建築家 宮部光幸の建築・造園作品ギャラリー 制作ノートファイル 本文へジャンプ

20101210,11日 札幌交響楽団第534回定期演奏会プログラムより転載

文はライターの谷口雅春さん。

写真は12月11日宮部が撮影、

キャプッションも宮部によります。

Play Back 楽団の歩み 札響創設50年 連載

2011 札響50年」ヘ−8



2011年の札響創設50年に向けてのインタビューシリーズです。

今回のご登場は、札幌芸術の森アートホールや札幌コンサートホール

など札響との関わりの深い仕事も数多い、建築家の宮部光幸さんです。

           

大ホールホワイエ柱頭

北海道帝国大学創立 1918

佐藤昌介初代総長の総合大学創設への熱意と

それに応え、全国から集まった学者と学生は

札幌の新しい文化の礎となった。

そこに札幌の交響楽の源がある

芸術の森からKitara



宮部さんは、Kitaraや芸術の森のアートホールといった札響にとっても重要な施設の

設計を、音響設計の豊田泰久さんとともに手がけていらっしゃいます。

札響との関わりはどのようにはじまったのでしょうか?




宮部 80年代、当時の事務局長である竹津宜男さんとのおつき合いからですね。

85年の春に札響は、その前年に竣工した千歳市民文化センターで、黒澤映画「乱」の

サウンドトラックを録音します。このホールも私の設計で、

音響設計はやはり豊田さん(永田音響設計)。

空港のある街のホールですから高い遮音性が求められ、また計画地は鉄道に近く、

列車が起こす低音域の振動にも配慮しなければならない。

結果として、当時最も音響のすぐれたホールになりました。

いい響きをかなえるための原点は、「静けさ」ですからね。

 そして静けさに加えて、音楽に必要なのは豊かな自然です。

戦後開拓の跡地に構想された札幌芸術の森のプロジェクトでは、

緑豊かな丘陵地に札響の練習場を作ることが目的のひとつでした。

それまでの北海道青少年会館(真駒内)には楽器の保管庫もなく、

練習のたびに持ち込まなければなりませんでした。

 第1期のオープン(1986年)で完成したのはいま大練習室と呼ばれるところですが、

これで札響がようやく本格的な練習場を持つことができました。

しかし容積の問題もあり残響にやや不満が残った。

いまのアートホール・アリーナができるのは、95年ですね。







80年代後半からの10年間は、札幌の音楽史にとっても大きな出来事がつづき、

宮部さんもその現場に深く関わっていらっしやいましたね。



 

