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同人誌「歴史研九」
掲示板「教育を考える」 11/09/13 :386,000
2011年11月12日(土)
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オタクのための安全保障基礎知識 第9回 クレフェルトの「戦争文化論」(その8)
第二〇章 フェミニズム
クレフェルトは女性の存在を戦争と不可分のものとしている。なぜならば、もっとも原始的な戦争の動機は女性の獲得だったからだ。(Gリング注:「サビニ女の略奪」が好例。古代ローマは男だけで建国されたため、女がいなかった。ローマの男達は隣接するサビニ族の集落を奇襲し、女達を強奪して妻とした。ピエトロ・ダ・コルトーナ画)
女達は戦場に向かう男達を鼓舞し、戦場から戻った男達を慰撫し、戦場から戻らなかった男達の為に悲嘆した。
ゆえに、戦争文化から女性を除外することはできない。
しかしクレフェルトは、女性は兵士になれない、なるべきではなく、するべきでもないと主張している。フェミニズム(男女同権・性差別撤廃)が一般化して女性軍人の登用も進む現在、クレフェルトのこの主張は大学教授である彼の講義でも女学生や女性教員から激しい非難を浴びたというが、クレフェルトは以下の理由から女性は兵士に適さないとしている。
1.兵士となった女性は「女らしさ」を失い、男性にとって魅力的な存在ではなくなる。
2.女性は身体的に男性に劣る。兵士としての戦闘能力が低い。
3.複数の兵士からなる部隊の能力は、その部隊の中で最も低い能力の兵士(女性兵士)の水準に引き下げられる。
4.女性は男性に比べて衣食住にかかるコストが高い。
5.男女を混合した部隊では女性兵士が常に「手助けされる」存在となり、部隊内の公平性を維持出来ない。
6.女性の命は男性の命より価値が高いので戦場で失われるべきではない。
至極もっともな主張であると同時に、現代の「常識」に対する大胆な挑戦である。
以上で、マーチン・ファン・クレフェルト著『戦争文化論』のレヴューを終える。本書はクラウゼヴィッツが提示した『戦争とは政治の延長である』という19世紀以来の「常識」を、『戦争とはスポーツの延長であり娯楽の一環である』という18世紀以前の「通説」を用いて現代の視点から反証しようという野心的な著作であり、「戦争の本質」を考察する者なら必読の一冊である。
戦争文化論・上巻(定価 2400円) 戦争文化論・下巻(定価 2400円)
2011年11月1日(火)
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環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に関する一私見(その2)
東西冷戦構造の崩壊後、中国は目覚ましい成長を遂げる。中国の国力は人口そのものである。膨大な人口は莫大な労働力であり、巨大な市場である。しかし、中国にもない物がある。それは13億人にのぼる人口を支える資源・物資である。中国は自国の成長と維持に必要な資源・物資の確保に、古典『兵法三十六計』の一つである第二十三計『遠交近攻』を用いた。海洋資源を巡って東シナ海・南シナ海では軍事力を行使して領有権を主張し(近攻)、アフリカや中央アジアに多額の資金を投資して地下資源・食糧資源を確保する(遠交)。
中国の政策は覇道の正道を行くものであるが、それは「唯一の超大国」としてパクス・アメリカーナ(アメリカによる平和)を実行するアメリカにとって脅威である。地政学では「内陸国は大陸軍(ランド・パワー)を維持できるが、大海軍(シー・パワー)を保持できない。海洋国は大海軍を保持できるが、大陸軍を維持できない。」という法則がある。アメリカは北米大陸の内陸国でありつつ、太平洋と大西洋に囲まれているため海洋国でもありえた。そのためランド・パワーとシー・パワーを両立するという偉業を成した。本質的に内陸国であり大海軍を保持できなかったソ連がアメリカに敗れた理由である。
その地政学的見地では、中国は内陸国であり大陸軍は維持できても大海軍は保有できない、極東の制海権は握れない、と考えられていた。アメリカがフィリピンにスービック海軍基地・クラーク空軍基地を持ち、中国海軍自体も弱体な海防艦隊に過ぎなかった20世紀後半には、その理論が通用した。しかし、21世紀に入り中国海軍が莫大な予算を投じて沿岸海軍から海洋海軍、遠洋海軍へと進化を見せる。前述したように東シナ海、南シナ海で中国が支配権を拡張した場合、中国はランド・パワーで東アジアを征し、シー・パワーで東南アジアを征することになる。これら東アジアの太平洋湾岸地帯を地政学ではリムランド(縁辺部)と呼ぶ。
地政学者ニコラス・スパイクマンの提唱したリムランドとは、ユーラシア大陸の西の縁辺(ヨーロッパ半島〜地中海〜アラビア半島)と東の縁辺(中国沿岸〜インドシナ半島)を指す。スパイクマンは「リムランドを制するものはユーラシアを制する。ユーラシアを制するものは世界の命運を制する」と述べ、超大国の米ソが世界の覇権を二分するには、リムランドを分割して統治する(東西ヨーロッパの分裂、親ソ親米のアラブ諸国、日本-韓国-台湾の親米諸国と中国-北朝鮮の東側諸国)ことが重要だと述べた。
しかし、21世紀の中国はこのリムランドを掌握しつつあり、遠交近攻策によりユーラシアでの覇権に近づきつつある。通常軍備を縮小し続けるアメリカが、世界の覇権を維持するにはこの新たな「帝国」の出現を封じ込める必要があった。そのための格好の方法としてアメリカの前に現れたのがTPPなのである。TPPとは、太平洋に面する諸国が自由に貿易するための経済政策ではなく、中国にリムランド(西太平洋地域)の掌握を許さず、中国を再び内陸国に押し戻すための極めて軍事的な外交戦略なのである。
ここでTPPと日本との関係に立ち戻る。前述のFTAAP構想はアメリカから一笑に付された。(FTAAPは2004年に提唱された時点ではアメリカも評価していたが、中国の脅威によって状況は変化した。)一方でアメリカはTPPへの加盟交渉について可否の回答に期限を設けた。これは何を意味するのか。
政権が自民党から民主党に移行した後、日本の外交政策は明らかに中国寄りの姿勢を示し始めた。これはアメリカにとって看過できない事態である。日本列島はアメリカのシー・パワーをアジア・リムランドに波及させるための欠かせない砦だった。その砦が、「対米追従を改めた独自外交」を名目に掲げつつ、迷走外交を始めたことはアメリカの国務省・国防総省にとって重大な問題だった。アメリカの示したTPPへの交渉期限とは、即ち「踏み絵」である。
これからもアメリカと歩みを共にしていくのなら「参加」。アメリカに見限られても中国に従うのなら「不参加」。TPPへの加盟是非を巡る議論とは、今後の外交パートナーにアメリカを選ぶのか中国を選ぶのか、という議論でなくてはならない。農工業産物の関税に関する具体的な問題は、加盟交渉に参加して始めて論じられる問題であり、それは外交官(Diplomat)の仕事場である。そこでいかに自国に有利な条件を引き出す事が出来るかが、その国の外交力を発揮する場となる。経済団体や農業団体、それらの族議員は今声を荒げるべきではない。彼らの仕事は交渉開始後に優秀なロビイストを交渉の場に送り出す事だ。
そして加盟の是非を巡る議論に戻ると、私見としては政府の方針通りTPP加盟交渉に「参加」するべきである。その理由は御用学者や閣僚の発言を真に受けているからではない。日本の外交的パートナーは今後もアメリカであるべきであり、中国には信頼を置けないからだ。繰り返しになるが、農業問題や医療問題は今論じるべきではない。その労力は交渉の過程で発揮して欲しい。
以下に、自分の主張にある程度近い(等しいわけではない)ものを引用して注釈する。
社説:TPP反対論 米国陰謀説は的外れ - 毎日jp(毎日新聞)
陰謀説などというものが本当に流れているならお笑い種である。しかし記事の論調は経済問題を主軸に置いており、「アメリカはTPPを究極的にはAPECの枠組みまで拡大しようとしている」という。しかし、これは前回冒頭で述べたように「小国の互助会」だったTPPを「覇権の手段」としてかっさらったアメリカにとってこれはありえない想定である。少なくとも安全保障を含む外交政策としては、ありえない。
内田樹氏の知らない比較優位 - 池田信夫blog - BLOGOS(ブロゴス)
こういう議論が、国民を混乱させ、業界を煽り、世界から日本が「あの国はだらしねえな」と侮蔑の目で見られる理由である。経済学者はマネーの理論と動向に敏感だが、マネーが動く多くの理由は軍事であり外交であるという本質を理解していない。総統閣下風にいうと、「池田先生は経済学を御存知だが、クラウゼヴィッツを御存知ない」ということになる。
2011年10月30日(日)
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環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に関する一私見(その1)
献辞:大衆を煽るバカ達に捧げる。
交渉参加のタイムリミットを前にして、にわかに環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)に関する論戦が活発になってきた。
傍から見ていて賛否両派の論点が噛み合っていないように思えるのは、TPP交渉賛成の主論陣が産業経済学者(特に第2次産業の生産輸出業専門家)とそれを論拠とする財界及び財界の支持を受けた政治家であるのに対し、交渉反対の主論陣が農業産業学者(特に国内農業保全論者)、医学者(特に医療産業学者)とそれを論拠とする農業生産者団体・医師会及びその支持を受けた政治家である。個別の問題について是非を論じても業界利益を代弁するだけで噛み合うはずがない。
しかし、TPPの構図を俯瞰で見ればTPPとは産業問題でもなければ農業問題でもない。まして医療問題でもあろうはずがない。TPPとは経済外交協定であり、究極の目標はアメリカを盟主とした「環太平洋共栄圏」の創設である。ニュース番組のTPP特集を騒がせているのはTPP交渉の当事者ではない。まあせいぜいが利害関係者、あるいは生半可な知識で専門家ぶっている評論家と呼ばれる下世話な連中の下品なアジテーションでしかない。
本稿では、TPPを外交戦略として捉え、かつそれを軍事的なアプローチで分析したい。
