三国志
【第十巻】(2011/11/6 掲載)
小説(三国志演義)ではいろいろと脚色されて大きなターニングポイントなる諸葛亮の死ですが、さすがは「正史を書く」と言われている宮城谷さん、ここはあっさりと描いておられます。
しかし、諸葛亮の存在の蜀という国での存在の大きさ歴史の中でおおきなものでした。五丈原での彼の死後、いろいろな歪みが吹き出してきます。結局蜀衰亡の道を辿るのは小説に描かれていることとそれほどの違いはないかもしれません。
まさしく諸葛亮は重態となった。
――ふたたびわれば起きることはできまい。
そう感じた諸葛亮は、目を閉じたまま、緑の豊かな隆中の風景を見ていた。劉備が三顧の礼を行ってくれた隆中の草廬は、初夏になると若くて清らかな緑にかこまれる。そこを吹く風は、初夏から仲夏に移るころに、甘い香りを運んでくる。そのうるわしさは、多くの人馬による塵汚が積もる戦地であるここ五丈原にはないが、隆中で病をまぬかれても虚しく老いれば布衣の身のままであり、五丈原で病にたおれた身は蜀の丞相の印綬をもっている。
――隆中にもどりたいとはおもわぬ。
と、諸葛亮の最後の気持ちを表しておられます。
このあとは、小説と同様に自身が死んだ後のことを部下に託します。小説では司馬懿のことを「死せる孔明、生ける仲達を走らす」というエピソードでおもしろおかしく書かれていますが、史書では司馬懿に対する皇帝曹叡の指示は漢中を征することではなく蜀の軍を防ぐことでした。退却する蜀軍の追撃を始めたものの、深追いしませんでした。
魏軍は引き揚げはじめた。この追撃では損害をだしただけで何の成果もあげられなかった。魏軍が退却すると知った漢中群の住民は大いに喜び、
「死せる諸葛、生ける仲達(司馬懿)を走らす」
と、くちぐちにいった。司馬懿に近侍するものが、
「漢中の民はけしからぬことをいっております」
と、憤慨した。司馬懿は亡くなった諸葛亮の術策にはめられて逃げかえるわけではない。それをきいた司馬懿は苦笑を浮かべて、
吾すなわち生を料(はか)るも、すなわち死を料らざるが故なり。(『晋書』)
と、いった。生きているものを相手にするのであれば、なんとかなるが、死んだものが相手となれば、どうにもならぬ。司馬懿の諧謔である。
このあとは、三国志演義ではなんとなく影の薄い三国が一つになっていく物語でしょうが、宮城谷三国志ではどのように料理されるのでしょうかね。
【三国志 第10巻】目次
| 流馬 |
満寵 |
秋風 |
孔明 |
増築 |
燕王 |
| 長雨 |
曹叡 |
浮華 |
赤烏 |
蒋[王宛] |
駱谷 |
【第九巻】(2010/11/3 掲載)
この巻からは三国志の第2世代時代になります。
魏の曹丕はこれからというところで急死し、その後にはなかなかの器であろう曹叡が帝位に就きます。蜀でも劉備亡き後劉禅が帝位に就きますが、まだ若く賢愚も明らかではなく丞相の諸葛亮がほとんどを取り仕切っています。安定しているのは呉ですが、ついに孫権も皇帝を名乗って中国に三つの皇帝が鼎立することになります。
ついに諸葛亮の時代です。小説『三国志演義』では超能力を持つスーパーリーダーのような描き方ですが、史書の中ではそのようなことはありません。本書で描かれる孔明像は熱烈な孔明ファンから見ると許せないかも・・・(笑)
日本人にもおなじみの「泣いて馬謖を斬る」というエピソードは小説では涙を誘うところですが、宮城谷さんはクールに描いています。
獄中の馬謖から諸葛亮のもとに書翰がとどけられた。すぐにその書翰をひらかなかったのは、
――馬謖を誅[ころ]して全兵士にあやまるしかない。
と、決めていたからである。長大息してから書翰をひらいた。
