新三河物語
| 忠茂 | ┬忠平[ただひら] | ||
| ├忠俊【新八郎・五郎右衛門】 ≪常源≫ |
┬忠勝[ただかつ]【新八郎・五郎右衛門】 | ─康忠[やすただ]【新八郎・五郎右衛門】 | |
| │ | ├忠政[ただまさ]【三郎右衛門】 | ─忠栄[ただよし]【甚十郎】 | |
| │ | ├忠吉[ただよし]【四郎右衛門】 | ||
| │ | ├忠豊[ただとよ]【喜六郎】 | ||
| │ | ├忠益[ただます]【与一郎】 | ||
| │ | ├忠直[ただなお]【権十郎】 | ||
| │ | ├忠岡[ただおか] | ||
| │ | └忠宗[ただむね] | ||
| ├忠次[ただつぐ]【左衛門次郎】 | ┬忠重[ただしげ]【甚兵衛・八郎右衛門】 | ||
| │ | ├忠政[ただまさ]【四郎五郎・四郎兵衛】 (阿部定次の養子) |
─忠宣[ただのぶ]【四郎五郎】 | |
| │ | ├忠成[ただなり]【久右衛門】 | ||
| │ | └昌長[まさなが]【与六郎】 | ||
| ├忠員[ただかず]【平右衛門】 | ┬忠世[ただよ]【七郎右衛門】 | ─忠隣[ただちか]【千丸・新十郎】 | |
| │ | ├忠佐[ただすけ]【治右衛門】 | ||
| │ | ├忠包[ただかね]【大八郎】 | ||
| │ | ├忠寄[ただより]【新蔵】 | ||
| │ | ├忠核[ただざね]【勘七郎】 | ||
| │ | ├忠為[ただため]【彦十郎】 | ||
| │ | ├忠長[ただなが]【甚九郎】 | ||
| │ | ├忠教[ただたか]【平助・彦左衛門】 | ||
| │ | ├忠元[ただもと]【弥太郎】 | ||
| │ | └九平次 | ||
| └忠久[ただひさ] | ─忠政[ただまさ]【三郎右衛門】 (忠俊の次男) |
─忠栄[ただよし]【甚十郎】 |
元康の父の広忠と祖父の清康は、信義と勇気に欠ける者を侮蔑したことはあるが、弱い立場の者をいじめたりさげすんだりしたことはない。岡崎松平家の家風は、惰性にあたたかさとあわれみがある。それが政治の根幹でもあった。
――人は徳にしか頭をさげない。
というのは中国哲学であるが、強大な武力や権力に多くの人々は頭をさげてみせるが、それはうわべだけのことである、と元康はたれよりもよく知っていた。長い人質生活が、教訓をさずけてくれたのであり、人とは何であるかを熟考させてくれた。栄華のただなかにある義元に心服していない自分がある、というのがすべてであるといってもよい。義元が戦死したらしいと知ったとき
――なるほど、人とはそういうものか。
と、強烈に納得した。義元は信長に殺されたのではなく、自滅したのだ、というのが元康の正直な感想である。義元には徳がなかった。僧侶あがりの義元に、徳とはいかなるものか、わからないはずはないのだが、還俗して守護の席に坐るや、それを忘れた。徳を失えば、人が離れてゆき、孤独となる。人は独りでは生きてゆけない、というのが世の定理であるとすれば、独りになった義元は斃死せざるをえなかった。合戦がなくても、早晩、義元に死は必至であった。
――こころせねばならぬ。
岡崎の家臣団はどれほど今川に酷使され搾取されても、耐えに耐えて、元康の帰りを待ちつづけてくれた。祖父の徳のおかげというほかない。遺徳ほど大きな遺産はない。家臣団を率いて大高城を出た元康は、そんな認識から発したのである。
忠隣の処罰は、すでに十月に決まっていたとおもわれる。十月に武蔵の川越で放鷹を楽しんだ家康は、旅館に藤堂高虎を召して密談をおこなった。密談の内容はおもに大坂城攻めの支度であろうが、忠隣についても話題にのぼらせた。このあと、無実の罪を捏造された忠隣は改易となります。謫所にいる忠隣は家康に向かって、二度無実を訴えますが、赦免はされませんでした。
「相模守は、なにを血迷うたか、石見守と共謀して外様大名を糾合し、大坂に通じて、天下を転覆させようとしている。もっとも相模守の父は、讒言をもって織田に信康を売ったような陋劣な者で、予が若いころに、徳川家はわれらが支えているのであり、殿おひとりの徳川家ではない、と予を恫[おど]したことがある。大久保は父子そろって不遜であり、姻戚からも、天を恐れぬおごりものがでた。悪の根は枯らさずばなるまい」
これが七十二歳の家康の一面である。
(中略)
「そこもとには京都に屋敷があろう。そこで相模守をあずかってもらおう」
と、家康は高虎にいった。家康の脳裏にある忠隣はすでに罪人である。
しかしながら忠隣は諸大名に信望がある。いきなり処罰をおこなうと家康の恣行とみなされ、幕府の公正さに疑いをもつ者がふえるかもしれない。すなわち、忠隣は罪を犯したと明示して、諸大名を納得させなければならない。そう考える家康はすでに策謀家である。この家康の意[おも]いを実現させるのが、奸計に長けた本多正信である。むろん本人は家康のためにつかう知恵を悪知恵であるとはおもっていないであろう。
大久保忠隣には天下国家のことはわからず、ただ威福を私有し、次代の将軍家を誤らせるにちがいない。それゆえ将軍の輔弼の席からおろして、追放する。それのどこが悪いか。おそらく正信はそう反論するであろう。
――すべては大御所さまのご意向なのである。
正信は道具にすぎない。だがこの道具は、しばしば無実の者を削損してゆくときに使われる。家康の不明を匡[ただ]す道具にはならなかった。
忠隣のもとに秀忠の使いがきたのは、家康と正信の死後である。無実の申しひらきをせよ、と将軍が勧めてくれたのである。だが、あれほど身の潔白を訴えていた忠隣が、
「もしもご赦免をこうむれば、ご公儀のあやまりを顕[あらわ]すことになります。わが身を立てるために、ご政道をゆがめてはならぬのです。われは配謫の身にていのちを終わるとも、わが忠誠は、天が鑑[て]らしてくれるでありましょう」
と、ことわり、腰をあげなかった。それをきいた秀忠は涙を流した。