TPP問題の本質を分析しその将来を予測するためにはその成り立ちから現在までの経緯をざっと振り返る必要がある。
2006年5月。シンガポール、ブルネイ、チリ、ニュージーランドの4か国が経済競争力の向上を目的として全製品の関税を撤廃し、公共事業ヘの入札権、金融、医療、労働規制の非関税障壁を撤廃した。これは当時のユーロ圏に習った措置である。これら四カ国の経済競争力は隣国のオーストラリア、アルゼンチン、マレーシア、タイに比べて大きく劣る。しかし、四ヶ国が一体となって経済活動を行えばシンガポールの金融市場、ブルネイの地下資源、チリ・ニュージーランドの食糧生産が無関税に取引される。ブルネイは輸入食物の高騰に悩まされず、シンガポールの金融会社はブルネイとチリの豊富な地下資源に商品価値を見出し、ニュージーランドはオーストラリアとの価格競争に悩まされずに住む。
このように当初のTPPは一長一短を持つ小国同士が内需によってバランスよく経済発展するための地域経済協定に過ぎなかった。
ところが、超大国アメリカがこの経済協定に強い関心を示した。2010年、当初のTPPがいわば「仮想敵」と見なしていたアメリカ、オーストラリア、ペルー、マレーシアがTPPへの加盟交渉に加わり、さらにアメリカが議長国の椅子に座った。これによりTPPは真の意味で「環太平洋地域連携」となったのである。
アメリカがTPPに加盟した背景には、18世紀から続くアメリカの対外戦略を知る必要がある。18世紀・西部開拓時代のアメリカは「フロンティアへの前進」(北米大陸を横断して太平洋岸に達すること)を国家戦略に位置づけていた。この政策は南北戦争の勃発と終戦によって完結する。西部に巨大都市を次々と作ったアメリカは19世紀初頭にはアメリカ一国内で需要と供給を賄いえる体制を築いた。
その結果生まれたのが「ポスト・モンロー主義」(南北アメリカ大陸の一国支配政策)である。そして列強の植民地であった南米諸国が独立するとアメリカはポスト・モンロー主義に基づいて南米の再植民地化(アメリカの裏庭化)を進める。そのほとんどは戦争によるもので、アメリカはこのとき初めて対外進攻のノウハウとメリットを修得した。そしてモンロー主義とは相反するものながら、極東の地にフィリピンという巨大な植民地を得たのである。
20世紀前半のアメリカは「フロンティアへの前進」と本来の「モンロー主義」(アメリカ勢力圏の孤立政策)の板挟みにあった。西海岸に到達し、南米大陸を支配したアメリカの経済界はさらに太平洋を西に進んで中国、日本、インドという巨大市場に乗り出そうと考える。ただし、これは軍事的な勢力伸張ではない。アメリカ軍部は米西戦争で得たフィリピンに陸軍を置き、同時期に併合したハワイに海軍を置けば経済活動の安定化は十分だと考えていた。そして政府と軍部は緊張するヨーロッパやアジア情勢から距離をとって栄光ある孤立を守ろうとしていた。
このアメリカの対極東経済政策と真っ向からぶつかったのが、ロシア帝国を破り中国大陸に地歩を固める大日本帝国だった。極東の市場が欲しいアメリカと、極東の資源が欲しい日本の主張は相容れることはなく、早晩両者は軍事衝突に至った。太平洋戦争の勃発である。
この戦争を奇禍として、ヨーロッパ戦線に息詰まっていたヒトラーのドイツがアメリカに戦線を布告。内心でモンロー主義を放棄したがっていたルーズベルト大統領にとっては願ったりかなったりの状況となり、アメリカは巨大な工業生産力をフル稼働させ、アメリカ主体による連合国の勝利をもたらす。戦後、数ヶ月の蜜月を経て米英はソ連と敵対し、東西対立構造が生まれる。この東西対立を世界地図で眺めると、西側世界はアメリカ大陸を中心に太平洋の西岸一帯(日本・韓国・台湾・タイ・オーストラリア)、大西洋の東岸一帯(西ヨーロッパ諸国)まで広がっており、東側世界はその両翼に包囲されてほとんど海と接しない内陸地帯という図式になる。
冷戦構造とは、ベルリンの壁を挟んで二百万の陸軍がにらみ合う状況や、東太平洋で大艦隊同士が威圧する構造ではなく、アメリカが全地球的な規模で海洋支配を実現した構造だった。
20世紀終盤から21世紀初頭にかけて。冷戦の終結と東西対立の解消、それによるグローバリズムの進展と、ヨーロッパ、南米、アジアにおける地域主義(その際たるものがEUの成立)、そして何よりもイデオロギーの束縛から解放された中国の経済力と軍事力の恐るべき成長が、アメリカに新しい戦略を必要とさせた。
中国とアメリカの関係は、かつての大日本帝国とアメリカのそれに似ている。違う点はいくつかある。一つ、かつての日本帝国は物資面でアメリカに依存していたがアメリカは特に日本を必要としなかった。しかし、今の米中は互いに市場として依存している。二つ、かつてのアメリカは日本の封じ込めに軍事力や経済・金融政策を集中できたが、今のアメリカは軍事力を中国一国に集中できず、中国を封じ込める経済・金融政策を実施する実力がない。
これにはアメリカが冷戦終結後、唯一の超大国となってしまったため、世界の警察官としてあらゆる地域紛争への介入を準備し、ときに実行する必要が発生したことが大きな原因として存在する。高騰する兵器の調達価格にかつてのような軍拡は望めず、全世界への緊急展開能力を持つフットワークの軽い少数精鋭の軍隊へと転換を進めるアメリカ軍に対し、中国軍は三十年前の米ソのように新型兵器を続々購入し、アメリカ・日本・韓国より質は低くても数で圧倒する軍拡を進めている。
また、米軍の軍縮傾向は軍需とその関連産業に大きく依存してきたアメリカの産業構造にも打撃を与えた。それが現在のアメリカの不況、アメリカが強い金融政策を打ち出せない遠因ともなっている。
ここで、TPPに大きな影響をもつ別の国、中国について考察する。冒頭に述べたようにTPPはアメリカ主導の「環太平洋共栄圏」であるが、これは同時に中国を仮想敵として捉えたかつての日本に対する「ABCD包囲網」のような外圧政策でもある。菅前首相はアメリカのTPP加盟宣言から五ヵ月後、「中国・ロシアを含む」アジア太平洋自由貿易圏(FTAAP)を提唱したが、これはTPPの本質と米中の地政学的対立を考慮しない浅薄な発言だった。
(次回に続く)
2011年10月26日(水)
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オタクのための安全保障基礎知識 第8回 クレフェルトの「戦争文化論」(その7)
第一九章 気概を失くした男たち
ここで言う「気概を失くした男たち」とは、戦争文化をもたないか、あるいは戦争文化を軽蔑し、挑発されても立ち上がって自分の身を守ろうとしない男たちのことである。平和な時期には極力、目をそらす。戦争が始まれば武装して戦うことはせず、隠れるか逃げるか、神に祈る。さしあたってどちらが原因でどちらが結果かということは重要ではない。ちなわち、戦争文化を無視することが戦意の喪失を招くのか、あるいはその逆かはどうでもいいことだ。上記は章冒頭からの引用である。戦後日本人としては実に耳の痛い言葉である。
クレフェルトは「気概を失くした男たち」として自らの出自であるユダヤ人を取り上げて解説している。『旧約聖書』やフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』が示しているように、ユダヤ人は好戦的で勇猛な民族だった。モーセ、ダビデ、ソロモンに代表される優れた指導者の下で地中海東部沿岸域に一大勢力を築いた。しかし、当時の敵対国・バビロニア王ネブカドネザル二世によるバビロン捕囚とイスラエルからの離散政策(ディアスポラ)によってユダヤ人のアイデンティティは大きく損なわれる。
その後、小アジア各地に離散したユダヤ人は再びイスラエルの中心地・聖地エルサレムに帰還し、一世紀にはローマ帝国の衛星国ではあるがヘロデ王のもとで独立を回復する。しかし、ヘロデの没後、ローマとユダヤは対立を深め戦争に至り、壮麗な神殿都市エルサレムは徹底的に破壊された。再びユダヤ人はディアスポラの憂き目に遭い、ユダヤの男たちは気概を失くしたのである。
戦う勇気を放棄する事は、信仰だけを頼りにして民族の独自性を守るために必要な別の勇気だったが、それは戦争文化の問題ではない。気概を失くし、戦争文化を放棄したユダヤ人は戦争を避け、自己の保身と生存を最優先にした。他民族が誇りを持って軍役に臨む中で、他民族諸国の中の少数民族であるユダヤ人は軍役を免除され、もっぱら経済的負担のみを求められた。その結果、ユダヤ人に対する外見及び内面の特徴は卑屈で矮小なものに貶められていった。ユダヤ人自身も軍役を避ける方便としてその評価を受け入れた。その結果、19世紀には
ユダヤ人は扁平足で鼻が大きく、斜視で背も曲がり、胸はへこんでいると言われた。丸みを帯びた女性的な身体をしているとも言われた。まっすぐに立って元気よく歩くことも、はきはきと話すことも。人の顔をまともに見る事もできない。まして戦場で要求される激しい肉体活動や耐乏生活などできるわけがない。気儘で命令に従うことも命令をくだすこともできないユダヤ人には、他の人と協力して軍を組織し、訓練し、一致団結した行動をとることなどできるわけがない。(本文引用)ナポレオンの登場と国民国家の出現後、ユダヤ人にも軍人となる可能性が開けたが、その道は険しく困難だった。フランス軍のボーンフォンド将軍は「ユダヤ人は望まれてない」としてアルフレド・ドレフュス大尉を参謀本部に登用しなかった。ヴァルター・ラーテナウは兵役に就くユダヤ人の若者に「君の肩幅は狭いし、足は不格好、しまりのない体つき。何世代かかけて顔つき、体つきを改善しなさい。」と酷評している。シオニズムの始祖テオドール・ヘルツルさえユダヤ人を「無力で女々しく勇気のない貧弱な体格の民族」とみなしていた。
この失われた気概を取り戻すのに尽力したのがゼエヴ・ジャボチンスキーである。ジャボチンスキーはシオニストとして40年のキャリアを持つが、そのうち30年を「ユダヤ民族への戦争文化の注入」に費やしている。もしジャボチンスキーがいなければ、たとえベングリオンがイスラエルを建国しても、第一次中東戦争でイスラエルは滅亡していたかもしれない。
第二次世界大戦の敗戦によって戦争文化を剥奪され、気概を失くした日本人としては、まことに耳の痛い指摘である。特に、二つ目の引用文はほとんど日本人の若者に援用できるのではないだろうか。戦争文化を完全に失ったユダヤ人と異なり、日本は自衛隊という名前で一応の戦争文化を継承している。しかし、先の大戦で失った北方領土はともかく、現有の日本領土である竹島や尖閣諸島を隣国が明らかに侵犯している横暴を前に、「対話による外交的で平和裡な解決」を目指すという政府の弱腰な対応は、明らかに「気概を失くしている」といっていいだろう。