「あなたさまはわたしを子のように目をかけ、わたしはあなたさまを父のように仰ぎみてまいりりました。上古、帝舜は鯀[こん]を殛[ころ]して、鯀の子である禹をひきたてたことを、どうか深くお考えください。平生の交わりがここで虧[か]けないようにしていただきたい。そうしていただければ、わたしは死んでもこの地に恨みを残さぬでありましょう」
諸葛亮の目に涙がわいてきた。文字が水中の藻のように揺れた。
――ここは、わが子でも誅罰しなければならぬ。
温情が後の成果の遠因となるほどこの国は成熟していない。厳正さを国の綱維[こうい]としないかぎり、この国はすぐに傾仄[けいそく]してしまう。諸葛亮はそう信じてこの国を治めてきた。馬謖に関してのみ、例外を作るわけにはいかない。
その書翰を筺[はこ]におさめた諸葛亮は、近侍の者を呼び、
「明朝、衆前において、馬謖、張休、李盛を処刑する」
と、告げた。
として馬謖を処罰します。この処罰も、孔明が自分の失敗を馬謖になすりつけたものであるような書き方もされています。
本書に描かれている孔明は、決してスーパーリーダーではありません。北伐として自ら兵を率いて魏に攻め込んでも最初のうちは連戦連敗です。強引に攻め込んで国を傾けるようなこともしますが、何度か失敗をくり返して戦の「コツ」がわかってきたところでやっと勝てるようになるのです。しかし、勝てそうなところで兵站が尽き、やむなく撤退するというところは小説に書かれているものと同様です。
【三国志 第9巻】目次
| 曹丕 |
孟達 |
箕谷 |
街亭 |
曹休 |
陳倉 |
| 三帝 |
曹真 |
天水 |
悪風 |
遼東 |
張昭 |
【第八巻】(2009/10/11 掲載)
三国志の英雄たちが次々に斃[たお]れてゆきます。
関羽は孫権の兵に討たれ、その首が曹操のもとに送られます。曹操は諸侯の礼をもって関羽を篤く葬り、臣下からは帝位に陟[のぼ]るべきという声をしりぞけますが、やがて体調が悪化し、
「天下はなおいまだ安定していないので、古[いにしえ]に遵[したが]うには早い。葬儀が畢[お]われば、皆、喪に服することをやめよ。駐屯地にいる将兵は、そこを離れてはならぬ。有史はそれぞれ職につとめよ。時服(時節の衣服)をもって斂[れん]をおこない、金玉珍宝を棺に蔵[おさ]めてはならぬ」
という遺令を残して死去します。
呉の孫権への復讎を誓う劉備は荊州へ出兵しますが、共に出兵をしようと準備していた張飛を喪います。そして呉に惨敗を喫し、自らも病の牀に就き白帝で最後を迎えます。
癸巳[きし]の日、劉備は殂[し]んだ。六十三歳であった。
かれは前漢の高祖・劉邦を模倣しつづけたといってよい。ただし敵視した曹操が項羽のように単純ではなかった。端的にいえば、劉備の一生には創意も工夫もなかった。ただし、それをつらぬいたことで、凡庸さをも突き破ったのである。が、曹操の有為に対して劉備の無為は、秘めた徳というべき玄徳に達したか、どうか。
曹操に臣えてきた夏侯惇、徐晃、張遼らが死に、孫堅以来呉を支えてきた魯粛、呂蒙も死にます。いってみれば黄巾の乱から始まった三国志第一世代の全員が退場したことになります。
この物語は、曹丕が献帝より帝位を禅譲され、それを知った劉備が皇帝を名乗り、呉王の孫権もまもなく帝位に就けば三国体制が完成します。これから、ちょっと哀しい滅びの物語になっていくのでしょうか。
【三国志 第8巻】目次
| 兄弟 |
霖雨 |
関羽 |
徐晃 |
曹操 |
新制 |
| 禅譲 |
報復 |
白帝 |
劉備 |
使者 |
南中 |
【第七巻】(2008/11/2 掲載)
赤壁の戦いのあと北からの圧力が弱まり、呉は天下を二分すべく荊州・益州を狙い周瑜を遠征に向かわせます。寡兵で曹操の大軍を打ち破った周瑜は2年以内に益州を制圧すべく西に向かいますが、巴丘で発病しほどなく死去してしまいます。巴丘はかつて曹操が疫病に犯された兵をおろし、おびただしい船を焚いた所でした。享年36歳。呉はこれで天下計略への道を断たれてしまいました。
