古城の風景
【第7巻】桶狭間合戦の城(2010/11/20)
このシリーズには古城のことだけでなく、さりげない風景のことが書かれていて、私の楽しみになっています。どうもこの地方の人名や地名にはなじめないもので、本文の中に出てくる歴史に関して書かれていることは斜め読みみたいになってしまいます・・・(笑)
風に吹かれつつ、丘からおりようとして上空に目をやると、二羽の鳶が浮かんでいた。Mさんもそれをみて、
「楽しそうですな」
と、いった。じつは私もそう感じていたので、
「楽しいなぁ、と語りあっているのではないですか」
と、笑った。Mさんは肩をゆすって笑った。鳥ほどの高さは得られないが、人は鳥瞰をまねることができる。ちょうど師崎の真南の海上にある島影が神島であろう。三島由紀夫の『潮騒』の舞台になった島である。最近は、海を描く作家がほとんどいなくなった。私にとって三島由紀夫は、その島影のように、遠く淡い存在となった。
| 1.羽豆(幡豆)崎城 |
2.河和城 |
3.富貴城 |
4.常滑城 |
5.坂部城 |
6.村木砦 |
| 7.緒川(小河)城 |
8.刈谷城 |
9.大高城 |
10.鳴海城 |
11.丸根砦 |
12.善照寺砦 |
本書の中で、ちょっと気になったところがありました。
十月の下旬に、大型の台風が日本列島に接近した。
(中略)
――困ったな。
というのが正直な感想であった。
旅行日が近い、というだけの困惑ではなかった。じつは八月下旬から体調を崩し、九月がすぎ十月になっても復調しなかった。それゆえついに名古屋の病院で検査をしてもらうことになったのだが、その日が旅行日の前日の十月二十八日であった。
(中略)
検査の結果は、当日にあらましはわかる。異常はない、と告げられた。が、体内に異常はないのに体調が悪いというのが、かえってむずかしい問題で、それについて、翌週、医師の説明を受けて、薬の処方がおこなわれることになった。
とにかくなかば安心し、なかば不安であるという心身の状態で、旅行日を迎えた。
と書かれていますが、その後の説明について書かれていないので、ちょっと心配になった次第。
【第6巻】北条水軍の城(2009/12/19)
最近、歴史ブームのようで、本書の宣伝文句にも、このようなことが書かれています。私としては、「なんだかなぁ」と思いますが、皆さんどう思われますか?
いま戦国時代が熱い!城址巡りの楽しさをあますことなく伝える歴史紀行決定版。
今回のお勧めは、静岡県の葛山館址。
きれいに残った土居に囲まれた館址は必見です。
| 1.深沢城 |
2.葛山城 |
3.長久保城 |
4.山中城 |
5.長浜城 |
6.柏久保城 |
| 7.狩野(柿木)城 |
8.下田城 |
9.堀越御所 |
10.小田原城 |
11.浦賀城 |
12.新井城 |
本書を読んで納得した一文です。
古城址をめぐっているとたびたび大きなおどろきをおぼえ、感動して胸が熱くなるが、いわゆる景勝地にはおどろかなくなった。ホテルから美しい景色を漫然とながめていても、つまらない。この景色がかつて、あるとき、豊臣の船で埋めつくされていたと想わなければ、景色に奥ゆきがない。
本書の書きぶりを見ていると、どうも宮城谷さんご一行は全国の城址を巡るような勢いです。さて、このあとどうなることやら・・・
【第5巻】北条の城(2008/12/7)
宮城田谷さん一行の古城をめぐる旅は当初三河のみかと思っていましたが、『新三河物語』の執筆もあり、次第に関東の方へ広がってきました。
| 1.石脇城 |
2.持舟城 |
3.今川館 |
4.小山城 |
5.勝間田城 |
6.諏訪原城 |
| 7.掛川城 |
8.韮山城 |
9.堀越御所 |
10.徳倉(戸倉)城 |
11.三枚橋城 |
12.興国寺城 |
例によって、ここに登場する城のほとんどは知りませんでした。中国の戦国時代や三国時代の城の方がなじみがあるような気がします・・・(笑)
一行が堀越御所に行く少し前、蛭島[ひるがしま]に寄ったときのことです。
蛭島にきたのはこれで2回目である。小さな公園になっていて、ややこしいことに、ここに建てられている石碑には、蛭ヶ小島という文字が彫られている。
源頼朝という人は久安3年の生まれであるから、西暦になおすとその年は1147年である。もちろんその1147年は紀元前ではなく紀元後をいうが、私にとっては紀元前の項羽と劉邦より遠い存在に感じられる。日本歴史が、日本人らしい歴史様相をもつのは室町時代からだ、という説をどこかで読んだことがあるが、平安も鎌倉も、私のなかでは殷王朝よりはるかである。それゆえ、源頼朝が流謫[るたく]されてこの地に棲んだことも、実感として迫ってこない。