かつて、大英帝国は遠く離れた南大西洋にある小さな島の帰属権を巡ってアルゼンチンと対立し、空母を含む100隻の艦隊、100機の航空機、陸海空三万人の兵力から成る機動部隊を派遣して、激しい戦いを繰り広げた。そして多大な犠牲を払ってフォークランド諸島を大英帝国に取り戻したのである。
尖閣諸島は沖縄と台湾の中間、竹島は対馬から目と鼻の先にあるというのに、上陸すらはばかるという日本政府の姿勢には全く「気概」を感じない。
2011年10月21日(金)
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オタクのための安全保障基礎知識 第7回 クレフェルトの「戦争文化論」(その6)
第一八章 魂のない機械
プロイセン軍をヨーロッパ最強の軍隊に鍛え上げたフリードリヒ大王。プロイセン軍精強の秘密はフリードリヒ大王のカリスマ的統率力にあった。大王の命令を過たず伝達し一糸乱れず行動する軍隊。しかし、大王の死後、その栄光にしばられたプロイセン軍はいびつな進化を遂げる。ロボットのように正確に行進し、広い練兵場で巧みな陣形展開を繰り広げる兵士。馬にまたがって号令を下す将軍(貴族)。まさに「魂のない機械」になりさがったプロイセン軍は、その後、ナポレオン率いるフランス軍に大敗する。
孔子曰く、「過ぎたるはなお及ばざるが如し」
ナポレオン戦争での大敗後、プロイセンは再び戦争文化の研鑽に励み、世界最初の「参謀本部」を創設して19世紀にはオーストリア、フランスを戦争で破り統一国家「ドイツ帝国」を築き上げる。1919年にドイツは再び敗れるが、戦争文化は失われず、二十年でより強大に生まれ変わったドイツは再び巨大な戦争を起こし、またも破れる。この敗北は1919年の敗北と異なり戦争文化の絶滅を含む熾烈なものとなった。
東西に分割されたドイツの「戦争文化否定運動」は全く別の方向に進む。東ドイツ軍は「帝国主義」「軍国主義」「全体主義」を徹底的に自己批判し、これら再教育を経た旧ドイツ軍将兵を基幹として編制された。そのため東ドイツ軍は旧ドイツ軍を否定しつつ、旧ドイツ軍の戦争文化(特徴的な軍服(M36野戦服)、ガチョウ行進)を継承した。そのため東ドイツ軍は「赤いプロイセン軍」と呼ばれ、実戦経験が一度もないにもかかわらず、高級将校は世界各地の軍事顧問を務めている。
一方、「非ナチ化」を国是とした西ドイツ軍は「旧ドイツ軍の全面否定」を行った。軍服のデザインは一新され、ガチョウ行進は廃止された。旧ドイツ軍から西ドイツ軍に入った将兵は自らの戦歴を否定し、戦中に受けた勲章からは鉤十字が削り取られた。諸国の軍事教育施設には当然あるはずの、将軍の肖像画や軍人の銅像は、西ドイツ軍の教育施設には全く無い。実際に訪れた第一印象は“がらんとして機能的で感情に訴えてくるものがないということだ”(本文引用)
「自己否定、ないしは自己卑下する集団」である西ドイツ軍に東ドイツ軍が放つような「戦争の臭い」はない。兵士も将校も、積極的な動機を持って入隊したとしても、社会や市民は西ドイツ軍を“国のために暴力を振るうことを専門にしている軍服を着た国家公務員とみなしている”(本文引用)。この特殊な軍隊にはある独特の臭いがある。“その臭いの正体は、人間味のない官僚的行動、政治的公正、人々が自分の考えを遠慮なく述べたらひどい目に遭うのではないかと心配するときに起きる追従である”(本文引用)
物言えば唇寒し秋の風
西ドイツ軍についての解説はほぼ全てが日本にもあてはまる。陸上自衛隊は「武装した国境警備隊=警察予備隊」として発足した。発足にあたりGHQは元陸軍参謀本部作戦課長・服部卓四郎を幕僚長(司令官)に推していたが、GHQ以上に日本の「戦争放棄」を目指す吉田茂らの意向によって、警察官僚の増原惠吉が初代幕僚長に任命された。陸上自衛隊の中にも西ドイツ軍と同様の「臭い」があるのは、未だに陸上自衛隊が「警官と軍人」という相容れない存在の寄り合い所帯のためである。
一方で、海上自衛隊はコーストガード(湾岸警備隊=海上保安庁)ではなく、ネイビー(海軍)として戦争文化を継承する事に成功した。ここには陸軍軍人と海軍軍人の根本的な性格の違いがあるだろう。敵を直接皆殺しにする事を究極の目的とする陸軍と異なり、海軍は堂々として艦隊決戦に挑み勝敗が決まれば(制海権を確保すれば)それで戦いは終わる。いわゆるシーマンシップである。米海軍作戦部長アーレイ・バーク大将は戦時中、熱烈な反日家だったが、元海軍大将・野村吉三郎、元海軍中将・草鹿任一との交流をきっかけに熱烈な親日家に変わり、海上自衛隊が帝国海軍の戦争文化を継承する事を積極的に支援した。
2011年10月19日(水)
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オタクのための安全保障基礎知識 第6回 クレフェルトの「戦争文化論」(その5)
五回目を数えた『戦争文化論』の解説も、ついに最終部に入る。クレフェルトの唱える「戦争文化」を、人間の本能や欲望をコントロールする理性装置であると解釈するならば、第五部で語られるのはこの理性装置を失った人類社会の姿である。それはおよそ「戦争の否定=平和の実現」という図式が現実にほど遠い事を示している。
第五部 戦争文化をもたぬ世界
人類を文明的な、社会性のある生物たらしめてきた「戦争文化」。それが何らかの理由によって発展しなかったら。あるいはクラウゼヴィッツが述べるように「戦争」とは至極合理的で無駄のない目的論的なものだとしたら。もしくは戦争文化の発展を意図的に抑え付けたならば、社会はどうなるだろうか。クレフェルトはその結果として四つの類型を提示している。
1.野蛮な集団 2.魂のない機械 3.気概を失くした男たち 4.フェミニズム
以下の四章ではこれらについて詳述する。
第一七章 野蛮な集団
クレフェルトは兵士の集団が「統率」や「名誉」、「忠誠心」や「団結力」を失うと、それはもはやこれらの戦争文化を持たない単なる「暴徒」になってしまうとしている。本能や欲望のみを動機とする暴徒は一度発生すると、周囲の町や村を略奪し、女子供を暴行し、これに加わる者を得て、さらに勢力を巨大化させる。しかし、統率や団結に欠ける暴徒はいわゆる「烏合の衆」に他ならない。たとえ数で暴徒が優位に立っていても、よく統率され強い団結力を持ち自己の名誉と社会への忠誠心に優れたプロの軍隊を、暴徒が打ち破る事は極めて難しく、歴史上ほとんどの暴徒達はこれら劣勢でも「戦争文化」を備える集団によって鎮圧された。
クレフェルトはその事例を古代ローマ時代、中世フランスから数多く紹介し、「最近の事例」としてユーゴスラヴィア内戦(1991〜1995年)を詳解している。宗教も異なる多数の民族が構成するユーゴスラヴィア連邦は、共産主義というイデオロギーと、チトーというカリスマ的指導者の存在によって「統一国家」の体を成していた。しかし、チトーが死に、東西対立構造が崩壊するとユーゴスラヴィアの諸民族を結合していた力も失われた。
92年、クロアチアとスロベニアがユーゴ連邦から独立。これにボスニア=ヘルツェゴビナが続こうとしたためユーゴ連邦軍がボスニアの反政府勢力を攻撃し内戦が勃発した。日本では「セルビア対クロアチア」、「キリスト対イスラム」という対立図式で捉えられがちなユーゴ内戦であるが、実際にはクロアチア・キリスト教徒、セルビア・キリスト教徒、イスラム教徒という勢力が三つ巴の争いを繰り広げていた。彼らが組織した民兵集団は合計83に及び、多民族国家ユーゴスラヴィアの正規軍将兵はその優秀な装備と共に出身民族の、あるいは信仰宗派の民兵集団に加わっていき、軍隊を失った連邦政府は瓦解した。
ユーゴ連邦の崩壊はヨーロッパに緊張をもたらし、NATOと国連が軍事介入に及ぶと、内戦はさらに凄惨の度を増した。内戦は21世紀に入ってようやく完全に終結したが、今なおスロベニア以外の旧ユーゴ諸国にはなんらかの「海外渡航(危険)情報」が外務省から発表されている。
ユーゴ内戦の詳細は、日本における「応仁の乱」とよく似ている。戦国時代そのものがクレフェルトによれば「日本の内戦時代」だったのだから当然なのだが、室町幕府の弱体化と戦国大名の台頭は、ユーゴ政府の弱体化と諸民族国家の独立という図式によくあてはまる。戦国時代の合戦も、勝者による略奪・暴行が大前提だったのだから当然だろう。(ただし、クレフェルトは「天皇」という国体と「武士」の価値観を特筆すべき戦争文化として評価している。)
2011年10月16日(日)
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オタクのための安全保障基礎知識 第6回 クレフェルトの「戦争文化論」(その4)
第一五章 常識が通用しない
前章までで述べたように、核兵器の登場によって大規模戦争の可能性はほぼ消滅したように思える。その一方で、1946年から60年間の間に226回の武力衝突が発生し、そのうち111回は国家規模の正規軍に「戦争」と定義していい規模のものである。これらの戦争は次の4グループに分けられる。
a)大国(核保有国)と小国(非核保有国)の戦争
b)小国と小国の戦争
c)ゲリラやテロリストによる不正規戦争
d)国内での内線a)のグループには朝鮮戦争、ハンガリー動乱、スエズ戦争、中国のベトナム進攻、ソ連のアフガニスタン侵攻、フォークランド紛争、アメリカによる南米への軍事介入、湾岸戦争などが挙げられる。いずれも片方の国にのみ「核兵器」という切り札があり、核を保有しない相手国は核のカードをにらみつつ、妥協点を探りあう、そういった種類の戦争である。
b)のグループには中東戦争、印パ戦争(インドの核保有前)、中印戦争(インド・中国の核保有前)、シリアのヨルダン進攻、トルコのキプロス進攻、イラン・イラク戦争などである。これらの戦争はいずれも古い戦争の目的(国境紛争・領土紛争・宗教戦争)で戦われたが、いずれの国も「核」の保有を果たし、あるいは果たすことが可能にになるとa)のグループや前章で述べた理由により戦争から手を引くようになる。
c)のグループは「戦争の仕組み」として特徴的である。戦争とは“戦争を指揮する政府、戦って死ぬ軍隊、軍事費となる税金を納め、銃後の苦しみを耐える民間人”(本著引用)の三位一体によって行われるが、ゲリラやテロリストはこういった一体性を持っていない。
