信濃最古級の遺跡の巻1(旧石器時代)
みなさん、立ケ鼻遺跡たてがはないせきという遺跡を知っていますか?
野尻湖(信濃町)のナウマンゾウが出土する場所といえば気付く人もいるのではないかと思います。立ケ鼻遺跡は、4万〜2万2千年前(ヴュルム氷河期)の遺跡で、長野県最古級の旧石器時代の遺跡になります。ここでは大量のナウマンゾウやオオツノシカの骨と、それを解体した石器が出土し、狩場と動物解体所(キルサイト)であったことが判明しています。全国でもこのように大型哺乳動物の骨が大量に出土した所は岩手県の花泉遺跡くらいで非常にめずらしいものです。ちなみにナウマンゾウは約1万6千年前に絶滅したと言われています。
☆その他の信州の旧石器時代の遺跡 数字は○○年前
日向林B遺跡(上水内郡信濃町)25,000〜30,000
石子原遺跡(飯田市)22,000〜30,000
保元の乱と信濃武士の巻2(平安時代)
1156年(保元元年)平安時代末に京都で発生した保元の乱では、武蔵国に次いで信濃国の武士が多く参加しました。保元の乱の1年程前、源頼朝の父である源義朝は自己の勢力拡大を図り、弟である源義賢(木曽義仲の父)を討ち果たし、上野国を手中に治めました。さらに源義朝は、源頼賢の討伐を名目に掲げて信濃国へ攻め込み自己の地盤を固めました。このような理由により保元の乱の頃には、信濃国の武士の大半が源義朝の配下につくことになりました。
保元の乱の結果は、源義朝が支援した後白河天皇が勝利を治め、平正弘等の平家の領地であった麻績、高田(長野市)、市村(長野市)、野原(穂高町・堀金村・松川村)は没収されて後白河天皇の領地となりました。当時の武家社会の戦闘においては、騎馬が重要で、当時馬の名産地であった信濃国の兵力は大変な力となっていました。
記録に残る保元の乱に参戦した信濃国の武士達
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後白河天皇側
(藤原忠通、源義朝、平清盛)
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崇徳上皇側
(藤原頼長、源為義、源為朝、平忠正)
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舞田近藤武者
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上田市塩田
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村上判官代基国
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坂城町
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桑原安藤次
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諏訪市桑原
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平家弘
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長野市(麻績村)
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桑原安藤三
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諏訪市桑原
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平正弘
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長野市(麻績村)
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木曽中太
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木曽郡
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木曽弥中太
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木曽郡
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根井大弥太
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佐久市根々井
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祢津新平
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東御市(東御市祢津)
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熊坂四郎
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信濃町熊坂
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志津間小二郎
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飯山市志津間
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片桐小八郎景重
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中川村
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※平家弘と平正弘は親子で、ともに北面の武士であった。
平治の乱と信濃武士の巻3(平安時代)
1159年(平治元年)源義朝と平清盛の争いを中心とした平治の乱が勃発しました。源義朝には保元の乱と同様に、信濃国は源義朝の影響が強いことから多くの信濃の武士が味方をしました。片桐景重、木曽中太、木曽弥中太、常葉井(飯山市常盤)、平賀四郎義宣(佐久市平賀)、片桐景重等が記録に残っています。
この時に有名な話しが平家物語等に残っています。源義朝の息子で勇名を馳せた源義平(別名