宮部 当時私は北海道開発コンサルタントで仕事をしていました。

芸術の森の工事は期15年にわたりましたから、まずこれがベースにあります。

そして苫小牧のホテル・ニドムの仕事があった。

開業前のある日(1989年11月)竹津さんから連絡があり、

来年(90年)PMFという新しい教育音楽祭がはじまり、

レナード・バーンスタインが来る。舞台となるのは芸術の森だと知らされます。 

 そしてマエストロは高齢で空気のよい環境のホテルを希望している、と。


 
ニドムはまだ営業していないのでふつうなら無理な注文ですが、

オーナーに竹津さんを紹介するとオーナーは理解してくださり、

バーンスタインー行のために特別な便宜がはかられました。

ご存知のようにそれが最初で最後の来道になってしまうのです。 

バーンスタインは、ホテルはたいそう気にいってくださったのですが、

“札幌のホール環境は最悪だ”というコメントを残しました。

そこから、良い音楽ホールを求める市民の声が高まっていきます。




大ホールの外周通路から小ホールの階段が

見える

最下段は地下駐車場の光庭である





先人が札響に託した思いとは


92年の秋には音楽専用ホールの建設が決まり、

94年着工、97年夏に開館を迎えます。

設計者の選定は6社のコンペによると決められ、

地元の宮部さんの案が選ばれました。




宮部 86年に東京にサントリーホールができて、

札幌の音楽関係者や音楽ファンの中でも大きな話題となります。

サントリーホールで札響を聴いた人が、

札響ってこんなにすごいオーケストラだったのかと驚いた(笑)。

あのホールを札幌にも作ろう、という気運が高まったわけですね。

設計に当たって私は世界の優れたホールのすみずみを見てまわりました。

その上で構想を立てましたから、単にサントリーホールを札幌に

建てようとは考えませんでした。

建てるのは世界トップのホール。

現場ではみな、そんな意気に燃えていました。


例えば、かつての屠殺場の跡地を再開発して国立高等音楽院や

ホール・博物館などを作ったパリのラ・ヴイレット公園。

あるいはホールの周辺に音楽学校があって、

演奏家はホールで仕事をしながら近くの学校で教えたりしている

アムステルダムの例などを学ぶにつれ、

私はホールとは広い意味で演奏家の生活空間なんだ、と再認識しました。

単に立派な空間が無機質に存在しているだけではダメなのです。

欧米の名門オーケストラの本拠地となるホールでは、

楽員ひとりひとりにロッカーがあって彼らはつねに

そこに自分の楽器や道具を収めておける、

そしてホールの近くには音楽学校があって、

演奏家たちはそこで教育も行う、そんな例も珍しくありません。

私はKitaraでも、札響を軸にいつかそんなことができないかと考えていました。

音楽をただ鑑賞したり消費するだけではない、

幅広い教育の営みを取り入れた、

音楽による地域づくりとでもいえるでしょうか。



開演前、バスセクションがステージで最後の

チューニングをしている

キタラのステージを取り囲む座席配置からは

演奏者のすべての

パフォーマンスを見ることも出来る。

ステージの後部座席からは指揮の細部まで

体感できる

第1回PMFOの演奏・初回、札幌市民会館で

バーンスタインは指揮者に対面する位置、

すなはち、ビオラとチェロの間に陣取り、

赤いマフラーを肩にかけ、

佐渡裕のフランチェスカ・ダ・リミニの

指揮を見守った。

私たちは今、キタラを訪れる世界中の

マエストロの指揮を眼前に

観ることが出来る。



教育といえば、Kitaraには北海道大学由来のデザインも

取り入れられていますね。




宮部 当初そうした意匠は、単にポストモダンの

引用趣味のように受け止められがちでした。

しかし私の本意はちがいます。

1961年という早い時期に、札幌は自前のオーケストラを持った。

先人たちは、この街に札響をどうしても作らなければならなかった。

私はそうした強いモチベーションを、建築空間に表現したかったのです。

そのモチベーションとは何か。ひとつは札幌農学枚や北海道大学に行き着きます。

例えば、農学校一期生でのちに母校の教壇に立ち、

1918(大正7)年に北海道帝国大学の初代総長となった

佐藤昌介があげられるでしょう。

佐藤は盛岡藩士の長男です。

つまり明治維新で郷土を無残に奪われた

(父たちは幕府について新政府軍に敗北)人なのです。

農学校
2期生の新渡戸稲造も盛岡藩士の息子です。

彼らがどんな思いで学問を身につけ、

北海道に新しい都市を造るためにどれほど高い理想を掲げたことか。

一時は閉鎖の危機もあった札幌農学校を佐藤らが

北海道帝国大学に昇格させたとき、きわめてレベルの高い教員たちを集めます。

理学部の中谷宇吉郎(雪の結晶を発見)などがそうですね。

私は札響の創立には、先人たちのそうした理想が底流していたと思います。

ですからKitaraには、北大のほかにも、

佐藤総長の時代の札幌を記すようなモチーフが

イコン(記号)として配置されています。

例えば大ホール入口のドーム状の天蓋は、

中島公園で開かれた開道
50年北海道博覧会で

建てられた奏楽堂の引用です。

伊福部昭や早坂文雄が世界に通じる作品を

作りはじめたのもその時代。

私は札響の本拠地を、そうしたイコンが末永く

発火する建築としたかったのです。




大ホールのインテリアは大きな円形状の谷間と

それを取り囲む樹林として構想された。

天井のPCパネルは天空を覆う雲。

ステージ上空の可動式反射板は祝祭を

見守る大鷲を表象する。これは伊福部昭の

日本狂詩曲の描く情景保存状態のよさがに

符合する。



興味深いお話の数々をありがとうございました。

(2010.10.27 文:谷口雅春)


e−mail mymm@topaz.ocn.ne.jp

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キタラの歴史意匠
Kitara


歴史意匠
     


札幌コンサートホール、kitaraは1994年、国内6社の指名競技設計で

1席の指名を受け、設計・監理を株式会社ドーコンが受け1997年6月完成。

今年11年目をむかえました。

設計にあったっては、国内外の類似施設30余を調査いたしました。

世界にこれまで作られたホールを越えるものにする必要があったからです。

ホールの音響設計で は千歳市民文化センター、

札幌芸術の森・アートホールで実績を重ねてきた、

永田音響設計、豊田氏に参加いただきました。

音響的な特徴は1つに、ホールの天井にみられます。

400余のPCコンクリートパネルによる、きわめて 開口の少ない

天井は、天井面を第1の反射面にする思想です。

これまでのボードの重ね貼による天井は強度が不足しており、

経年による設備等の保守に伴い、変形が生じ、音響性能にも、

悪影響を与えるものでした。

しかし、今回の仕様により、この欠点は解消されました。

また、ステージ上部の可変式音響反射板にも音響上の配慮が

みられます。

ベルリンフィルに見られるステージ上部の初期反射音の不足、

ベルリンでは数多くのプラスティック板により対応している、に対し

kitaraでは大型の可変反射板を設計の主題の一つとして

とりいれています。十分な音響上の配慮により、

完成度の高い効果がえられています。

一方、建築のデザイン「意匠」にあったっては、

札幌の音楽史を調べました。

その結果、北海道・札幌は江戸期、維新史できわめて

特徴ある経過を経ていることがわかりました。

徳川氏から薩摩・長州への幕藩体制の移行の荒波の中に

「上陸」してきた英・仏・露そして米。その軍楽隊の系譜。

北海道開拓の技術そして北方防衛の趣旨で、米・南北戦争直後の

マサチュウセッツ農科大学から招聘された W.S クラーク。

この偶然のように迷い込んだ、キリスト教・クエーカー教徒の

地域文化への参入とその人脈で展開する欧米の音楽の系譜。

近代国家づくり、その柱としての国民皆教育。その新分野、

音楽教育。梁田貞のどんぐりころころ。

札幌農学校、東北帝国大学農科大学

そして1918年北海道帝国大学の創設。

北海道に渡る新しき文化人たち。

総合大学創設で多くの学者の来札。

建築家そしてヴァイオリニスト、田上義也の来札。

植村泰二らの地域の音楽文化の展開。

伊福部兄弟、早坂文雄そして工藤元 「国際現代音楽祭」。

チェレプニン賞、ワインガルトナー賞の受賞。

そして荒谷正雄の音楽の歴史の始動。

これらの展開、その渦運動。

これらの分流の交差が形づくる札幌の文化は

日本の近現代の縮図と言えます。

 そして、これらの歴史は建築の、

都市造形の数々として私たちの記憶に残りました。

近代の国家体制を求める、明冶政府の造形「豊平館」の系譜、

札幌農学校北キャンパス、開道50周年・北海道博覧会

での中條精一郎の流れ。

クラーク・札幌独立教会にみる新渡戸稲造の米国・自由主義の系譜。

これらは音楽に、建築に、都市にそして札幌の風俗へと

展開をはじめたのです。

kitaraの竣工、10周年を迎えた頃から、

この「歴史意匠」についての問い合わせが増えてきました。

昨年、札幌小学校校長会総会でこのテーマで基調講演をいたしました。

その後いくつかの問い合わせに応え、講演をつづけています。

 音楽ホールの歴史意匠は、これまで札幌の音楽を育ててくれた人々、

その時代への「オマージュ」(ありがとうの気持ちの表明)なのですが、

いまや札幌史を語るものとして、働きはじめていることをはじめております。 

 (2008・4・21 宮部 光幸)


札幌市公式サイト

「札幌の歴史が隠れる、Kitaraの建築」もご覧ください


http://www.welcome.city.sapporo.jp/feature/04_09/kitara3.html


  
 

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2008年6月4日 キタラボランティア 講習会 テキスト


