第3次中東戦争はイスラエルの勝利に終わった。開戦を希望していたアラファトは、パレスチナへの帰還という目的がアラブ諸国の敗退という結果により失敗に終わってしまった事を知った。しかしながらパレスチナ人はアラブ諸国でより一層過激な行動に出たのであった。パレスチナ難民が国民の半分を占めるようになったヨルダンでは、68年3月カメラにおけるイスラエルの報復攻撃を頓挫させたアラファトがパレスチナ人の英雄となった。またパレスチナ人ゲリラはイスラエルに対するテロ攻撃のみならず、国際社会−実際には欧米諸国−に対するハイジャックなどのテロ行為を頻発させた。一方ヨルダンではその増長ぶりからパレスチナ人ゲリラに対する国王の弾圧が起こった。ゲリラはヨルダンから隣国レバノンへと渡り、テロの対象を同胞のアラブ人にまで広げるようになった。そのゲリラ組織も一枚岩ではなく内紛が起こり、国際社会に対するテロもミュンヘンオリンピックのイスラエル人全員死亡という結果を引き起こしただけで、パレスチナの人々に与えられたもとのいえば、憎悪と恐怖のみであった。
1967年にエジプト海軍がミサイルによりイスラエル海軍のエイラートをミサイルで撃沈した。68年には(機甲戦力を重視するイスラエルに比し)優勢な火砲1000門を用いたスエズ運河東岸への砲撃を行った。それぞれに対するイスラエル側の報復はあったものの、民衆はナセルを支持した。続く69年から70年にかけて、エジプトとイスラエルの間には散発的な小競り合いが続いた。
イスラエル側はスエズ運河東側にバーレブ・ラインという要塞線を構築した。それは国防費の3分の一に相当する巨大プロジェクトではあったが、あくまで警戒陣地の域を出るものではなかった。西側のエジプトはソ連との親密度をますます深め、多数の兵器や軍事顧問団を迎えた。時にはMig−21MFに乗ったソ連人パイロットがイスラエル空軍のF−4Eとの空中戦を演じる事態となっていた。消耗戦と呼ばれたこの紛争は70年9月、エジプト大統領ナセルの死亡により幕を閉じた。
後継者のサダトは、ソ連から距離を置いてアメリカに近づくそぶりを見せた。ソ連軍事顧問団を引き揚げさせ、アメリカのキッシンジャー大統領補佐官と接触することで独自性を保持しようとしたのである。ソ連は不満を持ったものの、アレキサンドリアの海軍基地への海軍駐留権などを有する現状において、またスエズ運河を擁するエジプトの地政学的位置から支援を打ち切ることはできなかった。そうしてエジプト及びシリアに各種ミサイル、対空自走砲など多数の強力な防空システムを供与していった。
これら状況を鑑み、サダトはシナイ半島奪回を図ることとなる。シリアと共同し、73年10月6日にイスラエルへの攻撃計画を準備した。その企図することろは短期決戦であり、奇襲によってイスラエルからシナイ半島を取り返したならば直ちに米・ソ両国による仲介を希望していた。そうすれば、奇襲効果が薄れて反撃体勢を整える前に、アメリカの後ろ盾を必要とするイスラエルが調停に従わざる得ないだろうとの読みがあったのだった。
イスラエルはエジプト・シリアによる奇襲の兆候を掴んでいたが、首脳部は10月6日がイスラム教徒にとってラマダン(断食の月)に当たることから戦争は無いと判断していた。よって戦争準備は不十分だったわけである。しかしながらユダヤ教徒にとって贖罪の日(ヨム・キプール)であった10月6日は、新たな戦争の始まる日でもあったのだった。
10月6日午前2時、スエズ運河西岸から砲4000門が火を噴いた。それに連接しエジプト軍の航空攻撃と渡河作戦が始まった。午後8時までには8万人のエジプト兵がスエズ運河東側に橋頭堡を築いたのだった。対するイスラエル軍は直ちに動員令を下令すると共に戦車、航空機による迎撃を開始した。練度に勝るイスラエル軍にとって、初戦の敗退はすぐに回復できるはずであった。
しかしながら戦局はエジプト側が主導権を握ったまま推移することとなった。高空域をSA−2、SA−3、SA−6、SA−7などの対空ミサイル。中低空域ではZAS−23対空自走砲などの重層に固めた防空コンプレックスの前にイスラエル空軍は制空権を奪うことができず、初日で30機以上の航空機を失った。地上においても戦線に駆けつけた戦車がRPG−7やAT−3などソ連製対戦車火器を有する歩兵の攻撃により多数が撃破され、シナイ正面を担当していた第252機甲師団は翌7日までに保有戦車300両の半分を失ってしまった。視界の限定される戦車では接近する歩兵を見つけることが困難であり、露払いとなる随伴歩兵は今だ戦線後方で戦車に追いついていなかった。
