佐久地域の歴史
 (トピックス版)

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弥生時代の謎の巻1弥生時代)

 

 佐久地域の縄文時代から弥生時代中頃にかけては、遺跡で見る限り南部の千曲川山間地域に偏っており、この頃はまだ狩猟生活が中心であったと言われています。発見される遺跡は、ほとんどが標高800mを越え、1,300mを越える地点からは石器だけが単独で発見されることが多いようです。

矢出川南遺跡 川上村
中原遺跡 佐久町
館遺跡 佐久町
月夜平遺跡 臼田町
氷遺跡 小諸市
町田遺跡 佐久市
月明沢遺跡 佐久市

 弥生時代中頃を過ぎてくると、人々の生活の場が平地に移り、佐久平に畑作文化が芽生えるようになってきました。佐久平には3つの大きな集落群ができ、志賀川の北側に和田上遺跡(現在の種畜牧場周辺)、千曲川の南側に西裏・北裏遺跡(伴野下平)、湯川下流域に北西ノ久保遺跡(信州短期大学付近)があり、これらの集落群を中心とした小規模な集落も点在していました。

 この頃の土器は善光寺平の物と同一形式の物で、当時科野で最大の集落を保持していた善光寺平とのつながりが指摘されています。

 それらの集落は、弥生時代後期になると最盛期を迎えます。この頃の住居は地面を人の背丈程掘り下げたところを床として、柱を4本建てた半地下竪穴式住居が殆どでした。食料は、小麦、大麦ばかりを食していたようで、米、豆、山葡萄は副食か御馳走であったようです。古墳時代になると蕎麦、粟、稗などが加わってきます。

 しかし、古墳時代に入るとこれらの大規模集落は忽然と姿を消し、5軒程度の小集落が点在するに過ぎなくなります。その原因は今でも謎とされています。浅間山の噴火によるものか、外部の侵略によるものなのか不明です。

 


佐久平の復活の巻2古墳時代)

 

 古墳時代前期の異常な集落の減少から100年以上が経った頃、次第に集落が増え始めるようになりました。過去に集落があった場所に再び造られることもありましたが、空白地帯でも形成されていきます。

 大化改新の頃になると、突如として志賀川の北側(樋村遺跡、現在の平賀バイパス付近)や長土呂に、大規模な集落がみられ、佐久平全体が自然増加ではありえないような人口の増加をみます。古墳も400基以上造られるようになり、その殆どの規模が10m程度なので村落の家父長単位の墓であると言われています。

 古墳の副葬品には、武器、武具、馬具、朝鮮半島のメッキ・金細工などが埋葬されています。また、大坂で焼かれた須恵器がこの頃の集落から発見されており、不自然な人口増加と関連付けて、600年代に戦乱状態であった朝鮮半島や近畿地方からの移住者ではないかと言われています。馬具の埋葬については、この地域にあった望月牧、塩野牧、長倉牧の官営牧場の経営に携わった有力者で、やがてこの者達が力をつけていくようになります。

 古墳時代も終ろうとしている頃、政治施設とみられる居館が出現してきます。宮の反A遺跡(小諸市御影)では、90m×60mで幅2m程度の溝に囲まれた施設が発掘されています。政治施設とみられる部分と集落の間には溝があり、その真ん中には門がありました。この頃には寺院瓦も出土し始め、仏教の伝来も始まったようです。

 


佐久という言葉の巻3奈良・平安時代)

 

 『佐久』という言葉が最初に出てくるは、中野市で出土した「佐玖郡」と書かれた奈良時代前期の須恵器と、「佐久郡妙楽寺ヲ以テ」と記載されている866年に作られた日本三代実録です。

 佐久郡は8つの郷(美理、大村、大井、刑部、青沼、茂理、小沼、餘戸)に分かれ、律令制度で任命される郡司の名は分かっていません。その他の信濃国の郡司は、他田氏と、金刺氏が独占していたので、彼等か?、伴野という地名や大伴神社から、大伴氏ではないかとの説もあります。