悪源太)の片腕として戦った片桐景重の活躍で、片桐景重が平清盛の息子である平重盛と内裏で戦ったことが記されています。平治の乱では源義朝が敗れ、源義朝側に参戦した信濃国の武士は、捕らえられるか討死にしました。この時に多くの領地を平氏に没収されますが、数十年後に平氏を滅ぼした源頼朝が、父である源義朝と共に戦ってくれた恩に報いて、信濃武士の没収された領地を復旧してくれたそうです。
信濃国分寺焼失の巻4(平安時代)
平安時代940年頃に常陸国で勃発した平将門の乱によって、当時上田にあった信濃国分寺が焼失しました。事は平将門が叔父であり常陸国大椽である平国香を討ったことから始まります。平国香の息子である平貞盛は将門への復讐を決意し、将門の悪事を朝廷に訴えるために京都へ向かいました。
常陸国から京都へ向かうには、当時官道として整備されていた東山道を通行します。平貞盛が京都へ向かったことを知った平将門は、後を追いかけて、信濃国上田の神川(かんがわ)付近で追いつきました。川を挟んでの戦いの末、国分寺まで戦火が拡大し、広大な伽藍が焼け落ちました。結局京都まで逃げ延びた平貞盛は、朝廷へ将門の悪事を訴え、やがて編成された朝廷の大軍が、平将門を討ち取ります。
信濃の荘園の巻5(平安時代)
平安時代末の信濃の土地は、そのほとんどが中央の荘園にされていました。これは全国的な状況と同じで、そこに住む土地の所有者が、年貢を納める代わりに自分の領地を中央の権力者に守ってもらうために寄進をしたためです。下にありますように、当時の権力者である院関係者や藤原氏、寺社などが所有していることが分かります。
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院・皇室
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後白河院・上西門院・八条院・前斎院・尊勝寺・証菩提院・六条院・蓮華王院・最勝光院・九条城興寺
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官衛
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穀倉院領(信濃各地の牧場を所有)
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公家
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藤原基通・一条大納言・宗像小輔・元左大弁師能・近年忠清法師・雅楽頭済盆・前堀川大納言
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寺家
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仁和寺・三井寺・天台山末寺・天台山
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社家
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伊勢大神宮・岩清水八幡宮・松尾社・日吉社
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その特徴としては、
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伊勢大神宮の荘園は、御厨みくりと呼ばれ、仁科神明宮(大町市)はその中の仁科御厨税によって伊勢神宮の勧進で建設されました。
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善光寺は三井寺(滋賀県)の領地で、代々三井寺から善光寺の領地経営をするために代官が派遣されていました。
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後白河法皇が建立した蓮華王院(現在、三十三間堂しか現存してない)の領地が、洗馬荘(塩尻市)にありました。
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後白河天皇は、自分の荘園である佐久伴野荘からの税の納入が滞っていると源頼朝に訴え、頼朝はその地の地頭小笠原氏に命じて、整理に当たらせています。さらに、室町時代に入ってこの伴野荘は、京都大徳寺の領地となり、大徳寺の祖である宗峰妙超が、地頭権を主張して暴れる伴野氏の処罰を室町幕府に訴えてたりしています。
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信濃で収穫される米は、遠く京都に運ぶには不便だったことから、持ち運びやすい麻布や銭に交換されて京都へ運ばれていました。これは鎌倉時代になっても続いています。よって、各荘園の周辺には定期的に商品交換をする市場ができていました。
曽我物語と信濃の巻6(鎌倉時代)
歌舞伎の中に曽我物語という有名な題目があります。これはいわゆる源頼朝などが登場する鎌倉武士の敵討ち物語になります。しかし曾我物語の舞台は、鎌倉から駿河国を中心とした話になるので信濃国とは関係が無いように思われますが、信濃国とも少なからず関係があります。
主人公の曽我祐成(一萬)の恋人である虎御前は、見事に敵を討った曽我兄弟の菩提を弔うべく、善光寺に参拝に訪ずれました。そして、そのまま信濃国に住みつき、亡くなったそうです。現在、須坂市小山若宮の畑の脇に、虎御前のお墓があります。
駿河の狩場で、仇である工藤祐経を討ち果たした曽我時政はその場で捕らえられ、源頼朝の前に引き出されました。それを工藤祐経の息子の犬房丸(いぬぼうまる)が、父親を殺された怒りのあまりに扇子で曽我時政の顔を叩いたので、源頼朝が「武士として縛られている者を殴るとはなにごとか」と犬房丸を怒り信濃国の伊那に流してしまいました。犬房丸はそのまま伊那の狐島に住みつき、春近郷に領地をもらい、善政を行ったといわれています。それによって後に執権北条泰時に流刑を許されました。

手前より河津三郎、曽我祐成、曽我時政の墓(静岡県伊東市)
信濃国にて源氏の争いの巻7(平安時代)
木曽義仲が信州木曽谷において平氏打倒を掲げて旗揚げをし、しだいに信濃の国人をまとめて、ついには越後国の有力平氏である城資職を横田河原の戦い(長野市)で破りました。源氏の頭領を自負する鎌倉の源頼朝にとって、木曽義仲はしだいに無視できない存在となっていきます。
その頃、源頼朝に味方をしていた甲斐国の武田氏が、自分の娘を源義仲に嫁がせようとしますが、義仲がそれを断ったため、憎まれることになります。そして、武田氏が源頼朝に対して、義仲が頼朝を討とうとしていると讒言しました。これにより源頼朝は平氏を打倒するより先に源義仲を討つのが先決と考え、関東の大軍を率いて碓氷峠を越え、信州の佐久へ攻め込みました。
