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文化財を大切にしましょう あまり知られていない信濃の歴史へようこそ 歩き回り実際見た文化財について掲載するようにしています・・・筆者四方赤良
○文化財NEWSを更新しました。 ○信州の狛犬を更新しました。 ○長野県内の郷土史研究会へ加入し、信濃の歴史を解き明かしましょう! ○【人物スクランブル特集】 人は再び出会う時・・
○平成の大合併が終了しました。江戸時代から続いた野麦峠の「奈川村」、和田峠の「和田村」、伊那郡の「上村」「浪合村」が消滅しました。生き残ったのは佐久郡の「北相木村」「南相木村」、伊那郡の「売木村」「平谷村」、木曽郡の「王滝村」の5村となりました。
○県内の仏像の盗難が相次いでいます。売っているのを見たら疑って警察へ。 |
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(27巻) |
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(2008.1.1から) |
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(2007.12.31まで) |
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(2006.12.31まで) |
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(2005.12.31まで) |
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(2004.12.31まで) |
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(2003.12.31まで) |
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の 狛犬
松代藩御用絵師 三村晴山筆 |
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(2009.11.22更新) |
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長野県出身のタレントである林マヤさんが、ラジオのトーク番組で面白いことを言っていました。「次のお葉書は小林さん○○歳、ん〜小林さんだから、林家の分家だね、分家、分家」私はこれを聞いて、林の分家が小林?この人はなんと奇妙な事を言っているのだろうかと、その時は思いました。それから数日経ったある日、ひょんな事から中世史の研究書を読む機会があり、それによってあの時に林マヤさんが喋っていたことは、それほど的外れではなかったと思い知らされました。 私達は毎日のように何気なく苗字を使用しています。しかし殆どの人々が自分の苗字のルーツを知りません。例え知っていたとしても、それは漠然としたものにすぎないのかもしれません。こうした現象が起こっている理由として考えられるのが、殆どの人の苗字が定まったとされる中世の史料が現代に伝えられていないからになります。これは長野県に限らず全国的な傾向であり、260年余続いた江戸時代の史料より、380年余続いた中世のものが桁違いに残されていません。これにより、長野県内のどの市町村史を見ても、室町時代と鎌倉時代の頁には「○○乱・○○戦いがあって、現在の○○辺りの地名と同じ苗字の武士の名前が書かれているので、中央の○○とつながりがあったと思われる。」「○○荘と記録にあるので、発掘調査などからも現在の○○の辺りと推定される。」などと概ねまとめられています。この程度の歴史しか判然としない状況なのです。これが室町時代後半の戦国時代になってくると、しだいに記載が増え始め、中世が200ページだとすると、江戸時代はそれだけで1冊(600ページ)となっています。しかし、奇跡的に残された中世の史料が県外に幾つかあり、そういったものから我家のルーツのヒントを得ることもできます。
ある中世史研究書には次にようにあります。
日本のあちこちに居住する全ての「林」さんが、上記のようなものによるとは到底言えませんが、現代の字(あざ)規模の近隣数集落内における「林」「小林」「大林」「中林」、「平」「大平」「小平」「中平」などは、こうした数百年にわたる分家によって形成されていったと考えられます。また、苗字が自宅付近の小字名と同様であったり、類似した苗字であったり、小さな集落に凡そ2〜3の苗字しかないような場合は、中世に同じ一族であったのかもしれません。 鎌倉時代における相続形態は、その土地が戦功や開発によって拡大可能だったので、分割相続が基本でした。親の土地は子供達に分け与えられてしまい、各々が新たに拠点とした地名で呼ばれるようになりました。しかし、鎌倉時代後半以降になると、分割相続がしだいに長男の単独相続へと変化することによって、何代にもわたって同一の場所に住み続けるケースが一般化し、地名を用いた個人の通称が、いつしか先祖代々伝えられる家の名=苗字と化していったと言われています。やはり多くの人々のルーツはこの時代にあるといえます。
