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《小 説》(昭和61年作品)
つわぶきの母
野 草 洋 二
伊豆堂ヶ島の磯辺に、昭和天皇の行幸の折に詠みし歌碑がある。
「たらちねの母の好みしつわぶきはこの海の辺に花咲きにほう」
雲上人も、我もまた母への思い同じなる。
白波寄せ来る 荒磯の
小さい日だまり 咲いた花
母なる命 空に伸ばして 黄い花
海に山に 吾子(わこ)のため
糧(かて)を求めて ああ つわぶきの母
我が母よ ああ……
神よ仏よ なかりしか
不治の病の 祈りびと
母なる命 深い緑に影ひそめ
伏してぞさえ 吾子のため
命の尊さ ああ つわぶきの母
我が母よ ああ……
死に様は生き様 慕い来る
幾重の人垣 包まれて
母なる命 瞳澄みて言葉なく
何をか語らん 吾子のため
命を燃やして ああ つわぶきの母
我が母よ ああ……
桜の葉もブナの葉も、昨日まで続いた雨を含んでみずみずしかった。X光線にでも透
かされたように、葉脈までくっきりと見えた。そして時折、太陽は、風が揺らす葉と葉
の間から、キラっと顔をのぞかせた。
昭和六十一年六月八日午前のことである。わが母が煙となって昇天していく。山間の
火葬場で、肉体も記憶も焼かれているのだった。
何時かはこんな時が必ず訪れる。失神するほどの深い悲しみに襲われる。そして、涙
が滝のように流れ落ちる。と、予想していたのだが、さほどの悲しみは不思議と湧いて
来なかった。
私は、何度も「お前のお袋は逝ったんだぞ」と、己に言い聞かせるのだが、涙は出よ
うとしなかった。ただ周囲の人たちに「生前中は本当に有り難うございました」と、た
だ頭を下げまくっていた。
車二十台、六十人もが火葬場まで見送りに来ていた。遠くからの縁者も駆けつけてく
れて、賑やかであった。
死は、生れ出ることより大きな事業であることは、二年半前、四十九歳で早死にした
兄の時、すでに私は学んでいた。
母の死に様は、立派なものであったと思う。一生懸命に生きようとした結果の死であ
った。病床にあっても、出来るだけ他人の手を煩わせまいとした。下のものもベッドを
下りる時ひとの肩を借りたが、床に置かれたポータブルで用を足した。
紙オムツをつけたのは、口から一切の食べ物を受けつけなくなってからで、三日ほど
であった。しかも、それは汚されることはなかった。
その前、一度だけ便が緩み粗相したと、母はベソをかいた。腹膜炎のむくみが顔まで
きて、その潰れた目から涙をこぼした。
また、付き添いの人がいない時、点滴ばかりで意識が朦朧となったのだろう、枕元に
置かれた見舞いの品に、
「何時、誰が来てくれたのだろうか、その人に悪いことをした」と、ベソをかいた。
胃も食道も、膨れた癌細胞で狭まり、食べたものが思うように通らず、苦しいはずな
のだが、その方は我慢をして涙を見せなかった。また、腹膜炎で水ぶくれになり、思う
ように動かない体にも愚痴をこぼず、さすってくれる皆に、
「すまないなあ、すまないなあ」を、連発した。
死の恐怖もきっとあったに違いないが、弱気は吐かなかった。病いに冒されても、私
たちに何かを教え続ける母であった。
家族をはじめ、母を取り巻く多くの人たちは、よくぞと思われるほどに看病をしてく
れた。メーンとなった亡兄の嫁、新婚の甥夫婦、嫁に出る寸前の姪、また、八十歳を超
えた父もおろおろとしながらも見守ってくれた。
母の妹である二人の叔母も、その一人は横浜からたびたび顔を見せた。そして、私た
ち兄弟三人と、その妻達……。
後でも触れるが、乳飲み子の時に母から切り裂かれた姉も来てくれた。それに親類や
近所の大勢に囲まれて逝けたのだった。世話好きであった母の徳が、よく現れた死であ
った。 それにしても、母の危篤の状態がいま少しでも長引きでもすれば、看病疲れで
倒れる人もあったであろう。また、その家族、その職場にも多大な迷惑をかけたであろう。
徹夜二つで母は逝った。母自身も病の苦しみ、死の恐怖、看病されることのすまなさ
から解き放されたのだ。互いが程よいところで手が打たれたのだと感じた。そのことが
木葉のみずみずしさを私の心に映えさせたのであろう。
施主となるべき兄は他界していた。私は次男で、他家に婿入りしていたが、せっかち
な性癖で、今日の葬儀が無事に済んでくれることを、ただただ念じていた。
重油の炉で、一時間半ほどで母は骨となった。小柄な母にしては多い骨の量であっ
た。働き続けて骨太になったのであろう。火葬場に来てくれた男と女は、別別の列を組