ヒトラーの暗殺が成功していれば、ドイツ政府の戦争指導は変わっただろうが、オサマ・ビン・ラディンが殺害されても、その思想に共鳴した新しい指導グループが誕生する。テロリストやゲリラは平服で町に潜み、攻撃の機会を伺っているが、軍人や兵士がそれを行うことはハーグ陸戦条約の第一条で禁じられている。テロリストやゲリラが活動する地域では支持者の市民がかれらをかくまい、外国でその思想に共鳴する者は資金援助を行う。
そしてテロ攻撃には独特の快楽がある。大儀のため、信仰のために敵もろとも自爆する彼らは“喜びの微笑み”(本著引用)を浮かべて、法悦と歓喜の中で爆死するのである。これは戦争の忌むべき魅力の一つだ。
最後にd)のグループについてだが、章題の「常識が通用しない」はこのグループにもっとも通用する(テロリストやゲリラにも彼らなりの常識が存在する)。凄惨な内戦を経験した国のほとんどはかつてヨーロッパ列強に植民地支配されたアジア・アフリカ諸国である。列強はこれらを植民地化するに際して、土着人独特のあらゆる文化を抹殺した。言語や風習、そして戦争文化もである。
第二次世界大戦後、アジア・アフリカ諸国は次々に独立するがその背景には超大国米ソ、及び旧宗主国ヨーロッパの影があった。彼らとコネクションをもつ新政権の首脳は未熟な国家の常として保身と蓄財に走り、それが民衆の不満を招いて暴動を起こし、内戦へとつながる。このとき、旧宗主国が戦争文化を根絶やしにした事が大きな禍根となって現れる。
戦争のルールを知らない反乱軍は、もはや兵士ではなく暴徒であり、その行動は軍事作戦ではなく単なる大量殺人である。そして旧宗主国が植民地人を洗脳するために用いたキリスト教(あるいは共産主義)も思わぬ反作用を引き起こしてしまう。反乱軍にも、暴徒を鎮圧する政府軍にも、この戦いは神のための聖戦(あるいは革命)であるという認識が生まれ、過去の十字軍遠征や三十年戦争同様、殺戮の残忍さは際限なくエスカレートしてしまう。まさに「常識が通用しない」のである。
現在、多くの国々が核兵器を開発する能力を獲得したことでa)及びb)グループの戦争は急速に減少している。一方、c)グループの戦争は各地で続々と発生し、d)グループの戦争は多くの国で終結を迎えたものの、国家としての再建が不可能なほど深刻な後遺症を残している。
これが、21世紀の我々を取り巻く戦争の状況である。
第一六章 ヒトはどこへ向かうのか?大規模戦争は核の恐怖によってなくなり、各地の内戦は終息へと向かい、テロとの不正規戦は従来の戦争ではなく「軍事的な治安維持作戦」へと転換しつつある。つまり人類は実際の戦争からどんどん遠ざけられ、戦争文化を失い平和な時代を迎えつつある、と言えるだろうか。答えは「否」である。
世界のどこかで「戦争」が起きれば世界中のニュースはその「戦争」に釘付けになる。今なお様々な時代の「戦争映画」がつくられ、「戦争文学」が書かれ、「戦争マンガ」が書店にあふれている。人間は戦争に関する根源的な興味や探究心を失っていない、好戦的な生き物である。
それを端的に証明しているのがプロイセン参謀本部が開発した「兵棋演習」、それをゲームとして発展させた「戦争ボードゲーム」である。戦争ボードゲームは大量のデータと煩雑なルールと膨大な乱数表を必要としたため、二十年から三十年の成長期間を経て後進に身を譲った。コンピュータシミュレーションゲームである。
コンピュータの進歩と普及は、人間の手を煩わせていたデータとルールと乱数表の取り扱いを一手に引き受けてくれ、しかもそれを人間とは比較にならない速度で処理できた。やがて、軍用機、戦車、潜水艦の筐体シミュレーターが発展すると、本物の兵器とシミュレーターの違いは搭乗者の射撃ボタンで実際に誰かが死ぬか死なないな、何かが壊されるか壊されないかの違いだけになった。
例えば、私がプレイしているコンピュータゲームのスクリーンに現れた敵機(あるいは敵艦)を示す光点(プロップ)に対して、迎撃機の発進や対艦ミサイルの発射をマウスで指示し、味方を示すプロップが敵を示すプロップと接触して敵を示すプロップが消えたとき、そこでは間違いなく戦争が発生しているのである。シミュレーションゲームの戦争と本物の戦争が違うところはただ一点で、シミュレーションゲームの戦争では誰も死なない。だからこそ我々は実物の戦争から遠ざかりつつ、実物とほぼ寸分たがわぬ戦争のゲーム性を楽しんでいるのだ。
“戦争ゲームという戦争文化は決して「本物の戦争」とは関係のない付属物ではない。それどころか多くの場合、戦争ゲームと「本物の戦争」は文字どおり同一物なのである。”(本著引用)
2011年10月10日(月)
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オタクのための安全保障基礎知識 第5回 クレフェルトの「戦争文化論」(その3)
マーチン・ファン・クレフェルト著『戦争文化論』の下巻を読み始めた。上巻が「戦争賛美の本」であるなら、下巻は「戦争悲嘆の本」であるといえる内容だ。下巻の出だしである第四部 戦争のない世界?の書き出しは印象的である。
…戦争は政治的な目的があって行われるが、いつもその目的以上に戦争それ自体が男達を魅了している。これに関して議論の余地はない。だが、我々はそうした魅力が失われつつあるまったく新しい時代に入ったのだろうか?第一三章 平和だった時期はほとんどない
(中略)時間の経過と共に、世界の大部分の地域では戦争、特に大国間での戦争が起きなくなっていることがいっそう鮮明になった。
(中略)戦争は社会が生みだした制度であって(略)、奴隷制度のように古い歴史がある他の制度と同じ道筋をたどり、消滅しかけている。
(中略)しかし本当だろうか? 第四部ではその問いに答えていきたい。
過日の感想文にも示したように、人類の歴史=戦争の記録であり、「平和=戦争がない状態」とするなら、真の意味で平和だった時期は人類の歴史にほとんどない。それは戦争がない時期ではなく、戦争と戦争の間の時期(1919〜1939年のヨーロッパ)や、封建君主時代・あるいは絶対王政時代に「戦争は投資の割りに合わない事業」と算段されて結果的に戦争が発生しなかっただけである。
一方で、いつの時代にも戦争反対と平和遵守を唱えた人々や集団はいた。古代ギリシア人や過去のキリスト教徒らがその一例だが、ギリシア人が反対した戦争はギリシア人同士、つまり「文明人同士の戦争」で、蛮族からの自衛戦争は否定していない。キリスト教徒も古代ローマ時代には良心的兵役拒否を貫いたりしたが、中世の異教徒間戦争や宗派間の宗教戦争では徹底した殺戮を繰り広げている。反戦論者や平和論者も戦争それ自体には積極的に参加しているのである。
事態が変化を見せるのはカントが『永遠平和のために』を著した後である。戦争は王国貴族のゲームであるから、王侯貴族が滅びて民主共和政体が訪れれば戦争という制度はなくなる、これが啓蒙主義者カントの結論であり、今現在反戦平和論者の寄って立つところとなっている。
では、カントの目指した戦争廃絶を目的に国際連合が作られた後、民主主義国家同士が戦争を起こし、非民主的な国家と民主主義国家との間で戦争が起こらないのはなぜだろうか。アメリカとソ連・中国、中国とインド、インドとパキスタン、イスラエルとアラブ諸国、中国と台湾、韓国と北朝鮮。いずれも民主国家と非民主国家の対立軸を持っているが、20世紀後半以後、散発的な衝突はあっても大規模な戦争は起きていない。
ところが、フランスが起こしアメリカが引き継いだベトナム戦争、アメリカの起こしたアフガニスタン戦争・イラク戦争、イラクの起こしたイラン・イラク戦争、湾岸戦争(最後の侵略・防衛戦争)、イギリスの起こしたフォークランド紛争、ソ連のアフガン進攻など、非民主国家はもちろん、本来好戦的ではないはずの民主国家が国益を理由に攻撃する側に立って戦争した事例は数大い。
それはなぜか。主義主張の異なる大国同士が戦争をした場合、その損害は余りにも大きく「割に合わない」ことを指導者は理解している。一方、相手国が弱小で戦争に訴えても「割に合う」と指導者が考えた場合、しばしば戦争は現実のものとなる。21世紀においてさえそうなのだから、人類が平和だった時期はほとんどないのだ。
第一四章 大規模戦争の消滅
1946年以降、大国同士による大規模戦争が激減し、今や消滅しかけている最大の原因は核兵器の開発とその発展にある。兵器の常として、大型化・破壊力強化の方向で発展し、ソ連の開発したTNT換算50メガトン級水爆(広島に投下された原爆4000個分に相当)でこれを極めるが、兵器としての運用性に問題が生じたため、かつての軍艦同様、威力(被爆範囲)を限定した小型戦術核兵器や兵員の殺傷を重視した中性子爆弾の開発に重点が移行した。
核兵器の特徴はまさにその破壊力にあり、核保有国同士の戦争では先攻側が敵の核兵器施設を第一撃で全て破壊し、敵の反撃能力を喪失させることが重要となった。一方、核攻撃を受ける核保有国は敵に察知されないように核兵器を分散配置(地下発射基地、移動式発射基地、爆撃機基地、潜水艦等)して敵の第一撃から生き残った核兵器で反撃する。反撃を受けた国は一発でも自国に核兵器が着弾すればその時点で戦争は「割に合わない」算段となるため、これを迎撃するため様々なシステムを構築しているが、パトリオットシステムとSDI構想の産物を組み合わせたミサイル防衛システムはいまだ信頼性の高いものではなく、事実上核の反撃(あるいは第一撃)を完璧に防衛することは不可能である。
この「手詰まり」そのものを軍事戦略として確立したのが相互確証破壊理論である。現在の世界が大規模戦争を抑止あるいは回避しているのは、戦争への欲望よりも核兵器への恐怖が勝っている、ただそれだけの理由でしかない。
2011年10月6日(木)
オタクのための安全保障基礎知識 第4回 クレフェルトの「戦争文化論」(その2)
上巻を読破しました。目次を引用して骨子を紹介したいと思います。ただし、クレフェルトがあえて明記していない行間を深く読み、極めて主観的に意訳した骨子であることをお断りします。
第一部 戦争に備える
第一章 ウォーペイントからタイガースーツまで
「甲冑とか鎧とか、議論するまでもなくカッコイイ。現代だとイギリス軍の軍服最高!イタリア軍は洒落っ気出し過ぎ、だから戦争が弱いんだよ!」
第二章 ブーメランから城塞まで
「日本刀の美しさとかションベンちびりそうじゃ〜。拳銃(カスタムグリップ)持って街を歩けないなんて、そんな国はその法律がおかしいよ!」
第三章 軍人を養成する