これら最新の中世史研究を見た時に、これまでの私が描いていた中世史観は大きく変わりました。今回の余談では、こうした研究を県内の一地域に当てはめ、その歴史について考えてみたいと思います。
【佐久郡の中世】 南北に長い佐久郡の歴史を考えるうえで見落とせないのが、浅間山と八ヶ岳による災害になります。まずこの時代に最も大きな影響を及ぼしたと考えられるのが、仁和3年(887)〜仁和4年(888)八ヶ岳(天狗岳)の崩壊になります。崩壊したとてつもない量の土砂が千曲川を堰き止め、上流を湖化させて水没させ、下流は大洪水によって押し流されました。ここで現在の佐久市塩名田における発掘調査において、この時の洪水によるものと思われる厚さ2mに及ぶ砂層に覆われていたことが判明しました。塩名田で これだけの堆積を引き起こしたとなると、ここより上流域では、より甚大な被害を与えたことが考えられます。また、浅間山の災害としては、天仁元年(1108)の大噴火があります。一般的に地質学で「追分火砕流」と呼んでいる時の噴火で、この時の爆発によって、現在のしなの鉄道追分駅〜御代田駅の付近までが火砕流によって焦土となり、埋められました。江戸時代の天明の大噴火などからも、同様に火山灰によって気候に異常をきたし、それから数年間は収穫量の減少などによって飢餓が続いたと考えられます。このような地形をも変える大災害の他に、毎年又は年に数回も発生する洪水があります。ここ50年間を振り返ると、千曲川は勿論のこと大石川、滑津川、雨川などの各支流においても、土石流や洪水が何度も発生しています。近代的に治水整備された河川ですら大きく破壊されたことを考えると、中世では更に大きな被害が生じたことでしょう。そして、こうした被害が発生しても、災害復旧工事の無い当時では、数十年程度で人が住めるほど、土地は回復しませんでした。よって、この時代の荘園と国衙領の位置を考えるには、こうした被災地域や被災を受け易い地域を、その比定地から外さなければなりません。そうした地域に人々の生活があったのであり、それに付随する田畑も存在していたと考えるべきなのです。
記録で確認できる最初の佐久郡の郷は、八ヶ岳の崩壊から50年程経った、承平年間(931〜938)に作成された『和名類聚抄』(流布本)にある「美理郷」「大村郷」「大井郷」「刑部郷」「青沼郷」「茂理郷」「小沼郷」「余戸郷」の8つになります。「美理郷」「大井郷」「青沼郷」は、現在の私達にも覚えのある地名ですが、その他は佐久郡で全く知らない地名になります。これら郷について、どの辺りであったのか様々な説が存在していますが、未だにはっきりしたことは判っていません。律令制では50戸で1里(郷)を構成するので、それを維持するには、それなりの食料が必要となります。この頃において最も生産性が高いと考えられるのが条里田ですが、佐久郡では平賀、常和、内山、田口、三井(全て佐久市)の千曲川東側にあったのではないかと云われています。しかし、現在推定されている8郷の比定地は、条理田の比定地を当てはめていない地域を推定しているので、条里遺構(恐らく小規模)と郷の関係についてより研究を深めていかなければならないと思います。また、近年の発掘調査で出土した土器に書かれていた文字によると、「大井」と書かれた土器が佐久市長土呂と小諸市御影から、「刑部」と書かれた土器が佐久市岩村田北から出土しました。これによって両郷はこの付近ではなかったかと、違う説が出てくるようになりました。旧来の説は、現在まで伝わっている地名と似た名前の郷であるから、ここではないかといった少し無理矢理な説によるものだったので、これからの発掘調査によってますます変わっていくことでしょう。 この時代の人間は、どのような場所で生活を営んでいたのでしょうか。例えば人間がどういった地に田畑を耕し、居住するのかを単純に考えた場合、誰もが次のように考えます。 @ 災害が無い地であること。 A 水があること。 B 用水となる河川があること。 C 川から簡単に水が引けること。(高低差が無い、取水部が被災しない) 以上のように考えると、南斜面で日当たりが良く、湧水や小川があって飲用に用いることができ、近くに荒れない安定した河川があって、できるだけ僅かな労力で、微低地へ引水できる平地が開けている地域が、最も適している地だと言えます。こうした単純かつ忘れてはならない条件を念頭に置いて比定地を考えると、色々違った視点で想像することができます。
