小笠原長清の巻1(鎌倉時代)
長野県の中世の歴史において、木曽義仲と並んで重要な人物は、この人になるのではないでしょうか。加賀美長清(かがみながきよ)とも呼ばれ、父は甲斐源氏の加賀美遠光で、母は鎌倉幕府の侍所を勤めた和田義盛の娘になります。加賀美氏は、甲斐国の小笠原(山梨県明野村)を拠点としていたことから、小笠原の姓を名乗っていました。
平安時代末期、甲斐源氏も平家に従っていましたが、治承4年(1180)源頼朝が挙兵すると、小笠原長清も頼朝の元に馳せ参じました。以後、源平合戦や奥州藤原氏討伐などに参戦し、戦功を重ねたと云われます。
承久3年(1221)承久の乱では、鎌倉方の東山道軍の大将軍として御家人を率い、鎌倉幕府の勝利の立て役者ともなりました。
八ヶ岳の南部に位置する小笠原を拠点としていたことから、信濃国の諏訪地域と佐久地域の何れへも進出できる地にあり、小笠原長清は息子を佐久地域の荘園の地頭に任命(伴野氏、大井氏の始祖となる)するなど、信濃へ勢力を広げていきました。後に、鎌倉幕府から室町幕府にかけて長清の血脈を継ぐ者達が、信濃守護として君臨していきました。
江戸時代における長清の血脈は各地に及び、幕末においては松尾小笠原家の越前国勝山藩、府中小笠原家の肥前国唐津藩、豊前国小倉藩(香春藩、豊津藩)、小倉新田藩(千束藩)、播磨国安志藩(あなしはん)、旗本などがある。
小笠原一族の分裂と統一の巻2(室町時代〜戦国時代)
鎌倉時代から信濃国守護として君臨してきた名門小笠原家ですが、必ずしも完全な統治を続けてきたわけではなく、一族の争いや周辺諸国人等との戦闘に明け暮れ、ついには信濃国守護としての人望を集めきれずに戦国時代の露と消えました。ここでは小笠原政康から始まる小笠原氏の分裂時代からの家系図を紹介します。
【小笠原三家】
長基-----長秀
│----長将---持長---清宗---長朝---貞朝---長棟---長時---貞慶 (府中家)
│----政康---宗康---政秀 (鈴岡家)
│---光康---家長---定基---貞忠---信貴---信嶺 (松尾家)
永享12年(1440)常陸国の結城を本拠としていた結城氏朝が室町幕府に反抗しておこした結城合戦の翌年に、信濃国における武士の頭領として君臨してきた小笠原政康が病死しました。
小笠原政康の遺言によると、
「小笠原家の事は宗康と光康に任せる。伊賀良荘(飯田市付近)は光康に与える。また、もし兄の長秀に実子ができればこの遺言状は無効であり、政康に実子がない場合は兄の長将の嫡男に譲るものとする。」
小笠原持長は府中(松本市付近)を基盤とし、小笠原宗康は伊賀良(飯田市付近)を基盤としていました。しかし、小笠原長秀には実子ができなかった為、持長が長将の嫡男である自分に相続権があると主張したことにより、政康の嫡男である宗康との間に相続争いが発生しました。
そして、文安3年(1446)になると両者の戦闘が開始され、宗康は決戦を覚悟して弟光康に惣領職と所領の一切を譲り戦闘に全力を注ぎましだ。当初は宗康勢が優勢でしたが、善光寺付近での合戦で持長に破れると、持長軍がしだいに優勢となり、宗康は討ち取られてしまいました。
これにより小笠原家は、府中(小笠原持長)と鈴岡(小笠原政秀)と松尾(小笠原光康)の3つの勢力に分裂し、以後三家の対立は深まっていきました。これが守護家としての力が弱まっていく原因にもなります。
応仁の乱が終了した頃になると、諏訪大社上社と下社の争いに府中の小笠原長朝(持長の孫)が介入します。府中の小笠原長朝は下社を支援し、上社を支援する伊賀良の小笠原と戦いました。また、小笠原長朝は筑摩と安曇地方で勢力を広げようとしたため周辺の豪族の反発を受け、安曇地方の北部で勢力を持つ仁科氏(大町市付近)とも争うことになります。