全く同感です。
【第4巻】徳川の城 今川の城(2007/11/4)
前回、「いよいよ本書で宮城田谷さん一行の古城をめぐる三河の旅もおわりです。」なんて書きましたが、私の勘違いだったようです。本書による、古城を巡る旅をまだまだ続けられるように書かれています。失礼しました。 m(_ _)m
| 1.引間城 |
2.浜松城 |
3.見付端城 |
4.横地城 |
5.花倉城 |
6.花倉城 |
| 7.朝日山城 |
8.丸子城 |
9.久野城 |
10.馬伏(まむし)塚城 |
11.横須賀城 |
12.高天神城 |
この旅に同行されている方々についてもいろいろ書かれていますが、皆それぞれに「豊かさ」を持った人のようです。
――あ、ここが、一言坂か。
車から降りて、坂道の途中に立ち、西をながめた。ひろやかな眺望である。天竜川は遠くなさそうである。
「ここにくると、よくわかりますね」
そういったTさんは感嘆符とともに立っているようである。Tさんの脳裏には一言坂合戦の想像図が描かれており、それがここに立つことによってより精密になったということであろう。孔子は、「知ることは好むことにおよばず、好むことは楽しむことにおよばない」、といったが、Tさんは歴史を知り、好み、楽しんでいるのであろう。それが人としての豊かさであり、その豊かさはけっして他人には奪われない。それゆえにほんとうの豊かさというのである。
私も「歴史好き」人間の一人と思っていますが、好み、楽しんでいるものの、まだまだ知っていません。宮城谷さんいわく「人としての豊かさ」にはまだまだほど遠いようです。でも、それだからこそ、まだまだ「好み、知る楽しみ」がたくさん残っているということでしょうね。
【第3巻】一向一揆のの城(2007/5/20)
いよいよ本書で宮城田谷さん一行の古城をめぐる三河の旅もおわりです。登場する城は以下の通り。
| 1.岡崎城 |
2.井田城 |
3.明大寺城 |
4.松平館 |
5.土井城 |
6.三木城 |
| 7.大草城 |
8.上和田城 |
9.西条城 |
10.荒川城 |
11.本證城 |
読み始めた頃には本書(宮城谷さんたち一行の旅)とつき合うのに多少のとまどいがありましたが、ここまでくると彼らの考え方などにもいろいろ慣れてきます。目的地の決め方や途中の会話なども結構おもしろい。
大樹寺から滝山東照宮へむかった車の窓から川がみえた。
青木川である。
(中略)
川は、人も運ぶが、文化も運ぶ。中世の人々には現代の地図のように上が北で下が南というような俯瞰図はなく、もしかしたら川の上流から下流を観るという視点の据え方をしていたのではないか。城址めぐりをつづけているうちに、そういう想いが強くなった。川といえば、この種の旅に慣れてきた原田維夫さんは、
「川の近くに小さな丘があると、城址ではないか、とつい観てしまうんですよ」
と、いう。この旅行の幹事というべきTさんは、三河の市町村の地図を穴のあくほど視てきたせいか、
「地名で、市場、とあれば、だいたいその近くに城址があります」
と、見識を披露する。なるほど、新城市の野田城址の近くにも、豊橋市の月谷(わちがや)城址の近くにも、市場と呼ばれる所はある。旅をしながら、三者三様に、いろいろ考えているのである。人が最も早く賢くなりたかったら、旅にでることだ、といわれるが、たしかにそうで、中国の大歴史家である司馬遷は20歳になると南方を遊歴した。日本では長州の思想家である吉田松陰が21歳で見聞を広めるために遊子となっている。そもそも、そういう感受性の豊かな年齢を選んで旅行に出発したこと自体が、かれらn賢明さをあらわしているが、ものごとに感動する頻度が低くなる高年齢になっても、やはり旅は人に豊かさをあたえてくれる。この旅はわれわれを賢くしてくれているかもしれない。
この旅もおわりに近づいてきました。宮城谷さんはいろいろな想いを綴っておられます。
本多広孝の居城であった土井城の跡は、住宅地になっていた。
遺構がまったくない古城址はあじきないもので、家のまわりを歩いても、感慨をおぼえない。ただし小説を書くものにとって、つまらない城址はひとつもない。昔、白石一郎さんとわずかに話したことがあり、そのとき白石さんは、時代小説を書くための下調べに旅行をするが、
「その地の空気を吸うだけでよいのです」
と、いった。実際、白石さんは取材旅行をしても、ホテルのあたりを歩いただけで帰ってしまうことがあったらしい。白石さんにとって、空気が唯一の真実で、あとはすべて虚妄なのであろう。それを裏返せば、小説にこそ真実があり、唯一の妄(うそ)は小説のなかの空気である、ということになろう。