   
  『物語ること』                 建築家 宮部 光幸

「歴史に現れる、建築・都市と音楽シーンとの呼応から建築言語を抽出しKitaraのここそこに

メッセージを仕掛けることが 建築のもう1つのテーマとなりました」
*3 
 




                               
ベルリン、フィルハーモニー・コンサートホールに始まる「舞台中心型(centralized)」大ホール、伝統的なシューボックス型

の小ホール、2つホールを持つキタラは最適な音響特性を持つ空間*1として完成しました。

キタラが完成し、トップクラスの音響性能を実現することで、世界中の著名な音楽家が来札し、すばらしい音楽に触れる

機会が増え,これに触発されて札幌の音楽文化の水準が高まりつつあります。

一方、ここに集う人々はキタラの空間からの語りかけを感じ始めています。何か語りかけるのです。

そうです、Kitaraは歴史的な視覚メッセージにあふれています。札幌の音楽史の出来事に因んだ建築の言葉が

仕掛けられています。今日は札幌・音楽の都の歴史について物語ります。

1、 Kitaraへの経過は

第2次世界大戦後のホール建設の流れは1951年、ロンドン、ロイヤルフェスティバルホール(2901席)

から始まるとされています。暖房設備のメインボイラーに退役軍艦のボイラーを使っているということです。

日本では1954年の神奈川県立音楽堂、1961年東京文化会館大ホールの建設がはじまります。

札幌では1945年7月荒谷正雄、帰国後の音楽活動の開始。1947年札幌室内楽協会、札幌芸術協会設立、

1948年、札幌音楽院の開校、49年、北海道大学教育学部音楽科設立(広瀬量平、谷本一之等60人余の卒業生)