小笠原長朝は、仁科氏との戦いや諏訪政満による府中の直接攻撃などを受け形成がしだいに不利になっていきます。そして、ついには鈴岡の小笠原政秀に攻撃を受けて本拠地である林館(松本市)を占領され、府中の小笠原家を滅亡の危機にさらしてしまいました。逃亡した小笠原長朝は、自分が叔父である小笠原政秀の養子となることで許され、再び府中に戻る事ができました。
数年後、鈴岡の小笠原政秀が松尾の小笠原定基(光康の孫)に謀殺されます。この期に乗じた定基は、伊那地方へ進出しますが、それをチャンスとみた府中の小笠原長棟(長朝の子)が3年間にわたって伊那地方へ進撃し、天文3年(1534)小笠原定基はついに降伏しました。こうして信濃の小笠原氏は府中の小笠原家の基に統一されました。統一した小笠原長棟は次男の信定を松尾城に配して、府中〜伊賀良までの完全支配を達成しました。
そして、この数年後、小笠原長棟の跡を継いだ小笠原長時が、甲斐国から侵攻してきた武田晴信(信玄)と戦うことになります。
小笠原一族の滅亡の巻3(戦国時代)
天文11年(1542)武田晴信が諏訪地域を領有したことにより、小笠原長時と武田晴信との対立は本格的となりました。天文14年(1545)武田晴信が上田原の戦いで小県郡を領有している村上義清に破れ、その時に諏訪地方の統治を命じられていた武田晴信の家臣である板垣信方が討死したのを受けて、今こそ武田晴信を討つチャンスと捉えて諏訪大社下社まで討ち入って周辺を放火して武田軍を威嚇しました。
その報を受けた晴信は、慎重に甲府から軍を進め、対する小笠原長時は5,000の軍勢で塩尻峠(岡谷市と塩尻市境)に陣を張り、武田軍との決戦に備えました。しかし、早朝に武田軍の強行軍による奇襲を受け、小笠原軍は壊滅状態に陥りました。打ち破った武田晴信はすぐには安曇野に侵攻せず、佐久や上伊那の地盤を固め、天文18年(1549)から本格的に小笠原長時の攻略を始めました。小笠原氏配下である大町の仁科道外をはじめ、家来衆が次々と寝返り、城を明渡したり降伏などし、小笠原長時の周辺がしだいに崩されていきました。奈良井川と梓川の合流点にあった平瀬城に小笠原長時は逃げましたが、敵わないみて村上義清を頼って小県に向かいました。その後、長時は村上義清の援護を受けて数度、府中(松本市周辺)の奪回を試みますが全て失敗しました。
失意の小笠原長時は、飯山地方に根を張る高梨氏の取り成しにより越後の長尾景虎(上杉謙信)を頼り、息子の小笠原貞慶を託しました。そして、長時自身は一族が領していた伊那の鈴岡城に入りますが、武田軍の攻撃により下条(下伊那郡下條村)→駿河国→伊勢国と流浪を続け、京都の三好長慶の元に身を寄せました。しかし、三好氏が織田信長によって滅ぼされ、居所を失った長時は再び上杉謙信を頼り、謙信死亡後は会津の芦名氏に身を寄せました。そして、長時は最後にこの地で家来に刺されて死亡するという悲惨な運命を辿ります。
織田信長の安曇野侵攻の巻4(戦国時代)
小笠原氏の滅亡により、甲斐の武田氏による安曇、筑摩地域の支配が始まります。深志城(松本市)を中心として武田信玄の家来である馬場信房が2郡を統制しました。しかし、武田信玄の死後に発生した長篠の戦い(愛知県鳳来町)において馬場信房が討死し、その数年後織田信長の信濃侵攻が開始されました。安曇、筑摩地域の諸将は戦わずして織田信長に降伏し、最も早く武田氏を裏切った木曽義昌が領有する形となりました。