佐久は木曽四天王である根井行親・楯親忠の領地で、古来から馬の名産地になります。源頼朝はこの一帯をあっという間に占領し、源義仲の東信濃の中心地である依田城(丸子町)を攻撃しました。依田城を落とした源頼朝は、さらに善光寺平へ進出し、筑摩方面から軍を編成して進出してきた源義仲の軍と千曲川を挟んで対陣します。平家物語では「両者戦うことの不利を考えて和平をした」という解釈ですが、実際は兵力、情勢などを考慮しても義仲が勝てるわけがなく、結局息子の源義高を鎌倉へ人質に出して頼朝は引き上げました。
この事が後の、義高惨殺の悲劇をうみます。

木曽義仲四天王樋口次郎兼光の墓(辰野町樋口)

木曽義仲四天王根井行親の墓(佐久市根々井正法寺)
時宗一遍上人と善光寺の巻8(鎌倉時代)
鎌倉時代に時宗を広めた一遍上人は、四国の生まれでありながら生涯を通じて信濃国を数度訪問しています。その目的としては、信濃国で死亡した叔父河野通末の墓参りと、善光寺詣りです。
インドから伝来した釈迦三尊像に対する信仰は、鎌倉時代に新たに宗派を興した親鸞など多くの僧侶の信仰を集め、一般庶民も含めて善光寺への参拝が盛んでした。縁起に記されているとおり、一遍上人は信濃国の各地で踊り念仏を行い、善光寺の境内に舞台を作って踊り念仏を行っている絵は有名です。また、信濃佐久の小田切の踊り念仏が有名ですが、ここでの踊り念仏は一遍上人が生涯最初に踊り念仏を行った場所といわれています。
そして同じ佐久の跡部という地区では、現在毎年4月第1日曜日に、重要無形文化財に指定されている踊り念仏を行っています。
一遍伝記について
中先代の乱の巻9(南北朝時代)
鎌倉幕府滅亡後の1335年に、全国を揺るがす事件が信濃国の諏訪より発生しました。
1333年鎌倉を攻撃した新田義貞の追手を逃れて得宗家14代執権北条高時の息子の北条時行が諏訪に逃げのびました。当時、得宗家に仕えていた諏訪盛高は、鎌倉陥落寸前に北条泰家に北条高時の子である亀寿をたてて北条家を再興するように頼まれました。これにより諏訪盛高は亀寿を自領である信濃国の諏訪(伊那に隠したとの説もあり)に連れ帰りました。亀寿は後に北条時行と名乗り、鎌倉奪回の機会を待っていましたが、後醍醐天皇と足利尊氏の争いなどの南北朝の動乱に乗じて、ついに諏訪頼重を中心とした信濃国の御家人を率いて鎌倉へ向かいました。
信濃国の小笠原氏を破って碓氷峠を越え関東に進出しました。鎌倉を守る足利尊氏の弟である足利直義(ただよし)は、渋川刑部を送り込み、女影原で迎え撃ちましたが、渋川は討死し、足利直義は幽閉していた護良親王を殺害して駿河国方面に撤退しました。
そして京都の足利尊氏へ応援を依頼し、足利尊氏は三河で直義と合流して大軍を率いて鎌倉へ向かいました。迎え撃った北条時行は、相模川の戦いで敗走し、鎌倉を奪回されました。この時、北条時行は逃れ、諏訪頼重、諏訪時継親子は鎌倉で自刃しました。
この時、諏訪の御家人は多く討たれましたが、足利尊氏側に味方していた同族の諏訪頼継らの嘆願により、諏訪氏の滅亡はまぬがれたといいます。太平記においても足利尊氏は戦った多くの敵を許しています。
逃れた北条時行は、1338年南朝の勅を受けて、足利尊氏と戦闘を続けます。そして、信濃国大徳王寺城において諏訪頼継らと挙兵しましたが、落城しました。1353年北条時行は鎌倉竜口の刑場で処刑されました。
宗良親王と信濃の巻10(南北朝時代)
後醍醐天皇と足利尊氏の争いに端を発した南北朝の動乱が信濃国にも及んできました。その中心人物が、南アルプスの麓(大鹿村)に篭城などした後醍醐天皇の第4皇子(第8との説もあり)である宗良親王でした。宗良親王は征夷大将軍にも任命された親王で、上野宮や信濃宮とも呼ばれていました。
信濃国の大半の御家人が足利尊氏側につく中、後醍醐天皇は自分の息子を全国各地に送り徹底抗戦の構えをとりました。宗良親王は、1340年遠州国井伊谷城に籠城していましたが高師泰の攻撃で落城し、この時信濃国大徳王寺城において北条時行と諏訪頼継らが挙兵したので、ここに逃げ延びてきました。しかし、ここも小笠原貞宗の大軍に攻撃されて支えきれず、1342年落城しました。
宗良親王は、越後国、越中国に落ち延びていましたが、1343年再び信濃国に入り、翌1344年信濃の山奥である大河原(大鹿村)を支配する香坂高宗に迎えられ反撃の準備を始めました。準備が整いしだい越後国方面へ出陣し、足利側(北朝)の上杉憲将を追撃しました。さらに1352年足利尊氏が弟の直義を毒殺(これに至った一連の争いを観応の擾乱といいます)したのを受けて、新田義興、新田義宗が宗良親王を奉じて足利尊氏追討の旗を揚げたので、信濃国の諏訪氏、滋野氏、香坂氏、仁科氏らを率いて武蔵国へ進出しました。しかし小手指原や入間原の戦いで足利尊氏に破れ、越後国に逃れました。
1355年親王は越後国を不利と判断して退去し、再び信濃国の諏訪に入り、後村上天皇側(南朝、後醍醐天皇は1338年崩御)の再結集を図りました。そして結集に応じた諏訪氏、金刺氏、仁科氏を率いて府中(松本市)へ進軍を開始しました。足利尊氏側(北朝)の小笠原長基は、桔梗原(塩尻市)でこれを迎え撃ち、激戦の末、宗良親王は破れました。
この戦いにより信濃国の後醍醐天皇側(南朝)の勢力は弱まり、諏訪氏なども離反していきました。1374年親王はついに信濃国での抵抗をあきらめ、吉野(奈良県)に落ち延びていきました。後年再び信濃国で反抗をしようとしましたがかなわなかったそうです。こうして30数年間にわたる信濃国を中心とした宗良親王の思いは報われませんでした。
京都天竜寺の創建と諏訪円忠の巻11(南北朝時代)
諏訪円忠(小坂氏ともいう)は、鎌倉幕府の政所の所員でしたが、幕府滅亡に際して諏訪で隠居をしていました。そして建武の新政に際しては、夢窓疎石の推薦によって足利尊氏に仕えることになり、建武元年(1334)諏訪円忠は雑訴決断所の寄人となりました。決断所での担当は三番東山道で、頭人の洞院公賢に重用されました。
足利尊氏により建武中興が終わるに至って、諏訪円忠は夢窓疎石の斡旋により足利尊氏の右筆方衆になりました。そして、暦応元年(1338)守護奉行に任ぜられて、全国の守護を監督、遷転する任務を任されていました。
1338年足利尊氏は征夷大将軍に任ぜられ、幕府を開きましたが、後醍醐天皇の菩提を弔うために京都嵯峨に天竜寺を建立することにしました。そして暦応2年(1339)この天竜寺の造営奉行に任命されたのが諏訪円忠でした。
