直営苗代田へ種下ろしをした。ただし小柳式燻炭苗代と普通苗代の二通り
とし、優劣を比較することにした。また小作人においても各自が苗代作りに着手し、十九
日、下種を終了した。
十五日、途別南五線中台へ落葉松の植え付けし、十七日、終了した。なおこれに波多腰
が出張し、人夫を指揮して苗木千六百十一本を移植した。
十七日、不動尊堂前に苗床を作り、落葉松の実を蒔いた。なお生花苗より交尾牝馬二頭
が帯広へ来た。
十九日、生花苗より近藤尚二と樋口林太郎が徴兵検査のため帯広へ来た。
二十日、交尾牝馬サフイ号が生花苗より帯広へ来た。
二十三日、税務署員・西村が来社し、明治三十九年以降四十三年の決算報告書不審個所
の取り調べをした。
二十七日、猪之吉は妻の病気のため帰省することになり、途中帯広へ立ち寄り、翌日、
伊豆へ向かった。
六月三日、途別川渇水のため小作人を招集し、水門口、川筋、堰止め工事を行い土俵を
並べた、
二十一日、小作人は本日より田植えをし、二十八日全て終了した。
二十四日、直営田を普通蒔き田植えをし、二十五日に終了した。
二十八日、勉三は野村と途別水田状況を視察し、札内駅より生花苗へ向かった。なお本
日をもって途別水田小作人へ米、味噌の貸与を中止した。
七月四日、燻炭苗代の移植をした。
九日、波多腰の退社が決まり、後任者・野村直二へ事務引き継ぎをした。
十日、生花苗牧場字ホリカヤニ一番の三において一町一反四畝二十一歩、同番の六にお
いて八反二十四歩を道路敷地寄付願いを提出した。
十三日、河西支庁より途別南七線三十八番地の原野九反六畝二十九歩登記済書を受領し
た。
十八日、本社事務所の屋根を葺き替えた。
二十四日、交尾牝馬の隆田号とサフイ号ら四頭が受胎したため生花苗へ送った。また勉
三は生花苗より帯広へ来た。
二十五日、勉三は農事試験場を観覧し、その後河西支庁へ出頭した。また午後は野村と
途別水田を視察し、翌日生花苗へ帰った。
三十一日、明治天皇崩御の公報が役場より届き、半旗を掲げて哀悼の意を表した。
八月一日、大正天皇が即位し、元号を七月三十日以後を「大正」と改められる旨の公法
が町役場より届いた。
二日、税務署より三十九年以降の収入利息取り調べの照会があり、翌日、回答書を提出
した。
六日、交尾牝馬・秋の空号が受胎したので生花苗へ送った。
八日、途別水田の水切りをした。
十四日、波多腰が所得税につき河西税務署と交渉するため生花苗へ出張し、翌日帰社し
た。また薫平は点呼招集のため伊豆より来社、十七日、生花苗へ向かい、三十一日、帯広
へ戻り、九月一日、伊豆へ帰った。
十六日、石狩地方の雨竜村より小作希望者六名が来社し、途別水田を視察した。そして
本社に泊まり、小作契約上の相互の意見交換して翌日出発した。
二十三日、帯広南二線十三、十四の乙、同南三線十三の乙の未開地一町二反歩の保存登
記した。
九月八日、猪之吉は伊豆からの帰途来社し、翌日種馬牧場へ寄り、十一日生花苗へ向け
出発した。
十日、波多腰は正式退社し、郷里へ向けて発った。
十三日、明治天皇大葬当日にあたり、帯広公会堂で遥拝式が挙行され、野村が参列した。
十七日、豪雨が終日続いて河川は増水し、畑地に氾濫して一メートル五十に達する個所
があった。だが晩成社農場において作物被害は僅少であった。
二十三日、終日豪雨は止まず、翌未明より河川が氾濫し、帯広、上下売買など畑地に浸
水個所が出た。また野村は浸水箇所視察のため農場内を巡回するが減水が早く、被害は少
なかった。なお浸水は帯広、上下売買で約五町歩ほどあった。
二十六日、生花苗用水路掘削願書が却下され、翌月八日付で訂正、再提出した。
三十日、佐二平と正鉄が伊豆より帯広へ来て、勉三は生花苗より来社した。
十月一日、勉三は佐二平、正鉄、野村と共に途別水田の結実状況を視察した。そして温
泉場で休憩して昼食をとり、隣地・杉本らの水田を見て帰社した。