しかし、それからたった3ヶ月後に織田信長が本能寺で討たれると、この地は北から越後国の上杉景勝が侵攻し、南から駿河、遠江、三河国の徳川家康が侵攻してきて両者の力が均衡する場となりました。最初に侵攻してきたのは小笠原貞種(小笠原長時の弟)を擁護していた上杉謙信で、深志城を奪取しました。しかし、三河国に身を寄せていた小笠原貞慶(小笠原長時の子)が徳川家康の援助を受けて伊那地域から塩尻(塩尻市)に入り、在地の元家臣らをまとめて深志城を奪回しました。これを黙っていられないのが木曽義昌で、小笠原貞慶に攻撃をしかけますが逆に撃退されて小笠原貞慶に本拠地である木曽まで攻めこまれてしまいました。その後、豊臣秀吉、徳川家康により両者の争いが停止され、木曽義昌と小笠原貞慶は徳川家康の管轄下におかれました。
豊臣秀吉の影響の巻5(戦国時代)
豊臣秀吉による小田原征伐(神奈川県)の後に、徳川家康の関東移封が行われました。徳川家康の管轄下にあった小笠原貞慶は下総国の古河に移封となり、木曽義昌は下総国の網戸に移封となり、代わって安曇、筑摩地方には豊臣秀吉の調略によって徳川家康から引き抜かれた石川数正が配置されました。
石川数正、石川康長父子は深志城の改築を始め、石川康長は深志城を松本城と銘々しました。豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600)関ヶ原の戦が発生しますが石川康長は徳川方につき各地を従軍しました。関ヶ原の戦いの後に、石川康長は松本を安堵されますが、大久保長安事件に関与していたとされ改易されました。

文禄慶長の役の巻6(戦国時代)
全国を統一した豊臣秀吉は、日明貿易の復活に期待して、まずはその手前に位置する朝鮮国を味方にしようとしました。しかし、朝鮮国は明国との長年の関係から応じるつもりはなく、天正18年(1590)の秀吉の使節による要求を拒絶しました。これにより天正19(1591)年肥前国名護屋城を築き、文禄元年(1592)には全国の諸大名に動員令を発して16万の兵力が朝鮮半島へ送られました。
文禄元年2月20日石田三成・大谷吉継が京都発、21日浅野幸長が京都発、24日羽柴秀勝が京都発、3月16日前田利家が京都発、17日徳川家康・佐竹義宣・伊達政宗が京都発、18日小諸藩主の仙石秀久1,000人、松本藩主の石川数正500人が京都を発しました。その他信濃衆としては、諏訪高島藩主の日根野高吉300人、飯田藩主の毛利秀頼1,000人、上田藩主の真田昌幸500人が九州の名護屋城へ出陣しました。
石川数正は、もともと徳川家康の宿老として活躍してきましたが、小牧長久手の戦いで家康の和議の使者として秀吉のもとに赴き、翌年豊臣秀吉の誘いに乗って家康のもとを出奔して秀吉に仕えました。この時に小笠原秀政も伴って家康のもとを出奔しており、数正は松本の地を与えられ、秀政は飯田の地を秀吉から与えられたのでした。
しかし、石川数正は名護屋城にて滞陣中に発病して、文禄元年12月名護屋か京都の何処かで病死しました。ある書物によると「数正フグの肉食シ毒死」と書かれています。この後、天下を取った徳川家康にしては、出奔した石川数正と小笠原秀政をどのように扱うか考えたことでしょう。石川家は大久保長安事件に連座して改易、小笠原秀政は大坂夏の陣で徳川秀忠から不戦功をなじられて、後日に無理をして討死しました。
慶長の役には信濃衆は出陣していません。
江戸時代の松本藩の巻7(江戸時代)
改易された石川康長の後に飯田(飯田市)を与えられていた小笠原秀政が松本城に入りました。これにより再び小笠原氏による安曇、筑摩地域の統治が始まったことになります。元和元年(1615)大阪夏の陣には、小笠原秀政、忠脩親子が出陣し討死したが、秀政の子の小笠原忠真がその跡を継ぎました。そして、数々の功績が認められて播磨国(兵庫県)明石へ加増移封になりました。これ以後、安曇、筑摩地域は10万石以下の大名が幾度となく交代となり、余った領地は天領とされました。