み、竹と木の一本づつの箸を持ち、互いに挟み合っては壷に入れるのだった。最後に丸
みを帯びた頭蓋骨が乗せられた。そして、戒名が書かれた紙を入れ、壷の蓋は閉められ
た。
母の戒名は「光風院日常信女」、俗名は「つね」であったので、それも織り込まれた
言い得て妙な名であった。それにこの日の風にふさわしいものであった。
早いか遅いか、ひとは死ななければならない。母もこの一大事業をなし終えたのだ。
私は、良いことのみを思い起こそうとしていた。
今春は、孫たちに良いことのラッシュが続いた。命短い祖母を安心させたい、神とい
う演出者が存在するようであった。第一に家孫に嫁が来た。また、孫娘にも婚約間近と
なり、相手の婚約者とも話すことが出来た。私のひとり息子も高校の教師になることが
出来た。次弟のところでは、上が製菓の家業を継ぐことが決まり、下は高三だが進路を
はっきりさせていた。そして、末弟のところの二人は、小学校と幼稚園に同時に入り、
ピッカピッカの服で祖母の母の周りを跳びはねたものであった。
苦労性で、働き詰めの人生であったことは、誰もが知るところだ。幸福者だったとは
お世辞にも言えない。だが、一生懸命生き抜いた人生、良い人たちの取り巻きに恵まれ
た人生であったと、私は解釈したいのだった。最善でなくても次善ぐらいの人生だと考
えたかった。
遺骨を先頭に、車は連なって山道を下った。お日様は、車一台一台を浮き立たせた。
厳粛な行進をさせ、葬儀への段取りへと向かわせた。
その後、友人への手紙に、私は「母の死は悲しさを感じず、すがすがしくもあった」と
書いた。
しかし、月日が経つにしたがって、母の無限に澄んだ瞳が、再び瞼に浮かぶようにな
った。亡くなる二日前より言葉を失った時の、こちらに向けられた瞳である。何を語ろ
うとし、何を聞きたかったのであろうか。ガンであることを告げていたら、もっと違っ
た終わらせ方があったようにも思えて来るのだ。
母に胃ガンであることを告げることで、こちらが聞きたいことも、母の方も言い残す
ことも、やり残すこともなく逝けたのではということである。互いが遠慮し過ぎて終わ
ったように思えてならなくなった。あの気丈な母なら、一時的ショックはあったにせよ,
大丈夫だったはずだと、ますます未練がましくなるのだった。
厚生省がまとめた「保健衛生基礎調査」によれば、もし、自分が胃ガンだった場合、
知らせて欲しいという人は五十六・八パーセントに達していた。また、週刊誌にも浜松
聖隸病院のホスピスのことが載っていたが、患者は己の病気を知り、短い命を存分に生
かすということであった。
もし、兄が存命だったなら、私は率直に告知することを勧めだろう。これは、血を分
けた子供であっても、家族でないものが推し進めることの出来ない問題であった。やは
り常識の枠からはみ出せなかった。先ほどの厚生省の調査も、家族が胃ガンと判明した
場合、「本人に告知」は十九パーセントに過ぎなかった。
私は、日々の生活の中の躓きに、初めは、もし母がいたらどう思うだろうかと、母の
心で推し測ろうとした。五十歳になっても、私は母に何でも話して教えを請うていた。
母は黙って聞くだけで、答えはくれなかったが、これだけで心が鎮まった。今はそれが
出来ない。死後に「魂」というものがあるのかも、母に聞いてみたいことの一つである。
しかし、仏壇に手を合わせるのだが、その写真はただ笑っているだけであった。
だが、徐々に慣れつつある。時間が心の傷の薬になるのだ。あれだけのウエイトを占
めた母がいなくなっても、平穏に生きられることが不思議でならなくなってくる。
私は、東京と沼津での七年間を除けば、 身近に母の影を感じて生きて来たつもりであ
る。しかし、戸籍謄本の文字を追っていると、肝心なことを知らな過ぎることに気付いた。
昭和三年に、母は生まれ在所の集落の人と十九歳で結婚している。その十三カ月後に
女子を出産。その翌月に離婚していた。母は、その子を引き取って育てたかったが、嫁
姑や家と家の確執があり、乳飲み子を置き去りにする結果となった。
今にして思えば、このことが母の一番のネックになっていたように思える。そして、
それがエネルギーになって、こまねずみのように働き続けたと思えてならない。
戸籍上では、わが父と昭和六年十二月九日に結婚している。翌十月、姉が誕生してい
るので、出産直前での入籍であった。酒を飲むと、唾をはくように、父は「出戻りだと
知らずに結婚した」と言ってなじるように責めていた。そのこだわりが入籍を遅れさせ