劉備は荊州南部の四郡をすばやく制圧し幕府を開き、これまでの流浪状態から初めて実質的に脱しました。そして、運命の転機というべきか、益州牧の劉璋から法正が使者として遣わされてきました。劉璋は劉備に援軍を申し込んできたのですが、事前に益州の重臣張松と密談していた法正は、
「援けていただきたいのは、益州の人民を、です」
と、なんと劉備に益州を奪ってほしいというのです。
益州に兵を進めたものの、劉備は一向に動こうとしませんでした。そして荊州に戻ろうとしていたところで張松の陰謀が劉璋にしれ張松は惨殺されてしまいます。それを知った劉備ははじめて益州攻略に取りかかるのでした・・・
凶事を知った劉備はめずらしく激怒した。これほど怒った劉備をはじめてみた龐統は息をのんだ。やがて龐統のほうに顔をむけた劉備は、
「策にはかならず上、中、下があるものである。上の策はすでにきいた。中と下の策をきかせてもらおう」
と、厳しい口調でいった。
――荊州へ帰るのではないのか。
劉備という人はわからぬ、と龐統は内心首をかしげた。いまから成都を攻めるのであれば、なぜ張松が生きているあいだに決行しなかったのか。張松が城門をあけてくれたかもしれない。劉備を益州のために迎立したがっていた張松の純正さは、死んだほうが輝きを増すというものであろうか。
これは春秋時代に国外に逃れた公子の重耳が、君主の位に即いてもよいのに、大臣である里克の招請を断って、たやすく祖国に帰らなかったのとおなじであろう、と龐統はおもった。重耳を迫害しようとした勢力を国内で一掃した里克が、どうぞ国にお帰りになってください、と人をつかっていったが、重耳は、血でよごれた里克を帰国すれば罰せねばならず、罰することをやめれば法が立たぬという理由で帰国しなかった。張松は里克に比(ちか)い。張松が生きている間に劉備が成都に入れば、張松のあつかいがむつかしい。厚遇することも冷遇することもできないということである。
――それで張松が死ぬのを待っていたのか。
もしもそうであるとすれば、劉備は人が悪いというより、恐るべき玄謀の人であるといえるであろう。その玄謀の人が龐統に中の策と下の策をきいている。
劉備は益州を手に入れ、曹操は魏王となります。いよいよ天下三分の世界が見えてきました。
【三国志 第7巻】目次
| 四郡 |
養虎 |
龐統 |
潼関 |
雨矢 |
馬超 |
| 法正 |
劉璋 |
成都 |
天府 |
張遼 |
魏国 |
【第六巻】(2007/10/7 掲載)
下に戯れ言を書いたら本当になってしまった・・・(笑)
第六巻は三国志のヤマ場の一つ、赤壁の戦いが起こります。でも、演義と違ってごく簡潔に描かれています。もちろん、諸葛亮が祈って東風が吹くということも出てきません。
劉備は荊州でくすぶっているときついに諸葛亮を得ます。「三顧の礼」として有名な場面ですが、これもあっさりしたものです。ただ、劉備と諸葛亮との出会いは運命的でした。
星空を見ていた諸葛亮は劉備の再訪を予言します。そして、寸土も持たぬ劉備に仕えるべきか大いに悩みますが・・・
諸葛亮は二日間苦しみつづけた。三日目に、容貌から苦悩の色を消し去った諸葛亮は、
「将軍のご到着である」
と、弟にいい、みずから門をひらいて出迎えた。
「臥龍先生か」
諸葛亮をはじめてみた劉備は、感に堪えぬような表情をした。劉備は無感動な男ではないが、感情の起伏を外貌にだすことはほとんでない。だが、諸葛亮を一目視ただけで、
――偉材だ。
と直感した。すべてが巨(おお)きく、陋(いや)しさがまったくない。しかも独特なやわらかさと皙(あか)るさをもっている。儒学の書物も読むようになった劉備は、捏(でつ)すれども緇(くろ)まず、とは、こういう人物をいうのだろう、と思った。