この天竜寺造営に際しては、さらに全国66ヶ国と2島に一寺(安国寺)と一塔(利生塔)を建てることになります。足利尊氏、足利直義兄弟は、夢窓疎石に深く帰依しおり、疎石はかねがね兄弟に元弘以来の内乱で戦没してた死者を弔い、平和を祈願する証として、各国ごとに一寺一塔の建造を進めていたといわれています。
そして信濃国の安国寺を担当したといわれる人物が諏訪円忠で、自領の諏訪へ建立しました(茅野市宮川)。諏訪円忠はこの他、祭7巻、縁起5巻からなる「諏訪大明神縁起絵詞」という書物を記し、各方面に諏訪信仰を普及させたと云われています。この絵詞には青蓮院尊円親王の筆もみえます。
このように諏訪円忠は、政事以外に神道、禅宗、密教、和歌にも通じ、「新千載和歌集」「新後拾遺集」「莬玖玻集」にもその歌が掲載されています。
足利義満の影響の巻12(室町時代)
1399年の10月から12月にかけて京都から山陽方面において戦闘がありました。鎌倉公方足利満兼の呼びかけに応じた長門国などの守護職大内義弘が大軍を率いて堺へ進出しました。目的は足利義満打倒で、足利義満は大軍をもって堺で迎え撃ち大内義弘を討ち取りました。この乱を応永の乱といいます。この乱は、足利義満が有力守護の力を削ぐために大内義弘を挑発したのが発端で、乱後の論功行賞によって守護の配置を自分の思い通りに実施しました。
論功行賞により信濃国守護職であった斯波義将は尾張国に配置換えとなり、代わって室町幕府創建以来足利氏の力となり、祖父以来の信濃国守護職復帰を目指していた小笠原長秀が信濃国守護職に任命されました。
小笠原長秀の本拠地は信濃国の伊賀良(飯田市)であったが、長門国の大内義弘の残存勢力追討で多忙であった為、任命から1年遅れて信濃国入りをしました。そして、一門である信濃守護代職の大井光矩(佐久市)と相談をして、各地の国人を手なずけながら政治を進めていくことにしました。しかし、各地で不法の所領だとか守護の課役だとか言って、年貢の徴収を強引に進めたので(村上氏の川中島領を押領したともいわれる)、かねてより小笠原長秀と宿敵だった犀川流域を基盤とする国人(仁科、祢津、春日、香坂、宮高、西牧、落合、小田切、窪寺氏など)が、応永7年(1400)小笠原長秀に対して反乱を起こしました。この反乱には村上満信、佐久3家(海野氏、望月氏、禰津氏)も加わり、小笠原長秀を攻撃しました。善光寺から塩崎に陣を張った小笠原軍は形成不利とみて、大塔城(長野市篠ノ井)に立て籠もり、ここで大規模な合戦となりましたが、大井氏の仲介により和睦し、小笠原長秀は破れて京都へ落ち延びました。この後、小笠原長秀では信濃国を治めきれないと幕府は判断し、信濃国は幕府が直接支配する地となりました。
この戦を、大文字一揆または大塔合戦といいます。
織田信長の信濃攻略の巻13(戦国時代)
天正10年(1582)1月末、木曽義昌が武田勝頼から離反しました。これを討伐するため、武田勝頼は諏訪に着陣しますが、既に西から織田軍の先鋒隊である織田信忠が信濃国に攻め入り、伊那の松尾城(飯田市)を落城させ、南からは徳川家康が穴山梅雪を寝返らせ、駿河国から甲斐国へ侵攻を開始していました。
2月6日下条信氏が下伊那より敗走し、飯田城を守衛していた保科正直、坂西氏も敗走しました。伊那郡の大島城(松川町)の武将も敗走し、無人の野のごとく、伊那谷を織田郡が北上していきました。
3月2日には、仁科盛信が守る高遠城(高遠町)も落城し、翌3日には諏訪高島城、松本深志城も降伏しました。
3月5日織田信長が安土城を出立し、信濃国、甲斐国へ向かいます。3月6日織田信長は届けられた高遠城主であった仁科盛信の首実験を美濃で行います。そして3月7日には織田信忠が甲斐へ侵攻し、徳川家康と合流して、武田勝頼と残党を追撃します。3月11日武田勝頼が甲斐国の田野にて自害し、武田家は滅亡しました。3月14日信濃国の浪合(浪合村)に陣していた織田信長のもとへ武田勝頼の首が届けられました。
3月16日飯田に着陣した織田信長は、武田信豊の首実験をし、19日に諏訪法華寺に着陣します。ここで13日間滞在して徳川家康と会見し、降伏した武将が次々と挨拶に訪れてます。3月28日には織田信忠も甲斐国から諏訪へ戻って報告を行い、4月2日織田信長はいよいよ甲斐国へ入りました。
あれほど巨大な権威を誇った武田家も、このように最後は裏切りに満ちた惨めな滅び方でした。結局、武田信玄以来の過酷な政事に庶民を含めて忠誠心はなく、度重なる敗戦の中で信濃国の武将らは離反していきました。

長篠の戦いで戦死した真田信綱・昌輝の墓(真田町信綱寺)
福島正則の移封の巻14(江戸時代)
豊臣秀吉の子飼いの家臣として出世した福島正則は清洲(尾張国)を与えられ、関が原の戦後では広島を与えられ、力を拡大していきました。しかし広島城修築の問題により領地没収となり、晩年は信濃国にて不遇な生活を送りました。小布施町の岩松寺にそのお墓があります。
福島正則について
大坂の陣と信濃の巻15(江戸時代)
徳川家と豊臣家の最終的な戦いとなる慶長年(1614〜1615)大阪の陣では、多くの信濃国の武将が参戦しました。下に大坂冬の陣、大坂夏の陣における信濃の武将の動きを掲載します。
☆大阪冬の陣(1614.10.1の動員令)
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松平忠輝(徳川家康6男)
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江戸留守居役
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小笠原秀政、忠政
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松本城守衛
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小笠原忠脩(秀政長男)
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大坂参陣
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諏訪頼水
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甲府城守衛
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諏訪忠澄(頼水長男)
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高島城守衛
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山村良勝(木曽代官)