たのかも知れない。でも、そのなじりは、完全にことをなす母への嫉妬のように私には
思えた。 父は、次男坊の分家で、本家の長屋で所帯を持った。母屋と長屋は、目と鼻
の先で雑居家族のようなものであった。本家の子供は、姉より半年ばかり前に生まれて
いたが、母の乳房はその二人が片方ずつ含んだという。その頃、はやり病があり、二人
とも幼い命を落としてしまったという。
姉は、八ケ月の短命であったが、利発な子であったと、ことあるごとに母は言った。
母が背負い商いから帰ると、それぞれの銀貨をより分けたという。そして、後から生ま
れて来たのは、みんな男の子であった。七人を身ごもったが、その姉は亡く、二人を流
産して男の子四人が育った。
母は、女手ひとつで子育てをし、家事、商い、百姓に、またひとの世話にも人一倍精
を出した。「苦労の娑婆だから」これは母の口癖であった。少しの愚痴はこぼしても、
逃れることは決してしなかった。
両親は一代で、家屋敷を買い、田畑を求めていくことは、並大抵なことではなかった
はずである。父は、漁師をしていたが、特別に漁をする船に乗ったことはなかった。だ
から母の内助の功があったればこそのものであったと、私は思う。
知人が、母への弔辞の中でも「女・二宮金次郎」と、いみじくも言っていたが、朝三
時に起きて飯を炊き、弁当を作って父を沖に出すのだった。
父は、四十歳過ぎになってから、遠洋漁業の船から降り、沿岸漁業に変わっていた。
動力をつけたのはごく最近で、櫓こぎ船であった。いつもは浜に上げられていた。船は、
全身の力を肩に集中させ、シラ(修羅)という丸太の上を滑らせた。下り勾配とはいえ、
二人の力では限度一杯の作業であった。波と波の間のタイミングを計って海の上に乗せ
るのは容易ではなかった。少しでも上手にいかないものなら、漁師特有の荒い言葉で怒
鳴る父である。シラを先へ先に敷きなおしながら、浜を降りて行く。船を海へと押し出
すと、今度はシラを片付けなければならない。波が荒い時は大変なことであった。それ
が沖に流されないために格闘するのである。身の丈一メートル四十ほどの小さな母は、
着物の裾を端背負いながら、ずぶ濡れになってシラを上げるのだった。もし無くなろう
ものなら、手を上げんばかりの父のけんまくが待っていた。シラは樫の木で作られ、滅
法重いときている。それを満潮になっても、波にさらわれない所まで引き揚げなければ
ならないのだった。
父を沖に送り出し、ごろりと横になるでもなく、今度は水田の見廻りである。かなり
の道程を歩いて行く。田は水尻で、水上から少しづつ誘って行かなければ、水口を越え
田を潤わすことは出来ない。日照りが続けばバケツで汲み込まなければならなかった。
それが済めば畑に入るという具合である。
母は、時計を持ってはいなかったので、何で時を推し測ったのであろうか。子供が学
校に出掛ける頃は、一緒に飯を食べるのだった。そして、掃除をし、洗濯はタライの中
で洗濯板でごしごしとやるのである。次々と仕事が顔を出すのを、母は追っかける風で
あった。 また父は、魚の釣れ具合で一定の時間に沖から帰ることはない。母は陸にい
て空の雲を見、風を測る。そして、昨日までの漁の具合、朝見た波、潮の色を総合して
勘を働かせて浜に出るのだ。そのやり繰りは大変なものであったろうと思う。船が浜に
つく前に、必ず出なければならないのである。もし、タイミングが狂おうものなら、独
りだけ仕事をしていると思う父の烈火のごとき怒りが待つのであった。
船は、足を砂に食い込ませて力の限り押し上げるのである。ほかに人がいれば手伝っ
ては貰えるが、二人の力ではきつい作業であった。
釣ってきた魚は、計算高い父の指図で市場には出さず、母は街中を竹で編んだ籠を背
負って出掛けた。市場手数料もなく、新鮮間違いなしなので、得意先も決まってすぐに
売れたが、魚の重さは肩に食い込んだことであろう。
そして、父に酒を買ってあてがい、また、畑仕事に向かう。その間にはお節介の性分
もあったので、ひとの世話をよくした。ひとから頼まれると断れない性質であった。あ
れでよく時間のやり繰りが出来たものだと不思議に思えてくる。あれは、思った仕事は
すぐやり、後に取り残さなかったからであろう。
また、母は夜更けまで内職仕事や針仕事をして、子供には寝姿を見せることはなかっ
た。疲れがなかったわけでもなかろうが、仕事と闘うことでそれを組み伏せ、気を紛ら
わせる風であった。そして、一番鳥と一緒にした「ああ、あー」の大きな溜め息は、疲