が、このとき、劉備を視た諸葛亮のほうがはるかに感動していた。異様に大きい耳と異常に長い手に愕いたわけではない。その声と目容から至上の淳美(じゅんび)を感じた。人為を超越してゆくことは、こういう人しかできない、とたちまち確信した。おそらく劉備はこれまでどのように生きてきたかということに無関心であり、これからもそうであろう。それゆえ劉備には失敗も成功もない。それらは人為の痕跡であり、劉備はその上に立たない。すなわち劉備に過去はない。ゆえに未来もない。現在、生きている人は未来にむかってすすんでいるようにみえるが、じつは過去を鏡として未来をながめ、背をみらいにむけてすすんでいる。諸葛亮とて例外ではない。が、劉備だけがちがう。だから稀有な人なのである。韓信は兵術だけは非凡であったが、世知は常識的であり、欲望もみかけよりも小さかった。それにひきかえ劉備は、非凡とはいえぬが、世知は無きにひとしく、欲望は有無がさだかではない。
――この人は、無であり空であるのだ。
過去の偉人でも、こういう人はいなかった。ゆえに前代未聞のことが為せる。為すのは劉備ではない。劉備のもとに集まった人々が為すのであり、その行為に世俗的な意義をもたせることができるのは、
――わたししかいない。
と、諸葛亮はすでにこのとき確信した。
手強さは相変わらずですが、いよいよおもしろくなってきました。挫折した人、もうちょっとの我慢ですよ(笑)
【三国志 第6巻】目次
| 袁譚 |
高幹 |
田疇 |
三顧 |
甘寧 |
長坂 |
| 魯粛 |
水戦 |
赤壁 |
江陵 |
合肥 |
巡靖 |
【第二期刊行】(2006/11/5 掲載)
次の刊行は前回から3年後と思っていたのに、裏をかくような2年後の第二期刊行です。とすると、3年・2年ときて、次回は1年後?(笑)
第四巻・第五巻は、曹操が黄巾の乱を制圧し、序盤のヤマ場である官渡の戦いに勝利するところまでで、いわゆるこれまで読んできた「三国志」の世界です。この頃には、呂布が董卓を殺しますが自らも曹操に敗れて殺され、(私の最も好きな武将の一人である)孫堅が横死し、その息子の孫策も死んでしまいます。天子を僭称した袁術は亡び、最大の勢力を保っていた袁紹は官渡の戦いで曹操に敗れて失意のうちに血を吐いて死んでしまいます。
曹操は皇帝を自らの許都に招いて覇者に最も近いポジションとなりますが、荊州の劉表はじめ孫策の跡を継いだ孫権などまだまだ群雄が割拠していて、「おもしろい時代」に突入です。
「三国志演義」の中では軽薄で親をも殺すような悪人に描かれている呂布のイメージがちょっと違っています。彼は典型的な儒教の人であり、勤皇の志士であり、その思いが強烈だというのです。一見悪者に見えますが、それはすべて皇帝のために取っている行動であるとのこと。劉備はじめその他の人物もイメージが違っていることが多く、それも本書を読む楽しみになっています。
しかし、だんだんと手強くなってきました。この分では、途中でリタイヤする人が続出しはしないかと老婆心を抱いていまいました(笑)
【三国志 第4巻】目次
| 兗州 |
鮑信 |
王允 |
賈詡 |
謀主 |
徐州 |
| 親友 |
済民 |
三城 |
鉅野 |
雍丘 |
楊奉 |
【三国志 第5巻】目次
| 孫策 |
素志 |
新都 |
張繡 |
僭号 |
高山 |
| 下邳 |
逐勝 |
密詔 |
対決 |
官渡 |
鄴県 |
(2005/5/1 掲載)
PICK UP (本の話より)
文藝春秋社のサイトに以下のページがありました。『三国志』の「特別付録」として添付されていたものなので、お読みになった方はすでにご存じでしょうが、まだの方はご参考にどうぞ。
(2004/12/11 掲載)
「演義」より広く深く(読売新聞 2004年11月30日夕刊)
三国志に挑む 宮城谷昌光さん
読売新聞に上記のインタビュー記事が掲載されていましたのでご紹介しましょう。
史実と向き合い「人間とは」問う