 平安時代における佐久郡の荘園は、伴野荘と、大井荘の2つしか現在は分かっていません。


巨大牧場「望月牧」の巻4奈良・平安時代)

 

 信濃国には16の牧(官営牧場)がありました。その中で最大のものが『望月牧』になります。

 望月牧は、蓼科山2530mの広大な裾野が北東へ延びて千曲川にぶつかる地形で、北と東が千曲川(ちくまがわ)、西が鹿曲川(かくまがわ)、南が布施川(ふせがわ)に囲まれた御牧原台地です。川に囲まれた天然の地形ですが、さらに馬が逃げてしまうような部分には柵、土塁、溝などを造って管理し、恵まれた草や水で優秀な馬を生産していました。現在でも数qの野馬除が残っています(東御市指定文化財)。ここで生産された馬は都へ運ばれ、多くの歌人が望月の牧を題材にした歌を残しています。

 望月牧がいつ頃成立したのか定かではありませんが、『延喜式』が制作され始めた延喜5年(905)以前には存在していました。

 牧場の南には古東山道が東西に走り、その道沿いに高良社(浅科村、国重要文化財)があります。元々は高麗社と呼ばれていたらしく、朝鮮半島から渡来した人々が、望月牧の牧場経営に携わり、ここに社を造ったと云われています。

 望月牧の周辺には特に馬具を副葬した古墳が多く、御馬寄、駒寄、牧寄、駒込、厩尻などの地名が残っています。さらに、馬具に関係すると思われる鍛冶田、タタラ、吹上などの地名もあり、いずれも望月牧に関係する馬の厩舎、蹄鉄製造所、牧田、管理舎などがあった場所として想定されています。

 

 同じく南にある駒形神社(佐久市)は、望月牧の封境とされ、元来望月牧を管理した望月一族である根井氏に関係する神社で、根井氏は多くの馬と兵の動員力を持っていました。950年頃に、滋野氏から海野氏(うんのし)、祢津氏(ねつし)、望月氏(もちづきし)が分派して、望月牧監という牧場を管理する役職に就いていたようです。海野氏は望月牧の北部地域を拠点とし、望月氏は望月牧の南部地域を拠点とし、これは戦国時代まで続きました。海野氏の一族が真田氏になります。

 

 その他、佐久地域には塩野牧(御代田町)、長倉牧(軽井沢町)、菱野牧(小諸市)があり、さらに多くの私牧もありました。平家物語に登場する矢田義清と、根井行親の子である楯親忠の私牧が、十石峠から流れる抜井川沿い(佐久町)にあったと云われています。矢田義清は、木曽義仲に従って京都へ攻め上り、水島の海戦で平家と戦って敗れた武将です。

 この様に、平安時代中期頃まで官営として管理された牧場は、次第に管理する在地の者達に私牧化され、彼等はいつしか武士となり、馬は貴重な戦力として利用されていきました。


岩村田郷の繁栄の巻5(鎌倉・室町時代)

 

 佐久地域には大井荘と伴野荘の2つの荘園がありました。

 甲斐源氏の小笠原長清は信濃国内の支配を強めるために、六男の時長を伴野荘の地頭として伴野時長と名乗らせ、七男の朝光を大井荘の地頭として大井朝光と名乗らせました。伴野荘は概ね現在の南佐久郡に相当し、大井荘は北佐久郡に相当します。

 大井荘は12郷(岩村田、耳取、与良、小諸、平原、塩野、小田井、根々井、平尾、沓掛、軽井沢、安原)に分かれ、その中心となったのは岩村田郷です。代々大井氏はここを拠点として大井荘一帯を支配していきましが、戦国時代となり岩村田の地に防御の為に大井城を築き、ここを拠点としました。しかし、文明16年(1484)埴科を拠点とする村上政清、顕国父子が大軍を率いて佐久へ攻め込み、大井城は焼失落城しました。