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大坂参陣
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山村良安(良勝長男)
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福島・贄川関守衛
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真田信吉、信政(信之息子)
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大坂参陣
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仙石忠政(小諸城主)
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大坂参陣
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堀直寄(飯山城主)
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大坂参陣
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保科正光(高遠城主)
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大坂参陣
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真田幸村、大助
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大坂籠城
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※松平忠輝は、別に家臣花井義雄が大阪へ出陣している。
☆大阪夏の陣(1615.4の動員令)
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松平忠輝(徳川家康6男)
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大坂出陣
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小笠原秀政、忠脩
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大坂出陣(討死)
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小笠原忠政(秀政次男)
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大坂出陣
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諏訪頼水
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甲府城守衛
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諏訪忠澄(頼水長男)
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大坂出陣
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山村良勝(木曽代官)
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大坂参陣
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真田信吉、信政(信之息子)
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大坂参陣
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仙石忠政(小諸城主)
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大坂参陣
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堀直寄(飯山城主)
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大坂参陣
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保科正光(高遠城主)
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大坂参陣
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真田幸村、大助
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大坂出陣(討死)
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大坂夏の陣において、信濃国勢のほとんどは徳川家康勢の榊原康勝の指揮下におかれ、大坂方の真田幸村、毛利勝永、木村重成部隊の正面の2段目に配置されました。この場所の戦は熾烈を極め、小笠原秀政、小笠原忠脩親子は、前日に徳川秀忠から不戦功をなじられたため討死覚悟で真田幸村、毛利勝永、大野治房の部隊へ突撃して討死しました。
その他に、全体的な死傷者数としては、真田信吉部隊と小笠原秀政部隊が多かったようです。この戦によって大坂城は落城し、豊臣家は滅亡して戦は終了しました。信濃国勢の戦功としては、松平忠輝家臣の花井義雄が一番多く、堀直寄、小笠原秀政、真田信吉の順で首級の数が多かった。
信濃国勢として大坂側に参戦していた真田幸村は、徳川家康を討ち取る寸前で破れ、自刃して前田勢に首をとられました。

真田昌幸の墓(真田町長谷寺)
松平忠輝、赤穂浪士と信濃の巻16(江戸時代)
大坂夏の陣の後に、徳川家康の6男である松平忠輝の蟄居と川中島藩改易が行われました。松平忠輝は蟄居改易により、武蔵国深谷、その後に上野国藤岡と移され、父である徳川家康の葬儀にも出席できず、さらに伊勢国朝熊に配流となりました。
そして飛騨国高山に移され、最後には信濃国の諏訪高島藩に移されました。この後、松平忠輝は58年間諏訪高島藩に配流の身となって没しました。現在の諏訪市貞松院にお墓があります。