れを断ち切り、新しい辛さに立ち向かうためのものであった。常日頃、「この世は苦労
の娑婆だ」と言ったが、その呪文のようなものであった。
母は、陰日向なく生きた人であった。それが「この世は苦労の娑婆」という表現を生
んだのだ。あの姿勢を貫くには、せいぜい七十七歳が寿命なのかも知れないと思うこと
がある。その魂が家族に、私たち子供に、引き継がれているかというと、さほどでもな
い。母の一生は何だったのか、私は仏壇に手を合わせて語りかけるのだが、遺影はあの
無限に澄んだ瞳のままで、何も答えてはくれしない。
七十七歳が限度の命と納得してみても、今では葬儀の時のあのすがすがしい心境は還
ってはこないのだ。
母の口から「魂」とは何か、生きたということは何であったのかと問いたいのだ。
「ガンであることを告知していたら」と、また、後悔の念が頭をもたげるのである。
私の迷う脳裏に、また、この一年余の母の姿がよみがえる。私にとっても実に気の重
い月日であった。
説明があると、医者から呼び出しがあるたびに、私の心臓は収縮した。逃げ出したい
衝動にかられた。だが、兄がいないので「俺がやらなければ誰がやるのだ」と、心に言
い聞かせて辛うじて踏みとどまった。
母の病状らしい始まりは、「食べても食べても腹が減ってしょうがない」ということ
であった。ふだんの母に似ず、行儀の悪さを承知の上で寝床にムスビを持ち込んだほど
だという。これはただ事でないと思った母は、N医院に足を踏み入れた。血圧などを測
り、ちょっとした問診で「食べられなくて医者に来る人はあるが、食べれて困って医者
に来た人は皆無だ」と、笑われたという。
母がその医院を選んだのも、待たずに診てもらえるからであった。こんなところにも
働き者の性格が災いしている。本当に何が命を縮めのか分からなくなる。それは、亡く
なる一年半ほど前の秋祭りの頃であった。
それまで母は、病気らしい病気はしなかった。だが、医者嫌いであった母も、医者の
笑いごとで済まされないと悟ったのだあろう。二カ月ほどして、次のK医院で診てもら
った。ここは混む医院で、師走も押し迫りレントゲン撮影が出来ずに「胃炎」だろうと、
軽く診断された。
年が改まり、再度医院へ行くべきだったろうに、兄の三回忌もあり、すぐには出掛け
なかった。
その頃、私もレントゲンの結果、「胃炎」と診断されていた。同病と判断して、私の
もらった薬を「これを飲んでみたら」と手渡した。これも手遅れの原因になったと思え
てならない。
もし、遠洋の漁師でも、留守になりがちな兄でも、気配り上手な彼がいたなら、母の
病気は、ここまで手遅れにならなかったはずである。 私が、胃炎の薬を手渡さなかっ
たら、食べ過ぎを医者に嘲笑されなかったらと、次々と悔いが充満した。
春になると、今度は逆に「食べれない、喉につかえるようだ」と言い出した。それを
聞くと、私は寿司の折りを持って見舞った。刺し身の ひとつをつまむのが精一杯だっ
た。仕事には今までどおり精を出していたので、気分だけで治るだろうと思っていたの
だが、さすがの私も、これにはいささかショックを受けた。医院へ行くようにすすめて
別れた。
母が再び病院を訪れ、レントゲンで胃を撮るという日である。仕事をしていても、バ
リウムを飲まされ、X線カメラの前で体を揺り動かされているかと思うと、同じ苦痛が
私の心を痛ませた。
昼すこし前、病院の近くに住む弟から電話があった。
「飯を食ったら来てくれ」と、だけ告げた。それは日頃とちがった語調であった。変な
胸騒ぎがして、涙が落ちそうになった。
弁当を味気なく噛み、自転車のペタルを踏んで弟のところへ向かった。この次弟は、
実家の隣で、製菓の自家営業をしていた。
兄嫁は、仕事の関係で留守になりがちな関係でで、情報はここに集められた。私を
見るなり、
「おい、大変だ。医者が三時に来いって言っているぞ」と、早口で言った。
私は、予想してここまで来たのだが、体中の血液が頭に駆け昇るのが分かった。
私は、ずっと健康であったためか、医者嫌いのためか、入院したことがない。兄の亡
くなる時は、母がいたからいいが、次男の私の肩にずっしりと重たいものが乗せられた
ように感じられた。これから未知の暗い日々の連なりが予想された。
三時少し前、タイムカードを押した。
「ジイー」と、妙に大きな音で数字が打ち込まれた。職場の人間には内密な外出である
ので、その音を何かで覆いたい思いであった。
医院へは二人の弟も同行した。医者は、これから重大発表をする顔ではなく、