続く2日間でシナイ半島に残るイスラエル軍戦車は90両以下に減少しており、400両以上の戦車を失っていた。しかしながらエジプト軍は自らの防空コンプレックスから進出することはせずに防御陣地を構築し始めていた。これを好機としたシャロン少将は「ストロングハート作戦」(スエズ運河逆渡河作戦)を実行に移すこととした。2個機甲師団がスエズ運河西岸に推進、シナイ半島在住にいるエジプト軍の後方連絡線を絶つことが目的であった。
シリアも6日午前にゴラン高原へ攻撃を開始した。2個戦車師団に支援された3個歩兵師団が、イスラエル第36機械化師団の陣地へ向かったのだった。戦車戦力はシリア軍が合計1000両以上に対し、イスラエル軍は200両にも満たなかった。圧倒的な兵力差と暗視装置を用いた夜間攻撃、さらにはエジプト同様厳重な防空網に守られたシリア軍はゴラン高原南部で戦線突破に成功した。しかしながら迅速な予備役投入によりイスラエルは6個旅団の戦車戦力を集結させ、大規模な戦車戦のうち最新鋭のソ連戦車T−62を含め多数のシリア軍戦車を撃破し、主導権はイスラエル側に移った。防空コンプレックスも綻びを見せ始めたことで制空権もイスラエルが握るようになった。イスラエルは引き続き攻撃を続行したが、ソ連の介入を招きかねないダマスカス占領までは行わず、ゴラン高原から東に進出しダマスカスを火砲の瞰制下に置いた時点で防御陣地構築を始めた。
エジプト軍と対峙していたイスラエル軍はストロングハート作戦に向けた準備を行っていた。10月14日、シリアの苦境から戦力吸引を要請されたエジプトは大ビター湖北部で大量のT−62を含む戦車部隊が攻勢を再開した。この戦闘で両軍合わせて2000両近い戦車が参加していた。イスラエルの対戦車部隊はアメリカからの緊急軍事援助からTOW対戦車ミサイルを入手しており有効に活用し、エジプト軍は戦車264両の損失を被って敗退した。
この戦いの後、主導権はエジプトからイスラエルに移った。15日夕刻よりストロングハート作戦は開始され、17日には2個機甲師団がスエズ運河西岸への渡河を完了していた。エジプトのサダト大統領は米ソ両国の説得により停戦へ向かった。一方イスラエル側としては主導権を握り始めた段階での停戦は受け入れがたかったが、アメリカの強い働きかけにより国連の停戦決議を受け入れた。10月23日のことであった。
米ソ両大国の力により第4時中東戦争は終結したが、新たな問題が発生した。エジプトのサダト大統領が国連安保理に対して米ソ両軍の中東派遣を要請し、ソ連は単独でもそれに応ずる準備があるというものであった。事実ソ連は派遣のために空挺師団を準備していたし、東ドイツ駐留のソ連軍は戦闘準備を開始していた。中東の指導権を完全に奪われないためにアメリカは毅然とした態度を見せる必要があった。しかしながら当時のニクソン政権はウォーターゲート事件により疲弊しており、ソ連はその隙を狙った行動をとったのであった。
ここで指導的な役割を果たしたのはニクソン大統領ではなくキッシンジャーであった。米・ソのエジプト派遣は不要であるとソ連に伝え、もしイスラエルがエジプトに陸揚げされた核兵器を破壊しても非難しないとのメッセージも伝えた。ソ連は書記長のブレジネフが自らの優位が失われたと判断、中東へのソ連軍派遣は行わないとアメリカに伝えた。核戦争の危機は去った。
同時期に中東諸国はOPECで原油価格の値上げを発表した。アメリカに対する政治的な対抗策として発動された石油戦略はしかし、中東へ石油輸入を依存していたヨーロッパ及び日本へ深刻な影響を及ぼし石油ショックを発生させた。一方アメリカは当時石油の95パーセントを自国で生産していたので深刻な被害とならなかった。むしろ原油価格高騰はアメリカ系メジャー(巨大石油企業)を儲けさせるしか効果がなかった。そうして74年3月には中東諸国が対アメリカ禁輸措置を解除した。
参考文献
『中東戦争全史』 山崎雅弘 学習研究社 2001年
『イスラエル機甲軍』 天下御免丸 同人誌 1999年
『航空ファン2000年4月(特集:イスラエル空軍史)』 2000年
参考HP
田中宇の国際ニュース解説(政治評論家) http://tanakanews.com/index.html
天下御免丸(参考文献の発行所) http://www5a.biglobe.ne.jp/~gomenmar/index.html