勉三こぼれ話



 勉三こぼれ話@  (伊豆新聞・平成十二年八月三十一日掲載)

    中島みゆきと依田勉三

 本紙に「依田勉三 十勝を拓(ひら)く」を掲載させていただき、多くの反響があり
感謝している。そこで今回は、小説では書き切れない「こぼれ話」を六回にわたり書い
てみたい。
 現在、NHKテレビで放映されている「プレジェックトX」の主題歌は、ご存じのよ
うにシンガーソングライター中島みゆきが歌っている。彼女の歌声は聞く側の心を透明
なオブラートにくるんで別世界へ誘ってくれる。だから私は、もともと彼女のフアンで
ある。
 中島みゆきが帯広出身であることを、かねてより知っていたためだろうか。私はその
歌全体に勉三の生涯を重ね合わせてしまう。尽くしても報われることの少なかった十勝
平野の開拓を思い浮かべるのである。これは彼女の声質の物憂げなのが、第一の原因で
あると思う。また、歌詞にしても「別れ歌」が多く、どこか勉三のイメージに合致する
のである。
 だからといって、「中島みゆきと 依田勉三」などという、唐突な表題をつけるつもり
はない。両者には間接的ながらも、奇しき縁で結ばれいることに触れたいのである。
 我々が帯広へ行くと、蓑笠姿で鍬を持つ勉三の銅像に出会う。この場所は当初、晩成
社の所有地であった。今は「帯広神社前、中島公園」と呼ぶ。
 短刀直入に言えば、みゆきの祖父中島武市が、土地を提供、銅像建設の費用を賄って
完成させたものである。彫塑者は田嶼碩朗で、除幕式は昭和十六年六月二十二日であっ
た。だが、厳密にいえば、現在のものは二代目で、昭和十八年太平洋戦争のあおりで供
出し、二十六年七月に再建されたものである。
 さて、みゆきの祖父、中島武市とはどんな人物であったのだろうか。彼は岐阜県土貴
村に、明治二十九年一月に生まれた。米穀商の家とはいえ、小作農で生計をたてる貧農
であった。十二歳の時、彼の父は借財を残して死んだ。小学校尋常科四年を卒え、役場
の小使いをしながら、校長の恩義を受けて高等科を卒業した。その校長はことあるたび
に「世に出たら死んでも名が残る仕事をしろ。人は一代、名は末代じゃ。金は汚くため
ても、社会公共にきれいに投資せよ」と、説いたという。
 十六歳で大阪の呉服問屋の丁稚小僧、持ち前の勘のよさで、一年八カ月で番頭になっ
た。あと一辛抱でのれん分けという時に、主人の娘に惚れられ、逃避行して辞める羽目
となった。また、母方の伯父は大蔵大臣を務めた人物で、上京してその従兄に就職を依
頼するが、門前払いという、強い屈辱感を味わった。
 そして、名古屋の株屋に就職するが、賭けごと商売は己に向かないと感じた。そんな
折り、「店員募集! 将来 大成せんとする者は、北海道に来たれ!」という、新聞広告
に出合い、渡道することになった。
 その振り出しは旭川の書店であった。そして、二十四歳の時結婚して帯広で饅頭屋、
大正九年に古着商を営んだ。初めは「古着商中島商店」としたが、大成するには主人、
女房、店員の三者の和が必要だと「みつわ屋」と命名するのだった。彼が行くところ客
がつくというので、競って商店の軒が並び、帯広市西二条九丁目が銀座街となる素地を
作った。
 また、禁酒禁煙を誓い、その満願日には帯広神社に神馬の銅像を寄贈し、献納式場で
向こう十年間の禁酒禁煙を誓い、寄付も資産の一つだという考え方を実践した。
 昭和十一年、帯広商工会の副会頭になり、のちに商工会議所の会頭となった。終戦後
は鉄道より自動車だと、北海道開拓国営自動車路線設置期成会を結成し、その会長にな
った。
 武市が、勉三の銅像建設を思い立ったのは昭和十二年で、自らの渡道二十周年記念、
四十二歳の厄年の時であった。そして、恩人、知人など百余人を招待した宴席で建設の
約束をするのだった。足掛け四年、五万円の工費が投じられたが、総てを無尽会社から
日歩一銭五厘で借り入れ、日に五十円を返すという離れ業をやってのけたという。