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徳川将軍家より見た小笠原家
豊臣家が滅亡した翌年、元和2年(1616)徳川家康が死亡しました。大きな後ろ盾を無くした2代将軍徳川秀忠は、自分の力を全国に示す為に数十万という大軍(各地の大名)を要して京都へ上洛し、さらに全国各地の大規模な大名配置換えを実施しました。
松本藩小笠原忠真の明石移封もこれにあたります。小笠原家は、徳川家康よりは徳川秀忠の軍勢の1部として多くの戦いに編成されてきました。徳川秀忠より譜代大名としての信頼が深く、重要な位置に配置されたのです。江戸から見ると明石は、強力な外様大名がひしめく西国の入口に位置し、大阪城を中心とした山陽道の要になります。暫くして小笠原氏は明石藩から小倉藩(北九州)に移封になりました。移封後すぐに明正14年(1637)島原の乱が勃発し、大きな失態を犯し改易になる可能性がありましたが幕末まで存続しました。小倉藩は幕末の第2次長州征伐において小倉城を長州藩に落とされたりするなど激動の歴史を歩んで行くことになります。 |
松本藩の混迷の巻8(江戸時代)
小笠原忠真が明石に移封された後に配置されたのが戸田(松平)康長になります。徳川家康の譜代中の譜代家臣で、始めて松平姓を与えられた人物でもあります。しかし、この移封から安曇、筑摩地域の完全な支配体勢が崩され、筑摩郡のほとんどが幕府天領、高遠藩領、高島藩領となってしまいました。戸田康長が死亡すると息子の戸田康直が跡を継ぎますが小笠原忠真と同様に播磨国明石藩へ移封となりました。
戸田康長やすなが→戸田康直やすなお→播磨国明石へ
次に配置されてきたのは越前国(福井県)大野から来た松平直政で、結城秀康(徳川家康の息子)の3男です。そして、暫くして松平直政が出雲国松江へ移封すると、次は堀田正盛が移封されてきました。堀田正盛は当時の3代将軍家光に子供の頃から仕えてきた人物で(堀田正盛の父である堀田正吉が春日局の娘を嫁に貰う)、老中となって権勢を揮っていました。しかし堀田正盛は、下総国佐倉へ移封の後に徳川家光の死に伴って殉死しました。
代わって三河国吉田より水野忠清が7万石で入封しました。この水野氏によりしばらく松本藩が続くのですが享保10年(1725)に藩主水野忠恒が江戸城中にて発狂刃傷に及んで改易されました。
水野忠清ただきよ→忠職ただもと→忠直ただなお→
忠周ただちか→忠幹ただもと→忠恒ただつね→旗本へ
そして、水野氏の改易により一時天領となっていた松本藩でしたが、約100年前に明石へ移封して行った戸田氏が再び帰ってくることになりました。戸田氏は明石藩に移封してからも、美濃国加納藩→山城国淀藩→志摩国鳥羽藩と流浪を繰り返し、ようやく松本に帰ることができました。
戸田光慈みつちか→光雄みつお→光徳みつやす→光和みつまさ→
光悌みつよし→光行みつゆき→光年みつつら→光庸みつつね→光則みつひさ(明治維新)
水野忠恒発狂事件の巻9(江戸時代)
享保8年(1723)松本5代藩主水野忠幹が若くして死亡すると、子供がなかったことから遺言どおり弟の忠恒が22歳で6代藩主となりました。元々藩主となる予定が無かった忠恒は酒色に荒く、弓矢鉄砲で遊ぶ日々を送っていました。
藩主となってから2年目になると婚姻のはこびとなり、大垣藩主戸田氏長の息女を娶ることになりました。水野家の祝言が終り、忠恒は戸田家の祝宴に出向きましたが、夜間に発狂し、心配する家臣をよそに翌日婚儀御報告として江戸城に登城しました。城内で将軍徳川吉宗への拝礼を済ませて退城する際に、松の廊下で長府藩毛利家の世継ぎである毛利師就(もうりもろなり)とすれ違うと突然抜刀して斬りかかりました。毛利師就は鞘刀で防戦し、忠恒は廊下番戸田右近将監に取り押えられました。