「とりあえず『フルメタル・ジャケット』を30回観てから話をしようか。全ての新兵教官はハートマン軍曹だぞ、いや本当に。」
第四章 戦争のゲーム性
「半裸のマッチョが流血するまで殴り合ったり、ほぼ全裸のデブが体当たりするのが娯楽になったり、いい大人が本気でコマの取り合いしたりするんだから、戦争(闘争)がゲームじゃないわけないだろ。」
第二部 戦争と戦闘において
第五章 口火となる言葉(行動)
「だまし討ち(・A・)イクナイ!! 戦争は正々堂々、ルールを守って、全力でプレイしましょう。だから、だまし討ち(・A・)イクナイ!! リメンバー・パールハーバー!!」
第六章 戦闘の楽しみ
「大きな声で言う事じゃないが、日常生活なら重犯罪になる殺人が、OKになって、しかもたくさん殺すとほめられるんだから、楽しくないわけがない!」
第七章 戦争のルール
「非戦闘員を殺害しちゃダメですよ。ドレスデン爆撃とか(・A・)イクナイ!! 東京大空襲はいいけどな!白人同士の戦争には暗黙のルールがあるけど、相手が白人じゃなければ、それなりに違うの!」
第八章 戦争を終わらせる
「後片づけは敵も味方もいっしょにやりましょう。あと、↑のような異常者になった兵隊さんをいきなり家に帰しちゃいけません。ベトナム帰還兵問題がいい例です。」
第三部 戦争を記念する
第九章 歴史と戦争
「歴史=戦争の記録だよ。歴史年表から戦争と、戦争の原因、戦争の結果を削除してごらん?なんにもなくなっちゃうじゃないか。」
第一〇章 文学と戦争
「シーザーの『ガリア戦記』、日本の『太平記』、田中芳樹の『銀英伝』、最高だよね。レマルクの『西部戦線異状なし』?あんなものケツ拭く紙にもなりゃしねえ!」
第一一章 芸術と戦争
「『聖ローマの戦い』(パオロ・ウッチェロ 15世紀)、『ブレダの開城』(ディエゴ・ベラスケス 17世紀)、『ジブラルタルの海戦』(ヘンドリック・コルネリウス・フルーム 17世紀)、『ボロディノのナポレオン』(ヴァシーリー・ヴェレシチャーギン 19世紀)、『ゴードン連隊、グレイ連隊の突撃』(スタンレー・バークリー 19世紀)、これが芸術じゃなくてなんなのかね。」
第一二章 戦争記念碑
「パリの凱旋門とオベリスク、ハワイの戦艦アリゾナ、広島の原爆ドーム、ワシントンのリンカーン記念館、沖縄のひめゆりの塔。観光名所は戦争記念碑です。」
2011年10月5日(水)
資本主義の信奉者、米帝の忠実な臣僚として、ニューヨーク・ウォール街でのデモ活動が未だ継続し、さらに全米各地に飛び火しつつあるという事態は、容易に信じがたい。20世紀以降、アメリカでは度々大規模なデモ活動と、それが発展した暴動が発生してきた。それらはいずれも成長過程にある未熟な国家・アメリカが、成熟するために不可避な経験だった。しかし、「貧困」を原因とした示威活動は今般のウォール街占拠行動を除けば、1932年の「ボーナスアーミー」のみである。
「ボーナスアーミー」:第一次世界大戦に従軍した復員軍人が、世界恐慌に際し年金の前払いを求めて全米からワシントンD.C.へ行進し、公園施設等を占拠した。最大参加人数3万1千人を数えた群衆に対し、政府は軍を出動させてこれを解散させた。作戦を指示したのは参謀総長ダグラス・マッカーサー大将、部隊を指揮したのはジョージ・パットン騎兵少佐である。
アメリカで貧困を原因とした暴動が起きるということがどれぐらい興味深い事象であるかは、この検索結果からも読み取れる。「中東の春」と呼ばれる一連のデモ・政変は「自由」を求めるところに動機があった。イギリスでの暴動は「移民」に対する拒否反応だった。「自由な移民の国」であるアメリカでは暴動が起きる動機付けがないはずだったのである。一方で、富の不均衡は確かに存在した。ジニ係数の推移がそれを明白に証明している。
「ジニ係数」:所得分配の平等性を示す指数。ジニ係数=0のとき、全ての人の所得は等しい(平等)。1に近づくほど不平等=富の不均衡が発生する。ジニ係数が 0.4 を越えると富の不均衡による社会不安が表面化するとされている。2009年時点で最も所得に格差が少ない国はスウェーデン(0.25未満)、最も格差が大きい国々は南アフリカ諸国(0.60以上)。総じて北欧・中欧諸国はジニ係数が低く、南北アメリカ大陸諸国はジニ係数が高い。
1979年、イギリスでは「鉄の女」マーガレット・サッチャー率いる保守党による政権交代がなされた。サッチャーは「小さな政府」と「自由な経済」を志向して、以後18年間にわたって保守党政権はこの方針をつらぬく。その結果、イギリスは経済的に成長したがその一方でジニ係数も 0.27 から 0.34 へと急上昇した。ジニ係数が高い事自体は問題ではない。経済が好調で低所得層も所得額自体が増加していれば特に不満を抱かないためだ。富の不均衡を原因とする大衆の不満は経済の低迷期において、高まり、発現するのである。先般のロンドン暴動はその好例といえる。
そしてこの傾向はレーガン=大ブッシュが率いた共和党政権下のアメリカ(1981〜1993年)においても同様だった。アメリカでは共和党政権下でジニ係数が 0.30 から 0.35 へと上昇している。サッチャリズムもレーガノミックスも市場の自由度を高める新自由主義経済政策であった。そしてサッチャーの後継者メージャーが政権を失い、大ブッシュがクリントンに敗れた後も、新自由主義経済は生き残った。それがやがて投機的な市場の巨大化、実体経済と名目経済の乖離を生み出し、現状に至っているのである。
オタのための安全保障基礎知識 第3回 クレフェルトの「戦争文化論」
存命する戦略理論家で最高の知性を三人挙げろと言われたら、ヘンリー・キッシンジャー(アメリカの外交官)、ジョン・キーガン(イギリスの学者)、マーチン・ファン・クレフェルト(イスラエルの学者)の名前を挙げたい。日本で知名度が一番高いのはニクソン・フォード政権下で米中国交正常化と米ソ冷戦デタントを成功させたキッシンジャーだろう。ジョン・キーガンは戦史学者として主に第二次大戦を主題として多くの優れた史書を著している。マーチン・ファン・クレフェルトは『補給戦』の著者として知られている。
そんなクレフェルトの著作、上下二巻4,800円の大冊『戦争文化論』を図書館から借りて読んでいる。間もなく上巻を読了。アマチュア軍事愛好家として、『銀河英雄伝説』と『紺碧の艦隊』からこの道に進み、孫子とクラウゼヴィッツからモルトケ、マハン、ドゥーエ、毛沢東、リデルハートまで目を通した私にとって、目からウロコが落ちる内容だった。戦争について勉強し、クラウゼヴィッツの『戦争論』を手にとって、それに影響を受けた軍事理論を研究すると、
「戦争とは軍事力を用いた政策であり、自らの要求を相手に受け入れさせるために相手の軍事力に打撃を与える行動である」
という定義に行き着く。行き着く、というよりはクラウゼヴィッツが示したこの概念が19世紀以降の軍人(及び文民の軍事研究家)のドグマ(教義)となってしまった。しかし、クレフェルトは著書の冒頭でこの大前提を否定している。戦争の定義あるいは本質について、
「善いとか悪いとか定義とか、どうでもいい。だってさ、戦争って燃えるじゃん!戦車って格好いいじゃん!兵隊さんってすげえじゃん!とにかくしたいじゃん、戦争!」(私による意訳)
と述べている。目からウロコである。戦後、反戦・反軍教育が徹底された日本でさえ、なぜ戦車や戦艦や戦闘機のプラモはよく売れるのか。「戦争」である本質に違いはないのに太平洋戦争はタブー視され、日清・日露戦争が称揚されるのか。なぜ大河ドラマの大半は「内戦の記録」である戦国時代が人気テーマなのか。
クラウゼヴィッツとそれに先行するジョミニ以来、「戦争」を数学的、物理的、あるいは散文的にアプローチして研究する事が軍人と政府文民の常識となっていたが、クレフェルトは「戦争」とは文化人類学的、心理学的、あるいは韻文的にアプローチしなければその本質を見抜けないとしている。目からウロコである。
2011年9月14日(水)
こんな夢を、見ている。
もしも私が日本の最高責任者だったら
1.福祉政策の見直し
生活保護を全廃する。代わりに、失業保険の給付額を増額し給付期間を延長する。
昨日の日記に書いたように、「働けるのに働く意志が無い者」は社会のガンであるから、このガン細胞を死滅させるためにその生命線(生活保護)を断ち切る。一方、失業保険を受給している人間は「かつて働く意志があったのに雇用主の意図で解雇された者≒働く意志があるのに働けない者」であるから、再雇用までのセーフティネットを強化する。
障害者・傷病者への生活保護給付額を漸減する。金銭給付は労働能力と比例するべきであり、健常者に比べて労働能力が低い障害者・傷病者への生活保護は労働能力に比例して漸減する。
2.公共事業の増発
公共事業を大量発注する。契約に当たっては一般競争入札制度を用いず、性能規定随意契約を用いる。最終下請の請負金額を精査し、中間マージン(ピンハネ)を禁止する。
そもそも公共事業とは、国民から徴収した税金を市場に再放出し、資金の循環を生み出し市場を活性化させるための政策である。その目的物が道路であるかハコモノであるかそれとも他の何かであるかは大きな問題では無い。何かの仕事を発注する事に意味がある。
競争入札制度は受注を巡って過度な価格競争を招く。発注機関が100万円の仕事を発注しても、A社が95万、B社が85万、C社が70万で応札すれば、否応なくC社と契約せざるをえない。C社は「企業努力」によって30万円をコストダウンする訳だが、そのしわ寄せは実際に仕事を行う下請け会社への支払い圧縮という形で現れる。これでは市場に資金を放出してこれを活性化するという公共事業本来の意義が損なわれる。
性能規定随意契約は100万円の仕事を特定のA社と100万円で契約し、発注者が求める性能を規定する事で品質を担保する。また、「企業努力」のコストダウンを求めない代わりに、採集した毛請負会社の労働賃金あるいは材料価格に中間マージン(ピンハネ)を許さない。これによって市場には十分な資金が放出され消費が潤い経済は活性化する。
3.ODAの見直し
中国、インド、インドネシア、ベトナム、フィリピンへのODAを中止する。中国、インドからは免除していた債務を過去にさかのぼって請求する。
すでに成長期に達している国にODAを給付する必要はない。特に中国、インドからは免除していた債務を請求し、五ヶ国の廃止分と二ヶ国の債務分をアフリカ諸国と小ヨーロッパ諸国に再配分する。ODAの総給付額については世界5位の水準を維持する。
4.外国人労働力の排斥