 その碑文には、
        功 業 不 磨
 依田勉三君ハ伊豆ノ人、夙(つと)ニ北海道開墾ノ志アリ、明治十五年晩成社ヲ組織
 シ自ラ一族ヲ率ヰテ此地ニ移住ス。凶歳相次ギ飢寒身ニ迫ルト雖モ肯テ屈撓セズ、移
 民ヲ慰撫激励シテ原野ノ開拓ニ努メ、東ニ水田ヲ開キ、酪農事業を興シ藷種ノ製造工
 業ヲ試ムル等十勝開発ノ翹トシテ克ク其ノ範ヲ示ス、十勝国ノ今日在ルハ君ノ先見努
 力ノ賜ナリ、
 岐阜県人中島武市、此ノ労功ヲ欽迎シ、私財ヲ投ジテ之ヲ永遠ニ讃ヘントス、誠ニ宜
 ナリト言フベシ、 と、刻まれている。


追伸、この像の題字「依田勉三翁」は、昭和16年建設時は一木喜徳郎。昭和18年に軍事
物資として供出され、現在のものは昭和26年7月再建、大野伴睦が筆をとり「依田勉三翁
之像」とした。伴睦との関係であるが、中島武市と岐阜県同郷の縁である。なお「功業不磨」
の篆額は三田同門の尾崎行雄(咢堂)、撰文は北海道農業最高権威・佐藤昌介男爵である。




 勉三こぼれ話A (伊豆新聞・平成十二年九月一日掲載)
  
     開拓神社に合祀される

 大正七年八月三十日、天皇の北海道行幸を記念して刊行された「開道五十年北海道」
と題するそれには、「開拓功労者、緑綬褒章受領および 飾版加授の先駆者、依田勉三」
という表題で、「本道の開拓事業に従事し、農牧に尽瘁せる功労者、その人に 乏しから
ずといえずとも、おそらく依田勉三翁の右に出ずる者なからん。宜なるかな。政府つと
に緑綬褒章を賜い、けだし飾版の下賜は、これを以て本道における嚆矢とす。また名誉
というべし」とある。
 読者は、札幌にある北海道開拓神社の祭神となっている勉三翁をご存じだろうか。
 翁を含めて三十七柱の名が並ぶ。松浦武四郎、黒田清隆、岩村通俊や間宮林蔵、伊能
忠敬、高田屋嘉兵衛、近藤重蔵らの歴々である。なお、この神社は昭和十三年に創立さ
れ、わが翁が三十七柱目の祭神として合祀されたのは、昭和二十九年九月二十二日であ
る。

  依 田 勉 三 命 
   生地 伊豆那賀郡大沢村(現静岡県賀茂郡中川村大沢)
   没年 大正十四年十二月十二日
   神徳 明治十六年移民と共に帯広に入り、開墾、架橋、道路開鑿、農産改良牛酪
      煉乳、水田開発、教育、敬神、公益事業
   遺族 帯広市東一条十五丁目 依田八百