さて、8郷の時代は朝廷が律令制以来の支配システムを転換し、調庸や正税の未進・未納を防ごうとした時代でした。これまでと違って、朝廷から国司に収税の責任を強く負わせたことによって、信濃国司は佐久郡司や在地の有力者を組織の中に組み込んでいく必要がありました。そして把握した田地を幾つか括って「名」とし、負名から租税を徴収する新しいシステムを導入しました。8郷もこれによって名付けられたと考えられ、佐久郡では多く見て8人の富豪農民である田堵がいたと推定できます。 やがて10世紀にもなると、8郷も全国的な傾向と同じく、耕作地の荒廃と村落の消滅がやってきます。ある研究によると、気候の温暖化にともなって、河川の流域に新たな段丘が形成されるなど、平野部の地形が大きく変動し、耕作地の荒廃化に拍車をかけたといわれています。佐久市長土呂周辺に繁栄していた大集落も、発掘調査から急激に減少したことが判明しています。こうしたこともあってか、ある研究によると、長久元年(1040)の荘園整理令の頃から、全国的に「郡郷制の改編」というものが行われていきます。これは、それまでの負名を単位とする租税徴収をやめ、地域単位で賦課しようというものになります。これにより古い8郷は解体され、佐久郡全体をいくつかに分割したことが考えられます。それは後の公領・荘園の領域から推定すると、千曲川とそれに流れ込む湯川を境とした3分割がされたのではないかと推定できます。そして、その内の2つが荘園とされ、幾つもの郷を含む巨大領域の荘園が誕生する基になりました。
この大きな変動によって佐久郡は一度リセットされ、やがて西暦1000年を過ぎた頃、現在の私達につながる集落の形成(歴史)が始まります。
教科書には「持明院統と大覚寺統」という言葉がでてきます。何気なく試験の為に暗記している言葉ですが、実は佐久に住む人達にとっては切っても切れない縁がある言葉なのです。幾つかの郷土史系の書物では、佐久郡の伴野荘は「大徳寺」が所有していた荘園として紹介されています。しかし、大徳寺が伴野荘を所有するようになったのは、元徳2年(1330)の鎌倉幕府滅亡の直前になり、それ以前の数百年間にも所有者はいました。 信濃史上、有名な文治2年(1186)後白河法皇より源頼朝へ充てた督促状というものが現存しています。ここには東国の国々が年貢の未進をしており、それを納めるよう荘園名と所有者が記載されています。佐久郡では「佐久伴野荘 院御領、大井荘 八条院御領」と書かれていました。ここで伴野荘だけに、わざわざ「佐久」を付けているのは、伊那郡(下伊那郡豊丘村付近とされる)にも「伴野荘 上西門院御領」があったからになります。佐久伴野荘の所有者であった「院御領」とは、まさしく後白河上皇のことになります。大徳寺に残った伴野荘の史料から、伴野荘は持明院基家から、娘の北白川院(藤原陳子)、その娘の式乾門院(和子内親王)、後堀川院の娘の室町院(暉子内親王)、伏見上皇、花園上皇、そして大徳寺へと寄進されたことが判明しています。 文治元年(1185)壇ノ浦で安徳天皇が入水した際に、同じく守貞(もりさだ)という皇子も乗船していました。彼は安徳天皇と同じ故高倉天皇の皇子で、当時は5歳でしたが入水することなく、無事に都へ戻されました。守貞皇子は祖父の後白河上皇から大変気にかけられ、既に弟の尊成親王が後鳥羽天皇となっていたので、皇位継承の可能性が無くなっていました。このことから後白河上皇の姉である上西門院の養子とされました。文治5年(1189)上西門院が没すると、親王宣下を受け守貞親王となり、院御所の六条殿に居住しました。建久2年(1190)守貞親王は元服し、藤原基家の妻が守貞親王の乳母だった縁から、基家の娘の陳子がその后に選ばれました。藤原基家は、藤原道長の次男の頼宗から5代目にあたり、邸宅内に持仏堂の持明院を建立したことから、持明院中納言と呼ばれていました。これにより守貞親王は藤原基家の持明院家に居住し、その系統が持明院統と呼ばれるもととなりました。その後、皇位につけない守貞親王は、建暦2年(1212)出家(法名は行助)しましたが、承久3年(1221)承久の乱の後、鎌倉幕府の要請により、急遽陳子との子である茂仁が後堀河天皇として即位し、その父である貞守親王は後高倉上皇となりました。かつて天皇を経験せずに院政を行った者はおりません。