外国人就労ビザの発給資格を厳格化する。「在日外国人」に対する二重国籍の禁止。
国内の労働需要を確保するためには外国人労働力の供給を止めなければならない。「相対的に賃金の安い労働力」と「労働条件をいとわない労働力」は雇用主にとって魅力的であり、これを採用しない事は経営者の理念に反する。であれば、その「都合のいい労働力」そのものの供給を止めない限り、日本の労働市場は外国人労働力によって蚕食され続ける。
あわせて、二重国籍を認めない日本国内において今なお特権的な身分を保障されている在日朝鮮・韓国人についても日本に帰化するか、本国を送還されるかを決断させるべきである。単一民族国家「日本」という国体のあり方にこだわるならば、この問題とはいずれ相対しなければならない。
逆に、他民族国家「日本」という新たな国体を受容するなら、「日本人」はそのアイデンティティの放棄という極めて大きな犠牲を払わなければならない。異なる文化圏の中で独自のコミュニティを維持する事は容易であるが(世界各地の「日本人会」や「中国人街」など)、受け皿となる文化圏がさまざまなコミュニティの放つ異文化から無影響であることは極めて難しい(東洋のパリと言われた上海・英国の租借地だった香港・あるいは明治大正期の神戸など)。
これだけできれば日本は復活できる。
むしろこれだけしないと日本は復活できない。
2011年9月13日(水)
「サイレントテロ」についての一考察
日本国内において、「サイレントテロ」なる行為が広まりつつあるという。
wikiさんは「特筆性を欠いているおそれがあるので特筆性を示す出典が欲しい」と顔をしかめつつ、サイレントテロを次のように紹介している。
…ワーキングプア層の間で、格差社会の勝ち組に対抗すべく婚姻や消費生活に対する否定という形で社会に対する消極的且つ合法的な「自爆テロ」を行おうとする思想が生まれ「サイレントテロ」と呼称されるようになったこの新しいムーブメントを社会問題や経済問題ではなく、軍事問題としてアプローチしてみよう。
国家を構成する国民を納税者という側面から、「高額納税者/高所得労働者」、「標準納税者/標準所得労働者」、「低額納税者/低所得労働者」、「無納税者/無収入不労者」と分類する。なお、地主や投資家などの不労収入者も納税は高額であるため「高所得労働者」に分類される。サイレントテロとは、これらのうち後二者が消費活動を自粛する事によって、経済を不活性化させ、結果として「高所得・標準所得労働者」の収入に打撃を与えようとする軍事作戦である。
では、サイレントテロとはいかなる種類の軍事作戦であり、その軍事作戦は何を目的として何を目標とするのか。その動機は何なのか。
wikiによればサイレントテロとは「自爆テロ」であるという。ではそもそも自爆テロとはどのように動機づけられた軍事行動であるのか。自爆攻撃を有効な軍事作戦として用いたのは戦中の日本陸海軍である。神風特別攻撃隊に代表される自爆攻撃は、発案者自ら「統率の外道(ルール無視の禁じ手)」と呼んだ。では、なぜルールを無視した禁じ手を用いざるを得なかったのか。それはルールに従った戦争では対米戦に勝ち目が無いと悟った閉塞感に起因している。「ルール無視の禁じ手」を使って閉塞した状況を打開する、それが自爆攻撃である。
日本軍が先鞭をつけた自爆攻撃。その後も「閉塞感を打破する最後の一手」として宗教紛争や民族紛争でテロ攻撃の手段として広く用いられた。つまり、サイレントテロを標榜する低・無所得層は貧困による閉塞感を打破し、高・標準所得層に一矢を報いようとしていると、動機付けすることができる。
では、この作戦が実際にどれだけの効果を上げられるだろうか。これも軍事学的に分析してみよう。リデル・ハートの表現を用いるならば、敵艦に直接体当たりする神風特攻は「直接アプローチ」である。一方、駐留米軍や高圧的な政府勢力に対する、いわゆる自爆テロは駐留部隊や治安組織への個別的な「直接アプローチ」ではあるが、その目的は国際世論の誘導や敵の士気低下などにあり「間接アプローチ」に類別される。リデル・ハートの分類に寄ればサイレントテロは明らかに「間接アプローチ」である。
また、ゲリラ戦を「人民の海の中で敵の活動を疲弊させる」と定義した毛沢東の言葉を借りるなら、サイレントテロは「市場という海の中で敵の経済活動を疲弊させる」ゲリラ戦という事もできるだろう。
しかし、サイレントテロが実体経済に与える打撃は決して大きくはないだろう。現在、「サイレントテロの実戦」を分析すると「衣食住以外の経済活動を放棄する」という内容だが、そもそも低・無所得層の支出は衣食住が大半を占めており、残る分野の経済活動が停滞しても、日本全体の経済活動には大きな影響はないだろう。
また、衣食住以外の経済活動を放棄した結果として蓄えられた「貯蓄財」の行き先についても考えるべきである。低・無所得層が無目的に貯蓄をする事は考えられない。衣食住の水準を底上げするか、あるいは「勝ち組」の生活範囲に関与しない個人的な遊興費として消費される可能性が高い。これは総体としての経済活動に寄与する事であり、サイレントテロの実施が「勝ち組に一矢を報いる」という目的を全うしても、マクロ視点での経済活動は遅滞なく進行する。
このように、サイレントテロは軍事的に分析すると大きな脅威ではない。むしろ、問題視するべきはサイレントテロの「潜在的テロ実行犯」の存在そのもの、具体的には「無納税者/無収入不労者」の存在そのものである。
彼らは税を納めることなく、生活の保障を享受している。義務を全うすることなく、権利を享受している。代金を払わず、サービスを受けているといってもいいだろう。税金や個人の支払い金によって整備された年金制度や生活保障制度を、「生活保障の土台」とするならば、これら「無納税者/無収入不労者」はその土台を食いつぶすシロアリのような存在である。
これは現状と制度をある一面から見た極論である。しかし同時に事実の一面である事も否定できない。
背景には不況による失業があり「無納税者/無収入不労者」の存在は一方的に批判されるべきものではないが、その中で就労意欲のある者と就労意欲の無い者は明確に分けて論じなければならない。「就労意欲のある無所得者」は「生活保障」によって守られなければならない。しかし、「就労意欲のない無所得者」は健全な国家の土台を食いつぶす害虫である。
サイレントテロが恐ろしいのは、標榜される消費の自粛が進む事ではなく、サイレントテロの目的である「格差社会の勝ち組に対抗する」ことを自己目的化、あるいは自己正当化に利用する「就労意欲のない無所得者」の増大を招くのではないか、という点にこそある。
これら「就労意欲のない無所得者」の増大を招いたのは、政府が日本式「軽負担・重福祉」政策が財政的に破綻しつつもそれを継続したところにある。「就労意欲のない無所得者」に就労意欲を持たせるには、ヨーロッパ以上の「重負担・重福祉」政策か、アメリカ並みの「軽負担・軽福祉」政策にその舵をきらなければならないだろう。日本の福祉・生活保障政策は、船に例えるならすでに浸水し沈没も時間の問題という段階にある。この船を救うには、乗組員全員が一丸となって排水活動をするか、「無駄な積荷」を海に捨てるしかない。
2011年9月11日(日)
大震災より半年を経て思う事
地震・津波
未曾有の天災は確率論的に発生するもので、それ自体を云々することは現実的ではない。あらゆる危機に備えることは物理的に不可能であり、政治的に困難であり、経済的に妥当ではない。これは今後の防災政策にもいえることである。
原発事故
東京電力及び政府のリスクマネジメントは、後知恵で見ればいかにも官僚的で不徹底なものであったが、それを過去ないし当時の時点で予見することは不可能であったろう。この際、開き直った姿勢は非難されるべきではない。
今後の展望
東北のあらゆる面での被災前水準への回復は当面不可能である。しかしこれは「想定外の後退」ではない。21世紀の初頭において戦後日本は明らかに「没落時代」の入り口に立っていた。この震災と人災は日本を奈落の淵に落としたのではなく、落ちるスケジュールを前倒ししただけ、あるいは落下速度を加速しただけである。
今後の影響
時代の古今、洋の東西を問わず、「国勢の没落と国政の停滞と人心の腐敗は軌を一にする」。被災地の無気力と厭世観はやがて日本全土を蝕み、2700年の歴史を閲した日本国は、いよいよ滅亡への歩みを確かにするであろう。
その対策
これを是正し、国勢を回復し国政を正し人心を新たにするためにはドラスティックな改革、あるいは革命が必要であろう。しかし、残念ながら日本の国勢は革命を受け入れるほど豊かではなく、国政は改革をなすほど熟成しておらず、人心は革命を望むほど危機感を感じてはいない。
たわわに実りつつも、収穫の時機を逃した果実のように、腐敗していく日本。
しかし腐敗は発酵という二次作用を起こし、発酵によってえられた果実酒は人心を酔わせて近い将来の危機から目をそらさせる。
願わくば自分がその果実酒を大いに楽しみ、その後に訪れる危機に直面する前に、安らかに天に召されるように。
2011年9月8日(木)
初心者軍事オタのための安全保障基礎知識
〜総火演に男だけでいっちゃうような大人にならないためのコラム〜
第2回 「孫子」について
戦争(というより国家安全保障政策)について、はじめて体系的に著述し、かつ完成させた人物として知られる孫武。孫武の記した兵法書『孫子』は軍事戦略術にとどまらずビジネスや一般生活など様々な場面で引用され、特に「敵を知り己を知れば百戦危うからず」の字句などはあらゆるところで引用されている。
が、
「孫子」の骨子は「不戦屈敵」の思想にある。
不戦屈敵、つまり「戦わ不(ず)して、敵を屈(服)させる」という意味である。
「孫子」は戦場において敵を撃破するためのマニュアルである以前に、「軍事力を行使せず目的を達成する事が為政者の器量であり、戦争に訴える事は次善策である」としている。
・およそ用兵の法は国を全うするを上となし、国を破るはこれに次ぐ
・軍を全うするを上となし、軍を破るはこれに次ぐ
・故に、百戦百勝は善の善なるものにあらず。戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり
・故に、上兵は謀を伐(う)つ
(「孫子」謀攻篇から抜粋)
訳)
軍事行動では敵国にダメージを与えない戦略が最善策であり、敵国にダメージを与える行動は次善策である。
敵軍を(戦わずして)無力化する事が最善の戦略であり、敵軍を(戦って)撃滅する事は次善策である。