 この合祀の発端となったのは、札幌市議会議長、全国市議会会長、北海道PTA会長
など歴任した福島利雄と、写真家鈴木真一の孫三原武彦であった。武彦は勉三と同居し
ていたこともあり、「晩成社には、もうほとんど何も残っておらん。 ……しかし……
ああ、十勝野は……」の、かの有名な言葉を聞いた人物である。この合祀運動を起こし
た当時、中学校長をしていた。
 福島は、たまたま立ち寄った古本屋で、依田勉三の伝記を手にした。その内容に触れ
これは放置出来ないと、残本を買い集め、小中学校へ寄贈したのが始まりだという。彼
と三原は、合祀祭委員長、同副委員長となって、運動を推進した。
 その合祀祭で福島利雄委員長は、「(前略)当神社は 昭和十三年八月十四日、当時の
道会の議決によって、本道開拓に貢献したる三十六柱の祭神を祀り、その後、幾変遷を
経て今日に至りたるものにして、翁の今回の合祀は、その輝ける功績に鑑みれば遅きう
らみさえありますが、翁は死後数十年、初めてこの破格の知遇と栄光を得て、定めし泉
下に感泣していることでありましょう。(中略)当時 私は、翁の伝記を読んで 痛く感
激し、まず翁の功績を天下に顕彰すべく本道総鎮守の末社、開拓神社御祭神として合祀
の念願を起こして、まず各方面の賛同を得ることに努め、諸般の準備全く成って、本日
の盛典を見るに至りましたことは、ご同慶の至りに存じます。
 思うに北海道の開発は、我が国にとって急務中の急務であり、それが着々具体化しつ
つある今日、依田翁の霊が前例にない民主的推挙の形において、合祀の運びとなりまし
たことは、極めて意義深いものがあります。
 将来この社頭にぬかずく道民ことごとくが、この偉大なる農聖の功業に想到して感奮
し開拓産業に誓うならば、翁の徳化恵沢、永く全道を潤すものがありましょう」と、あ
いさつした。
 その古本屋の店頭にあったという「十勝開拓の人柱、依田勉三翁の偉業」が、私の机
の上にある。萩原実先生が昭和九年九月に刊行したものである。先生は昨年亡くなられ
たが、その形見分けである。
 勉三翁の魂が大地を目覚めさせ、人の生命を養い、感動を与える。その先達の足跡は
絶対におろかにしてはならないものだと思う。
 私は、受け継がれた本を見ながらつくづく思う。先生は銅像となる、祭神となる動機
を作られた。これもすばらしい人生だといえる。そして、私はいただいた資料をどう整
理して活かせるかを迷う。六十代半ばとなると、一日一日が勝負となる。いま、翁の日
記を読みながら、一つひとつ、マス目を埋めながらの小説を書き進めている。その一代
記となると、大長編となる。「風吹け、波たて」の 表題で、インターネットで発信する
つもりである。その節は一読願いたい。
 ともあれ、勉三翁だけ偉大だったわけではない。鈴木銃太郎、渡辺勝、鈴木親長、依
田佐二平、依田善六、リクなどの行動も見逃すわけにはいかない。
 なかでも、渡辺カネの存在は絶対に無視することは出来ないものである。彼女の陰の
力で晩成社の継続がなされたと言っても過言ではない。キリスト教を信じ続けて昭和二
十年十二月、帯広の地で逝った。享年八十七歳であった。



 勉三こぼれ話B (伊豆新聞・平成十二年九月二日掲載)

