佐久市

新海三社神社しんかいさんしゃじんじゃ ○○○

重要文化財2登録  室町時代建造物

 

東本社、三重搭

ひがしほんしゃ、さんじゅうのとう

 

新海三社神社の創建:創建年月不詳

東本社の祭神:興波岐命(おきはぎのみこと)

中本社の祭神:健御名方富命(又は建御名方命)

西本社の祭神:事代主命、誉田別命

東本社の構造:一間社流造、桧皮葺

東本社の建造:不明(室町時代)

三重搭の構造:三間三重、柿葺、和様禅様混合

三重塔の建造:永正12年(1515年)

佐久郡にあった伴野荘、大井荘、平賀郷の歴史を調べている最中、古墳の分布を重ね合わせたところ、ふとある事に気付きました。それは千曲川の西側には殆ど古墳が無く、東側に片寄っていること、 佐久市横根から 佐久市入沢にかけての南北13kmに古墳が集中しているといった点になります。こうしたことから遺跡の継続性や共通性なども考慮して、古墳があった付近は佐久地方で最も古い開発地ではないかと私は考えました。そして新海三社神社がある 佐久市田口は、南北の古墳地帯において東から千曲川に流れ込む幾多の沢筋の中で最も大きな平地を有する扇状地になります。これにより一帯の中心的な存在、それが佐久郡総社であった新海三社神社になります。

総じて神社の創建というものは、ほとんど全てが不詳であり、又は伝説に基づくものになります。新海三社神社の歴史も記録が残っていないことから、多岐にわたって様々な説が論じられてきました。いずれも可能性を論じたもので真実を証明したものではないので、永遠に続く論争を呈しています。そこで新海三社神社の公式見解である明治35年(1902)11月に社司神戸貢が調進した『郷社新海三社神社御由緒調査書』にある文を見てみましょう。

一創建の事

興波岐神の御父は健御名方富神、御母は前八坂刀売神なり、右神系は官幣中社諏訪神社古伝旧記又当社所伝なり、神代の昔興波岐神は父大神を補佐し奉りて科野国を造り、最終に佐久地方の洪水を治め、沃土を拡め、その大造の功をおえて大県となし、悠久に当社に鎮座し給う。

古老伝説 興波岐神は御佐久知神なり、御佐久知は国を開闢する所の義なりと官幣社諏訪神社旧記にあり、又新佐久(ニヒサク)神と称し奉るなり、その故は古昔国造り未だ全く竟えさる時に当り、この地水湛え漫々たる湖沼のみ多かりき、父大神興波岐神をしてその水を治めしむ、神岩群を裂き水を疎し地を開き広大の沃土となし以ってその面目を新にし、諸の県の中に大県と佐久地方を称するに至らしめ玉う、実に新佐久の御名は新たに地を開き拡め玉う所の御功績を称え奉るなり、開(サク)は花さくなとの詞に同くして後世大県を佐久郡と改めしも神名より出たるなり。(中略)当社の御分霊として古代より鎮祭する所多し、諏訪郡上諏訪町旧大和村鎮座村社先宮社(サキノミヤ)同郡長地村旧山田村に小萩神社(コハギ)あり、上野国北甘楽郡尾沢村大字羽沢新海神社あり、当国小県郡海野村々社新海神社あり、当郡の内岩 村田町 郷社若宮八幡宮の摂社新海社あり、南相木村、岩下村、今井村、下越村何れも村社にして旧社なり、当社を以って本社とす。当社新佐久神の社名を往古新開社と記せり、諏訪郡に当社分体と称す古社先宮あり、サク、サキ詞同じ、然るに後世新開をシンカイと音読せしより新海の文字を用ゆるに至れり。

古老伝説 興波岐神は有功の神に坐せば、御父諏訪大神と神代深厚の由緒ありしなるべし、毎年諏訪湖氷上に父大神と御参会と言ることあり、之を神の御渡と称す、珍の御子の中にも如此伝説は他の御子神にその例なし、之御渡のことは後光厳天皇宸翰外題の諏方大明神絵詞にも載せられ或は新勅撰集以下の和歌集にも編集せられたり、又御渡のことを昔は朝廷に奏し鎌倉以後は将軍家へ注進せり。

古老伝説 当社大神は兄弟神と共に父大神の諏訪の宮造の事、御祭の事を奉仕し玉い神孫継承して大県介と称し勤仕せられしも、桓武天皇延暦中より諏方宮式年造営を定めめ、寅申の年毎に一国の貢税を充て玉うに至れり、鎌倉幕府に至るも造営御頭の神役旧規により遵行せられたり、当田口郷の如きは大県介となり、枝郷を引率し御符を請けて之を勤仕せり、鎌倉下地状及び御符御頭役勤仕の記録は後に出す。