ゆえに、戦術的な勝利を重ねることは最善の戦略ではない。自軍を消耗せず、敵軍を降伏させる戦略が最善である。
そのため、優れた戦略家は外交戦略や謀略によって敵国の戦闘意志をくじこうとする。
その上で、戦争(戦闘)に勝利するための具体的なノウハウを13のテキストで解説している。
テキストの冒頭、「孫子」は戦争を構成する5つの要素を取り上げている。
「道」:戦争に当たる政府と国民の関係
「天」:戦争を行う季節条件・気象条件
「地」:戦争を行う地形状況
「将」:戦争を行う将兵の資質
「法」:戦争を行う軍隊の規律統制
孫子はこれら5つの要素について自国と敵国を比較し、全てにおいて優れていれば戦争に勝てる、逆にどれかが劣っていれば戦争に踏み切るべきではないとしている。
これら5要素の比較検討とそれに続く12のテキストの内容についてはそのほとんどが後世(近・現代)の軍事理論家と共通している(クラウゼヴィッツ、ジョミニ、リデル・ハート、等々)ため、ここでは説明しない。
ちなみに、孫子から約2世紀後の哲学者・孟子は戦争について
天の時は地の利に如かず。地の利は人の和に如かず。
訳)戦闘が自軍にとって時機的に有利であっても、敵軍が地形的に有利であればかなわない。自軍に地形的な有利があっても、敵軍が統率の行き届いた軍隊ならばかなわない。
としている。(ゆえに、統治者が最も心を砕くべき者は人心の融和である、と孟子は続けている。)これは「天地人」として日本でもよく知られた言葉であるが、政治哲学の理想論であり実践的な軍事理論にはなりえない。
2011年9月6日(火)
さすがに一年以上も放置してしまうと後ろめたいものを感じます。かといって最近のアニメやゲームを熱く萌え語れるほど観てもプレイもしてないので、軍事オタとして18年間培ってきた知識を復習の意味を込めて、コラム的に振り返っていきたいと思います。
初心者軍事オタのための安全保障基礎知識
〜軍服コスとかしちゃうダメな大人にならないためのコラム〜
第1回 「戦争」と「平和」の定義
「戦争」と「平和」とは、国際情勢(あるいは二国間関係)を示す政治的なパラメータである。
より具体的な表現を用いると、多国間が軍事力を使わずに政治的な交渉を行う状態が「平和」であり、軍事力を使って妥協を導き出す状態が「戦争」であると定義できる。
先に「戦争」と「平和」をパラメータであると定義した。二国間(あるいは多国間)の外交関係を変数(x)と定義し、その変動域を
0≦x≦100 …(式A)
とする。この時、
0 = 絶対平和 , 100 = 絶対戦争 …(定義B)
ここでいう「絶対平和」とは、軍事力を全く行使しない(≒保有しない)で自国の要求(領土の保全・人命の保護・財産の保障)が他国に受け入れられる状態を指し、「絶対戦争」とは、自国の要求を否定する他国を軍事力の行使により無力化する事で、結果的に自国の要求を満たす状態を指す。
第一の特性
「戦争」と「平和」を表裏一体のものと見なした場合、この変数が 50 を上回った時点で「平和」な状態から「戦争」状態に移行すると考えてよいだろう。ただし、ここでいう「戦争状態」とは必ずしも宣戦布告を伴う軍事行動の開始を意味するものではない。変数 x の変動とは、その国の政戦略が「均衡した調和」(x = 50)から軍事力を外交手段として重視するか(x の増大)、宥和戦略をとるか(x の低減)の戦略方針の方向性を示す。
第二の特性
「戦争」と「平和」は確かに表裏一体であるが、これは「平和」というカードの表がある日突然裏返って「戦争」の面を出すわけではない。仮に、表面的な一般生活が宣戦布告(あるいは奇襲)を境に一変するとしても、それをもって「平和」から「戦争」への転換とは言えない。むしろ変数 x が 100(絶対戦争)に向かって急速に増大し、水中を急速に浮上してくる巨大な物体が猛烈な勢いで水面に飛び出す瞬間。これこそが一般的に言われる「平和」から「戦争」への転換であるだろう。
第三の特性
また、この変数 x は多国間のパラメータとして見た場合、A国、B国、C国の 変数 x(a)、x(b)、x(c) はそれぞれ同時同様に増大し、また低減するという連動性・相似性を持っている。この特性は政治理論よりも生物的本能という原理に属している。他者が力(軍事力)をかさにかかってきたら防衛本能として自らも力を誇示しなければならない。その結果として闘争(戦争)が勃発する場合もあるが、相互に威嚇した結果、相手が譲歩(宥和)すれば、わざわざ力に訴えて自らを危険にさらす必要はないのである。
7月30日(金)
同人誌「軍事研九」を更新。イベント参加告知。新刊あります。
今さらですが、夏コミ告知です。1日目・西1・め25a「メンゲ連ハウニ部」です。
カタログ見たら相変わらずの異端・孤立っぷりでした。
商業的にいやらしい事を考えると、ヘタリアが東に行って西がゲーム系で統一されているので、前回のように「ヘタリアで弾(お金)を撃ち尽くす」人が少なくなる(東に行かずまず西に来る)、ヘタリア自体の勢いが安定化している、BASARA3の発売とTV2期のスタートでジャンルに勢いがある、など「取らぬ狸の皮算用」をしてしまいます。
しかし今回はデュララララ!!という伏兵がいるからな…。デュララの勢いは侮れねぇ…。
3月7日(日)
同人誌「軍事研九」を更新。イベント参加告知。新刊あります。
異動の内示がありまして、来月からオタクの聖地でアキバ文化と全く無縁のお仕事します。
半病人なので、実質的には降格左遷人事なんですが、本人的にはラッキーです。
1月18日(月)
あけましておめでとうございます という頃合でもありませんが、今年もよろしくお願いします。
相変わらず更新滞り気味ですが生暖かい視線で見守ってください。
同人誌「軍事研九」を更新。直接通販再開します。
11月6日(金)
今週は午前中の眠気が強いし寝坊気味で遅刻気味。
先生に聞いたら「それは睡眠時無呼吸症候群の悪化ですね、原因は太りすぎですね、体重増えてますね」
グゥの音も出ない。栄養指導室で栄養士のおばちゃんと世間話(栄養相談)する。
同人誌「軍事研九」を更新。イベント参加告知。
10月24日(土)
猫を去勢するため動物病院に預けてきました。採血の時はものすごく暴れて獣医さんと看護婦さん、自分の三人がかりでようやく抑えつけました。まあ、多分生涯最初で最大の痛みだろうから。明日から男の子廃業です。
同人誌「軍事研九」を更新。イベント及び新刊、委託販売告知。
8月3日(月)
就寝前の身体測定
体重 101.8kg 体脂肪率 33.7%
7月20日(月)
同人誌「軍事研九」を更新。イベント及び新刊、委託販売告知。
4月11日(土)
同人誌「軍事研九」を更新。新刊告知。
4月7日(火)
同人誌「軍事研九」を更新。
まんだらけ様で委託販売はじめました。
3月19日(木)
今日も「駿河」に行ってきました。今日はコースをまとめたような「駿河定食」。
刺身三点盛り(甘エビ、サヨリ、真鯛)、桜海老の塩茹でと菜の花のおひたし、桜海老のかき揚げ、豚肉の照り焼き(豚丼の肉)、お味噌汁にライス大盛り(大盛り無料)。デザートは抹茶とバニラアイス、黒豆、金柑の甘露煮の三点盛り。最後にアイスコーヒー(ウガンダ産)。
美味かった。
おかずはもちろんおいしかったが、ご飯が美味かった。カウンター席から、のれん越しにチラリと見えた厨房には一升五合炊きのガス釜が置いてあった。やっぱりご飯はガスだな。火力が違いますからね、やっぱりガスじゃなきゃいけません(日本都市ガス協会)。田舎にいた頃、ガスで炊いたご飯は確かに美味かった。今実家で作ってるミルキークイーンをガス釜で炊いたらどれだけ美味いだろうか。
だけど一緒に行った先輩の頼んだ「ミックスフライコース」のエビフライはやばかった。15cmはあった。メニューの写真だと「エビフライ定食」はそのやばいエビフライが2本。そしておいしいご飯は大盛り無料。
…来週は「エビフライ定食」で決まりだな。
3月13日(金)
「駿河」
上司と先輩と三人で晩飯を食べてきました。メニューは名物「豚丼」。帯広名物の豚丼をベースにアレンジを加えたもの。厚みはしょうが焼きほど、大きさは一口大に切った 豚肉を甘辛いしょうゆ味で仕上げたもの。
天然のイノシシを飽きるほど食ってきた俺が認める美味しい豚肉でした。ただ、野生動物にしかない「うま味」は無いけどこれは仕方のない所。飼育豚肉としては今まで食べた豚肉の中で一番うまかったです。
ただ、この店は火曜日にもランチで訪れて、その時も豚丼を食べており、美味さは織り込み済み。
今日の目的は「量にチャレンジ」。メニューに
豚丼:ノーマルとあり、
上豚丼:肉の量1.5倍
2倍豚丼:肉の量2倍
3倍豚丼:肉の量3倍
4倍豚丼:肉の量4倍
4倍以上は相談してください
ご飯大盛り:無料
上司「3倍豚丼定食、ご飯大盛りで」
俺「4倍豚丼定食、ご飯大盛りで」
先輩「5倍豚丼定食、ご飯大盛りで」
夫婦でやってらっしゃるお店なんですが注文聞いてた奥さんが
( ゚д゚)ポカーン
っていう顔してました。
聞いたら、3倍以上の豚丼を注文したのは我々が開店以来初めてで、一回の来店で記録を三つも更新してしまったらしいです。
しばらくして到着。肉がどんぶりからはみ出しててバラかボタンの花のようになってました。
もくもくと食べて十分ほどで完食。お店の方もうれしかったみたいでデザートにキウイと黒豆をサービスしてもらってしまいました。
久しぶりに肉を喰らった、って感じでしたね。もう他所の豚肉食えない。それぐらい美味かったです。
会社から割りと近いので来年度の目標は全メニュー制覇と6倍、7倍、8倍と更なる高みを目指したいですね。
2月21日(土)
「時事砲弾」を更新。
1月24日(土)
1月23日未明。
徹夜覚悟で残業。
終電もなくなった午前2時過ぎに、それまで使ってたオンラインシステムがダウン。
5分ぐらい茫然自失。
作業中のファイルはサーバからローカルに緊急避難して無事だったものの、作業停止。
いつ回復するかも分からず。
かといって朝一に仕上げなくてもならず。
仮眠も取るに取れなくローカルで出来る作業を継続。
周りの様子を見に行ったら、灯りが絶える事無い「不夜城」の異名を取る別の部署でも同じように途方に暮れた方々が。
というかこの年度末の時期、関東全域で茫然自失している方々が。
虚航船団の輪ゴムが他人とは思えません。
「え、Gリングさんは消しゴムじゃないんですか?」
とかいうツッコミは受け付けません。
「時事砲弾」、同人誌「軍事研九」を更新。
1月21日(水)
「自分検索」は日課ですがそれが何か?