「さあ、ここに腰かけて」と、私たち兄弟に椅子をすすめた。
手早く、光源が裏から投げられるガラス板に、二枚のフィルムを貼った。恐怖におの
のきながら上目使いに見る私の目にも、骨と胃が写っていることが分かった。
立ったままの医者は、平静な声で、
「さあ、こっちを見て、随分変形していることが解るでしょう。こっちが通常の人の胃
です」と、対比させた。
フィルムナンバーを間違え、右側のが母の胃だと思いたかった。
「さあ、ここを見て!、胃の内側です。親指ほどしか開いていないことが分かるでしょ
う」と言いながら、医師の親指は母の胃の陰に押し当てられた。
そして、なおも冷静に「かなり深部まで進行していると考えて下さい」と、宣言した。
ガンという直接的な表現は避けたものの、私達に鉄槌をくわせた。 「私のところには外科施設がありません。紹介状を書きます。S病院でも、J病院でも、
M病院でも、皆さんで明日までに決めて来て下さい」と、救いのある言葉を残してはくれ なかった。 それは医師には責任がなく、外科医と私達に、病む母を放り投げてきたように思えた。
私たちは、うなだれ言葉もなく病院を出た。外は雲が低くのしかかっていた。行き交
う人とは別世界の人に思えた。挨拶されても虚ろに応えるだけだった。
「あれだけ働き通した母だったんだぞ。正直に生きて来た人間なんだぞ。やさしい親
切な心の持ち主なんだぞ。信心深いお袋なんだぞ。えりにえって、なぜ母を」と、拳で
雲を突き破りたい、衝動にかられた。
母の七十六歳になった日、言い直すと誕生日の一日前、昭和六十年五月十六日、兄嫁
と次弟夫婦、私の四人が付き添って、南伊豆の外科施設のある大きなM病院へ向かった。
受付の時間を見計らって、私たちは午前八時半に出発したのだが、母は、四時半に起
きたという。田植えが近づいているので、小さな升目が無数にあるプラスチックの苗床
に土を張り、籾種をおろしたという。どこまでも働くのが好きな母であった。
車に乗り込む母の顔は、いつもと変わらなかった。しかし、先に述べたレントゲンを
撮る前日、少し離れたI集落の生家の墓前にぬかずいていたという。それを墓守りをし
ている叔母が、小声でささやいてくれたことが思い出された。
母は、何かを予知している。何でもないという顔で死の到来を悟っていると思うと、
私たちは身の引き締まる出発となった。
酒を呑んで怒鳴ることを常日頃としていた父は、本当は小肝な男である。母の存在が
自分の半分以上を占めていたが、男の虚勢を張り続けた男であった。母に甘え通して八
十歳になるその父は、心配げに二階の窓からこちらを見ていた。素直に己の心を表現で
きない明治の男であった。
私と弟とが運転する二台の車は、下田を経由してM病院へ向かった。病院は国立で、
奥伊豆では珍しい五階建てであった。このような総合病院が身近にあったなら、こんな
に気の重い入院にならずにすんだろうにと、悔いがまた私の心に充満した。
病院に着くと、少し診察され、四階の二人部屋があてがわれた。同室の人は、黄疸症
状がひどく、母と同年くらいの老母であった。その枕元には爺さんが、途方に暮れた顔
で看病していた。
私たちは狭い病室でもあり、ここに長居はできなかった。同室の者が重病なのが気掛
かりだが、母を落ち着かせてから帰路についた。
毎日のように、親族の誰かが片道一時間をかけて、入院の母に会いに行ってくれた。
そして、見舞いの客は後をたたなかった。
数日がたって私が訪れた時、同室の老母は「うん、うん」と、大きく唸っていた。
母は、私の顔を見るなり、
「部屋をかえるように、頼んでくれまいか」と、言った。
気のやさしい母は、隣人の痛みが我がことのように苦痛となったようであった。
入院したこともなく、医者に対して素人?の私は、病院から言われたことは絶対だと
信じ切っていたので、ナースステーションへ行き、ためらいながら頼んだ。
すると、こんなことは日常茶飯事とばかりに、 あっけなく六人の大部屋に移してくれ
た。母の顔は、みるみる明るくなった。
手術は、手遅れにならない、一週間ぐらいのうちに行われると期待したが、なかなか
行われなかった。そのため私たちは焦燥にかられた。
主治医より呼び出しを受けたのは、入院してから九日目であった。医師は、外科医ら
しく白衣の襟をはだけ、兄嫁、次弟、私の三人に説明をした。気忙しそうに、こちらの
気持ちを落ち着かせる気遣いはなかった。そして、小さな黒板に、白と赤のチョークを