これらを含めて伴野荘の成立を考えると次のようになります。 本来は国家から支給されるべき封戸の代替として、信濃国の受領から伴野郷の租税収納権を得た封主(恐らく公卿)が、「郡郷制の改編」と併せて国免荘として立荘し、その名を伴野荘としました。ここで長元6年(1033)の記録に、信濃介として伴貞資なる人物が存在していたことが判明しています(歴代信濃国司と介の中で、伴氏・大伴氏は彼1人)。伴貞資は後述する秦為辰より上位の信濃介で、より多くの人民を動員して開発する力を持っていたことが考えられます。現在でも大伴神社が旧領域に幾つか鎮座しており、祀られる程の勲功者が居たことを考えると、「郡郷制の改編」の時に、伴貞資か彼の子孫が伊那郡と佐久郡における伴野郷を封物の代わりの国免荘として伴野荘を与えられ、立荘・再開発の事始めをしたのかもしれません。例えば大田文が現存しているおかげで荘園成立年が判明し、信濃国と同程度に都から離れている能登国を見ると、荘園全体の74%が1136〜1150年に成立しています。まさに鳥羽院政の時代でした。これにより伴野郷も1100年前後に立荘して、白河院庁か鳥羽院庁(1086〜1156)へ寄進されたものと考えられます。やがて伴野荘は後白河上皇(院政1158〜)の所有する所となりましたが、守貞親王の養育代として持明院(藤原)基家に領家職が与えられたと推定されます。 一方で30年前の研究では、「大伴氏は淳和天皇の諱が大伴であったため、姓を伴と改め、「大伴の郷」は「伴の郷」というようになり、「伴野郷」となった。そして荘園整理令を避けて藤原摂関期に藤原氏へ寄進され、それを受け継いだ藤原基家が、より上位の院へ寄進した」と主張しています。しかし、発掘調査から藤原摂関期に寄進できるような規模の田畑や人が地中から出てこないこと。藤原道長は万寿4年(1027)に死亡しており、その本流である藤原頼通が「宇治殿領」として受け継いだのですが、傍流の更なる傍流であった藤原基家が受け継いだ可能性が低いことなどから、現時点ではありえないと考えられます。荘園研究の途上期であった30年前においては、このような解釈をしていました。 伴野荘を流れる片貝川(佐久市前山) 次に伴野荘の領域からその歴史をみてみましょう。 建武2年(1335)の『大徳寺史料−注進 伴野荘郷々村御年貢存知分事』において、伴野荘の領域と年貢高を知ることができます。伴野上中下3ケ村1000、大沢村250、野沢郷1300、野沢原300、小宮山500、春日郷520、桜井郷800、縣沢300、三塚郷350、臼田原180、上臼田村300、下臼田村280、高屋木80、畑物村100、大日向村100、余地村60、保間250、海野口63、平沢村4、下縣田、大石、岩郡、宿屋80、鷹野郷800(数字は年貢を貫文で表したもの、数値だけの計7617)の地名が挙げられています。これを見て思うのが、片貝川を中心に広がっていることです。佐久郡の河川は、南北の千曲川を軸に、東西から幾多の支流が流れ込んでいます。その殆どが急勾配で、現在でも頻繁に災害が発生しているような河川ですが、片貝川だけは違っています。片貝川は唯一と言ってよいほど千曲川に平行して南北に流れている河川になります。その勾配は緩やかで落ち着き、旧臼田町稲荷山の岩体から北へ向かってわずかに盛り上がった地形(江戸時代にはこの稜線上に佐久の甲州脇往還が通り集落が形成された)によって隔たれ、東を千曲川、西を片貝川が流れています。片貝川は平地の中を静かに流れ、幅も3m程度しかないので、自動車で近くを走っていても、その存在に気付きません。しかし、下流にいくにしたがって西から幾つかの支流が流れ込んで水量も多くなり、その付近が大沢・伴野・三塚・小宮山・桜井・下縣田と全体の40%近くの貫高を占める地域になります。そして、この荘園の凄さに驚かされるのが、現在まで脈々と使われ続けている八ケ村用水の造営になります。八ケ村用水が通る高屋木・野沢原・野沢の地域には小河川が無く、あるとすれば千曲川しかありません。そこで現在でも千曲川から取水して流れ続ける高柳→原→野沢の用水と、ほぼ同目的を持った井溝がこの頃に造られた可能性が高いのです。明治時代の地図では現在より1km程下流から取水していました。千曲川の河床高が現在の高さより高ければ、明治時代の位置からでも取水できましたが、年々下がり続け、上流々へと取水位置がズレていったと考えられます。よって明治時代よりもっと古い中世では、より下流の高屋木(佐久市高柳)付近の千曲川を開き、ここから野沢郷まで約1.5kmの井溝を開発したと考えられます。 これだけの大規模な開発を誰が行ったのでしょうか。残念ながら史料が残されていないので、他国の例から見てみましょう。播磨国赤穂郡久富保に先祖伝来の領地や屋敷を持っていた秦為辰という人物がいました。彼は承保2年(1075)播磨国の大掾であるとともに赤穂郡司としての地位を利用して、久富保の荒廃田40余町を開発しました。その時、彼は自ら現地に泊まり込み、郡内の人民5千人余を徴収して、長さ30町にも及ぶ井溝を掘り起こし、これを開通させるという難工事を行いました。彼はその功により開発地の領有を国衙から認められることになりました。