 大井城は、湯川の断崖に沿って北から石並城(いせならびじょう)、王城、黒岩城の3箇所からなる城群の総称です。室町時代の文明16年以前に残っている記録からは、民家6千軒が建ち並び、松本の国府に劣らぬ繁栄振りであったと伝えられています。絵図を見ると龍雲寺、福王寺、円勝寺、真光寺12坊の他、幾つかの神社もあり、地方の拠点都市として大変賑わっていたことが窺えます。村上氏により岩村田の集落も焼き払われたようで、当時は大変な事件であったと思われます。


 鎌倉時代に、大井朝光が直ぐにこの地を城砦としたとは考えられていません。後にその子孫が城を築き、3つの城がどの順番でどの様に機能していたのかは不明となっています。3城が本丸と二の丸の様な関係で同時に機能していた可能性もありますが、残念ながら各城の発掘調査からも確証を得ることができず、王城からは多量の焼土を含んだ炭化物層が出土し、文明16年(1484)村上氏による攻撃によるものではないかと云われています。黒岩城からは中津川、美濃、瀬戸(いずれも岐阜県)で作られた焼物や、中国の青磁などが出土し、この時代の流通を知るきっかけになります。『一遍上人絵伝』に書かれている大井太郎館も、どの城にあたるのか1つの話題となっています。

大井城址(江戸後期の岩村田城址は、写真左方向へ200m程南の所)

 村上政清の攻撃から大井光照は小諸へ逃れ、宇当坂に館を構えましたが、跡を継いだ光忠は防御不足を補うために本格的な城塞の築城を画策しました。そして、長亨元年(1487)鍋蓋城を築き、光忠の子の大井光安の代には乙女城を築城しました。

 

 延徳元年(1489)甲斐国の武田信綱が佐久郡に侵攻しましたが、大井氏はそれを撃退しました。天文5年(1536)武田信綱の跡を継いだ武田信虎が再び佐久郡に侵攻し、入口にあたる海ノ口城を攻撃しました。大井氏の武将である平賀源心が死守しましたが、武田晴信(信玄)の初陣の活躍により落城しました。

 天文23年(1554)信虎の跡を継いだ武田晴信は、信濃国への足掛かりとして、佐久地域に本格的な侵攻を行い、たった1日で9城を落城させたと云われます。この時に小諸の鍋蓋城も落城し、大井氏は滅亡しました。

 武田晴信は小諸の地を重要と考え、この鍋蓋城と乙女城を1つにした小諸城を築城しました。鍋蓋城の地は鍋蓋郭と名付け、乙女城の地は二ノ丸となりました。

 


小諸城の悲劇の巻6(戦国時代)

 

 織田信忠率いる織田軍が甲斐国に乱入し、天目山で武田勝頼は自刃しました。この時に、小諸城には武田の留守を預かる下曾根岳雲軒賢範が守備していました。

 武田信玄の甥にあたる武田信豊は、部下20人と共に甲斐から小諸城に撤退し、小諸城で再起を謀ろうとしました。しかし、武田信豊が下曾根に二ノ丸に案内されましたが、裏切られて首を取られました。下曾根は直ちに武田信豊の首を織田に引き渡し、降伏しました。

 武田信豊、武田勝頼、武田信勝、仁科盛信の首は京都へ送られ、鴨川の三条河原にさらされました。

 

 小諸城は織田方の森長可に接収され、上野国厩橋城に入った滝川一益の支配下に入りました。滝川一益の配下である道家彦八郎正栄が小諸城に入りましたが、数カ月の後に織田信長が本能寺で明智光秀に討たれ、北条氏政が大軍を率いて佐久地域に侵攻してきました。滝川一益は厩橋や小諸を放棄して伊勢国に逃げました。