等、地域の音楽活動の逸早い復活。

以後の情熱に支えられた努力の結果、市民の音楽発表の場、豊平館(+市公会堂)は解体・移転され、

1960年、新市民会館の竣工をむかえました。その後、当会館は数度の舞台改修を経ることになりますが、

71年冬季オリンピックを迎えての北海道厚生年金会館、教育文化会館の開館等、

札幌は複数館の発表の場を持つことに成ったのはつとに知るところです。

一方、1982年大阪、ザ・シンフォニーホールに始まる我国での専用ホールの建設は東京、サントリーホール

の開館(1986年)を代表として、札幌での音楽専用ホール建設以前に60館余を数えます。

札幌の音楽愛好家のサントリーホール通いは相当数に及び、当然の事ながら、札幌に音楽専用ホール建設の

声が高まってきておりました。しかし、施設維持・利用度そして建設費の捻出の面からこれに応えることは

市、当局にはできませんでした。

この事態を転換したのがレナード・バーンスタインの提唱するPMFの札幌開催でした。

89年、5月の誘致の方向決定後、マエストロの体調不全のため、来札が危ぶまれたのですが、

プログラムは大成功に終わりました。この反省会で宿泊したホテル・ニドムは最高だ、しかし残念なのは、

音響性能の整ったホールが札幌に無いことだ、とのマエストロの言葉に、当時の板垣札幌市長は、

音楽専用ホールの建設を決意することとなります。
 
その後、札幌市は国内6社の指名競技設計を行い株式会社ドーコンが第1席となり、

以降、設計・監理は進み、そして1997年竣工しました。平面計画、構造設備計画、音響計画でのホールの

特徴には多く工夫が施されています。音響計画での1/50モデルでの実験、エントランススクリーンの耐風

耐震・耐降雨の同時試験などお伝えしたいことは沢山ありますが、今日は意匠の話にテーマを絞りましょう。


2 空間に「札幌らしさ」を求め、札幌の音楽の展開を調べました。 
 
空間に「札幌らしさ」を求め、札幌の音楽の展開を調べました。すると、北海道・札幌の音楽史上には今日に

語り継ぐべき多くのエピソードがあることがわかりました。これらのエピソードを空間として表現することは

今日の抽象的なかつ国際建築言語によるもの以上に価値あるものと考えました。

高度成長期に「歴史遺産の多く」を失った札幌は未来と同時に歴史も再構築することが必要です。

「歴史に現れる、建築・都市の表情と音楽シーンの呼応を感じつつ、新しい空間を創造する、

歴史空間を再構築する。」これは都市のアイデンティティーの確立上からも最重要課題です。

訪れる人々に札幌の音楽・文化史への関心を高めてもらうこと、札幌成り立ちついて語り合うこと、

そして子々孫々「物語ること」がこの街の文化を高めるのに役立つと考え。Kitaraの各所に

歴史的な建築言語を埋め込みました。


3 Kitaraは歴史的な視覚メッセージにあふれています。

19世紀中葉以降の北海道史には我国の精神史を構成する出来事が次々と起こります。

これらの出来事に音楽シーンは展開され、呼応して物語る都市・建築が存在しました。はじめに、

これから「物語る出来事、音楽、都市・建築」を紹介します。*2


1、「維新期〜明治中期(1854〜1900)」・「北海道への西洋音楽の上陸」・「初期洋風建築」

2、「明治後期〜大正初期(1900〜1920)」・「音楽の始まり」・「札幌農学校移転、開道50年記念北海道博覧会」

3、「大正後期〜昭和初期(1920~1935)」・「札幌音楽の展開」・「1920年以降の新古典建築」

4、「戦前(1930〜1945)」・「世界に羽ばたく札幌、新音楽連盟」・「モダニズムの札幌」

5、「戦後 (1945〜1961)」・「荒谷正雄、札響への道」・「札幌のレイト・モダン」

それでは、物語を始めましょう。



1、「維新期〜明治中期(1854〜1900)」・「北海道への西洋音楽の上陸」・「初期洋風建築」

音楽シーン

  
1−1 北海道への西洋音楽の上陸は黒船、日米和親条約(1854)下田・函館の開港といわれ、

  その後、ロシアその他 の軍楽隊の演奏を聞くことから始まる。 
  
  1−2 もう一つは、キリスト教の布教活動、 函館ハリスト教会の落成、落成式典での無伴奏混声4部合唱

  1−3 札幌は札幌農学校のキリスト教の伝道

引用した建築言語

  
 『豊平館2階バルコニー手摺 →大ホールホワイエ北面バルコニー手摺 』  

        
・・・このバルコニーから豊平館手摺が眺望できます

豊平館バルコニー

大ホール ホワイエ バルコニー

  
note

「北海道への西洋音楽の上陸」

  1850年、南北戦争が終わるころ、当の合衆国を始め、東アジア貿易の拡大競争の盛んな英仏、そして極東

ロシアの艦隊は日本沿岸を遊弋していたが、54年、日米和親条約により、下田・箱館が開港された。

つづく57年露・英の箱館入港、その後の居留地の建設(60年、旧函館ハリスト教会)がつづき、開港地

に欧米の軍楽隊の音が響きわたった。この維新史における、欧米化の波は今日我々が歴史教科書で知る以上に

急速、かつ広範である。例えばその後の、幕府執政、一橋慶喜の銃砲・軍制のフランス化。

2開港地での砲台(東京、お台場)・西洋城郭の建設(函館・五稜郭)から始まり、庶民の諸文化、肉鍋、浮世絵

での油絵技法摂取、等々での欧風化は急速にすすむ。

  北海道について言うなら、維新戦争での幕軍の戦費調達のために、フランスに売却する話しも出たという。

いずれにしても維新史での慌しい欧米文化の摂取期においても、庶民は驚き、興味をそそられ、そして楽しみ

に変えてゆく。各国軍楽隊の上陸行進は見物であふれる、パレードであり、即座にそれを軍制に取り入れた

のは幕軍をはじめに、薩長土肥の討幕軍もおなじだった。69年函館戦争の榎本軍のラッパ部隊、75年の屯田兵

入植によるラッパ連絡は我国の音楽でのラッパのイメージの母型となった。


 「初期洋風建築」

  明治維新政府は近代化政策のモデルとして4つの国をえらんだ。英・仏・独・米がそれである。

北海道の開拓に は北門の守りと農業開拓の2政策実現のため、市民戦争の余燼覚めやらぬ合衆国より、

政策顧問として、71年、農 務局長ケプロンを招いた。その後、創設首都に工部学校(後、帝大)、

芝農学校を設置した。75年、農学校は札幌 移転が決まり、76年(M9)マサシュセッツ農科大学より

W・S・クラーク、ホイスラー等を招聘し、全道各地の開 拓モデルとした。

  69年、開拓使の創設、黒田次官(74年〜82年長官)による札幌の初期洋風建築の建設がはじまる。

よく出る一口話だが、明治9年(76年)、東京・芝の仮学校から札幌移転での話。クラークの着任には1期生も

同行していたが、これが北海道に近づき、その島影を見たとき、余りの感激で学生の一人が端唄を一節漏ら

したという。それが、帯同していた黒田長官の逆鱗に触れたという。これから新時代を創ろうとする君らが

退廃の極みの江戸風であるのは、何たることか、というのだ。即刻、退学ということを、クラーク初め周り

の共々がとりなして、事なきを得たというが、このとき、黒田が言うに、新時代に相応しい精神の

器が無いため、こういうことが起きる。先生 何かいい方法はないだろうか。

応えてクラークはキリスト教の導入を薦めたが、黒田は学生が新宗教徒になる

のを恐れ,哲学として講ずる事を了解したという。このはなしが、海上でのこととするのと、

石狩から札幌への河上とするのと2説あり。

  いづれにしても、そんなこんなで札幌農学校は札幌の文化創造の中核となり、そこから模範家畜房

をはじめとする初期洋風建築は、開拓使技官、安達喜幸(東京・芝の大工棟梁)による78年・演武場

(札幌時計台)、80年・豊平館等、建築言語として札幌を表象するものとなった。以降、農学校の人脈をつて

に来札する外国人によってもたらされる音楽は地域の音楽文化を形づくる直接の要因となった。

77年、バチェラー夫妻、83年サラ・クララ・スミスの来道。

明治20年前後から札幌での布教と音楽活動は札幌の音楽の特色を物語る要因である。





2、「明治後期〜大正初期(1900〜1920)」・「音楽の始まり」・「札幌農学校移転」「開道50年記念北海道博覧会」

音楽シーン

  2−1 函館、吹奏楽団の隊長、札幌移転(赤帽子音楽隊創設)、丸井呉服店・札幌ビール・帝国製麻等バンドを持つ    (1901)        
 
 2−2 有島武郎農学校創立25周年を記念して校歌作曲(「豊平の川・・」)(1900)
      
       バチェラー、スミス等 日露戦争開戦・赤十字寄付音楽会(1904)
      
       札幌庁立高女で札幌初の音楽会(1911)、都ぞ弥生(1912)
          
       植村泰二・工藤富次郎 農科大学にグリークラブ創設 (1915)
 
 2−3 札幌、函館についで無声映画常設館、楽隊の演奏(1910)