このように郡司という地位を利用して、自身の支配下にある私的な従属農民だけでなく、管轄化の農民をも動員して大規模な開発を行い、それを私領化する在地豪族層の動きは、当時顕著にみられたといいます。伴野荘でもほぼ同時期にこの様な開発が行われたと考えられます。 以上により貫高から推定すると、伴野荘で中心的となっていた地域は、伴野上中下3ケ村と野沢郷であったことがわかります。野沢は現在の佐久市野沢ですが、伴野とはどこなのでしょう。現在でも佐久市伴野がありますが、これは明治初期に下縣村、下縣新田、下平村、今岡村、相浜村が合併して伴野村と名付けたことから大字伴野が残ったもので、中世にこの一帯が伴野であったわけではありません。上記の伴野荘領域を丹念に見ると気付く人もいると思いますが、片貝川沿いで佐久市有数の田園地帯である前山だけが抜けているのです。このことから伴野3ケ村は前山(一部現在の小宮山を含む)だと云われています。後の数百年後、荘を支配した伴野氏は、この前山と野沢で一族2分裂することになります。
【西暦1200頃の佐久郡】
伴野荘がほぼ千曲川の西側一帯にすっぽりと収まるよう荘域をもっていたように、その反対側である東には別の荘園がありました。これが先述した「大井荘 八条院御領」になります。大井荘については、伴野荘のように大徳寺が古文書を残してくれたのとは違い、どのように成立したのか、誰の所有だったのか、その実態はわかっていません。僅かに残った嘉暦4年(1329)の『諏訪上宮の結番帳』史料によると、南市村(小諸市)、塚原(佐久市)、小田井(佐久市)、長土呂郷(佐久市)、安原(佐久市)、香坂郷(佐久市)、平尾郷(佐久市)、東布施(旧望月町)、西布施(旧望月町)、甕郷(旧望月町茂田井?)、田口郷(旧臼田町)、矢島(旧浅科村)、湯原(旧臼田町)、小田切(武士の名として、旧臼田町)、崎田(旧八千穂村)、志津田(?)が荘域だったことがわかります。 大井荘は、「郡郷制の改編」によって承平年間にあった古い「大井郷」の名を継承して成立した大領域でした。郷の付く長土呂郷、香坂郷、平尾郷、甕郷、田口郷がその中心的な集落で、地形はほぼ台地上にあって、江戸時代に用水が開削されるまでは畑地が主流でした。しかし、水量の豊富で南へ遠く離れた佐久市田口の雨川流域も開発されていることから、過去に災害など何かしらの理由で国衙が開発を断念した地に、荘園領主が伴野荘と競うように開発の手を入れたか、国衙領だった地域を大井荘民の出作地だと主張して手に入れたものとも考えられます。
八条院は鳥羽天皇の娘で、建久7年(1196)病によって所領の大部分を以仁王の皇女である三条姫君と、一部を養育していた九条兼実の子である藤原良輔に譲りました。しかし、三条姫君が元久元年(1204)死亡すると、八条院が再び領有しました。建暦元年(1211)八条院が死亡すると、後鳥羽天皇の第一皇女の昇子内親王(春華門院)に譲られましたが、同年急死したことによって、順徳天皇のものとなりました。実際は後鳥羽上皇が管領していましたが、承久3年の承久の乱によって全て幕府によって没収され、後高倉上皇へ譲渡されました。これにより、千曲川西の伴野荘が後高倉上皇の妻である陳子、千曲川東の大井荘が後高倉上皇と、夫婦で両荘を所有するようになりました。その後、大井荘は貞応2年(1223)安嘉門院に譲られ、伴野荘を領有していたのが式乾門院なので、今度は千曲川を挟んで姉妹の所有となりました。ここからが伴野荘と大井荘の運命の分かれ目で、弘安6年(1283)安嘉門院が死亡すると、大井荘は伴野荘と同様に、室町院へ相続される予定でしたが、亀山上皇が幕府に働きかけて亀山院領としてしまい、以後大覚寺統の経済基盤となりました。そして、大井荘は「乾元元年(1302)後宇多院に進献」と昭慶門院の記録に残っているので、亀山上皇→後宇多上皇→昭慶門院→後醍醐天皇へと引き継がれていったと考えられます。 また、安元2年(1176)山科家の記録に、八条院御領の院庁分として大井荘が「不帯官符」とあります。これは不輸の特権として太政官及び民部省から符を下された官省符荘となっていなかった新しい荘園ということになり、延久元年(1069)に実施された延久の荘園整理令などでは、寛徳2年(1045)以後の新立荘園が停止されているので、大井荘はこれより新しい西暦1100年前後に成立した荘園であることになります。これにより大井荘と伴野荘は、ほぼ同時期に成立した荘園で、ともに白河院庁か鳥羽院庁(1086〜1156)へ寄進されたと考えられるのです。