私は天空をみあげた。その天空こそ、本多広孝がみた天空であり、今の地上の風景は本多広孝の視界にはなかったものである。それを想うと、小説家にとって取材旅行は小説には有害な夾雑物をひろうだけになりかねない。空気だけを吸って帰途につくのが賢明であろう。
とはいえ、若いころの私の小説修行は、小説そのものを神聖視して、善と美だけを書こうとして虚無に墜ちたという若いものであり、醜と悪をも書いてひとつの極をつくり、善美と醜悪のあいだに真実を置かなければならないことに想到しなかった。そうふりかえれば、夾雑物にも真実はあるかもしれない。もともと小説にかぎらずすべての芸術が、人の生活にとって余計な物である可能性は大である。したがって芸術の道を歩く者は、最初から、逆説の道をすすむものだと覚悟しておいたほうがよい。健全な社会的要素になりえない人種でありながら、既存の秩序を部分的にもうけいれて、市民として生きる矛盾にある者である。たしか小林秀雄は自身のことを、
「木偶の坊」
と、いっていたが、私も自身については同感である。この旅行は、デクノボウが歩きまわっているにすぎない。
こういう旅、いいですねぇ。私も旅にでたくなりました。
でも、よくよく考えてみれば「旅にでる」なんて大げさに構えなくてもいいのかもしれません。まずは身近な場所の歴史を知ることが旅の第一歩かな、とも思えます。
【第2巻】松平の城(2007/5/5)
本書に登場する城は以下の通りです。
| 1.五井城 |
2.五井城 |
3.形原城 |
4.深溝城 |
5.深溝城 |
6.藤井城 |
| 7.大給城 |
8.岩津城 |
9.上野城 |
10.安祥城 |
11.桜井城 |
12.能見城 |
本書を読む前には、城址めぐりとはなんとのんきな・・・などと思っていてなかなか手も伸びなかったのですが、読んでみてその先入観が間違っていたことがわかりました。古城というのを各県に一つずつくらいある観光地だと思っていたのですが、宮城谷さんたちが巡っていた城址とは、地図にもはっきりとは載っていないような、石碑だけがポツンとあるようなものがほとんどでした。
歴史が好きな人がこの「城址めぐり」を始めたら、はまるかもしれません。
私はかねて上野城に関心があり、十数年前に豊田市内を車で通っていたとき、おもいがけずその城址の近くを通過したような気がしているが、どうも記憶が明確ではない。胸中がすっきりしないのは、そのせいである。私がもっている地図には、上野城址が明示されていない。
「全国城址地図集」
を、どこかの出版社で発行してくれないものか、とつくづくおもう。所在地さえ明記されていれば、みつけるのはたやすいであろう、と考える人がいるかもしれないが、実際に、ご自分の足で捜してみれば、実情がよくおわかりになる。たやすいものではない。
自慢になる話ではないが、以前、まだMさんが「小説新潮」の編集長であったころに、名古屋市内の史跡をめぐって、小牧・長久手の戦いの際に菅沼定盈(さだみつ)が守った小幡城の跡を捜したが、わからず、数ヶ月をへだててようやくみつけることができた。ひとつの城址をつきとめるのに、そういう苦労がある。
本書では、宮城谷さんといろいろな人たちが三河を中心とした城址を巡り、その城に関する話が多いのですが、時には脱線してしまうことがあります。その脱線記事がまたおもしろい。
吉良の華蔵寺には、歴史の深泥にひきずりこまれた吉良上野介義央(よしひさ)の墓がある。義央という文化人は、播州浅野家の主に斬りつけられ、従に殺された。みかたによっては義央は、一痍(い)によって一藩を潰し、一死によって46人を自害させた。さらにその死は、日本人論の必須の素材となった。実際、現代では、日本人が名古屋を観ることは、世界の人々が日本を観ることにひとしい、といわれているので、私はかつて司馬遼太郎さんに、忠臣蔵の事件が吉良と浅野の争いであれば、
「三河と尾張のいさかいでしょう」
と、いったことがある。司馬さんはゆるやかに首をふり、
「浅野は笠間城主であったこともあり、大石は近江の出身なので、それはちがうでしょう」
と、おっしゃった。が、浅野長矩(ながのり)の独尊的な無知と外交感覚のなさは、日本人そのものを観るおもいがする。世界人である吉良に、日本人である浅野は、諸事についてたしなめられ、反省を忘れて逆上し、武器をとった。そのため父祖の地を失ったという図は、どこかでみたというべきであろう。
【第1巻】菅沼の城 奥平の城(2007/4/29)