引用した建築言語

 『札幌農学校図書館・読書室棟開口部 →小ホール内壁』

 『開道50年記念北海道博覧会・奏楽堂→大ホール・エントランスゲート』

札幌農学校 図書館・読書室棟 開口部

小ホール 側壁


開道50年記念博 奏楽堂

大ホール エントランス ゲート



note

「音楽の始まり1」

  1883年、手宮〜幌内鉄道の開業式に陸軍軍楽隊が来道。祝賀会をはじめ停車駅ごとに演奏したとある。

96年、函館吹奏楽団の設立。本道西洋音楽 の発祥とされているが、スミス等の札幌での演奏は87年とされて

いる。1894、札幌農学校運動会での器楽演奏、行進。   


「札幌農学校移転」

  
1900年、延命した札幌農学校は北のキャンパスに移転の起工式が執り行われた(〜1903)。文部技師、中條

精一郎(宮本 百合子の父)による計画・設計。30余棟の新築された、新古典主義*1の新たなキャンバスの景

観に市民はめを見張ることになる。一方、前キャンバスの演武場は札幌区に払い下げられ(1909年現位置へ移

転)、以降 市民の講堂、図書館として使われることとなった。このキャンパス移転校舎のうち、図書館・読書

室棟は現存する中條の作品であり、小さい平屋の木造であるが、窓・出入り口等の開口が三角と櫛型ペディメ

ントの交互 配置によるものであり、ギリシャ・ローマ古典建築の様式 に倣ったものに私は学生の時から感

銘を覚えていた建物だった。いずれにしても、初期洋風建築の様式とは異なる建築群の出現は札幌の第2世代

の空間の象徴であろう。


「音楽の始まり2」

  この農学校キャンパスの移転の頃、函館の隊長、副隊長の札幌、小樽への移住により、バンドの流行が

札幌に移転(1901)、丸井呉服店、札幌ビール、帝国製麻がバンドを持つ。03年、演武場、札幌区に払い下げ。

市民の音楽の場、時計台となる。

  7年、農学校、東北帝大農科大学に改組。8年ローランド牧師による信者混声合唱団の創設、11年、札幌

庁立高女音楽会等音楽の市民文化への普及が始まる。そして何より音楽の大衆化の起爆となったのは無声

映画での器楽演奏だった(1910)。また同時にレコードの販売により、直接欧米の音楽文化が流入したことに

ある。後の、東宝映画会社、創設者、植村泰二のレコードコンサート、15年の工藤富次郎との農科大学グリ

ークラブの設立は札幌の音楽シーンを豊かな物にしてゆく。


「開道50年記念北海道博覧会」

  一方、市街地も第2世代の更新を向かえ、五番館(1912)、今井呉服店(1916)、札幌組合教会(1913)と

相次ぎ、レンガ造、ゼッセション様式、新ゴッシク等の多様な建築群に、都市は彩られてゆく。

そして、この20年余には単なる拓殖の地であった北海道に人が暮らし、文化を享受する地として根付いた

ことを示す2つの出来事があった。

  1つ目は開道50年記念北海道博覧会の開催である。この50年余の年月を経て、北海道は200万人

を超える 人口をえた。明治期以降のわが国でこの規模の人口移動は首都圏域を除いてほかに無い。

これを記念して博覧会が催された。(1918年8・1〜9・19 142万人)この会場には奏楽堂が設けられ吹奏楽

が演奏され、輸送機関として路面電車が開通した。

  他の1つは農科大学の独立、総合大学への道が開いたことである。理学部、工学部、医学部へ大学教官

として、あるいは学生として来札した人々は札幌の文化を形作る担い手となる。






3、「大正後期〜昭和初期(1920~1930)」・

「札幌音楽の展開」・「1920年以降の新古典建築」


音楽シーン 札幌音楽の展開

  3−1 西洋音楽を聴く機会が増え、市民自演の領域を拡大

  3−2 1921年、高階哲夫等の札幌公演、数多くの演奏家が来道

  3−3 1922年関東大震災により、建築家・バイオリニスト田上義也が来札。札幌公会堂が建設 
                     
  3−4 1928年NHK札幌放送局開局

引用した建築言語

 『北海道帝国大学理学部・農学部外壁、札幌師範学校外壁スクラッチ  →建築中層部外壁タイル』

 『札幌独立教会クラーク記念会堂等の新古典主義→大小ホールホワイエ柱列』

 『北海道帝国大学理学部・農学部外壁、札幌師範学校外壁スクラッチ』

北海道帝国大学 理学部

札幌コンサートホール 南立面


札幌独立教会

大小ホール ホワイエ 柱列




note

「札幌音楽の展開」

   
西洋音楽を聴く機会が増えたことは市民自演の領域を拡大した。富貴堂が楽器部を創設し、北大にマンド

リンや小オーケストラの演奏団体が活発化し、1919年札幌シンフォニーオーケストラの創設をみた。また時

計台や豊平館でレコードコンサートが催され音楽が市民生活の楽しみとしての定着をはじめる。  

  1921年、高階哲夫等の札幌公演の折、羊が丘養羊場で着想を得たという「時計台の鐘」は村井(相沢)満寿

によって歌われ今日も札幌を代表する楽曲として愛されているが、数多くの演奏家が来道する。  

  また、1922年関東大震災により、建築家・バイオリニスト田上義也が来札する。田上の熱心な音楽活動、

北光トリオの編成等、札幌の音楽愛好家の演奏活動が活発となり、豊平館に増築する形で札幌公会堂が建設

され(1927)音楽文化の核をえる。            
  
一方、1928年開局したJOIK、NHK札幌放送局は札幌、そして北海道の各都市に和洋の音楽を発信した。

技術上、東京の番組中継が無い事態での番組制作。地域の演奏家の発表の機会が増えた(〜1929)。

「都市の表象建築、独立教会」

  都市機能の集積は密度の高い都市空間を求めた。1921年函館大火、22年関東大震災はそれまでの平屋

・2階建て木造に代わり耐火建築を推進し、かつ鉄筋コンクリート造の普及により、4・5階建てのビル建築

が都市の顔として登場する。銀行・生保・百貨店そして1929年北海道帝国大学理学部本館、35年同農学部本館

(共に萩原惇正)。

  一方、都市を象徴する顔、当時の思想史と呼応する建築物を上げるなら札幌独立教会クラーク記念会堂

となろう。1920年新渡戸の国際連盟事務次長就任はジョン・ホップキンス大学の同窓、第28代、ウッドロー

・ウィルソン大統領(1912〜)の第1次大戦戦後処理、ベルサイユ条約の実行の舞台に日本人が抜擢された

ことである。 しかもこの事態以前には無い「国際」という概念の誕生である。

  新渡戸は22年、それまでの40年余の札幌での人脈ネットを動員しこの会堂を建立した。そして、

その建築意匠は彼の理念「NewFreedom新自由主義」それを表象する新古典主義、ギリシャ建築

だった。設計は建築士会の創設に邁進中で今や日本一となった曾根・中條事務所。そのチーフでザイナー

の高松政雄だった。南大通に1階程の高さの基壇を配し、その上のギリシャ建築の出現は当時の札幌の

都市空間に異彩を放ち、札幌が国際的な視点獲得のシンボルとなる。(1973年解体)