大井荘は現在の佐久平と言われる地域を中心とし、旧望月町や佐久市小田井など「牧」と関係の深い地域を含む特徴がありました。国衙領や伴野荘が水量の豊富な地にあるのとは違い、水量の少ない数歩で跨げる程度の小河川や湧水に頼らざるを得ないような地でした。恐らく伴野荘が米を主作物としたのに対して、大井荘は小麦や豆ではなかったかと考えられます。外周には長倉牧、塩野牧、望月牧があったことからも痩せた地であったことがわかりますが、そうかといって疲弊した劣悪な荘園というわけではありません。佐久郡の年貢は、「信濃布」といって都で重宝された麻布でした。米が作れなくとも麻を栽培してそれを織り、さらに私牧で高価な馬を生産していれば、単純に米を生産しているより財を成すことができたと考えられます。これにより、やがて貨幣制度が浸透してくると、伴野荘より大井荘の方が栄えていったと云われています。伴野荘が米生産の拡大を図った大規模な開発を行ったのに対して、大井荘は牧畜などに重きを成し、少しずつ増え続ける人口に対応した畑地の開発を小規模に行っていったと予想されます。
保元元年(1156)に勃発した保元の乱において、後白河天皇に従った佐久郡の信濃武士に根井氏、望月氏がいます。根井氏は大井荘内に拠点を置いていた当時最も有力な武士で、佐久市根々井付近で私牧も営んでいたと云われています。ここから大井荘の再開発を請け負った在地豪族とは、根井氏の一族すなわち、望月牧の望月氏とその本流である小県郡の滋野一族ではなかったかと推定されます。『滋野三家系図』によると、清和天皇の子貞保親王の孫「喜淵王」を祖とするとあります。その子滋氏王が信濃守となり、滋氏王5世の孫重道の長男広道が小県郡海野に、次男の道直は祢津に、三男の広重は望月に居住しました。この三家から小田切、会田、真田、塔原、光、田沢、借屋原、浦野、大塩、岩村田、香坂、根井、落合、館などの一族が広がっていったと云われています。以上の系図を信じれば、滋氏王は清和天皇から計算して西暦1000年頃に信濃守となったとすると、三家に分家したのは西暦1100年頃になります。こうなると、滋野氏の興隆と望月氏による大井荘の開発が時代的に一致し、伴野荘ほどの大規模なものではありませんでしたが、小さいながら岩村田・香坂・根井(以上佐久市)、館(佐久穂町)など各所に一族を派遣して田畑や牧を広げていったと考えられます。 ここで古代の8郷の「大井郷」の比定地を長土呂とすると、発掘調査から9世紀における佐久郡最大の村落地であったことになります。多くの説は「大井荘は岩村田を中心にして広がっていった。」とありますが、岩村田には鎌倉時代以前の大集落遺跡がないこと、河川がない(湯川は岩村田より低地にありすぎて水が利用できない)ことから立荘当時は、大井荘の中心ではなかったと考えられます。このことから、小河川である濁川と湧玉川中流域に繁栄した大集落「大井郷」が10世紀の大変動によって崩壊し、さらに天仁元年の浅間山噴火で塩野牧と長倉牧も壊滅しました。そして伴野荘と同様1100年頃前後に至って「郡郷制の改編」によって有力な封主によって立荘されると、外部から開発を請け負った滋野一族が大井荘各地に散在し、私牧を営みながら荘園を形成していったと考えられます。大井荘内各地に小規模な郷が分散していたので、立荘当時は中心的な郷は特段定まっていなかったと考えられますが、有力な根井氏の根拠地であった佐久市根々井に馬市などが設けられ、東山道の通過地として栄えていたと云われています。
8郷の名が出てから160年余が経った西暦1100年頃、源八幡太郎義家の甥っ子で、源盛義(父は源新羅三郎義光、祖父という説もある)という人物がいました。系図の『尊卑分脈』では彼の苗字が「平賀」となっており、更に60年余後の治承4年(1180)以仁王が平家追討の令旨を伝えるべき東国武士の中に「信濃国には、大内惟義、岡田親義、平賀盛義・その子義信、木曽義仲」とありました。そこに居住しなければ平賀とは名乗らないので、これにより平賀郷という郷があったことが推定されるようになりました。そして、鎌倉幕府末期の嘉暦4年(1329)『諏訪上宮の結番帳』には、「平賀郷・・・」とはっきりと書かれ、さらにその範囲として小井河・東明寺・内山・三河田・滑瀬・平賀・松井(以上全て佐久市千曲川東側)、平林・青間・入澤(以上全て旧臼田町千曲川東側)という佐久郡の地名が挙げられていました。これらから平賀郷が実際に存在していたこと、場所は千曲川東岸の湯川以南で、東から西に向かって千曲川へ注ぎ込む志賀川、滑津川、谷川などの支流域だったとわかりました。この頃の千曲川は、現在の千曲川より(佐久市三条付近から)東側の位置へ分流し、平行するように山裾を北へ流れていたと云われ、それを避けるような立地に郷ができていたようです。これらの支流域は地滑りや豪雨災害を受け易い地でしたが、支流へ流れ込む小さな沢が幾筋もある水の豊富な地でした。この地域は古墳が多く残る地域にもあたり、先の条里田推定地ともほぼ重なり、佐久郡の中でも古くから開発が進められた地域であったと言われています。 八ヶ岳の崩壊に始まり、気候の大変動によってこれら条理田を含む国衙領も荒廃の一途を辿りました。