吉川英治ら過去の作家が描いた「三国志」は大半が、講談を元に明代に成立した小説「三国志演義」がモデル。だが宮城谷版はあえて、三国時代直後に書かれた歴史書「三国志」に基づいている。
「史実をおもしろおかしく潤色した『演義』より、もっと広く深い世界を知りたくなった。後世の民衆の意志が投影された演義ではなく、王朝史に主眼を置かないと歴史の正像が見えないこともある」とその理由を語る。
(中略)
一、二巻は後漢王朝そのものを主人公に、皇后の一族・外戚や皇帝に最も近い宦官が国政を私物化し、滅亡に導く物語として読める。巨大な権力が腐臭を放ち、愚行を繰り返していくさまはすさまじい。
「死を覚悟して皇帝に忠告したり、権力に逆らって忠義を立てた人々がいたことが、長いものにまかれろ式の日本とは違う中国史の面白いところ。簡単に改革できるのに組織が愚かなことを繰り返してしまうこともいい教訓です」
黄巾の乱が起き、天下が麻のごとく乱れる二巻後半からは若き日の曹操、劉備らお馴染みの英傑たちが動き始める。王朝を乗っ取り破壊し尽くす大悪人、董卓を、中華全土を草原に返し、王朝の上下関係をなくしてしまおうとした男として捉えるところに、単純な勧善懲悪を超えたこの作家の慧眼がある。
そして反董卓の群雄が挙兵する中で、軍事力、人気とも一番だった名門の袁紹は、何度も好機を逃し、宦官の子孫としてさげすまれた曹操に敗れていく。
「素早く決断すれば間違いも正解になる。結局リーダーは決断者でないとだめ。迷っていて何もしないのは最悪です」
正史に基づくだけに、魏の実質的な建国者、曹操を中軸とした物語になっていくことが予想される。だが、執筆を続けながら、ライバル、劉備の思想的面白さに気付き始めたという。「儒教的顔を装うことはあっても、結局、自分は自分でしかないと割り切った道教的な悟りがある。相当、哲学的な人ですよ」
第一巻刊行直後に、これまでの業績に対して菊池寛賞の受賞も決まった。しかし、三国志の雄大な物語はまだ始まったばかり。蜀が滅亡するまでと考えているが、何年、何巻まで要するかは作家本人もわからない。
「史実に誠実に向き合いながら、何が正しいか考えることが小説家にとって大切なこと。それは、つまり人間とは何かを考えること」。確かなのはその思いが貫かれていくことだけだ。
【第一期刊行】(2004/11/28 掲載)
文藝春秋で連載開始後3年半、待望久しかった本書がやっと刊行されました。しかし、第一期刊行分の3冊のみです。全部揃ってから読み始めようか・・・とも思ったのですが、誘惑に負けてしまいました。しかし、途中までとはいえ、期待を裏切らない作品でした。
第一巻から第三巻は、後漢王朝の第四代和帝の時代(88年頃)から始まり、第十四代献帝(189年頃)までのお話です。これまでの「三国志」では黄巾の乱の頃から始まるのが普通でしたが、本書ではなんとその百年前、約一冊半も前からスタートしています。
連載途中でいろいろな情報を多少得ていましたが、最初の方では後漢王朝の始祖、劉秀(光武帝)の時代の話にまで遡っているのにびっくりしました。宮城谷さんいわく、後漢王朝のことを知るためにはどうしても始祖である劉秀の考え方を知らなければならないということです。
高祖劉邦が建てた漢王朝は、一旦王莽により滅んでしまいます。本書では劉秀についてこう書かれています。
光武帝は、いわゆる優秀な官吏に疑念をいだいた人である。かれらはそろって博識多聞でありながら、王莽の偽善をみぬけず、王朝を崩壊させてしまった。知識の力は邪悪をのぞいて正義を樹てる力にはならない。ほんとうに政府にとって必要な人とは、孝廉から心力を得た人をいうのではないか。つまり、光武帝は道徳を重視したのである。
この、官僚の能力を重視しないところに後漢王朝の特色があり、ひいては後のいろいろな弊害を招いていくことになります。詳しくは読んでからのお楽しみですが、外戚や宦官が力を持って国の力を衰えさせてしまうのです。(まぁ、後漢王朝に限ったことでもありませんが)