使って胃の形を書いた。やはり患部の赤いチョークが相当に広がっていた。
帰路は雨になっていた。前の車のテールランプが、濡れた路面ににじんでいた。
「レントゲン等の検査ではどうとも言えぬが、手術はやってみましょう」との、医師の
言葉がよみがえってきた。
恩つけがましい言葉であった。その裏には確率の低さがほのみえていた。母の一生の
幕引きの形を整えてやると言わんばかりであった。しかし、私たちにとっては、何も手
を施されないより、低い可能性をも信じたい、藁をもすがりたい心境であった。
手術日は、説明の日から二週間も後の六月七日であった。十人もの人間が心配そうに
駆けつけ、皆は病室で母を激励した。点滴やら注射などはその前で行われたが、浣腸の
時は、私たちは外に追いやらされた。
やがて母は、手術を受けるための服と帽子をつけ、ベッドに乗せられてやって来た。
私たちは黙ったまま、エレベーターのところまで母のベッドと一緒に歩いた。
母が手術室に入ったのは、午後一時であった。手術室の前の椅子で十人は待った。そ
して、手術が長引いてくれる方が、成功の可能性が高いと信じた。腹を開いただけで終
わる短い手術は、あってはならないと思った。
私は、じりじりとして、そこに座っていることが出来なくなった。そっと皆より離れ
て病院の外に出た。うす曇りなのだが、六月の重い太陽は私にのしかかった。また、地
表からも、草いきれがはい上がり、私の顔はみるまに汗まみれとなった。
私の背後に平屋の手術室が見えた。あの中で、いま母の体は切り開かれている。立ち
止まって見守りたい心境なのだか、足は自然に動きだした。そして、いつか楠の巨木の
繁る神社の前に出ていた。私は、素直に母の手術が成功してくれるようにと手を合わせ
た。
長い長い間、外に出ていたように思えたが、病院に戻ったのは一時半だった。座ろう
とした瞬間、看護婦が来て医師が呼んでいると伝えた。
あまりにも時間が早すぎる。これでは手術の成功は覚束ない。いや、これは母の命に
異変が生じたのだ。と、私の血液の全部は頭に駆けのぼった。
母の着衣と同じ色の手術着の医師は、目聡く私の履物を見た。そして、
「入り口に、上履き厳禁と書いてある」と、厳しく叱責した。
先制パンチをくわされた私は、何がなんだか分からなくなった。この年齢になって、
何につけて無知で、翻弄され続ける自分が情けなかった。彼は外科医らしく頑強な体型
から発するその語気は強かった。私より遥かに若いだろうが……。
手術室のドアの中に入れらたのは、私を含めて三人だけだった。その前に、ポラロイ
ドの開腹写真が見せられた。血がのぼった私の目には、それがどこの部分か見当がつか
なかった。
「開腹したが、手遅れでした。既に食道まで転移していたので、胃の患部の摘出は出来
ませんでした」と、あっさりと医師は言った。
私は、今日が仏滅であることを知っていた。気休めに「やっぱりか」と、自らに言い
聞かせた。そして、三人は手術室を出た。
やがて外で待つ私たちの目の前を、看護婦の動かすベッドがやってきた。それには母
が乗っていた。麻酔が効いているのだろう、目は閉じられたままであった。時折、看護
婦が頬を打ち、「おばあちゃん、おばあちゃん」と呼び、意識の回復をうながした。
目を閉じたままの母の心は、この手術の結果をどう意識しているのだろうか。私の目
はうるんで何も見えなくなった。
今度、母は病室が集中治療室に変わった。夜になっても母の意識は、薄らいだままで
いた。酸素吸入のマスクの中で、どんな夢を見ているのだろう。閉じられた瞼の中で眼
球が動いた。
私は、また嘘をつく用意をしていた。母の目が覚めたら、
「手術は大成功だったよ」と、の言葉と笑顔を用意した。
そして、自動的に測りだされる血圧と、心拍の電光数字を私は素人判断して、外で待
つ人たちに報告した。消灯間際の制限時間まで皆は残ってくれた。
付き添う兄嫁と叔母を残して、後ろ髪ひかれる思いで私たちは病院を出た。
母を見殺し出来ないと、これまで親族、知人は、はてしない評定をした。鍼、灸、信
心めいたものまで飛び出た。また、他の病院に移し、週刊誌などに載っていた新薬を試
したらなど、議論は百出した。
母の唯一の孫娘は、丸山ワクチンを提案した。祖母を気遣っていろいろ本を読んでい
たのだ。このワクチンをもらうには、医師の紹介状とカルテが必要だった。この丸山ワ
クチンについては、医師間でも意見の分かれるところであった。
これに好意を持たない執刀医師を説得するために、私は手紙を書いた。面と向かって