やがて朝廷も、国衙領の再編成によって税収を復活させようと考え、長久の「郡郷制の改編」が行われ、湯川の南に複数の郷を含む広域的な平賀郷が成立しました。その後、伴野荘と大井荘による検注妨害や国衙領の収奪など対立が悪化してくると、その対策として期待され招聘されたのが、資財と軍事力を持った源盛義だったのです。彼は滑津川の下流の平賀に居住し、公領の再開発も請け負って、条里田を中心に荒廃していた田畠を開墾しました。あるいは田堵らの田畠を買得するなどして、しだいに他の支流や沢まで所領を拡大していったと考えられます。 佐久郡にはこの他、平賀郷ほどの規模ではないのですが、志賀郷(佐久市志賀)、山田郷(佐久市常和)、郷の規模までには至らない小諸などが存在していました。以上のように佐久郡には、おおよそ千曲川を挟んで西に伴野荘、東に大井荘と平賀郷、滋賀郷、山田郷、その他全域に散らばるように小さな村などの人の営みがありました。ここで建長2年(1250)に鎌倉幕府が京都閑院御所造営を命じた記録があり、所領高に応じて木材を割り当てているので、当時の御家人が保有していた所領の大小がおおよそ判断できます。10本小笠原入道跡(伴野荘)、5本大井太郎(大井荘)、5本平賀兵衛尉(平賀郷)、3本小室太郎跡(小諸郷)、1本志賀七郎跡(志賀郷)、2本布施左衛門跡(布施郷)、2本春日刑部丞跡(春日郷)、これにより、鎌倉時代中期に佐久郡の耕地バランスがどのような状態であったのか、皆さんにも感覚としてわかってもらえると思います。
治承4年(1180)以仁王から平家追討の「われ、一院の第二皇子として、天武天皇の旧儀を尋ね、王位推し取るの輩を追討し、上宮太子の古跡を訪て、仏法破滅の類を打ち滅ぼさん」と令旨が発せられました。ここで令旨を伝えた源行家の職はというと八条院庁の蔵人でした。反乱の中心となった源頼政も長年八条院に仕えていたことから、女院から要請を受けて参戦したといわれています。一方で令旨によって参戦した信濃武士をみると、いずれも小県郡、佐久郡、諏訪郡、筑摩郡、高井郡の者達が中心となっていました。ここに信濃国内の八条院御領をみると、東条荘(高井郡)、常田荘(小県郡)、大井荘(佐久郡)、捧荘(筑摩郡)、諏訪上社・下社(諏訪郡)などでした。これはまさに以仁王の令旨というのは、自領に関係する武士へ参戦を命令したもので、平氏への反感や木曽義仲を慕うものでなかったことがわかります。結局は上野国の兵を率い、源氏の血筋としても上位の義仲が頭領となって打倒平氏を果たすことになったのです。これにより同族の平賀盛義は義仲に従わず、源頼朝に従うようになりました。佐久郡から義仲に従ったのは根井行親、楯親忠、小室忠兼、志賀七郎、桜井太郎、平原景能、野沢太郎、望月太郎、矢島行忠などでした。その後の木曽義仲の快進撃は誰もが知るところですが、都に上って皇位継承者に口を出した義仲は、八条院から反発を招くことになりました。そして寿永3年(1184)木曽義仲は源頼朝に討ち果たされました。
その後、文治2年(1186)伴野荘の地頭として加賀美二郎長清という記録が残っています。既に寿永2年(1183)後白河上皇による宣旨により、源頼朝が東海・東山の年貢官物を在庁官人を指揮して収納・京上させるとともに、それを妨害する者を頼朝が取り締まることができるようになっていました。これにより平氏没官領はもちろんのこと、この度の木曽義仲に組した者の領地を没収しました。佐久郡の伴野荘には加賀美長清が地頭として置かれ、大井荘の記録は残っていませんが、後に長清の七男が大井荘の地頭になった記録があるので、同じく加賀美長清が地頭になったと考えられます。そして、長清の父である加賀美遠光が文治元年(1185)信濃守とされ、平賀郷の平賀義信が武蔵守、その一族で大内維義が相模守と、有力な地に信濃武士が任ぜられました。加賀美長清は甲斐国小笠原荘を本拠地としていたので、小笠原を名乗っていました。これが以後300年以上続く、まさに信濃守護家としての小笠原氏誕生の瞬間であり、佐久郡の小笠原一族支配の始まりでもありました。 承久の乱の頃になると、伴野荘の地頭職は小笠原長清の六郎時長に譲られて伴野氏を名乗り、大井荘の地頭職は太郎朝光に譲られ大井氏を名乗り、以後武田晴信が侵攻してくるまでの300年間佐久郡に影響を持ち続けました。大井氏の拠点となった岩村田は有名ですが、この大井朝光が地頭になった頃から岩村田が大井荘の中心として整備されたと考えられます。現在の佐久IC付近から岩村田市街地へ南下する井溝が開削され、岩村田での人口集中が可能となると、東山道の通過地として職人が集められたり市場が開設されるなどして繁栄していきました。南北朝の戦乱以後は、東と南を深く掘る湯川を天然の堀として利用し、しだいに城塞都市としての機能を持つようになっていったと言われています。