    俊助を中に、リクと川の字となって

 勉三翁の一生は、苦難の連続であるといっていい。私は小説を書くにあたって、日記
を読み進む、というより書き写していく。そこには別に「苦悩」と、文字にしての表現
はない。だが、読むこちら側は息苦しくなるほど圧倒される。よくぞ耐えたりが、読後
感となる。
 ひとは、幾多の苦難に屈服しない他者を見ると、その忍耐の根源を推理したがる。そ
して、大方は恋の破局に原因を求めたがる。
 だが、勉三の恋は成就した。周囲の反対を押し切りながら結婚している。従妹リクと
の結婚である。やがて、一粒種の俊助が生まれる。
 翁の境遇といえば、何をしなくても食べられる富豪の次男である。だが母を十一歳、
父を十三歳の少年期に失っている。私はこれを第一原因とみなす。もし母が存命なら、
その懐中にいて巣立てなかったのではなかろうか。兄佐二平とは七歳の年齢差があり、
翁はようやくに出生した男児であったのだ。また、姉が三人あり、佐二平の下に幼く逝
った兄庄助がいた。そんなことから、久方に出来た男児として寵愛(ちょうあい)を受
け、軟弱に育ったであろうことは、容易に想像出来る。
 そんな勉三を変身させていくのは、幕末、維新の時代背景と、教育の力である。人格
者である兄の薫陶、尊徳思想の土壌、三余、西郷頼母、福沢諭吉、ワッデルなどから学
ぶところは少なくなかった。
 しかし、何はともあれ、北海道開拓に思い立たせたのは、「ケプロン報文」である。
「その財産は無限の宝庫である。かかる肥饒の大地を放置するは、日本政府の怠慢とい
ってよく……」の語が、胸をぐさりと刺す。
 また、帯広を開拓地に決めたのは、田内と内田の「道東地方内陸踏査記」である。
「天造の大牧場なり。十勝は二十五里四方とするならば、百十三万頭の牛。荒野変じて
良田となるならば、これに数倍する産物」という文字が躍る内容であった。それに「天
草の民二百戸の移民計画……」と聞けば、翁ならずとも一番乗りを決めてかかるのも道
理である。だが、その時点で、それが裏目に出るとは知るよしもなかった。
 当時より勉三は、決して健康とは言えなかった。脚気(かっけ)と胃病に悩まされて
いた。心身の健康を取り戻すため学問を捨て、北海道の開拓を志すという発想の持ち主
であった。
 リクも、良家生まれで、富岡へ製糸見習いに出たが、百姓などしたことはなかった。
しかも健康といえる状態ではなかった。しかるに翁は、彼女でさえ精神を高くすれば開
拓の良き伴侶になれると考えた。そして二歳二カ月の俊助を義姉に預け、伊豆を出た。
丈夫に育って上げてから北海道へ呼び寄せるつもりであった。
 だが、その俊助は別れて半年もたたず他界する。また、リクも二年後に発病、四年間
伊豆で療養して戻るが、一年余で再発、それでも明治二十七年まで北海道にいて、函館
で別れ、一方的に離婚させられる。
 勉三翁は他者の世話で、二人の娘を持つ馬場サヨと再婚をする。そのサヨの間に千世
という男の子が生まれるが、これまた二カ月で亡くなる。したがって、実子には恵まれ
なかった。
 戸籍上には養子と称する者数人いるが、嫡子となったのは松崎町桜田生まれの佐藤八
百であった。八百が釧路の金物店に勤めていたのを勉三が見い出し、姉樋口フミの孫娘
(既に養女)キクと結婚させたのであった。
 翁は、大正十三年春、中風をわずらい寝込みがちとなる。それを看病したサヨは、そ
の疲れがもとで、突然九月に亡くなる。
 何かの折り、勉三は「リクと別れたことは一生の不覚」と、漏らしたという。その証
拠に、東京へ逃避行していた彼女の元へ、一度ならず説得に行っている。のちに彼女も
再婚したが……。
 それを知っていたキクは、十一月(九月末説あり)にリクを呼び寄せ、勉三と再会さ
せる。しばらく昔を懐かしみ仲睦まじかったが、些細なことで口論し、病室を訪れなく
なったという。それでも、十二月まで一つ屋根の下にいた。
 勉三翁は、翌大正十四年十二月十二日、七十三歳の人生を帯広の地で終えた。またリ
クは政雄という養子を伴って葬儀にかけつける。八百夫妻はリクの薄幸な一生にせめて
もの孝養として、彼女と少年を自宅で養う。そして、昭和三年、少年を広尾町豊似の木
工所に就職させ、一戸を建てて住まわせる。こうしてリクは九カ年を豊似で生活、昭和
十年十一月、奇しくも翁と同じ七十三歳の生涯を閉じ、八百らの手によって同地で葬儀
は営まれた。  
 その遺骨は分骨され、八百氏や依田周作氏の粋なはからいで、松崎町大沢の墓所に眠
っている。それも右側に勉三、中央に俊助、左側にリクが、文字どおり「川」の字とな
って眠る。
 勉三翁にとって、帯広の大きな銅像も、大沢の小さな墓標も、同時に見た夢に違いな
い。