大坂夏の陣に際しては、出陣途中の近江国守口にて旗本2人を斬り、さらに戦場(大和口)においても動かず、家康から叱責を受けたといいます。
諏訪に幽閉された松平忠輝は、周りが堀で囲まれた高島城の南之丸(現在の諏訪市役所駐車場)に置かれ、外部との接触が一切経たれました。南之丸へ入るには2つの橋しかなく、その入口には侍番所と足軽番所があり、幽閉屋敷の周囲は柵で囲まれ、さらに間隔を置いて小さな番所を9箇所配置していました。幽閉屋敷は東西52間、南北24間半ほどでした。幽閉屋敷には忠輝1人だけではなく、正木左京進、久世左近ら40人ほどや、その家族も従っており、58年の間に順次死亡していきました。松平忠輝は天和3年(1683)7月3日92歳で死亡。

松平忠輝墓所(諏訪市貞松院)
松平忠輝句「戸をたてて 僧は入りけり 秋のくれ」
松平忠輝が死亡して20年後の元禄16年(1703)、諏訪高島藩に吉良義周が預けられてきました。吉良義周は、忠臣蔵で有名な赤穂浪士に討たれた吉良上野介義央の息子で、赤穂浪士に父親を討ち取られた未熟を受けて、吉良家は改易とされ、息子の義周が高島藩に預けられました。
吉良義周は松平忠輝と同様に高島城の南之丸に幽閉されました。そして宝永3年(1706)21歳で病死し、諏訪大社上社の南西100mくらいの所にある法華寺に葬られました。

吉良義周(きらよしちか)の墓
江戸時代の法度の巻17(江戸時代)
江戸時代の信濃国には様々な領主がいました。それぞれが独立した国として機能していた為、各領地には独自の法度が定められました。具体的にどのようなものであったのか、寛政5年(1793)4月に椎谷(しいや)藩主の堀直起が発布した領内法度を例として見てみましょう。
1.先年、公儀より通達のあった条々は、高札の通り堅く守ること。
2.この度通達のあった条目の趣を堅く守り、五人組を立置き、条目を1ヶ月に一度読み聞かせ、年々一帳簿仕立て、2月中に差し出すこと。
3.忠孝を励み、夫婦、兄弟、諸親類等睦まじく、もし不忠不孝の者あれば村役人より申し出ること。
4.万事おこたりせず、衣類、飲食に至るまで倹約を専ら守ること。
5.悪心をもち、或いは偽り、或いは利欲をかまえた強訴や徒党を企てる事が決してないように堅く守り、もしそのような者がいれば、村役人より申し出ること。
6.無筋で無い願いについては、その向うへ願い出るように。
7.村々庄屋、組頭は勿論、惣百姓たりとも、宮参りその他用向きにて他国に行く時は、村役人へ届出、村役人より大庄屋へ届け、指図するように。
8.困窮しているもので今日暮れ方営みも無く、無慈悲の稼ぎ奉公等に出ようとも、もし村役人へ届けずに来れば出奔となる。兼ねてこの趣を心得るように。
9.願いの上、その向々より指図等届けが済み、他国へ赴く者は、おおよそその年限を届け、万一その所を離れることになれば、猶をもってその趣を届けなければならない。
10、庄屋は大庄屋へ、組頭、五人組、惣百姓はその村々庄屋へ届け、4〜5日の逗留たりとも村方を出、他国は勿論近在へ行ったとしても、万一届けずして行き日数100日で帰村無い者は、帳簿から外すこと。
11、或いは宮参り、又は外用向きにて少ない日数で届け、先々において病気等にて手間取った時、その村方より届出たものは格別である。そうでは無く、我がままにて帰村を延引の者は帳簿から外すこと。
12、村々より江戸表の御屋敷へ人夫として行き、足軽に御取り立てになり、よんどころない理由で俄かに御暇引夫願いの儀は、その村方の庄屋どもより大庄屋へ申し出て願うように。この後、当人より江戸表にて願う儀はあってはならない。
13、村々より江戸表へ人夫として赴いて勤める内か又は、引夫願いによる旅中において出奔した者、この後その始末により直に関所すること。
以上の条々を堅く守り、村々庄屋どもはもちろん、五人組、惣百姓ども迄決して心得違いがないようにすること。もっとも大庄屋どもは村方より届けの度々、御役所へ届け、なおまた指図を受けること。全ての届け向きはみだりにしないように常々申し合わせ、違背するにおいては曲事とみなす。
寛政5年癸亥四月 御役所(印)
信濃国高井郡六川村
庄屋
組頭
五人組
惣百姓
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それまでの椎谷藩は、越後国沼垂郡、三島郡、蒲原郡の1万石で椎谷(新潟県柏崎市)に陣屋を置いて支配していましたが、寛政4年(1792)に信濃国に領地を追加されました。その村々とは、高井郡六川村、中条村、大熊村、奥山田村、中山田村、草間村、中子塚村、清水村、羽場村、水内郡の中御所村、問御所村合わせて5千石になります。新たに六川村に陣屋を置いて信濃国内の領地を支配しました。
江戸時代の信濃の暮らしの巻18(江戸時代)
江戸時代、信濃国の農家の暮らしは一般的に米の他、下記の様な作物を栽培していました。
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大麦、小麦、粟、稗ひえ、黍きび、蕎麦、大豆、赤小豆、ささげ、芋、菜葉、大根、人参、牛蒡ごぼう、ネギ、茄子、唐辛子、油荏あぶらえ、胡麻ごま、煙草、瓜、苧からむし
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通常、1つの村単位では、米、大麦、小麦を主作物として栽培し、さらに上記に示したその他の作物を5〜9種類組み合わせで栽培していました。
主な肥料としては、馬屋肥(夏草を馬屋に敷いて馬に踏ませ、秋に馬屋から出して、畑に蒔くもの)、下肥(便所で貯蔵されるもの)、灰(囲炉裏で出たものや、山の草木を焼いて青灰としたもの)を使用していました。
また、江戸時代ではむやみに鉄砲を所持することができなかたのですが、耕作地を動物に荒らされるなどの被害があったため、月単位の許可制により鉄砲の所持が農民にも認められました。鉄砲の用途によって、用心鉄砲、猟師鉄砲、威鉄砲おどしてっぽうの3種類に分けられます。威鉄砲とは、空砲で動物を脅すだけに許可された鉄砲で、信濃国ではかなりの許可数がありました。
その他、現在でも遺構が各地で残っていますが、耕作地への動物の進入を防止する為に、猪垣ししがき、猪土手を築きました。
松尾芭蕉と曽良の巻19(江戸時代)
松尾芭蕉『奥の細道』の様子を記した絵などを見ると、かならず横に連れを伴っています。この連れは河合曽良という人物で、信濃国の生まれになります。
河合曽良は、信濃国の上諏訪町上町の高野七兵衛の子として生まれ、後に近隣の岩波家の養子となりました。そして、更に伊勢国長島の河合氏の養子となり、長島藩士となります。岩波家の時には岩波庄右衛門正字と名乗り、伊勢長島藩士の時には河合惣五郎と名乗りました。しかし、間もなく浪人となり吉川惟足の門に入って神道を学んだ後、江戸に向かいます。
