はじめに
二千年にわたるキリスト教史の中で、ロシア正教はカトリックともプロテスタントとも異なる独自の発展を遂げており、今日のロシアを始めスラブ圏の人々はロシア正教を篤く信仰している。ロシア正教はスラヴ民族の精神的支柱となっているのみならず、大国ロシアの文化を形成してきたとも言える。本稿は、このロシア正教を理解するために、その成立、教会の特徴、教会内部の様式、イコンについて概観することを目的とする。
ロシア正教の歴史
ロシア正教の歴史は、今からおよそ一千年前まで遡ることができる。当時、ビザンチン帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)は世界の文化的中心の一つであった。すでに861年、聖キリロス(827-869)と聖メトディオス(815-885)兄弟が、ブルガリアをはじめとしてスラヴ世界への布教活動を開始していた。ブルガリア王ボリスは864年に洗礼を受け、さらに870年にはブルガリア教会をコンスタンティノープルの支配下に置いたのである。988年にキエフを中心にロシアの国家的統一を成し遂げたウラジーミル1世(978-1015)は、ブルガル人のイスラム教、ドイツ人のローマ・カトリック教の信仰の実態を調査させるためにキエフ・ルーシの使節を派遣したが、ツァーリグラード(コンスタンティノープルのこと)に赴いて、その地の壮麗なハギヤ・ソフィア大寺院とそこで繰り広げられる荘厳なビザンチン典礼の美しさに「感動(ウミレーニエ)」し、キエフ・ルーシの人々をギリシア正教に対する信仰心を目覚めさせた。よって、東ローマ(ビザンチン)帝国に範を求めて、「東方キリスト教(ギリシア正教)」を国教に採用したことから始まる。このギリシア正教の受容は、ロシアの社会・文化的、政治的発展における決定的な転回点を画するものであった。というのも、東方キリスト教の教義の導入を通じてギリシア文字(教会スラヴ語で使用されるキリール文字)をはじめ、文学、美術、建築などといったあらゆる文明形式がロシアに入り、その結果ロシアはビザンチン文明圏に属することになったからである。
こうして988年、キエフ・ルーシのウラジーミル1世はギリシア正教を国教として取り入れることとし、その手始めにドニエプル河で民衆を半ば強制的に集団洗礼させた。ルーシとは古代ロシアのことを意味するが、988年以前のルーシの宗教は雷神ペルーン、太陽神ダージボーグなど土着の神を敬う原始宗教であった。しかし、これではキエフの支配者の権力を権威づけることはできず、キリストを主と仰ぐ強力な一神教が必要とされたことは政治的にも好都合だったわけである。こうして、ペルーンの偶像は倒され、正教独特のねぎ坊主の教会がルーシ全土に建立されることになったのである。
ロシア正教のシンボル
我々がロシアといってまっ先に思い浮かべるものの中に、ロシア正教会の独特な屋根の構造があるのではないだろうか(写真1)。一般的に「ねぎ坊主」と呼ばれているが、その形は火焔を現し、教会内での聖霊の活躍を象徴している。当初はねぎ坊主一つの素朴な形であったが、15世紀以降モスクワ公国によるロシア統一と、「モスクワは第三のローマである」というロシア正教の独立とで、教会の権力が強まるにつれ、あたかもそれを誇示するかのように、ねぎ坊主の数を増した豪華絢爛たる教会が建立されるようになった。さらに、17世紀の教会改革を強行したニコン総主教の命により、主イエス・キリストをあらわす大きなねぎ坊主を中心に、福音書を記した四使徒ルカ、マタイ、マルコ、ヨハネを象徴する4つのねぎ坊主がそれを囲むよう
写真1 聖ワシリー聖堂 な形に作るのが一般的となった(写真2)。
ねぎ坊主の天辺に飾られる十字架も、ロシア正教では「ロシア十字架」と言い、カトリックとは形が異なっている。ロシア十字架は、普通の十字架の横棒の上と下に短い横棒がついていて、下の棒は右端を斜め下に傾けている。これを「八端の十字架」と呼ぶ。上の横棒は、キリストがゴルゴタの丘で磔刑に処されたとき、額に打ちつけられた「われはユダヤの王」と記した板を、下の横棒は足台をあらわしている。ニコン総主教は教会改革に際して、以後この八端の十字架を禁止し、普通の十字架に改めさせた。

写真2 血の上の教会(サンクト=ペテルブルク)
ロシア正教会の中へ
ロシア正教の教会の内部はどのようになっているだろうか。
教会に入ると、まず正面に見える壁が「イコノスタス(聖障)」である。イコン(後述)の描かれた壁で、来世とこの世の接点を意味している。すなわち、宝座と呼ばれる祭壇のある至聖所と、信者たちのための会衆席である聖所とを隔てる壁であって、至聖所に入れるのは聖職者に限られている。イコノスタスの中央に王門、その右手に南門、左手に北門がある。王門には受胎告知のイコンと、その下に四福音書を記したマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのイコンが描かれ、その右側に主イエス・キリスト、左側に聖母マリア(日本ハリストス正教会では「生神女」と呼ぶ)、さらにその聖堂がどの聖人を記念して建てられたか、つまりその聖堂の名称となっている聖人のイコンが描かれている。イコノスタスは16世紀頃から五段の飾り付けが一般的となり、イコンの飾り方も一般的なしきたりはあるが、聖堂によって多少の差異はある。五段は、上から旧約聖書時代の族長たち、二段目が旧約聖書時代の予言者たち、三段目がこの世におけるキリストの行跡や奇蹟をあらわす十二大祭や復活祭に関連するイコンという具合に、旧約聖書と新約聖書の関係に従って配置されている。そして四段目(聖堂によっては大祭イコンと入れ替って三段目にくることもある)が、「デイシス」と呼ばれるイコノスタスの中核であり、中央にキリストの玉座像、左側には聖母マリアの立像、右側に授洗者ヨハネの立像、その両側に十二使徒の立像が描かれている。