さて、ここまで長々と、耕作地の開発を中心に佐久郡の村々が出来上がっていく過程を述べさせてもらいました。ここで、村落の成立年について幕末に書かれた『信濃国佐久郡七拾五箇村開発記』というものを紹介します。これは江戸時代に佐久郡各郷の開発についての調査があり、恐らく各郷の伝承などに基づいてまとめられたものと考えられるものです。古いもので平安初期にさかのぼりますが、先ほどからも述べているように、西暦1000年頃から佐久郡の村々が成立していくという推定と大きなズレは無いので、意外に参考となるものです。
安定した食と安全の確保は「人」の定住につながります。これにより、現在まで脈々と佐久郡内に住み続ける人々の「家」が成立したのは、まさにこの時代だといえます。各郷の中には、幾つかの「名(土地に人の名前を付ける)」が設定され、その代表(名の中の大多数は他人の土地を含む)である名主は、領主の年貢や公事を請け負う役目を負っていました。名主は畑地を含む屋敷・在家を持ち、その内に親類や下人・所従を住まわせて、一緒に田地を耕作するなど一種の共同体を築いていました。そして一番始めに述べたように、分家によって別の地を開発して移住し、その地の地名を名乗るなどを繰り返してしだいに一族を広げていきました。江戸時代に各村の庄屋や村役人を務めたような「家」は、このようにして成立したのです。 やがて西暦1400年からの100年間だけでも、大井氏と芦田氏、大井氏と平賀氏、大井氏と伴野氏との争い、武田氏と村上氏の乱入など、いよいよもって佐久郡も乱世へと突入していきました。文明16年(1484)には村上氏が大井氏を攻め、繁栄を誇った岩村田城下も焼け野原になったと伝えられています。こうした乱世により消滅する村、逃散する百姓など数知れずいたと思われます。百姓と雖も時には兵であり、日常の狩で得た弓術など、武力は武士よりも上であったともいわれています。そんな中で「惣」を組んで為政者に従い、一方では反抗しながら生き抜いた農民層、それが今も佐久郡で生きているあなたの「家」なのです。
・・・四方赤良
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高島藩主画 |
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県内の郷土史研究 |
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『信濃』 (信濃史学会)1932年創刊 |
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『伊那』 (伊那史学会)1936年創刊 |
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『伊那路』 (上伊那郷土研究会)1957年創刊 |
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『長野』 (長野郷土史研究会)1964年創刊 |
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『郷土史巡礼』 (阿智史学会)1972年創刊 |
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『千曲』 (東信史学会)1974年創刊 |
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『須高』 (須高郷土史研究会)1975年創刊 |
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『高井』 (高井地方史研究会) |
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四方赤良 信州史の薦め! |
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四方赤良めーる |
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四方赤良訓戒
『文化財心得』 壱 . 靴下・ズボンを装着し、虫・ヘビに備えるべし。 弐 . 神社の本殿は覆屋に囲われて見えない事があるので期待しない。 三 . 狭い所には蜘蛛の巣があるので、頭上に注意すべし。 四 . 勉強してから行かないと見所を見落とすなり。 五 . 節度と礼儀を持って訪れるべし。 六 . 崩れてかけている石段などもあるので、足下に注意すべし。 |
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