 小諸城には北条方の大道寺政繁が入り、周辺地域を制圧していき、やがて諏訪地域などへも侵攻していきました。

 


依田常陸介信蕃の巻7(戦国時代)

 

 長篠の戦いで主力を失った武田家は急激に衰退し、遠江国、駿河国方面に侵攻する徳川家康、織田信長連合軍に抵抗する戦力はほとんどありませんでした。

 遠江国田中城に籠城していたのが依田常陸介信蕃(よだひたちのすけのぶしげ)で、徳川軍の猛攻に耐えていました。しかし、武田軍の救援も見込めず、城を明け渡しました。この時に依田信蕃は徳川家康に恩義を感じ、武田の旧領へ侵攻する徳川軍の手助けを行います。

 

 元々依田信蕃の出身は佐久郡芦田(立科町)で、地理に明るいことから佐久地域を平定した大道寺政繁の輸送路を撹乱しました。そして、家康は柴田七九郎康忠の軍を依田信蕃のもとに派遣し、佐久地域の平定を命令しました。柴田・依田軍は、岩村田城など佐久地域の城を落とし、残りは大道寺政繁が立て籠もる小諸城と、大井行吉が立て籠もる岩尾城だけとなりました。

 依田信蕃と柴田康忠の確執があったのか定かではありませんが、信蕃は柴田に「我が軍だけで岩尾城を落とす」と明言し、攻撃を加えました。しかし、岩尾城の守りは堅く、痺れを切らした依田信繁は、自ら攻撃に参加し、鉄砲で撃たれて死亡しました。この後に、柴田軍が岩尾城を攻撃して、岩尾城は落城しました。

 徳川家康は、依田信蕃の功績を認めて、子の竹福丸に松平の姓を与え、松平源十郎康国と名乗らせ、小諸城6万石を与え大名としました。

 


依田氏の滅亡の巻8(戦国時代・江戸時代)

 

 松平康国(依田康国、又は芦田康国)は、小諸城を拠点として佐久郡全域を支配することになりました。この頃の佐久郡は東に小田原の北条氏政に接し、北は上田の真田昌幸と接していました。徳川氏に属する松平康国は、北条氏の動向に備えていましたが、遂に豊臣秀吉による北条討伐が決定され、松平康国は周辺地域に通じた者として前田利家軍の先導役を仰せ付かりました。康国は相木市兵衛、伴野刑部など佐久の旧領主が立て籠もる北条方の白岩城(南相木村)を攻撃し、続いて上野国松井田城の攻撃にも参加しました。その後、西牧城を攻略しましたが惣社(前橋市)で不慮の死を遂げました。徳川家康は康国の弟の松平康真(やすざね)に家督を継がせ、小田原攻めでは旗下に組み込んで、相模国の筑井城、大磯城などの攻撃に参加させました。

 天正18年(1590)7月小田原城は遂に落城し、北条氏は滅び、関東の地は徳川家康に与えられました。これにより徳川旗下の松平康真も転封を命じられ、領地を3万石に削られて上野国藤岡城(群馬県藤岡市)に移りました。これに際して松平康真の領民、家臣達は、佐久に留まるか藤岡に着いていくかの選択に迫られ、寺社や商家も含めて多くの者達が藤岡に移り住みました。現在の藤岡市内には彼等が築いた岩村田町、芦田町という地名が残っています。

 慶長5年(1600)藤岡に移って10年が過ぎた頃、松平康真は、大坂でいさかいを起こして人を殺し高野山に逃亡しました。康真は高野山の蓮華定院で蟄居した後、徳川家康の次男である越前国福井藩主の結城秀康に仕え、加藤康真と改姓しました。この子孫はそのまま越前松平家に代々仕えていきました。

 


仙石氏5万石統治の巻9(戦国時代・江戸時代)

 