二日、勉三は佐二平、正鉄と農事試験場見学や市街視察をし、帰途、鮭孵化場を見た。
四日、勉三は佐二平、正鉄と生花苗へ向けて出発した。
九日、勉三は佐二平と正鉄が伊豆へ帰るため生花苗より帯広へ共に着き、尚二と林太郎
も兵役のため同行した。なお帯広へ着くころ日暮れて雨にあい、一同は着衣や手持ち品を
夜間乾かした。
十日、佐二平は正鉄、尚二、林太郎と伊豆へ向かい、勉三は帯広駅から見送った。
なお第七師団機動演習が開始され、晩成社が第二大隊本部となって大隊長・梶原ほか将校、
下士卒四十一名が宿泊し、夜を徹して戦闘演習が行われた。これに茶菓子や食膳を出して
歓待した。
十一日、大隊司令部が出発し、勉三はこれを見送ってから生花苗へ向かった。なおこの
日も付近において戦闘演習が行われ、兵士の往来激しく、負傷兵の休養所に晩成社が当て
られ、これに食事など提供し、社宅前には水槽を設けて兵士の喉を潤わせた。
十二日、晩成社は連隊司令部に当てられ、連隊長・大森大佐以下衛兵三十余名が宿泊し、
夜を徹して演習が行われ、茶菓子を出して歓待し、水槽を設けた。
十三日、審判官宿舎となり、審判官・山崎ほか大尉二名、従卒三名が宿泊し、十五日ま
で滞在して一行に酒食を出して歓待した。
勉三は、釧路の平太郎と途別水田視察の約束から帯広へ着き、温泉場で泊まって待つと、
「都合がつかなくなった」との伝言が届き、翌日早朝、帯広へ戻って社用し、十五日、生
花苗へ向かった。なお二十六日より途別直営田の稲刈りが始った。
二十八日、猪之吉は新得より帯広へ来て、翌日、生花苗へ帰った。彼は馬売却の状況視
察の帰りであった。
十一月二日、途別の小作人一名が逃亡した。
十五日、猪之吉は新得よりの帰途、牝馬二頭、当歳馬一頭を曳いて来社し、うち牝馬一
頭、当歳馬一頭を売却し、翌日生花苗へ帰った。
二十一日、勉三は生花苗より帯広へ来社し、二十三日、野村と途別へ行き隣地・仙松牧
場との境界実測に立ち会い、踏査した。そして水田小作人を集め、年貢怠納について訓戒
を与え、耕作上の集約周到を注意した。
二十五日、勉三は野村と所得税異議申し立てのため調査書類持参で税務署へ出頭し、主
任に説明し、生花苗へ帰った。
二十九日、途別水田の小作人一名が逃亡した。
十二月二日、この日も途別水田小作人が一名、続いて九日一名が逃亡した。
七日、猪之吉は札幌へ種牛の買い付け途中に帯広に寄り、翌日出発した。
十七日、札幌より猪之吉が買い入れた種牛二頭が着き、翌日生花苗へ向かった。
二十日、石狩の雨竜村の水田小作人・坂口が来社した。また幕別村における水利組合組
織の目的で、途別川上流のイタラタラキ原野より晩成社農場中台を貫通し、札内停車場付
近まで延長一万七千間の潅漑溝掘削予定水路実測立ち会いを求められ、野村が出張し測量
手と用水路地帯を踏査した。
二十六日、勉三は生花苗より帯広へ来て用務をし、翌日、生花苗へ帰った。
特 記 事 項
途別水田工事は、支線用水掘り二百八十五間、山ノ手幹線用水浚渫へ八十間、再墾田沮
淤地排水掘り百五十三間、道路および用水縁草刈り千三百間、水門前・川筋堰止工事約十
五間、水門決壊個所を修繕した。
途別水田の開墾反別は、一町一反八畝歩余、前年分と合わせ十町七反三畝歩余で、小作
人は十三戸で、新来二戸、逃亡五戸であった。小作人は冬期はおおむね木炭焼きに従事し、
樵夫として出稼ぎをする者もあった。
稲作状況は、種子不良のため腐食し、春期気候は寒冷不順であった。そのため霜害をけ、
幼苗は凋萎した。加えて六、七月の気候は雨量が極めて多く発育が不良であった。しかし
本田移植後は気候適順となり、土用に入り前後は旱天が続き気温上昇し、炎熱焼くがごと
くとなり、したがって稲茎は促進され漸次回復して収穫は相当見込まれたが、八月初旬よ
り一晴一曇、降雨も交わり俄然冷気が加わった。それより気候激変して結実不良となって
収穫ほとんど見ることなく、僅か二、三分の作柄となり、本年は地料を免除した。