 勉三こぼれ話C (伊豆新聞・平成十二年十一月二十三日掲載)

     一円が百年すれば一万四千円

 過日、「勉三こぼれ話」を本紙に掲載したところ、北海道より電話があり 驚いた。
伊豆箱根船舶松崎営業所S氏の好意で、切り抜きが送られたのだそうである。その電話
の主は土肥町出身、札幌市在住の小長谷充男氏で、依田勉三翁の崇拝者であった。
 このような思わぬ反響があると、再びペンを持ちたくなるものである。以前、萩原実
先生の形見分けの資料について触れたが、その中に謄写版印刷の一見判読しがたいもの
があった。目こらして 読み進めると、翁が、大正六年五月二十七日、「生花苗(おいか
まない)共有財産社・特別口創立記念会」においての演説の草稿であった。永年住んで
いた生花苗集落の隣人達に話しかけたものであるから、翁本来の格調の高い文体ではな
い。しかし、肉声に似た親しみを感じるものであった。これは記念会の欠席者へ「一円
が百年すれば一万四千円になります」と書かれた金盃に、あいさつとして添えられた印
刷物らしかった。
 まず「土台金について説明すべきだが、表題の「一円が百年すれば……」からにした
い。勉三翁は己の体験から、借財の金利の恐ろしさを痛いほど知っていた。だからこれ
を逆手にとっての発想であった。
 本文の意味するところは、一円を元金として年利一割で計算すると、百年後には一万
三千七百七十八円になるというのである。また、ちなみに一割五分の利息では、百年後
に一円が百万円以上になり、一年で一万円ずつ増える計算だとも言っていた。
 私は、この成熟経済社会において、貯蓄が最善の美徳などというつもりはない。しか
し、安易な借金は身を滅ぼす病原菌になりかねないと、翁の言葉はわれわれに警鐘を鳴
らしているように思えるのである。
 昨今、政府は景気浮揚と称して国債を乱発する。庶民もコマーシャルに洗脳されて、
気軽にサラ金に走る。将来の国のあるべき姿、家庭のあるべき姿を予測しての自制心が
欠如しているように思えるのである。国債費二十%ともなれば、政治に何を期待するか
整理すべきではなかろうか。
 話はそれたが、翁はこうも語りかける。
 「土台金の利子を「善種金」と唱えます。善種金は、共有財産社の経費、会員の賞与
(本業出精、品行方正なるもの、ならびに本社に功労あり、また拠金の多きもの)会員
の救恤(非常の天災、病難にかかりたるもの)道路、橋梁、修繕費、勧業奨励費に支出
するものとする。これはこの通り大役を務める金です」と、いう。
 このように要求することを少なくし、自ら出来る部分を「善種金」で賄おうとするあ
たり、地方分権を叫ぶ者は学ぶべきであろう。
 さて、この時点での翁のおかれた背景を考えると、前年に帯広・売買府(うりかり)
農場を資金困窮から売却し、本社事務所、自宅、社宅なども整理していた。そして、帯
広西二条十丁目四番地に、新たに百六十坪ほどの土地を購入、二棟で延べ面積三十二坪
の自宅兼事務所へ移っていた。そして、直前の総会では 倒産を覚悟し、「この事業の国
家に対するはけだし些少にあらず、これは諸君の国家に対する功績の大なるものなり。
しかりしこうして、その負債は累々として……業すでに解散、または他の方法……」
 とまで言及していた。
 にもかかわらず、翁は、新たな土台金へ三十円を拠出し、既成の四十六円と 合わせる
と全体の四十%を占めていた。そして会員に配布した金盃を含め、記念会の酒食も、自
費五十円ほどで賄うのだった。
 現在と未来、公と私、現実と理想のバランスの中で生き抜いた勉三翁の生きざまも、
今のわれわれに、何かを示唆しているように思えてならない。