説得することは、相手が嫌な顔をされると、私の心の矛先が鈍る性格なので、この方法
をとったのだった。肉親の情を込めて一生懸命に私は書いた。
このワクチンを手に入れたのは、術後二週間ほど経ってのことだった。
食べれなくなったら再入院すること、最末期には腹膜炎を起こすこと、たぶん激痛に
見舞われるであろうことなど、希望のない言葉を並べられての退院であった。
母の五十日余の入院の間に、母が最も気にしていた田植えは終わり、自動車の窓に映
る田圃は緑に輝いていた。その間の道を、母を乗せた車は走った。
何でも気掛かりなことは早めに済まさなければならない母は、七月下旬に「快気祝い」
をさせた。私は、そのお返しとそれに添えた赤飯を配りながら、赤飯が奇跡を生んでく
れるようにと祈った。
だが、母の食欲は元に戻ろうとはせず、徐々に体力が落ち始めた。八月末より家の近
くのK医院での点滴が始められた。
あと母は幾日生きられるのか、絶えず私には母の命がひっかかり続けた。
そんな十月中旬に、家の稲刈りが始められた。母は、じっとしていられなくなり、田
圃に出て稲を束ねたという。無理に元気なところを見せようと、痩せた体で気を張る母
であった。 私は、母がけだるい様子をしていても、
「どこか悪い?」「食べられる?」かなど、暗示をかけるような言葉は極力避けた。世
間話や他愛のない相談を持ちかけ、気を紛らすように努めた。私は、職場から昼休みに
いつも母に会った。
母は、自分の体力の回復の遅いのを説明するのに、執刀医の書いた「胃の図面」を訪
れるひとに見せた。そして真顔で、
「三分の二もとったのだから……」と、言い訳をした。
寒さが増してくると、医者へ行く以外はストーブの前に座ってばかりとなった。
十二月中旬であるが、
「俺の腹のしこりは、医者は手術の結び目だと言ったが、ガンではないか。熊笹が効く
というから、飲んでみたい」と、言い出した。
私はギクリとしたが、肯定も否定もしなかった。母の口からついに出た、一度だけの
「ガン」という、言葉であった。
私は胸をえぐられたまま、熊笹を採るために初めて宇久須峠へ向かった。曲がりくね
った勾配の強い道であった。夕闇が訪れようとする峠は、耳がちぎれるように冷たかっ
た。手に息を吹きかけながら、笹の葉を鋏で切っては車に積み込んだ。車は駿河湾に飛
び込むように下って行く。海は季節風に白い波頭を立てていた。
ついでにその足で本屋へ寄り、「熊笹の効能」という本を買い、母に手渡した。何度
か煮詰めて、エキスを飲用するという、内容の本であった。
年が代わって一月三十一日、K医院から呼び出しがあった。兄嫁、次弟、私の三人は
並んで座った。
医者は、今までの経過を噛みくだくように説明した。
「ご承知のように、初めのレントゲンの診たてから、ガンも末期だった。手術も万が一
摘出出来たらというくらい、望みが薄いものだった。これらの状況からも、常識的に六
カ月というところだった。しかし、ワクチンやおばあちゃんの精神力、周囲の人の心遣
いでよくここまで持ちこたえられた。でもナ、医者の目でみて、あと一カ月が限度だ。
一日置きに通院してもらうが、入院したのと同じ治療をする。おばあちゃんには頃をみ
て私から入院をすすめる。最期の痛みをやわらげ、安らかにその時を迎えられるよう心
掛けたい」と、言われた。
私は、仕事を前に寄せては片付け、もしもの準備にとりかかった。
そんな折り、母の次妹の叔母が死んだ。母より三つ年下で静岡市に住んでいたが、先
祖の墓のあるこちらで葬式をすることになった。母には知らせたくなかったが、私の耳
に入る前に、母はそれを知っていた。勿論、通夜には母は顔を出さなかったが、我が家
の仏壇に長く合掌するのだった。
二月十一日が叔母の葬儀だった。南伊豆に珍しい雪の舞う日であった。
私は虫の報せというか、母を気遣って霊柩車より石部の集落をを早く出た。想像どお
り母は家にはおらず、襟巻きで顔を包んで、一行が火葬場にむかう国道に立っていた。
私は、母を車の中に招きいれた。車のヒーターをきかせ、ワイパーで窓の雪を払いの
けた。母は、むくみのある手を合わせ、妹の柩を見送るのだった。
一日おきに、悪い日と良い日が交互にやってくるようになった。それでも寝込むこと
はなかった。
あとで感じたのだが、同居している孫の結婚式を心にかけて気を張ったのではなっか
ただろうか。昨年暮れから、四月十三日の日取りは決まっていたのだ。
母は、医者がいう死期の二月末日、「招待状を印刷して、早く出すものだよ」と言っ