前回の更新でお知らせしたレイバー本について、この月曜に検索したときはこの日記が9位ぐらいにランクインしてたんですが、今日検索したらgoogleにもyahooにもひっかかりませんでした。
さすがに「買え」はマズかったか、俺もいよいよgoogle八分か!などと思ったんですが、単に取り扱いを始めた通販サイトや大手レヴューサイトが取り上げ始めたからウチみたいな零細サイトは圏外に転落した、ただそれだけのようです。
でも、ランキングの多いアンテナにウチの履歴が残ってて、それだけが表示されてました。
だけどAmaonではまだ取りあつかってくれません。タイトルで検索するとオバマ新大統領の笑顔とイングラムみたいな耳付けた長門が表示されて、なんともやるせない気分になってしまいます。
今日の読書:戦略論大系Dマハン
海軍戦略は20世紀にありえないぐらい進歩したので古典のマハンも古臭く思えるが、陸軍とは異なる「交通線」(陸軍の兵站線に相当)や「拠点」(陸軍の前進策源地に相当)の考え方は孫子やクラウゼヴィッツがそうであるように、普遍の原則足りえている。そう考えると、20世紀の様々な海軍戦略も全てマハンの延長線上にあるか、またはその亜流であり、「ポスト・マハン」と呼びうる戦略理論は存在しない。強いて言うなら米軍の海軍ドクトリン「フロム・ザ・シー」及びその改訂版が「ポスト・マハン」かもしれないが、21世紀の軍事理論はすでに陸海空の区別を必要としていない。その意味で、マハンは不磨の大典だろう。
1月17日(土)
2009年最初の更新はCMです。
商業誌デビューです。といっても4ページと図版だけなんですが。来月24日販売です。買ってください。というか買え。
12月3日(水)
同人関係、ガンダム関係のコンテンツを「時事砲弾」にまとめました。今後、同人・ガンダム関係は「時事砲弾」をご覧ください。
8月1日(金)
今日はレビュー二本立て。
ヴィルヘルム・カナリス。ドイツ国防軍情報部長。多くの史料が「カナリス提督」と書いているとおり、彼は陸軍が大半を占める国防軍司令部の中で数少ない海軍軍人である。史料の多くは彼の注釈に「反ヒトラー勢力のリーダー」と記しているが、その認知度は低い。ヒトラー暗殺を計画し実行し、そして失敗して処刑されたシュタウフェンベルグ大佐がドイツでは英雄視され海外でも認知度が高いのに比べて「グループのリーダー」だったカナリスの知名度はなぜ低いのか。
それはカナリスが必ずしも全面的に反ナチス・反ヒトラーの立場に立って行動せず、スパイの親玉「情報部長」としての職責を忠実に果たしてきたという相反する面を含んでいるためだろう。その最期もシュタウフェンベルグ大佐主謀の反乱事件に連座させられたものだが、証拠が見つからず逮捕から8ヶ月間も死を免れている。刑の執行は敗戦直前の45年4月、収監された収容所が連合軍に解放される一週間前だった。
カナリスの二面性は「職業軍人としての倫理」と「人間としての倫理」を両立させようとした所にある。ナチスの幹部を評する代表的な言葉に「職場では冷酷無比、家庭では良き夫」という言葉がある。そして当事者の言い分には「命令は絶対。理非善悪は二の次」というものがある。カナリスは理非善悪を二の次にする事ができなかったのだろう。しかし、シュタウフェンベルグ大佐の様に全面的に体制の敵となることも、彼の職業倫理が許さなかった。従って彼は職業としての任務を忠実に果たす一方、権限の範囲内で「人道行為」に尽力したのである。この二面性が彼の評価を今なお難しいものにしている。
本作のもう一つの見所はふんだんに盛り込まれた戦中・戦前のカラー映像。別作品「カラーで見る第2次大戦」で使用された映像もあるがそれ以外にも多くの本邦初公開映像が収められており、資料的価値は高い。
エルヴィン・ロンメルは非プロイセン出自ながら第一次大戦後の10万人陸軍に留まる事を許され、第二次大戦の対フランス戦、続く北アフリカ戦役で敵味方から「名将」と評され、最期はヒトラー暗殺未遂事件に連座され、自殺を強要された。
その輝かしい戦歴と悲劇的な最期故に、親ナチス・親ヒトラー派の将軍でありながら、ドイツでもまた敵であった米英でも高い評価を得ている。
ある意味、自らの死によって政治的な批判を精算したとも言える。
しかし、彼が光輝を放つシーンはつねに体制(ナチス)によってライトアップされたものだったのも事実である。対フランス戦で念願の装甲師団長を任されたのはロンメルがヒトラーに強く懇願した結果であり、ドイツ軍最年少の元帥になれたのもヒトラーとの個人的関係、ナチスの陸軍懐柔という性格が強い。そしてロンメルの戦功はゲッベルス率いる宣伝省によって優れた演出が施されニュース映像として世に流れることで国民の士気を高めた。
そしてその死ですら、ナチスは国民の士気を高めるイベントに仕立て上げてしまう。
本作のサブタイトル「国民的ヒーロー」はまさしく事実である。
しかしヒーローは自然的に発生しない。常にヒーローを演出するプロデューサーの存在が影にある。
ロンメルはまさに完璧にプロデュースされたヒーローだった。不世出の名将も、ヒトラー無くしては存在しなかったのである。
7月24日(木)
ウィルヘルム・カイテル。カイテルは軍政上の最高責任者である国防大臣でも、軍令上の最高責任者である参謀総長でも、まして軍総司令官でもない。その役職は国防軍最高司令部総長。この名前を聞くと日本の海軍軍令部長や陸軍参謀総長のように聞こえるが、国防軍最高司令部は陸海空軍総司令部の上位機関だが、その3つを統合した機関ではない。日本の大本営に似た縦割り組織だ。
総長は三軍の司令部と最高司令官アドルフ・ヒトラーを結ぶ単なる取り次ぎ役に過ぎない。最終的には陸軍参謀本部が東部戦線を、国防軍最高司令が西部戦線を分担して指揮するようになるが、ここでも西部戦線の参謀総長役を務めたのはカイテルの部下、アルフレート・ヨードル上級大将であり、カイテルは具体的な作戦指揮に携わらなかった。
番組の中でも、また引用したwikiの記述でもカイテルは「無能な軍人」「お追従者」とされている。これは事実だが、一方で第二次世界大戦直前の軍備増強時代に発揮した実務処理の手腕、気むずかしいヒトラーと各軍司令部を結んだ調整能力は評価されるべきだ。彼は軍人としては無能だったが、「極めて優秀な官僚」だった。お追従者だったが、「優れた仲介者」だった。
官僚的な軍人、という意味で旧日本陸軍に多く見られたタイプの将軍に似ている感じがする。特に東條英機に。東條とカイテルの違いはどこか。それは戦争の最高責任を負うか否かにあったと思う。国体を護持するため(天皇制を護るため)、戦争の最高責任を負った東條。カイテルはその責任を全てヒトラーに帰する事ができた。二人は共にA級戦犯として絞首刑に処されているが、東條は最後まで非を認めなかったのに対し、カイテルは軍事法廷の最後に「止めるべきことを止められなかった」と自らの非を認めている。
ZDF(ドイツ第二テレビ)が大戦後50年に当たる95年からシリーズとして作成しているナチスドイツ時代の要人をテーマとした一連のドキュメンタリー番組シリーズ。第一弾の「ヒトラー」(全6話)から「ヒトラーと6人の側近たち」(全6話)、「ヒトラーの側近たちU」(全3話)はいずれもNHKで日本語吹き替え版が放映された(ビデオも発売されたがDVDでは未発売。かなり欲しい)。原作と脚本はドイツ歴史学の大家グイド・クノップ。原作は全て邦訳されている。「将軍」シリーズだけが、映像未邦訳である。
とはいえ、未邦訳な理由は分からないでもない。なんといってもシリーズのラインナップが地味だ。カイテル、ロンメル、カナリス、マンシュタイン、パウルス。戦史に興味のある人は知ってて当然だが、側近シリーズのラインナップに比べると明らかにマイナーだ。ゲッベルス、ゲーリング、ヘス、ヒムラー、デーニッツ、シュペーア、アイヒマン、メンゲレ、ボルマン。前6人にはマイナーな人物もいるがいずれもナチ政権の中枢にいた人物で文字通り側近だ。後3人はナチスの闇を象徴するメンバーだ(アイヒマンはユダヤ人絶滅計画責任者、メンゲレは悪名高い人体実験医師)。
個人的にはこのシリーズも邦訳して欲しいし、他の15話と合わせてDVDボックス版が欲しいところだ。
ちなみに、「カイテル」の冒頭シーンはあのニコニコヒストリーチャンネルの元ネタである。
7月23日(水)
1945年、トランク一杯のドル紙幣を抱えてモナコ・モンテカルロを訪れたサロモン・ソロヴィッチ。ユダヤ人の彼は偽札や証明書偽造を生業とする天才的な贋作師だった。
1936年、反ユダヤの嵐が吹き荒れるベルリンで偽札を売りさばくソロヴィッチは同胞の救済などには興味を示さず、長居しすぎたドイツを去ろうとするが、ドイツ当局が一歩先んじてソロヴィッチを捕らえた。強制収容所へと送られたソロヴィッチは、ムショ暮らしの経験と天性の手先の器用さで「収容所お抱えの美術担当」という地歩を占め、他の囚人に比べれば快適な収容所暮らしを送っていた。
1944年、ソロヴィッチはザクセンハウゼン収容所へ移送される。その収容所の中には最新の設備を整えた印刷所があった。そこで働くユダヤ人囚人達は清潔な服とベッド、休暇と食事を与えられ、一般人と変わらぬ生活を保障されていた。彼らの任務は連合国経済を破壊するための贋札作り「ベルンハルト作戦」である。ソロヴィッチの参加によってベルンハルト作戦は一気に進捗を上げた。ポンド紙幣の偽造に成功し、次の課題はドル紙幣の偽造。ユダヤ人達は生きるためにナチスへの協力を余儀なくされるが…。
再び1945年のモンテカルロ。ソロヴィッチは持ち込んだドル紙幣を全てカジノですってしまう。ソロヴィッチはカジノから送られたシャンパンを、カジノで知り合った女と、海辺でタンゴを踊りながら飲む。
「金はまた、作ればいい」
ベルンハルト作戦はSS国家保安本部SDが行った大規模な通貨偽造作戦である。詳細はリンク先のwikiをごらん頂くとして、戦争はあらゆる犯罪行為を肯定する。殺人、略奪、放火、そして贋札作りも同様である。
敵国の通貨を偽造する行為は、敵国経済にインフレーションを及ぼしたり、偽造通貨を「正貨」として用い自国の軍事力を増強する事を目的としている。「敵に経済的打撃を与える」という意味では純然たる戦争行為である。偽造ドル紙幣スーパーシリーズの製造で知られる北朝鮮が今もなお「戦時下」にある事を考えれば、これを単純に犯罪行為と断罪するのは難しい。北朝鮮としては敵対するアメリカに打撃を与える戦略的攻撃だからだ。
これを逆説的に考えると、通貨偽造行為はその通貨を使用する国に対して戦争を仕掛けるのと同じぐらい重大な犯罪という事になる。通貨偽造罪が、いかに未熟な手段(カラーコピーやスキャナプリント)でも厳重に罰せられるのは通貨偽造という行為がいかに国家の体面を傷付けるかを示しているといえる。
7月21日(月)
コミックマーケット74 参加告知 2日目(8月16日・土曜日)
東3ホール「カ−06b」 サークル名「メンゲ連ハウニ部」(冊子版カタログ563ページ右上端)
当日の頒布作品紹介(左から)
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軍事研九2007年11月号(前回の冬コミ初出(委託))500円
ガンダム00解説副読本。21世紀から24世紀までの空白の三世紀を考察。第1話から第3話までを考察。
軍事研九2007年3月号(3月オンリーイベント初出)500円
ガンダム00解説副読本。第4話から第8話前半までを考察。
軍事研九2007年6月号(6月オンリーイベント初出)500円
ガンダム00解説副読本。第8話後半から第10話までを考察。
軍事研九2007年7月号(新刊)500円
ガンダム00解説副読本。第11話から第13話までを考察。
軍事研九2007年8月号(新刊)500円
ガンダム00解説副読本。第14話から第16話までを考察。
コミケ当選、カタログチェックの影響で日記を閲覧される方々が増えてきたので、これはサボってる訳には行かないな、という次第でひとまず内容告知です。
今回は数年ぶりにガンダムスペースで参加。これまではガンダムスペースでもゾイド本でしたが、今回はれっきとしたガンダム本です。00本です。一昨日買ってきたカタログをチェックするかぎり、メカ系・考察系のガンダムサークルで00をテーマにしてるのはまだうちだけみたいで、今回も隙間市場を独占することに成功しました!(お
第1巻は冬コミでむつみ屋さんで委託させてもらいましたが、自サークルでコミケ出品するのは事実上、全巻新刊です! どうぞよろしくお願いします。