「三国志」の特徴はその登場人物の多さとその多様性にあると思います。ちくま学芸文庫の正史『三国志』には人物索引が載っていて便利なのですが、一ページ二段組みでなんと91ページにもなっています。全部数えたわけではありませんが、4〜5千人は載っているのではないでしょうか。このスケールの大きさが魅力なのですが、逆に取っつきにくさになっているのかもしれません。
宮城谷さんは正史三国志をベースに書いておられるので、吉川英治さんの『三国志』をはじめとする『三国志演義』をベースにしたものとはかなり違っています。『三国志演義』に登場するいかにも作られたようなエピソードはありませんし、登場人物の描き方も相当違っています。『三国志演義』では劉備が正義で曹操が悪者とはっきりと書かれているのですが、歴史を客観的に見るとどうしてもそうは見えません。やはり最終的な覇者である魏が正義だろうし、私は武だけでなく文の能力も高かった曹操の魅力は大きいと思っています。
ということで、物語はまだまだ緒に就いたばかり。これからどういう展開になるのか楽しみです。
【三国志 第1巻】目次
| 四知 |
諸賢 |
没落 |
謳歌 |
天意 |
廃替 |
| 栄枯 |
謀計 |
光明 |
寵栄 |
八俊 |
順帝 |
【三国志 第2巻】目次
| 急逝 |
虎狼 |
酣歌 |
曹騰 |
五侯 |
争臣 |
| 李膺 |
竇武 |
党錮 |
黄龍 |
霊帝 |
黄巾 |
【三国志 第3巻】目次
| 戦乱 |
涼州 |
米賊 |
何進 |
兄妹 |
董卓 |
| 義挙 |
汴水 |
再起 |
孫堅 |
冀州 |
界橋 |
(2004/10/9 掲載)
曹操と劉備 三国志の世界(文藝春秋 11月号)
いよいよ10月14日から待望の宮城谷『三国志』が刊行されますが、文藝春秋に全12頁の「特別講義」として本文が掲載されました。その中で、私が面白いと思った部分をご紹介しましょう。(他にも面白いことがたくさん書かれていますので、興味をお持ちの方は本誌をお読み下さい)
【正史から見えてくる広大な世界、英雄達の素顔】
「三国志」の世界は、知れば知るほど広大で、小説でも書ききれないほどの興味深い人物が次々に登場します。そこで、今日は小説とは少し違った角度から、「三国志」についてお話ししてゆきたいと思います。
(中略)
袁紹に逃げられた董卓は、後任に宣璠をあてます。この宣璠とはどういう人なのか。これまで書かれたきた三国志物語では、まずかれのことはでてこないと思います。正史の『三国志』董卓伝には宣璠のことが少し書かれていまして、董卓が洛陽から長安に都を移そうとしたときに、楊彪という人物の反対に遭います。この楊彪は、後漢の名臣、楊震の子孫です。董卓は楊彪を非常に煩わしく思って、宣璠を使い、今起こっている災害異変は楊彪のせいだ、という弾劾の上訴を行わせる。それによって、楊彪は罷免されてしまいます。
こうしてみると、宣璠は典型的な佞臣といえる。ただ、宣璠をそうかたづけてしまってよいのか、というと、私はそんなに簡単なものではないと思います。かつて、ある中国の人と話をしていて、話が周恩来に及ぶと、その人は「周恩来は毛沢東の佞臣である」と一言で切り捨てました。なるほど、歴史は生き物だなと思いました。後世のレッテル貼りを安易に信じてはいけない。佞臣として扱われている宣璠も、実際には董卓にとって非常に重要な補佐役であったのかもしれません。私が正史の『三国志』が好きなのは、こうした歴史の切実な一面が垣間見えいろいろなことを考えさせてくれるからです。
(中略)
丁原、董卓と二人の義父を殺した、と劉備に批判された呂布が、曹操に向かって、「この男(劉備)も同じではないか」と言う有名な場面がありますが、劉備に比べれば、呂布の方がずっと儒教的なまともな人です。