宮城谷さん最初の日本もの歴史小説『風は山河より』に登場する場所を巡った紀行ものです。しかし、やはり宮城谷さん、単なる紀行文や副読本ではなく『風は山河より』の中に吹いている風のことを書いているという感じです。その思いについて巻頭にこう書かれています。
――この旅は‥‥。
と、おもったとき、淡く嗤いが浮かんだ。
この旅は、自分の小説にみずから註をつけるようなものではないか。
自分の小説について自分で語ることほど愚かしいことはないとおもっているが、この世界では、それを強要され、むげにことわれない立場にしばしばおかれ、それを回避する工夫を見つけることができない私は、ひそかな自嘲とともに愚佻をくりかえしてきている。小林秀雄のように、知りたかったら作品を読め、といいたいが、そういう颯爽とした勇気がなく、あるいはディケンズのように自分の作品を朗読して各地を巡ったほうが利口であろう。それができないとなれば、註であっても、解説にならないようにしたい、というのが自分へのいましめである。
本書の紹介文
戦国時代の陽光と陰翳を今に残し、ひっそりと人知れず佇む古城たち。
日本史への熱い想いを綴る初めての歴史紀行。
二万以上の武田軍を相手に、僅か四百余人の寡兵で、「風は山河より」の主人公・菅沼定盈が篭城戦を挑んだ野田城。
新幹線の車窓から望むことができる徳川家葵の紋発祥の地、伊奈城。
奥三河のはてしない山巒の雲のなかにひそむ、田峯城。
徳川家の重臣、菅沼、奥平、本多家の古城を、愛知県東三河にたどるシリーズ第一巻。
本書に登場する城は以下の通りです。
| 1.野田館 |
2.野田城 |
3.月谷城 |
4.宇利城 |
5.新城城 |
6.田峯城 |
| 7.亀山城 |
8.上郷城 |
9.牛久保城 |
10.伊奈城 |
11.今橋城 |
12.長篠城 |
このリストをみても私にはなじみが薄く『風は山河より』を読んで始めて知ったような城がほとんどでした。単なる「紀行文」ではないと前に書きましたが、『風は山河より』を執筆する上でそこに吹いている風をあびたい、という感じで書かれています。また、彼の歴史に対する思いや日本人観などもみられてなかなか興味深いものでした。
「鳥居強右衛門(すねえもん)の墓があるそうですが、みますか」
という声に、私は首を横にふった。
鳥居強右衛門は、幼名を兵蔵といい、いまの豊川市市田町の出身で、奥平氏の家臣であった。かれは武田軍に包囲された長篠城から使者となって岡崎城へ走って危急を告げた。帰途、武田方に発見され、勝頼にいいふくめられたことを棄てて城兵をはげましたので、磔殺された。おなじような話が中国の春秋時代にあったことを以前どこかで書いた。城を包囲していた楚の荘王は、捕らえた晋の使者が約束とはちがうことを城内に告げたので、激怒したものの、その使者の忠義を褒めて宥(ゆる)した。しかし、勝頼は強右衛門を赦さなかった。勝頼の狭量はもとより日本人の許容量の限界を感じて、やりきれない。鳥居強右衛門と対面することは、つらいのである。もしも勝頼が強右衛門を褒めて赦していたら、勝頼の徳声は天下にきこえ、後世の日本人は爽やかな逸話を誇らしげにもつことになったであろう。
日本ものの歴史小説を書く上で、いろいろと苦労が多かったというのは『風は山河より』の付録などに書かれていますが、これはその裏話
財貨寺に附属している逸話は、徳川家康(永禄9年に徳川に改姓するので、正しくは松平)が宝飯(ほい)郡の一宮砦を救援したという、
「一宮の後詰」
に関するものである。その戦いは、今川義元が敗死した後の永禄7年(1564年)におこなわれた。『徳川実記』『改正三河後風土記』『参河国聞書』なども永禄7年のこととしている。が、『松平記』は永禄5年としていて、おどろかされるのであるが、地元の『一宮町誌』は永禄6年説のようである。私は長い間紀元前の中国の歴史に関心をもちつづけ、事実の不透明さに悩むことがしばしばあったが、たかだか400年前の事件を、修史の中で確定することができない日本人の歴史意識の卑(ひく)さに唖然とせざるをえない。はっきりいえば、室町時代を潰した織田信長と豊臣秀吉は、当時の最高級の学者を集めて室町幕府の興亡を天下に知らせるべく修史という事業を命ずるべきであったし、次代の主宰者となった家康、秀忠、家光が織豊時代を輯録(しゅうろく)させる、というのが、国の運営者の礼儀であり、修史の条規なのである。それをおこたっては、ほんとうの文化国家とはいえぬであろう。国の財産とは、けっきょく文化しかないのではないか。
これは宮城谷さんの愚痴でしょうかね(笑)
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