4、「戦前(1930〜1945)」・「世界に羽ばたく札幌、新音楽連盟」・「モダニズムの札幌」

世界に羽ばたく札幌、新音楽連盟・・1932年、伊福部勲・三浦敦史が「新音楽連盟」を創立する。

引用した建築言語

 『パリ、ロシア・アヴァンギャルドに呼応する思潮→大ホール空間意匠』

参考にした建築言語  田上義也、カフェ三条 1931年

パリ、ロシア・アヴァンギャルドの思潮

大ホール意匠



「モダニズムの札幌」

   
欧州戦争、あるいは、第1次世界大戦は、単なる戦争ではなかった。ヨーロッパの旧体制の崩壊を意味した。ロシア、ドイツ、

ハンガリー・オーストリア、トルコ等の帝国の崩壊、国際進歩主義の台頭は現代文明の幕開けそのものだった。1922年の新渡戸の

国際連盟事務次長就任は札幌の国際文化の象徴ともいうべき出来事であろう。

 しかしながら、当時の日本も、もちろん札幌もそれにほとんど反応していない。
 
 それには10年の年月が必要だった。1918年に始まる、ロシア・アヴァンギャルドの影響がマルセーユ経由でラストポート神戸に

届き、建築家・村野藤吾がモスクワに旅立ったのは1928年。それに田上が感応するのが1931年、カフェ三条。

「世界に羽ばたく札幌」

  一方、音楽シーンにはとんでもないことが起こった。1932年、三浦敦史・伊福部勲らによる新音楽連盟の結成、1934、今井記

念館にて伊福部昭(v)、工藤元(vc)、早坂文雄(p)伊福部勲(cb)等による「国際現代音楽祭」開催である。

*4 演目、早坂サティー「3つのグノーシェンヌ」(本邦初演)、早坂+伊福部ストラビンスキー、ラベル等14曲演奏。ドイツ音

楽中心の東京に対して、フランス・ロシア・スペイン音楽の新風を吹き込む。 これに続けて、35年伊福部「日本狂詩曲」でチェ

レプニン賞受賞、37年早坂「古代の舞曲」でワインガルトナー賞受賞。札幌からの風がふきはじめる。この後、早坂は先の東宝、

植村の誘いで映画音楽家となり、黒澤の「羅生門」「七人の侍」等の音楽を担当、伊福部昭は46年、東京音楽学校での教官着任、わが

国の現代音楽の始祖であり、武満・林・一柳等を輩出する。





5、「戦後 (1945〜1961)」・「荒谷正雄、札響への道」・「札幌のレイト・モダン」

 
 1945年戦中最後の引き上げ船で帰国した、荒谷正雄の活動で始まる戦後の札幌音楽史は今日の札幌の音楽文化そのものを語るもので

しょう。

「荒谷正雄、札響への道」

  荒谷正雄*5の札響創設への物語を札幌市民に知らしめるには、今しばらくの時間が必要かもしれない。

大正 3年 1月31日生まれ、

創成小学校,札幌商業学校,ヴァイオリンを田上義也に師事し,帝国音楽学院(戦中焼失、廃校)

1934片山アリスと結婚(斉藤秀雄同級)

1936、渡欧,ウイーン・コンセルバトワール。シゲティー、モギレフスキー等に師事した。

1939、ベルリンに移住。

1945五月ベルリン近郊、マールスドルフよりシベリア経由で引き上げ、7月敦賀上陸 。

11月JOIK主催,松竹座 進駐軍歓迎音楽会「春の海」合奏。

以降 札幌室内楽協会設立。1948 札幌音楽院創設。以降49年北大教育学部音学課設立、55年北大交響楽団設立。

56年北海道学芸大学札幌分校に特設音楽 過程創設等の戦後の音楽史の変遷にあって札響の創設に人生を費やしたと言えよう。


1955 当時の教育長、中島好夫氏より市民オーケストラ結成の可能性の相談。 

道銀10周年記念の文化事業に市民オーケストラ設立援助の話

1960 原田札幌市長 年頭の挨拶で市民オーケストラ設立構想

1961 財団法人 札幌市民交響楽団(阿部理事長)設立 荒谷氏常任指揮者

1968 荒谷氏 札響去る

1996 3月  逝去


「引用した建築言語」

 『 戦後の自然主義の思潮→エントランス小ホール階段、大ホールゲート側壁、 雪壁をイメージしたビアンコカララの意匠』



以上、5つのエピソードを今日は紹介しましたが、この建築に盛り込まれたメッセージは他にも、丸井今井南1条館外壁、北大農学部玄関ホー

ル照明器具等、数多くあります。
 
歴史的な意匠はその時代の意義を思いださせます。歴史を学ぶことは私たちの地域と人の成り立ちを再認識させます。

itaraは現代芸術と歴史遺産の交差点なのです。

 



*1 特に大ホールでは「演奏者と聴き手が一体となることで得られるライブ感覚を高めること」「全方位の聴衆に十分な音圧を与えること」に対して「ステージを含むホール中央部の初期反射音(30μsec以下の)が得にくい」という、この型の長年の課題に取り組みました。「プレキャストコンクリート製の天井パネルの採用」「ステージ上部の大型反射板」により視覚的にも音響的にもこの新しい試みは成功し、世界の演奏家から高い評価を得ています。

*2 札幌は明治以降の我国の近代化において、首都と並ぶ政策投資がなされた地域であり、開道50年で、200万余の人口移動がありました。この間、我国における先進的な技術の導入、合わせて合衆国やヨーロッパ文化の摂取、最先端の芸術がこの北の地に花開きました。そして、建築、都市の表情と音楽シーンには相関があります。なお、音楽シーンについては「北海道音楽史 前川公美夫 1995 大空社」を参考にさせていただいております。
 
*4「国際現代音楽祭」1922年、関東大震災で東京芸術大学の音楽資料室が全焼し譜面は消失した。これにフランスからの義捐で楽譜が送られてきた。しかしドイツ一辺倒の同大学は開封すらしなかったとの風評もある。それに対して伊福部昭、早坂文雄は新しい露仏の音楽に反応した。1932年、三浦敦史・伊福部勲らによる新音楽連盟の結成

* 5「響け北の大地に」 1997/8/16 荒谷正雄先生の遺業を偲ぶ会   実行委員会発行




宮  部  光  幸

1948年 岩見沢市 生。1972年、北海道大学修士課程 修了。
在学中、札幌独立教会クラーク記念会堂の解体にたちあう。1972年4月2003年4月(株)ドーコンに在籍。
1996年より8年間、北海道大学建築工学科非常勤講師(建築設計論)。

建築は1973年、北大教授、太田実 道立近大美術館設計チームでの仕事から。

実作は1984年「千歳文化センター」(第10回日本建築士事務所協会連合会賞 会長賞) 
1986年「ニドム クラッシクコース・ホテルニドム(〜1988)」
1987年「キリンビール千歳工場」(1987年度 第12回日本建築学会 北海道建築賞)
1987年「ノーザン ホース パーク」
1988年「高速電車東車両基地」(1988年度 公共建築賞 優秀賞)
1990年札幌芸術の森、アートホール等の環境との調和を目指した作品群を手がける。
1991年北海道文学館コンペ応募、そして1992年、札幌市音楽専用ホール基本設計コンペ 第1席(第23回 日本建築学会 北海道建築賞 審査員特別賞・2002年度 公共建築賞 優秀賞)等の北海道建築の歴史的言語に取り組む。
2000年、「ばらと霊園、弘照院教会 總本殿」、2001年「新十津川町総合福祉センター・音楽ホール」等で歴史意匠への取り組みをおこなう。
2003年5月、(株)宮部 設立代表取締役。その後
2005年「ノーザン・ホース・パーク・ガーデン&レストラン」定山渓・ぬくもりの宿・ふる川「壷中天」
2006年、宮の森「ジュグダン・デュ・オークラ」
2007年旭川・高野山真言宗「旭山寺」、宮の森「うめつ小児科」等、環境と歴史に着目した作品を連作中     