こうした劉備の生き方も、同じことは二度繰り返されることはない、そのときそのときの状況に合わせて、自分の主我を貫くという道教的な思想が核にあると考えると、よく理解できる。劉備があまりことばを残さないのも、道教的です。昨日と今日とは同じではないのですから、前の言動にこだわることも縛られることもない。つまり、ことばを信じていないのです。
ところが、曹操はそうではありません。通常のイメージでは、曹操こそ不羈(ふき)の自我を持った人間で、自分の考えをどこまでも通した人のように思われていますが、じつは、曹操は妥協を重ね、自分を殺し、社会性を重んじたリーダーなのです。その証拠に、曹操は自分を裏切った人間を何人も許しています。社会にとってこの人物が有能だと思えば、自分の感情を殺す。
(以下略)
(2002/1/14 掲載)
三国志、そして中国を語る(文藝春秋 2月特別号)
ここのところ、宮城谷さんの作品から遠ざかっていますが、文藝春秋でこんな記事を見つめました。ご存じかと思いますが、宮城谷さんは文藝春秋に「三国志」を連載中です。宮城谷さんのお口から直接このようなお話を聞くことができるのは楽しみですが、残念ながら私は行くことができませんでした。2001年8月18日、よみうりホールでの講演会です。
以前、オール讀物のインタビューで語っておられたことと重なりますが、日本人がこれまで親しんできた「三国志演義」のように190年頃、董卓の横暴に対して群雄が集まる、という頃からではなくて、もっと前から書き始められた理由などを語っておられます。他にも裏話的な興味深いことをお話になっておられますので、宮城谷ファンの方にはご一読をおすすめします。(全9頁)
【文藝春秋 創刊80周年特別講演会】
(前略)
しかし、最終的に覇者となったのは、当時の有力武将であった袁紹たちではなく、曹操でした。どうして彼らは後発の曹操に抜かれてしまったのか。人の持っている力、それは能力とか徳とかいろいろな言い方をされます。徳という言葉は、魅力と言い換えてもいいですね。徳、あるいは魅力の正体とは何か。どんな魅力を備えた人物が、天下に覇を唱えることが出来るのか。
「三国志」の英雄のなかで、これについて一番明快な答を出しているのが曹操ではないかと私は思います。史料を読んでいて一番不思議なのは、曹操のもとに優れた人材がどんどん集まってくることです。曹操は決して優しい人ではないし、嫌いな相手には徹底的に厳しい仕打ちをします。にもかかわらず人材が集まってくる理由が何かあるはずなんですね。
そのもっとも典型的な例として、荀ケが挙げられます。
(以下略)
(2001/05/27掲載)
三国志の沃野に挑む(オール讀物6月号)
ついに宮城谷さんが『三国志』連載に着手されました。それに先だって行われたインタビュー記事ですが、なかなか興味深いお話が多いです。冒頭に「四知」という言葉を持ってきた理由とか、楊震という人物から書き始められた理由などを述べておられ、宮城谷さんファン+三国志ファンの方には必見です。(全8頁)
「文芸春秋」誌上で待望の新連載を開始した著者が語る、大歴史絵巻の豊穣なる世界
(前略)
―― 大型連載開始ということで、反響も非常に大きいですね。
会う人会う人、みな『三国志』の話ばかりでして。正直、私自身も驚いています。
―― 宮城谷ファンからすると、ついに本丸≠ノ至った、そういう感じがあるのかもしれません。
それはどうかわかりませんが、これまで古代から春秋戦国期までを描いてきまして、それがほぼ一段落する時期ではあるんですね。いずれ『三国志』は書きたいと思ってきましたし、十年ほど前からその準備はしてきました。
(以下略)
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