 勉三こぼれ話D (伊豆新聞・平成十二年十一月二十四日掲載)

    世界人類に及ぼす慈善金      

 ここで、「創立記念会」に先立って行われた「生花苗共有財産社総会」の 議事録を紹
介しよう。
 「大正六年五月二十七日、生花苗尋常小学校において、総会が午前十時より正午まで
開かれた。そして午後二時半より依田勉三は「本社土台金特別口創立記念会」を開き、
村人を招いた。会する者三十七名、欠席者十余名、その会員に勉三はことごとく記念盃
を呈した。おのおのが歓を尽くして 午後六時に閉会した。勉三は 客が散じた器を処理
し、雑人帰りし同校宿直所に休憩したのち帰る。
 当日の祝宴は勉三の自費にて、勉三の妻が料理長、接待員となる。受付ならびに器具
係……、午前より午後三時にいたる間、器具の取り扱い、運搬および酒燗……。勉三は
本日祝宴の主意を演述す。伏見六郎、村人に代わりて謝辞を読む」と、ある。
 夫妻とも、実に謙虚に村人に接していることが分かる。この時、勉三翁は六十五歳で
あった。
 この共有財産社は明治四十年に創立されたが、土台金は大正三年から積み立てが行わ
れたようである。この時までの寄付金(土台金)は百九十一円九十六銭三厘で、利息と
合わせると、二百二十円六十二銭二厘になっていた。
 翁は、この二百二十円余が利率一割で増えれば 百年後には三百万円になるとし、「言
うなれば私の年来の心願が成就でありますから、ただ今はその種まきの手始めが出来ま
したのを喜びまして、この祝いをすることにいたしました。また、一人で二百円を積ん
だとて喜ばしくはありません。ひとに勧めて多家の力を以て成就することが本懐と存じ
ます。そこで皆さんがご賛成なされ、一人も異議する者がありません。ここが最も私の
喜ぶところで、また、諸君へ御礼を申さなければなりません。今日はその喜びと御礼の
ためで、一献差し上げる土台金の祝いでございます」と、開会の主旨を述べる。
 続いて「ただ今申し上げました土台金は、当共有財産ならびに当社員に関する土台金
でありまして、世界人類に及ぼす公共慈善的でありませんから、その世界一般の土台金
を作りたいと思いまして始めたのが、このたび皆さんよりご寄付を願いました土台金で
あります。しかし手前はからきし大金は出来ません。よって甲乙寄付して十カ年、ある
いは八カ年に五十円と四十五円となる二口の土台金を作ることにいたしました。これを
甲乙の土台金としました。(中略)この土台金を どうするかと申しますれば、私の考え
は一千円になりましたら、その利息の半分を限定して世界一般公益慈善のために使用い
たします。なれどその必要がなければその利息の全部を限度として世界的慈善に使用し
ます。もっとも必要がなければ、これまた元金へ加えて他日を待つということにいたそ
うと思います。この取り扱いについては 後日ご意見があれば追々伺います。(中略)皆
さんお待ち遠しいでございましょう。一万円はとても末長きことに思われることでござ
いましょう。しかし、人は運でございますから、何時いつ運が来るか分かりません。もし、
私が今後運勢を得ますれば、五百円や千円は寄付いたし、諸君のお待ちかねに対して御
恩報じをいたします。また、千円になりますれば一杯やりましょう」と、語る。
 以上は、翁の人となりを知る好資料になると思う。一般農民に世界人類への視野を広
げさせ、末尾の運命論も、さすがというしかない。
 実はこの年二月、翁は賞勲局から「緑綬褒章に付すべき飾版」が授与されている。そ
の祝いでないと強く否定するが、胸底では生花苗の隣人がいたからこその、感謝の念が
こめられていた。