株式会社 宮部 Tel 011-571-4611 mailto:mymm@topaz.ocn.ne.jp

internet 宮部光幸の項、登録建築家「宮部光幸」www.jcarb.com/KenchikukaShousai_8759430.html



札幌コンサートホール関連の出版等

 「札幌の歴史が隠れる、Kitaraの建築」www.welcome.city.sapporo.jp/feature/04_09/kitara3.html
 「札幌コンサートホール」新建築 1997年12月号、
 「札幌コンサートホール」日経アーキテクチャー 1997年11・3号、
 「札幌コンサートホール」日経アーキテクチャー 1998年2・12号、
 「北の街に誕生した札幌コンサートホール」セメント・コンクリート 609 NOV 1997
、「札幌コンサートホール」ステンレス建築 bW 1997・9、
 「札幌コンサートホール」日本建築学会編「建築設計資料集成・総合編」2001年丸善、
 「札幌コンサートホールKitara」日本建築学会建築計画委員会 劇場・ホール小委員会編「音楽空間研究」 
 「Sapporo Concert Hall」「Concert Halls and Opera Houses;Music,Acoustics and Architecture」  Leo L.Beranek  2001年


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On designing the Sapporo Concert Hall 1997

     Mitsuyuki Miyabe  architect

 Leonard Bernstein during his stay at the Nidom Hotel;the inception of the idea of using

the Sapporo Art Park;the discussions of musical artists during its planning stages;and

the experience of building the Chitose`s cultural Center,all contributed to the

planning of the Sapporo Concert Hall.     

1.Leonard Bernstein

In his later years,Leonard Bernstein extended great effort to create a program of

musical education,and beyond educating young musicians and the developmt of conductor

his thoughts turned to perfecting the musical environment for musical festivals,

including the systems of production.Seeking a new musical world in of young musicians

the Pacific Rim areas he worked toward the realization of a program of development from

around the Pacific in Beijing,China.The Tian Men Square incident,which occurred in the

midst of these efforts however,hardened the American attitudes toward Chinese policies

and he was forced to look for another site for his activities.

He first put out feelers to Yokohama,but just at that time Yokohama was occupied with

holding an FI Grand Prix race sponsored by the Junior Chamber,and he met with no success

there.As a result,a last minute feeler was put out to Sapporo less than one year before

the First Pacific Music Festival in1990.

Bernstein had already had experience in holding a musical festival in the United States

Called the Tangle wood Music Festival held in a natural forest environment.In rich natural

surroundings the sensitivities are heightened and the spiritual world of each individual

is broadened.Time flows under the influence of sensitivity seeking the essence of humanity.

It was his ideal to hold a similar program in Asia.While the Sapporo Art Park had no

facility devoted exclusively to music,it was a place where it was possible to hold such a

program.There was no lack of natural environment and,while it lacked specific facilities,

there were facilities inside and outside the city which could be adapted.

 Only accommodations were a problem.During the time of the Festival,Bernstein wanted

to stay some where near the city in a hotel located in a forest.


After trying several different approaches such as proposing to a prefabricated house

builder that a small temporary hotel be constructed in a woods on the outskirts of Sapporo,

using a helicopter to commute daily to Sapporo from a mountain villa beyond the mountain

asses they were at the point of giving up when they came to me with their problem,asking

if they could use the Hotel Nidom which was still under construction at the time and

due to have its grand opening in July.The Hotel Nidom along  with its accompanying golf

courses located 50kms south on the Central Hokkaido Toll Road,about an hour

from central Sapporo.At the time,however,it was still at the framework stage of

construction and the final shape was still in the realm of imagination.But,finally,

after several meetings with Bernstein’s managers‘the discussions were concretized.


 Bernstein arrived at Nidom in a wheelchair one early summer evening in1990.

His attendance at this,his own new music festival,had been in doubt up to two weeks

before his arrival in Japan.They said that he had been unable to move,Suffering from

neumonia for over a month.Those in Sapporo had been inquiring daily concerning his

condition but the result fortunately was his arrival in this wheelchair.Having been

hoping that at least he would be able to put in an appearance in at least one part

f the program,the staff was extremely relieved.

The two or three days rest at Nidom were apparently very effective.

The guest rooms at Nidom are all cottage−style and he took walks daily in the vicinity

and with Michael Tilson Thomas who was accompanying him he also watched the play of Sam

Snead who was in the seniors’tournament being held just then and had tempura for lunch.

The days in the woods of helped his physical condition improve steadily,and on July 3,

ith the first concert of the Pacific Music Festival in an orchestra made up of students,

he was there sitting wrapped in a red stole in a chair between the violins and violas.

He observed and guided the technique of the conductors of that day from immediately in

front of them.Marin Ohsap,Yutaka Sado and the other young conductors will never forget

the discipline they received that evening from Bernstein.

 For in only a month,Bernstein had left this world forever.


 Though Bernstein was small in stature,he had a large face with piercing eyes and

harp features,but it was his charm that drew so many people to him.At the reception

held for him at theJapanese restaurant at Nidom by the president of Nidom,Ishikawa,

Bernstein put his nose down to the Tatami to enjoy the smell of the straw.

From the beginning,or it might be better to say that as those connected with the Festival

withdrew to the hotel after the completion of the day’s activities,enjoying the drinks and

conversations far into the night,every night,Bernstein continually expressed his

heartfelt desire for broadening exchange throughout the world.When he departed Sapporo

and Nidom after his twenty−day stay,he left a short musical piece.

Entitled、The Woods of Nidom,the short piece,or rather passage,in the procession

of its melodic chords makes one aware of the deep forest,as it moves like wandering

fauna,the focus moving among the branches of the timeless forest as though a free spirit

separated from the body.


 Fed by the reports of the success of the Sapporo Program,there were high expectations

for the Tokyo concert, but after leaving Sapporo,or to be more exact,immediately

after leaving the woods of Nidom,his physicalcondition grew visibly worse.

As a result,not only was the Tokyo concert not held,but without even being able to

get out of bed he returned to America and after some two weeks trying to recuperate,

left this world. It was probably only to be expected.The recovery that he experienced

in the little over a month that he was in Sapporo could,in a sense,be justly called

a miracle. Still the loss of this world−renown Star left people speechless.

 …And I now must make the choice again of how best to serve music, and serve people

through it.

Should I spend whatever days the good Lord gives to me going back to my first love,

the piano, and playing all the Beethoven Sonatas again? Sould I just go on being a conductor

playing all the Brahms symphonies again year after year?