江戸では深川の芭蕉庵の松尾桃青に入門して俳句を習いました。曽良が芭蕉に師事したのは延宝8年(1680)から天和3年(1683)迄の4年間と云われます。貞享4年(1687)曽良は、宗波と共に芭蕉に随い鹿島に赴きます。「鹿島紀行」元禄2年(1689)芭蕉に随い、有名な奥羽の旅(奥の細道)に出発します。芭蕉と共に奥羽から北陸の各地を訪ねてましたが、加賀の山中で芭蕉と別れて曽良1人で伊勢の長島に向かいました。
「こころせよ 下駄の響も 萩の露」曽良
「よもすがら 秋風きくや うらの山」曽良
奥の細道から芭蕉が大垣に着いた時には、曽良も伊勢から大垣に出向き、芭蕉に会っています。その後、吉野、熊野の旅を経て、元禄4年(1691)京都の落柿舎を訪問しました。「嵯峨日記」元禄7年(1694)芭蕉の伊賀上野に帰郷するに伴って箱根まで同行しますが、大坂での芭蕉の臨終には立ち会えませんでした。元禄15年(1702)更科旅行の帰途、曽良は故郷の諏訪に立ち寄りました。宝永6年(1709)筑紫へ旅立ち、更に壱岐島に渡って勝本で没しました。享年62歳。
※芭蕉の曽良に対する気持ちを有名な文から引用すると、
曽良という人は、深川の私の庵の近くに仮住まいをしており、朝に晩にと訪ねてきてくれるし、私も曽良の家を訪れる。私が炊事を営むときは柴折りを焼くし、煮炊きの手伝いもしてくれるし、夜に湯を沸かしてお茶を立てるときは、寒さで氷になってしまったものを叩いてかき割ってくれる。性来、静かに暮らすことを好む人で、曽良とは断金の契りの喩の通り、深い友情の間柄だ。
高遠藩の商い巻20(江戸時代)
明和9年における高遠藩への諸品の入荷数は、4682駄になります。これは1日平均13駄が藩内に入荷されるわけで、松本藩領、飯田藩領、岡崎や吉田などの東海道筋、名古屋から運搬されてきていました。その物品は、遠くは九州や岡山、近江、京都などからはるばる運ばれていたようです。
また、出荷に際しては、領内の藤沢郷、入野谷郷、川下、春近、中沢郷から城下に物品が集積され、出荷数は764駄でした。これは1日平均2駄程度で、かなりの入荷超過であった事が分かります。
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高遠への各地方別入荷上位3品目
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高遠からの各地方別出荷上位3品目
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飯田藩領2962
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柿、どみ茶、椀
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飯田藩領377
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楮、干粕、油荏
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松本藩領287
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魚、水油、煙草
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松本藩領102
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綿、下駄、気田茶
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名古屋領1307
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綿、魚、太物
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名古屋領208
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煙草、麻煤A麻布
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東海道筋125
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魚、古手、木綿
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東海道筋77
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煙草、麻
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※数字は駄数
入荷数順としては、綿が全体の2割を占め、柿、魚とつづき、取引相手の6割が飯田藩領で、名古屋藩領3割、この2地域で9割以上の取引があったことが分かります。また、出荷数順としては、楮、干粕、たばことなりますが全てが全体出荷数の1割にも満たず、主力な特産品が無かったことが分かります。そして、取引相手としては飯田藩領と名古屋藩領で7割程度でした。
海の無い高遠には日本海と太平洋から魚が運ばれ、百姓町人の衣類であった木綿の原料である綿が名古屋を経て大坂産が入っています。また、酒造業も盛んであったことから、その干粕が出荷されていました。信濃国には、生坂煙草(生坂村)、吉瀬煙草(駒ヶ根市)などの特産物があったため、煙草の製造や出荷も盛んであったようです。
天明の浅間焼けの巻21(江戸時代)
江戸時代にも大きな噴火がありましたが、その中でも有名なのが宝永4年(1707)富士山の噴火、天明3年(1783)浅間山の噴火、寛政4年(1792)雲仙岳の噴火になります。