 勉三こぼれ話E (伊豆新聞・平成十二年十一月二十五日掲載)

    「マルちゃん」の依田勉三賞

 本棚を久しぶりに整理していると「ほっと・いず」が、顔を出した。これは松崎町、
西伊豆町の有志が中心となって発行していたミニコミ紙である。パラパラとページをめ
くると、「帯広紀行」と題する一文に出会った。平成七年五月発行のもので、筆者は 土
肥町出身、東洋水産勤務の勝呂出氏である。
 本文の内容は、氏が「マルちゃん杯北海道少年柔道大会」の準備、運営のためと、帯
広市長より森和夫社長への感謝状贈呈式に立ち会うため、帯広市へ赴いたことが書かれ
ていた。
 贈呈式は、「帯広百年記念館」で行われた。その帯広市の 感謝するところは、森氏が
勉三翁の自筆の書簡など、貴重な資料を寄贈したことへの御礼であった。
 それが終了すると、勝呂氏らは館長の案内で館内の展示物、市内に点在する晩成社ゆ
かりの地を訪ねている。
 「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」の句が刻まれた入植記念の碑、帯広神社前の銅像な
どを見た感動が素直に伝わる文章であった。
 その末尾に、今回(平成七年)で九回目を迎える「マルちゃん杯北海道少年柔道大会
は、全道より小・中学校九百名、百二十六チームの参加を得て、盛況裏に終了した。な
お、将来を担う子供たちの心身の訓練と健全な育成を目的とする本大会では、その精神
を称え、優秀選手特別賞として「依田勉三賞」を設けている」と、結ばれていた。

 そして、最近「依田勉三賞」の主旨文を入手した。
  一八五三年五月十五日生まれ 静岡県松崎町出身
  一九二五年十二月十二日没  享年七十三歳
   依田勉三は、伊豆の自然に恵まれた山里に生まれたが、東京へ行き慶応義塾に学
   び、その時、北海道の開拓が必要なことを知りました。一八八二年晩成社という
   会社を創り、開拓の準備を開始しました。一八八三年の春、二十七名の伊豆の人
   々と下帯広村(今の帯広市)へ向かい、荒れ地と自然条件と闘いながら開拓を進
   め、十数年後、水田をつくり、苦労の末やっと米作にも成功しました。
   その偉大な功績を記念して、マルちゃん杯北海道少年柔道大会では敢闘した選手
   に授与すべく「依田勉三賞」が設立されました。
   なお、極力十勝地区の入賞チームより選出するという、内部規定もある。

 マルちゃんこと、東洋水産創業者森和夫氏は、西伊豆町田子出身で、豆陽中学校(下
田北高)卒業者である。現在も父、故 森和平氏が 創業した「田子製氷」の名を残し、
郷里で営業していることは賞賛に値する。また毎年、真鯛、平目の稚魚を放流して、漁
業の振興にも尽力している。前述のように、森氏が勉三翁の崇拝者であることは言を待
たない。
 私は平成三年ごろ、翁の日記「十勝拓殖史」(萩原実編)発刊の 手伝いで苦慮してい
た。手当たり次第、八方に手を尽くしたものである。だが、たった百冊の部数しか発行
しなかったのだが、なかなか売りさばくことが出来なかった。そんな折り、森氏が三十
冊近くを購入してくれて完売出来た。これほど有り難く、うれしく思ったことはなかっ
た。氏は各支店へもれなく贈ったという。
 また、伊豆新聞にも宣伝文まがいの記事を載せていただき、相当数をカバーさせてい
ただいた。当時、伊豆新聞松崎支局長の志田記者に高額のご寄付をいただき、勇気づけ
られた。そして、高橋幹夫帯広市長(当時)に直訴して協力をいただいた。
 今ではそのような萩原先生に対し、出版の協力した思い出が懐かしい。
 だが、私には どうしても、森和夫氏への糸口を得たのか、記憶がないのである。「拓
殖史」の縁で、「ほっといず」を送るようになり、勝呂氏がそれに寄稿し「依田勉三賞」
を知ったことだけは確かである。
          