忠恒は取り調べにおいて、「自分の領地が没収されて、毛利師就にそれが与えられるものと思って斬りつけた」と証言しました。毛利師就は、「忠恒とは面識もなく、宿怨があるわけでもなく、いきなり斬りつけられた」と証言しました。
これにて毛利師就はお咎め無く、忠恒は罪を問われて川越藩にお預けとなり領地は没収となりました。嫁いだ大垣の戸田氏長の息女は嫁いで1週間程で大垣藩へ帰るはめとなりました。忠恒は、元文4年(1739)叔父の水野忠穀の江戸浜町邸にて死去しました。(墓所は伝通院)
松本藩取り潰しの際に、名門水野家の廃絶を惜しむ声が強く、父水野忠周の弟である忠穀(ただよし)が佐久郡7,000石旗本で辛うじて断絶を免れました。しかし、7万石の家臣を養うことはできず、多くの家臣は城下を去り、他家に仕官したり、土着して農民となった者もいました。現在、松本の地にはかつての水野家臣の子孫が多く住んでいるそうです。
| 高野町村 |
1,065石 |
佐久町 |
| 宿岩村 |
179石 |
佐久町 |
| 中畑村 |
162石 |
八千穂村 |
| 上畑村 |
462石 |
八千穂村 |
| 八那村 |
100石 |
八千穂村 |
| 馬越村 |
47石 |
八千穂村 |
| 本間村 |
73石 |
小海町 |
| 高柳村 |
377石 |
佐久市 |
| 取出町村 |
281石 |
佐久市 |
| 本新町村 |
317石 |
佐久市 |
| 前山村 |
567石 |
佐久市 |
| 前山新田 |
58石 |
佐久市 |
| 今岡村 |
228石 |
佐久市 |
| 落合村 |
341石 |
佐久市 |
| 香坂村 |
488石 |
佐久市 |
| 海瀬新田 |
69石 |
佐久町 |
| 内山村 |
1,997石 |
佐久市 |
| 清川村 |
623石 |
臼田町 |
| 上中込(大奈良) |
972石 |
佐久市・臼田町 |
| |
8,411石 |
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『享保17年(1732)水野忠穀知行所村高帳』より佐久郡7,000石
一方、佐久に領地をもらった水野忠穀の跡を継いだ忠友、忠成の時に駿河国沼津(静岡県沼津市)に5万石を賜わり、再び大名として返り咲きました。この時に水野家を去った家臣も一部が再度奉仕しました。この沼津藩が明治維新まで続きます。
千石街道の巻10(江戸時代)
戦国時代の頃から整備されはじめた「ちくにかいどう」、「せんごくかいどう」とも呼ばれる道が松本と日本海(現在の新潟県糸魚川市)を結んでいました。糸魚川市から姫川に沿って信濃国に入ると険阻な山道が続き、冬は数mの積雪となるので、馬ではなく牛や人によって物資を運搬したと言われます。

江戸時代に入ると一般の旅人は千国街道を使用せず、もっぱら物資の運搬専用の街道となっていきました。主な運搬品は「塩」「肴」「越中木綿」「高岡金物」「輪島漆器」「九谷焼」などの北陸地方の特産品と信濃の特産品でした。
日本海から塩を運搬する道なので、別名「塩の道」と呼ばれました。塩は湿気を吸うとニガリとなって溶けだし目減りするので塩は俵に詰めて運ばれました。また乱暴に運搬すると、隙間からこぼれてしまうために、大変な苦労だったと言われます。
松本宿→成相新田宿なりあいしんでん→穂高宿ほたか→池田宿いけだ→
大町宿おおまち→沢渡宿さわど→飯田飯盛宿→塩島新田宿→
千国宿ちくに→来馬宿くるま→大網宿おあみ→越後国へ