長野県と群馬県の境にある浅間山の噴火は、天明3年4月4日から始まり、5月26日に2度目の爆発が起り大きな噴煙があがりました。しばらくしてこれはおさまりましたが、6月18日3回目の爆発が起り、10q以上離れた場所でも小石が降ったといいます。これも小康状態になり、6月28日から再び大きな噴火が始まりました。周辺の村々では「石臼をひくような音を共伴った地響きがあった」「大地がしきりに鳴動し、山の中から赤い雷がしきりに走り出た」などの手記が残っています。この日以降、29日、30日と噴火はしだいに激しくなり、7月6〜8日はそれこそ言語に絶するほどの噴火だったといいます。特に8日の爆発では火口から流れ出た溶岩流が、北側斜面を滑り落ち、火口から約15q離れた鎌原村(群馬県)を埋め尽くし、さらに下って利根川の支流である吾妻川へなだれ込みました。この後、浅間山から粘性の強い溶岩流が流れ出し、現在でも観光名所になっている鬼押し出しが形成されたというわけです。吾妻川に流れた溶岩は川の水をせき止め、ダムのようになったところでそれが決壊し、利根川に一気に流れ込みました。濁流は利根川流域の村々を呑み込んで銚子や江戸湾まで流れたそうです。幸手宿(埼玉県)の記録では、屋根に取り付いて助けを求める人や馬などが流されていったと記録にあります。
この噴火で吹き出された火山灰は風に流されて東南東の方向へ降り注ぎました。これにより関東一円では昼間から行灯をつけ、深谷宿(埼玉県)では外出するにも提灯を持ち、お互いにぶつからないように声をかけながら歩いたといいます。有名な杉田玄白の日記によると、「江戸でも粟か黍くらいの焼砂が降り、馬の毛のようなものが舞っていた」といいます。
軽井沢宿では、7月6日朝から猪、鹿、狼などが山から走り出てきて人々を驚かし、8日の噴火では真っ赤に焼けた石の直撃を受けて即死した男や傷つくものも多く、家屋や本陣が大破・潰家(降ってきた砂の重みで潰れた家)・失家したといわれます。軽井沢宿の西に続く沓掛宿、追分宿、小諸、岩村田宿ではほとんど被害がありませんでした。
この浅間山の噴火はこれだけに止まらず、やがて数年にわたって東北地方を中心に冷夏をもたらし、大凶作(天明の大飢饉)をもたらせます。9月18日頃から上野国一宮(富岡市)で発生した天明の上信一揆は、信濃国の佐久平を中心に大打撃を与えました。
華の23歳絵島流刑の巻22(江戸時代)
江戸時代の正徳4年(1717)、7代将軍徳川家継の世、江戸城大奥の大年寄絵島と役者生島の情事が明らかになり、生島は三宅島へ遠流、絵島は高遠藩内藤家にお預けになり幽閉されました。これは徳川幕府の権力争いと大奥改革の犠牲になったものと云われています。この時、死罪2人、流罪10人を含む約1500人に及ぶ人々が罪せられました。
3月12日、幕府御用番の阿部豊後守正喬から高遠藩江戸詰家臣が呼び出され、ある書付を渡されました。そこには、「内藤駿河守(清枚) 絵島の事、永く遠流と決まり、これを在所の高遠へ遣し、番人を付けて差し置くこと」と書かれていました。その日の内に、町奉行の坪内能登守定鑑より絵島を請け取り、3月26日高遠に到着しました。始め高遠城下より1里ほど隔った非持村の火打平という所に住ませました。それから享保4年(1719)亥の8月、江戸において執政へ伺い、城下より5町ばかりも隔った花畑という所へ移り住まわせました。
高遠へ来た時23歳だった絵島は、以来61歳までの27年間、朝夕一汁一菜魚類を断ち、読経写経の精進の日々を送り、一度も家の外の空気を吸うこともなく、元文6年(1741)4月10日酉刻に死亡しました。
4月17日、本多中務大輔より高遠藩留守居役が呼び出され、「絵島の死骸を検使する」として、「高遠へ御徒目付の杉浦ハ十郎、平林太郎右衛門を差し遣わす」と告げました。検使の両人
は4月25日に高遠へ到着し、検死が無事に相済みました。そして4月28日、代々日蓮宗の宗旨だったとして蓮花寺へ葬送しました。法名「新敬院日如妙立大姉
」。
高遠町には、絵島囲み屋敷と絵島の墓が残されています。遠山郷の飯田市上村には、「絵島踊り」が残っています。扇子を持って歌い踊る悠長で雅やかな踊りで、踊り慣れた人に好まれています。はじめ高遠で唄われた歌が、秋葉街道を往来する馬子達によって上村へ伝わったとされています。今では高遠にこの唄は残っていません。
「♪さえの やれー 絵島ゆえにこそ 門に立ち暮らす 見せてたもれよ 面影を・・・・」
佐久間象山の巻23(江戸時代)
長野市の川中島古戦場に行くと、広大な芝生の中に大きな銅像が建っています。これは佐久間象山の銅像で、古戦場の川向こうにあった松代藩にその生家が残っています。
佐久間象山について
幕末期の信濃国大名図の巻24(江戸時代)
信濃国には多くの大名が複雑に領地を保有していました。そうした様子を分かり易く示すために図化しましたのでご覧下さい。
信濃国65万3867石96711(内幕府領21万8333石43756)
慶応4年(1868)=明治元年

※水色部分は幕府天領、旗本知行所、預所になります。
マウスカーソルを各色部分へ載せると「藩名:大名」が表示されます。
大逆事件と信濃の巻25(明治時代)
明治時代の末期に大逆事件といわれる政治事件がおこりました。
明治43年(1910)第2次桂太郎内閣の時代において、社会主義弾圧法規だけでは社会主義を撲滅できないとして、社会主義者に濡れ衣を着せて一挙に葬ろうとした事件です。
その弾圧の主な目的は、社会主義運動のリーダーである幸徳秋水で、濡れ衣の題材に使われたのが宮下太吉(みやしたたきち)という人物になります。宮下太吉が信濃国(この当時は長野県)に関係してきます。その関係については、弾圧にあたって政府が発表した文章から読み取れます。
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「入獄記念無政府共産」を読んだ愛知県知多郡の鉄工所職工の宮下太吉がそれに感動し、天皇暗殺の爆弾製造を思いついた。
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宮下は幸徳秋水を訪ねて、爆弾製造計画を打ち明け賛同を求めたが、幸徳秋水は聞き流した。
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宮下は幸徳秋水を再び訪ね爆弾製造法を開発したことを告げるが、幸徳秋水は冷たく扱い、代わりに彼の愛人スガが興味を示した。
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宮下は長野県東筑摩郡明科村の山中で爆弾実験を行った。
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幸徳秋水、スガ、新村、宮下が爆弾投げの練習をした。
これにより、1910年宮下太吉が松本署に逮捕され、証拠品が押収されました。以後、幸徳秋水の関係者が無差別に事件関係者として逮捕され、幸徳秋水とスガも判決から1間後に処刑されました。でっちあげの逮捕により、控訴も上告もない暗黒裁判により処分されたといわれます。まさに言い訳無用といったところでした。
めいん画面へ
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