 勉三こぼれ話F

    新選組・道之助は勉三と関係あった     
 
 南伊豆町加納在住の郷土史家に「新選組・道之助は本当に加納出身者か」聞いたが、
「判らない」とのことであった。
 そこで図書館へ送本するついでに、ダメ元と教育委員会に尋ねてみた。ナシのつぶて
であきらめた矢先、学研発行「歴史群像シリーズ 72」「新選組隊士伝」のコピーが送
られてきた。
 それは高橋敏先生(国立歴史民俗博物館教授・下田市出身)が書かれた「百姓道之助
が隊士加納鷲雄となる道程」の サブタイトル、標題は「『武士になる』とはどういうこ
とか」の一文であった。
 その「ペリーショックと少年道之助」の項に「天保十年(一八三九)十月九日道之助は
伊豆半島南端の山また山の村、伊豆国賀茂郡加納村の農家に生まれた」また「百姓高野
伴平の長男」とあり、これで南伊豆町出身者であることが証明されたことになる。
 興味あるのは、ショックを受けた少年が攘夷を志し、江戸・於玉ヶ池の千葉道場で剣
術学び、新選組や赤報隊に加わる道程である。また、流山で捕囚となる「大久保大和」
と名乗る近藤勇を検分して看破することだが、ここでは「依田勉三と関係あった」こと
に触れたい。
 再び高橋先生の文章を引用するが「以降、加納は薩摩藩に属して戊辰戦役を東北各地
で戦う。明治元年(一八六八)十二月東京に凱旋、薩摩藩召し抱えになるが、新政府発
足にともない北海道開拓使となって出仕する。このとき加納通広(みちひろ)と三度目
の改名、これが終生の名乗りとなる」とある。
 加納が開拓使となったことから、勉三とも関係あるのでは?と、私は睨んだ。また、
晩成社開拓団の大半が南伊豆町出身者であることも不思議であった。
 そんなことから改めて「晩成社・十勝開発史」を読み返した。勉三が明治十五年、銃
太郎と開拓地選定のため二度目の渡道をする。まず札幌の開拓使庁へ寄り、石狩地方の
状況を聞く。この時、渡瀬寅次郎という同県人が十勝地方を巡回してきたと聞く。これ
も十勝へ傾倒する端緒になったかもしれない。だが、渡瀬はバッタ被害の惨状を見たこ
とだし、石狩地方の開拓を勧めたことはいうまでもない。それでも勉三は十勝に入り、
七月十五日、オベリベリ(帯広)を開拓地に決定する。
 この時、翁は札幌の開拓使庁で道之助に会っている。私は「加納君」とだけあり、見
落としていたのだ。日記に「六月二十四日晴、早旦行李を装うの時、加納君の来訪を辱
うす」とある。また、十勝選定後、勉三だけ札幌に寄り「八月十三日(九月三日まで)
県庁(札幌)に出て官邸伺い、ひとえに庁議を促し指令を待つ。加納氏、本社のために
最も周旋す」とあった。また、その注意書きに「加納通広氏、勉三と同県人、種々奔走
し最も功あり。初め氏は翁に十勝の開拓を諫め、札幌近郊への移住を勧めたという」と
ある。
 なお、晩成社株主・影山増太郎、山田要助、勉三の親友・大野恒哉も南伊豆町のひと
である。まだ調べなければならないが、加納通広の影響があってのことであろうことは
想像に難くない。
 あきらめず、アンテナは張っているものである。一仙の加わる高松隊は赤報隊と類似
した部分が多い。やがて道之助と一仙が結びつくかもしれない。