た。医者の言葉もあり、それは半ば諦めて秋に日延べしようと相談がまっとまった矢先
だった。 そして、三月初めより急に元気が母に戻った。また、花麦の出荷を手伝うの
だった。 これならばと、兄嫁を医者に伺わせた。医者は保証はせず「最善の努力で、
持ちこたえさせる」と言ってくれ、招待状の印刷にとりかかった。また、母に縁戚の関
係など聞いて、席順表が作られた。
この結婚式に、ふだん無口な孫が、
「育ててくれたおばあちゃんが見えないのが残念です」と、父親代わりの私に花束を手
渡したあとの挨拶で言った。
たぶん入院しての結婚式になるだろうと予想したが、彼らが新婚旅行から帰ってくる
まで元気であった。
だが、やがて母は二百メートルの通院が困難になった。そして、弟が車で送り迎えす
るようになった。
そして、ついに五月五日、再入院をした。二階が病室なので、私は「おぶってやろ
う」と、背中を出した。だが、母は首を横に振ってこれに応じようとしなかった。その
手はパンパンに膨れ、ビックリするほど冷たかった。
母は、入院しても比較的手がかからなかった。私が病室に泊まっても、四、五回起こ
してトイレまで連れていくぐらいだった。五月三十一日と六月一日は、私の家の田植え
で私は病院へは行けなかった。
六月二日のことである。先にも書いたが、私が病室に入るやいなや、母は粗相をして
兄嫁の世話になったと泣き出した。兄嫁は、階下でその寝巻きを洗っていた。あれほど
他人の世話をしておきながら、自分の世話をなぜ気軽にさせないのか、私には分からな
いことの一つであった。
六月五日、母の腹部より三リットルの水が抜き取られた。顔や手の腫れはひけたが、
口はすっかり重くなってしまった。その晩、私たち夫婦は看護するつもりで出掛けた。
そして、好きな本も読めるだろうと、用意して行ったのだが、病状は急変していた。ま
た、叔母も駆けつけてくれ、大勢が病室へ泊まることになった。
医者は、この二、三日が峠だと告げた。
母の最後の言葉は、末弟が口に氷を含ませた時の「うまい」と言った一言だった。胃
ガンの病巣が破れて、口より吹き出して来た。何枚ものティッシュはその度に濡れた。
栄養と痛み止めが点滴となって、屋外の雨の音と競い合うようであった。
ほとんどの人は、徹夜をしてくれた。それが病室から溢れるようになり、医者から空
き病室を貸してもらうほどになった。
六月七日の朝から、母の容態の変化が著しくなった。その度に私たちは看護婦を呼ん
だ。血族である私たちに反応しなくても、母は看護婦に必死に応えようとしている風で
あった。 看護婦が何度か足を運んだあと、医者が来て脈をとった。そして、
「ご臨終です」と、宣告した。
「みんな、一言づつ送る言葉を言うもんだ」と、叔母が言った。
皆は、いろいろと母に対して言葉を贈った。だが、私は手さえ握れず、何を言うべき
かとまどい、何も言葉を発せなかった。
二年半前の死の床での兄を私は思い出していた。脳溢血で、意識のないまま喉をぜい
ぜいさせていた。肺炎を併発して痰が喉を塞ぐからだった。母は、敢然として私の目の
前を兄の枕元へ走り、直接口をつけてそれを吸い取った。その母の壮絶ともいえるその
看護が思い出されても、私は茫然として母に何も出来なかった。何とも自分自身が不甲
斐なく、情けなかった。
母は死は、少し大きな呼吸をしただけで、言葉を発することもないままの呆気ない幕
切れであった。安らかに息を引き取ったのだ。
昭和六十一年六月七日、時計は午前九時五十五分をさしていた。奇しくも、手術をし
た昨年の六月七日と同じ日であった。
母の無限に澄んだ瞳は、医者の手よって閉じられた。母は、あの無限に澄んだ瞳で何
を語ろうとしたのか、そのことを思う日々は続いた。
そんなころ、義従弟の結婚式があり上京した。電車の窓が次々と景色を変えて後ろに
飛ばして行く。昨日建てたものも、今日に経済的価値がなくなれば、たちどころに壊さ
れる。経済というお化けが、ひとの心もを変えて行く。それに半ば気づきながらも、人
々は乗り遅れまいと必死にもがく。
それからの私は、母の無限に澄んだ瞳は幸せの時代に生きた証しのように思えるよう
になった。特別幸せな人生でなかったにしても、正直であればそれなりに生きられた、
アナログな目に写ったものを信じ得た、光る時代を生き抜いた人間に思えた。
そして、西伊豆の小さな磯辺に太陽を浴びて咲く「つわぶきの花」に思えた。
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