ロシア正教の教会は、カトリックのように美しいステンド・グラスを飾ることはなく、小さな明かり取りがあるだけで、ろうそくのかすかな光の薄やみの中で拝するイコンは、身の引き締まる思いを味わわせてくれる。イコノスタスは、ロシア正教ならではの優れた教会美術と言えるだろう。
そして、会衆は礼拝の間、ずっとこのイコノスタスに向かって立つ。教会内には信者用の椅子がないからである。そして、聖職者だけが王門から中に入ることを許される。王門は礼拝の間、何回か開かれる。これは、信仰の深いものに対して、天国が開かれることを象徴的に表しているのである。
イコンについて
イコンはロシア語ではイコーナと言う。平板にテンペラ絵具で主キリストや聖母マリア、聖者たちの像を描いた「聖像画」をイコンといい、気温や湿度の変化によって変質することの少ない菩提樹、あるいは松や樅によって作られる。大聖堂などに飾る大きなものでは、畳二枚ほどのものもある。
カトリックの教会のように十字架上のキリスト受難の彫像や、聖母マリアの立像のような立体的なものではなく、イコンは必ず平面像でなくてはならない。これは、キリストがコルゴタの丘に曵かれて行くとき、布で顔を拭ったところ、その布の上に彼の顔が写されたという説もあるし、キリストの顔の汗を拭った女性の布にキリストの顔があらわれたという説もある。古いイコンは平板に聖像を描いただけのものが多いが、16世紀頃から、顔や手などの部分だけを見えるようにして、その他の部分は金や銀の覆いで隠す手法が盛んになった。この金属製の覆いを「リーザ」と呼ぶ。さらにはルビーやトルコ石、真珠などを飾ったものを「オクラード」というが、本来これは教会の祭壇の前に置かれる聖書の飾りに用いられたものであった。
イコンが平面像でなくてはならないのは、聖書に説かれている偶像崇拝の否定とも当然関わっている。しかし、それよりもむしろロシア正教では、イコンは地上と天国の間の窓であり、神の国を映す鏡に等しく、敬虔な信者たちはイコンを通して神の国をのぞくことができると考えたからである。
信仰心の篤いロシア人は、革命前はどこの家でも、部屋の入り口からみて正面の、普通は東側の隅を「クラースヌイ・ウーゴル(美しい隅)」と呼び、そこにイコンを飾り、灯明をともして熱心に祈ったものだった。そのため、リーザやオクラードのない板片のイコンは、下半分がどす黒く、煤けたものが少なくない。家庭で飾っていたイコンはそうだが、中世にロシア美術として高く評価され、大切に保存されていた作品になると、紺青や朱の色彩の用い方が実に見事で、豊かな色彩感覚に満ちあふれている。イコンは聖像画本(写本)を手本とし、それに従って描くこととされているので、構図や人物配置などはほぼ一定であり、例えばヨーロッパの画家たちの描く聖母マリアはポーズも表情もかなりまちまちであるが、ロシア・イコンのそれはおおむね定まっており、そのためにかえって静かな安らぎを感じさせてくれるのである。
このようにロシアではイコンは専ら信仰の対象とされてきたので、ここに中世美術の精華を見出したのは20世紀になってからである。その第一人者はピカソであるが、この偉大な画家を感動させた美術としてのイコンの世界を創出したのは、14世紀にノヴゴロドで活躍したビザンチン出身のフェオファン・グレークと、その影響を強く受けたアンドレイ・ルブリョーフであった。まさにこの頃からイコンの背景に朱や紺青が用いられるようになり、人物の顔もロシア的になったのである。「タタールの軛」のもとにあったロシア民族の深い苦悩を反映したフェオファン・グレークのイコンは、濃い色彩と強烈なリズムを特徴としている。
モスクワのトレチャコフ美術館にあるルブリョーフの『聖三位一体』は、イコン芸術の、名作中の名作と言われている。芸術的に優れているというだけではなく、ロシア正教の宗教会議で1617世紀に二度までも、「聖三位一体はルブリョーフのように描かねばならぬ」と決定されているほどである。
モスクワやサンクト=ペテルブルクを始めとするロシアの教会や博物館、美術館には数多くのイコンが展示されており、人々の注目を引いている。
おわりに
ロシア正教は1917年の革命までロシアの国教とされていた。しかし、ソ連時代に多くの教会が破壊され、司祭たちは射殺されたり、投獄されたりした。改めてロシア正教が公式に支援されることになった1992年以降、教会は急速に復活した。ロシア正教は、今もロシアの人々の中に深く息づいていることがわかるだろう。
参考文献
『世界の歴史と文化 ロシア』原卓也監修、新潮社、1994.
『ロシア正教の千年 聖と俗のはざまで』廣岡正久著、日本放送出版協会、1993.
『ビジュアル博物館73 ロシア』キャスリーン・バートン・ミューレル著、栗原成郎日本語版監修、同朋舎、1998.
写真について
写真1……「ロシア大使館」ホームページより
http://embassy.kcom.ne.jp/russia/index-j.htm
写真2……「ユーラスツアーズ」ホームページより
http://www.euras.co.jp/
参考資料
トレチャコフ美術館ホームページ http://www.tretyakov.ru/
エルミタージュ美術館ホームページ http://www.hermitage.ru/