 天正18年(1590)松平康真が藤岡へ去った後の佐久郡には、豊臣秀吉の命により仙石秀久が領主となりました。秀久は、子供の頃から秀吉に仕え、讃岐国高松城主となっていましたが、豊臣秀吉の九州攻めで長宗我部元親などと共に島津氏を攻めましたが豊後国戸次川で大敗をし、改易されました。しかし、小田原攻めで功を認められてようやく小諸城5万石を与えられました。

 慶長5年(1600)関ヶ原の戦いでは、徳川方として徳川秀忠の軍に加わり、上田城の真田昌幸を攻め、これにより佐久郡の所領は安堵され、譜代大名格として取り扱われるようになりました。仙石秀久は慶長19年江戸から小諸に向かう途中で死亡し、子の忠政が相続しました。仙石秀久のお墓は西念寺(佐久市岩村田)にあります。

 元和8年(1622)松代城の酒井忠勝が出羽国鶴岡に移封となると、付近の藩主は北へシフトするかのように、上田城の真田信之が松代へ、仙石忠政が上田城へ、佐久郡は甲府城主の徳川忠長の領地となりました。

 仙石氏の時代の佐久郡は、前領主の松平康真(依田康真、又は芦田康真)に従って上野国に多くの者達が移り、農村などが大きく荒廃していました。そして、さらに仙石秀久による過酷な年貢、課役の取り立てにより、未だ戦国時代の余波が続いて凄まじい荒廃の地と化していたと云われています。これは大坂の陣頃まで続きました。


根々井知行所の巻10江戸時代)

 

 松本の3代藩主水野忠周(ただちか)は、立藩以来の新田開発などによって生じた余剰分2,000石を幕府に願い出て息子の水野忠照に与えて旗本としました。

 この時代、藩主となる見込みの無い次男以下を理不尽に思う親心・兄弟心から、藩主が肉親に領地の一部を与えて旗本としたり、旗本にして幕閣の一員に組み込んで、幕府との関係を強めようとしました。更に本家が取り潰された場合でも家名を残すために旗本としたようです。

根々井陣屋(道路左付近)

 水野忠照は、特定の村を与えられたのではなく、松本藩から2,000石分の扶持米を支給され、江戸の浜町(日本橋)に屋敷を持ったことから『浜町水野家』と呼ばれました。しかし、享保10年(1725)松本藩主水野忠職の不祥事による取り潰しは、この浜町水野家まで罪が及び、松本の2,000石は没収となり、佐久郡2,000石に換えられました。佐久郡における統治は、現在の長野新幹線佐久平駅の南西一帯にあたる地域になります。この根々井知行所は幕末まで続きました。

 

水野忠照−忠卿−忠隣−忠成−忠紹−忠寛−忠敬−忠善

市村新田 545石 佐久市
下塚原村 239石 佐久市
市左衛門新田 92石 佐久市
岩尾村 692石 佐久市
今井村 254石 佐久市
根々井村 633石 佐久市
  2,457石  

 水野氏は代々旗本であることから江戸に居住し、領国の支配は村の有力な名主を代官に任命して支配させていました。陣屋はその名主の家とされ、享保11年(1726)から30年間ほどは下塚原村と上塚原村に置かれ、その後は根々井村の大塚家、市村家、再び大塚家とされました。代官に任命されると屋敷の使用料と、門塀の建設費などが支給され、足軽1人、小人1人を百姓の中から選ぶ権利が与えられました。

 代官の権力はほとんどなく、事務的な仕事をこなすだけで、実質は江戸屋敷の指図を受けていました。将軍の小姓などを勤める水野氏は金銭支出が著しく、財政の90%以上が江戸での必要分に充てられ、多額の赤字であったと云われています。

 

小諸でぬけりゃ 浅間の山によ〜
今朝も三筋の  煙立つ
 はいはい

浅間根腰の焼野の中に
菖蒲咲くとは しおらしや
はいはい

ここはどこだと 馬子衆に問えば
ここは信州 中山道
 はいはい

『小諸馬子唄』

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