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自己紹介にかえて(平成9年7月31日・教育新聞に掲載)
巡り合わせの妙
「お前を中学しかやれなかったのは、俺の一生の不覚だった」と、親父は酒を飲んで
はいたが、潮焼けした漁師の顔を涙でぬらして言った。
その頑丈な心身は壁で、理不尽が親父の代名詞だと、私は決めていた。老いたとはい
え、こんな姿は見たくはなかった。
面食らった私は、両手をついた親父の手を握りながら、
「いや、俺の中卒は俺の財産さ。今の人格は大学を出ていたらないよ。ここに座ってい
ることさえないさ」と、感慨の溢れを抑えて言った。
私の中学校時代の校長は、歌人としても有名な須田昌平先生である。人づてではある
が、私のことを、
「もう少し心臓(度胸)が強かったら、弁論大会に出してやりたいが……」と、言った
という。
直接より間接に聞く言葉の方がうれしい。無限の広がりをもって、私の一生を包み励
ましてくれる。
私は、どちらかというと優等生に思われがちだが、人一倍コンプレックスが強い。だ
から、例え子供の言葉にも、それなりに頷くことができる。こんなことからも、本当に
よい師、よい友に出会えた。
実は、こうして本欄に原稿を書けるのも、本紙の過去が介添えのお陰といえる。たぶ
ん本欄には、十勝開拓の聖・依田勉三の研究家の萩原実先生、伊豆を愛する会長の荒尾
達雄氏も投稿していよう。 ある日、萩原先生から、
「伊豆に造詣深い一文をものにされている、荒尾氏の住所を知らせて欲しい」と、手紙
が舞い込んだ。教育新聞の記事を読んでの問い合わせであった。
その頃、私は須田先生の力作、伊豆の長八の伝記「お工伝」の販路を求めていた。脱
稿したものの刊行できない師のために、ひと肌もふた肌も脱いだつもりだ。
不純な動機だが、その売り込みのために伊豆を愛する会員となった。
なお、伊豆を愛する会が解散したのは昭和六十一年の秋だった。翌年五月、その「愛
豆」の心を引き継ごうと、ミニコミ紙「ほっとらいん」、後に「ほっといず」を発行し
た。以来、十年間、一千八百五十号(頁)、原稿用紙にすれば二万枚の発信をしたこと
になる。
この執筆レギュラーに、静岡県草笛の会の溝口忠博会長がいた。彼が本欄に書かれた
その紹介で私に縁が生じ、こうして筆を持っているのだ。
私のライフワーク「小沢一仙」の出会いも、荒尾会長の一言だった。
「同じ郷土の人間なのだから、調べてみたら……」との言葉に、二十年間近く追ってい
る。宮大工、無難車船の設計・造船、琵琶湖運河を加賀藩に提言、着工寸前で維新の風
に放って、公家高松実村を総帥として、甲州街道の鎭撫隊「高松殿」を組織する。そし
て、偽勅使として慶応四年三月十四日に打ち首となるのである。行動をともにした実村
や、館林藩の「名将言行録」の著者の岡谷繁実は、その後明治維新の功労者となる不思
議さである。山梨県側の理解が待たれる。
またこの秋、私は県教委の「葵学園」の講師を務める。そこで一仙の冤罪を訴えるつ
もりである。蚤の心臓の私がひとに分かる話が出来るだろうか。遠くで須田先生の声が
聞こえるような気がする。もとはといえば中卒の縁、巡り合わせの妙である。
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