Should  I devote myself only to being a composer and writing the various kinds of music

that I do write? When you get to be 71、 you consider such problems.

My decision has been,without too much difficulty, to spend most of the remaining energy

and time the Lord grants me with education, sharing as much as I can with younger people.

――especially with very much younger people――

whatever T know not only about music but also about art,

And not only about the arts, but also about the relation between art and life.

And about being oneself, finding one’s self, “knowing−who−you−are” and doing the

best possible job.

If I can communicate some of this to as many young people as possible in the years that

remain to me, I will be a very happy man.

This Pacific Music Festival is one very large aspect of this commitment which I hereby

make for the rest of my life.(Bernstein’s words in the 1991 Pacific Music Festival Report.)

Afterwards、in accordance with the wishes of Bernstein, the Pacific Music Festival

has continued.Maneger Harry Kraut as successor in looking after the PMF program

comes  to Sapporo every year.Musicians young and old gathering from all over the world

live for few weeks in the northern summer.They enjoy the Sapporo Art Park;visit the

streets of Sapporo;and thus the Sapporo of music and culture is transmitted to the

world.After several years of experiencing this,Sapporo is finally achieving the

construction of a hall devoted exclusively to music.


2 The Competition

It was due to the campaign of volunteer citizens’groups and those connected with

the music world,and the fervent appeals of the Sapporo Symphony Orchestra that

construction of the Sapporo music hall began.From several possible sites,

Nakajima Park near to downtown Sapporo was finally selected.

While being near to the city center,this park retains a rich natural aspect today,

and the concept of completing the park facilities creating park devoted to the calling

arts was advanced,upon six domestic architectural offices to submit their plans for the

hall.In the autumn of 1992 a meeting to explain the competition was heldin the Hoheikan,

a building of Meiji Era architecture located next to the designated site of the hall.

The period for preparing plans for the competition was determined

following spring .as 6 months until the following spring.

It was not too difficult to fulfill the design conditions of the competition.

The first three months were taken up with deciding the single point of what to design.

My ideas coalesced combining the Art Park where the young musicians of the world were

during the PMF,the time that Bernstein and Thomas Tillson passed at Nidom,translating

that kind of time flow and scenery and harmony of nature into spatial terms;and then

designing a space where those visiting the newly created space for musical arts can

flow together and interact in a natural fashion.There is a sequence to musical space.

With Bernstein’s awakening at late morning,or rather just before noon,the few afternoon

hours became prelude to the evening event with the thoughts increasing in intensity

focused on several hours in the future.For him the sequence of those few hours

developed within the forest.


A rich natural environment,or rather,when the total environment including the human

living conditions has sufficient amplitude,when the ecological conditions are not warped,

when there is a unity of the social environment,that is to say when the planned use of

urban,agricultural and other areas is unflawed,when humanity can carry on life on this

Earth in harmony,then humans will be able to experience a truly rich natural environment.

Bernstein rejoiced in the high level of that standard and loved the nature found the rein.

If we look at the land in macro-scale,there are the gradual changes in vegetation

according the land configuration,there is the accompanying distribution of agricultural

production areas of fields and pasture land,there are the rivers cutting across these

to flow into the sea,next to these spread the cities,and here and there villages dot the

landscape.Until the last century this working of

the forces of nature. Since bursting into the twentieth century,however,the machine 

civilization has achieved a level of power that is able to destroy nature.

A large-scale restructuring of nature,the enlarging of cities to a scale sufficient to

damage the ecological balance,these are the fruits

of civilization  which have created the urban scene。


Bernstein fled this urban scene. Not only does that kind of environment scar nature,

 at the same time this unthinking social climate suffocating humaniity .

A warped humanity,a suffocating climate forces

man to find many ways of protecting himself.And his humanity

becomes hidden by this protection.Rather than being a man,becoming a cyborg is an

easier way to adjust to this high−level urban civilization.


I feel that Bernstein,having come in contact with today’s danger to humanity,was

trying to set man free once more in the midst of nature.As he himself lived,the people

who gathered around him,those who heard his music sought humanity.That is the kind of

thinking which,after Bernstein the man at Nidom,became the basis for the direction of

my thoughts;for the figure of the artist who travels the path to the concert hall,the

eople who pass by the hall while walking the dog or jogging.I have tried to construct it

to the background of the urban nature park,by my designing of the architectural vocabulary

something of the spirit of a departed time in the hearts of these people,sometimes like

a quiet peaceful flowing of low soothing tones,sometimes as a monument telling of an

episode from the history of these streets.


3 External Architectural Considerations

The configuration of the architecture was selected from the historical spatial

language of Sapporo.The period of the formation of the urban area after the1920s

especially considered,Sapporo’s Art Deco period thought to be an important motif in the

continuing history of music of today’s Sapporo.

That motif contributed to the configuration of both the large hall and that of the smaller

hall.And the steel and aluminum pipes used to connect these two became the atrium.If the

language of history is used to communicate the meaning of the space of the past to the

image of Sapporo today,the atrium is a space that can be thought of as the present

speaking to the future.The interaction of the narrative and the environmental became

the basis of the selection of architectural configuration,spacial use and architectural

 materials.


The musical director of the PMF,Mr.Taketsu,Visiting on concert tour on the occasion

of the opening of the old Sapporo City Auditorium some forty years ago,remembered the center

of Sapporo,especially the area around the Odori Park before it had been completely

covered with office buildings.From this newly−built Auditorium he says you could see the

trees lining Odori and North First Street,and through the plants surrounding it,the

Hokkaido“0ld Red Brick”Government building was visible.Whether it could actually be

seen or not is another question,but that there was more vegetation than building to be

seen when passing through that area,creates an amage retained in memory of a scene of

harmony between the architecture and greenery.And so,the urban area which escaped war

damage,a rarity in Japan,reflects the waves of architectural tastes washed over it,

the city center being colored by several types,but in the period when this district

was being formed the Art Deco and related styles were in fashion,with Russian avant

garde also lining the streets creating an exotic urban scene.

Many culturally forward−looking people ofJapan visited this city and saw the dream of

a new world,and there were musicians among them.That this cultural history existed

in Sapporo is be ginning to be forgotten by today’s generation,but sometimes one frame

of a scene of the City’s history appears to jog the memory.Someone comes back carrying

that memory.That memory supports the architectural history and I have sought the

historical design of the1920’s  when the urban area was gathering form.







e−mail mymm@topaz.ocn.ne.jp


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