畑作は、麦、燕麦、亜麻類などの夏作は収穫期淫雨のため甚しく品質を害し、収量もま
た減少した。秋作は、土用入り前後、一般的に大々豊作が予想され、十勝農事試験場にお
いて空前の作柄と発表された。だが晩夏の気候激変し、作況は大豆二、三割減、小豆はほ
とんど半作以下の収穫に過ぎない状態であった。だが市価騰貴して耕作者個々に受けた影
響はたして大きくなかった。地料徴収は著しく減収と認める部分に限り一、二割減免した。
生花苗牧場は、◎牛=結核病なくみな健全で、総数百九十九頭、うち牝百四十八頭、牡
五十一頭。本年生産牝三十二頭、牡二十八頭、斃死牝十五頭、牡四頭であった。販売代金
三千百八十六円余、支出金千十七円余であった。◎馬=百十六頭、うち本年生産牝十六頭、
牡十四頭、斃死・失踪四頭であった。◎乳=バター製造費八百七十六円余で五千百十四斤
を製造した。◎缶詰=屠場、粉乳、缶詰は収入五百二十二円余あったが空缶、砂糖、その
他の支出金が五百四円余であった。◎その他=税金、町村費は増加し、産牛馬組合費も前
年度・前々度とも一時徴収され、前年の倍額となった。
◎記事=四月二十八日水田作り。五月二日熊害により牛一頭斃死、この前後牛馬五、六
頭が傷つけられた。五日昨日来の降雨で洪水となり、地上一面湖となった。十八日から二
十日まで稲苗代へ下種。二十七日猪之吉は伊豆へ向かって出発。六月十日大津において軍
馬購買があり、当場より馬五頭を出すが不買となった。十八、九日と雨が降り二十日にな
って止むが大水が出て畑地を洗い糞土が流失した。七月十日大熊を銃殺、これにアイヌ二
名、牧場員二名で昨日来追ったものであった。二十七日河西税務署は当牧場に利益あるも
のとみなし、善六、佐二平に課税しようと下田税務署へ通告するとの報を聞き、勉三は弁
明書を帯広へ送った。八月一日大樹村で軍馬購買があり、当牧場より馬三頭を出して二頭
が購買となった。九月十一日猪之吉が伊豆から帰った。十三日夜、村民すべてが学校へ集
まり大葬のため遥拝して徹夜し、翌夜十時に高台へ登って遥拝した。三十日佐二平、正鉄
が伊豆より帯広本社へ到着し、勉三はこれに赴いた。十月三日佐二平、正鉄は生花苗へ来
て以後牧場各所を巡視した。そして彼らは九日牧場を発ち、尚二と林太郎も同行、勉三は
送って帯広へ行き一泊、翌日佐二平らは伊豆へ向かった。二十七日猪之吉は馬売却状況視
察のため新得方面へ出張し、二十九日生花苗へ帰った。二十八日道庁技師石沢が当牧場の
事業調査し、また有益な意見を陳述して十一月二日出発した。十一月六日猪之吉は馬五頭
を曳き新得方面へ行き四頭を売り、一頭を曳いて十七日帰った。七日道庁職員田村は水田
視察に来て「土地は好恰であるが、気候の適否は 確言出来ない」と言い、「この川の流量
は十六立方尺で百八十町歩の潅漑が出来る」と太鼓判を押した。二十五日勉三は河西税務
署の召喚に応じ帳簿を持参して検査を受け、答弁した。十二月七日猪之吉は種牛買い入れ
のため札幌へ行き十五日に帰った。十九日種牛ホルスタイン一頭、アイシャ一頭が札幌よ
り牛追い人一名、帯広本社の藤井が付き添って生花苗へ着いた。
また春より八月に至る気候は順調で稲は一斉に花を咲かせるが、九月より俄に寒冷とな
って雨が降り続き、日光を見ることも稀となった。稲花は依然として九月を過ぎて十月に
至った。ついには霜にあって実らず、諸作物は不熟のものが多かった。
全道的には、第七師団が本道初スキーを採用。十月、網走線全通し、移住者が多く一万
名増加した。十二月、東部雑穀商同業組合が設立された。
参考文献:晩成社「十勝開発史」 萩原 実編 名著出版
晩成社「十勝開拓史」 萩原 実編 名著出版
「拓聖依田勉三」田所 武編 拓聖依田勉三伝刊行会
「十勝開拓史話」 萩原 実編 晩
成 会
「北海道農業開拓秘録」若林 功著 八紘叢書第一輯
「鈴木銃太郎日記」田所 武編 柏李庵書房
「渡辺勝・カネ日記」(机頭日記)帯広市教育委員会