一新海三社大明神と称するに至れる事

往昔佐久郡には延喜式神名帳に記載あるものにして英多、長倉、大伴の三社ありき、総して何れも郷名を以ってその神社号に負わせるものなり、おおよそ英多は阿賀太(アガタ)にして古くこそ大県主の居住するよりその郷名となりたるものの如し、さればこの新海宮は延喜式に所謂英多神社なるものにあひ当りて古来佐久郡の地主の神と称しき、然して長倉、大伴の2社を奉斎せるは健御名方命、事代主命とす、健御名方命は信濃国を経営せられたるのみならず、興波岐命の御父神にして事代主命は国土経営にあずかって偉功を奏し、かつ健御名方命の兄神たるの故を以って興波岐命に深縁あり、されば新海宮は3荘36郷の総社たるのみならず、郡中深縁あるの神社なるを以って新海宮に共斎し以って3荘36郷の総社たるの縁由を詳にしたり、いらい新海三社大明神と称して洽く民庶の崇敬する処となりしが、もっとも古く新海三社大明神と物に見えたるは安 原村 安養寺の応永寺記神拝の条に、新海三社大明神とあるを以って嚆矢とす、されば室町将軍の時代に共祀せられたるものなるべし、これより興波岐神を奉斎せるものを大家宮、また親宮とも称したる事は武田家元亀中当社再建の絵図に記載さあるを以って明かなりとす。

 

ここには2つの重要な事が書かれています。それは佐久郡の佐久と新海三社神社の関係、もう1つは延喜式代社である英多神社との関係になります。

浅間山とも関係のあるコノハナ(ノ)サクヤという神名を、『日本書紀』では木花開耶姫、『古事記』では木花之佐久夜毘売と表記していることから、佐久=開の読み方が8世紀には存在していたことがわかります。諏訪大社の旧記に、佐久地方を治め大県となったので興波岐神は新佐久神とも呼び、それが新開、新海とも書かれるようになったとあります。広範な歴史研究の中で膨大な史料を読んでいると、このような当て字や漢字の間違いと思われる表記が数多くみられるので、可能性としては不定できません。

 次の英多神社についてですが、英多の読み方は「アガタ」=県だとしています。そして延喜式神名帳に「新海」「新開」「新佐久」などの神社が全く記載されていないことに対して、佐久郡3社の内の1つである英多神社=新海三社神社であり、他の大伴神社、長倉神社の祭神が健御名方命、事代主命なので共斎し、当社はその総社であるとあります。これまでこれを論的に否定する方策を考えていましたが、はっきりと否定はできず、逆にこれを正とすれば筋の通った主張であると考えるに至りました。北の 佐久市 安原の字名英多澤に英多神社があり、昔からこの件についてどちらが英多神社なのか争論がありました。しかし新海三社神社の境内横に字名英田地畑があり、 佐久市 入沢の大宮諏訪神社に残る鰐口には「大宮英田神 永和2年(1376)」と刻まれ、更に江戸時代この付近の田から「英田神社」と刻まれた鈴が出土しています。よって少なからずこの南北の古墳地帯には英多と関係が深いものが存在していたと推察されます。これについて新海三社神社の調査書にもあるとおり、新海神社と名の付くものが各地に存在しています。それと同様に、古くは英多神社という名のものが各地に存在していましたが、いつしか廃社、合祀、又は同祭神なので中世以降に諏訪神社や新海神社と改称された可能性も提起しておきます。いずれにしても私は、今のところ英多神社=新海三社神社であろうと考えています。

東御陵(三重塔背後より約50m山側の円墳)

 

新海三社神社背面の山に、佐久市指定史跡東御陵、中御陵と名付けられた小規模な円墳があります。これについては明治11年(1878)『郡村誌 南佐久郡』の田口村には「十二塚(四十八塚)は、新開大神この地に鎮まり座してその神孫数世なるをこの地に葬りしならん」とあり、興波岐命から数世経った子孫を葬った古墳ということになります。その他、雨川の平坦な扇状地は佐久郡でも屈指の遺跡を要する地で、その中に多数の横穴式石室を有する小型円墳が残されています。多くが近代の開発等により失われましたが、 佐久市 指定史跡幸神古墳群(さいのかみ)の幸神1号墳(6世紀末)、幸神2号墳(7世紀末)、外九間1号古墳(そとくけん)、中原1号古墳は現在でも横穴式石室がほぼ完全に残っています。また、今は失われた英田地畑の円墳からは、信濃国から陸奥国にかけて集中的に出土する蕨手刀が発見されており、7世紀から8世紀初めにかけて古東山道を経由して東北地方に伝えられたとされています。しかし、この頃は阿倍比羅夫、大伴弟麻呂、坂上田村麻呂による蝦夷平定の時期とも重なり、信濃国の者達も東山道を経由して前線まで食料や武器などの物資を運んだり、或いは軍団の兵士として送り込まれました。長野県各地で発見されている蕨手刀というのは、こうした軍事行動(陸奥国胆沢近傍などでの戦闘)に功績のあった地域の有力者に褒美として与えられたものではなかったかと私は考えます。とすれば、県内で蕨手刀が発見されている地=蝦夷征伐に懲兵された地となります。

http://www.pref.iwate.jp/~hp0910/korenaani/a/015.html

諏訪大社では、公式に御祭神を建御名方神(たけみなかたのかみ)、八坂刀売神(やさかとめのかみ)とし「往古より風と水を司り信濃国を開拓された力の強い神様として農業・産業・航海の守り神として信仰される。大国主神の御子神であり、御夫婦でお祀りされている」としています。有名な嘉吉3年(1443)の『御渡注進状扣』には「佐久新海明神は高木浜鵜木渡より下御てここに湖中御参会候」とあります。これは南の諏訪大社上社の男神が、北の下社の女神に向かう際に諏訪湖の氷が割れる「御渡」に対して、東から佐久新海明神が渡ることによって氷が割れる「御渡」について記しています。

  http://www.city.suwa.lg.jp/scm/dat/special/omiwatari/index.htm

このように古くから諏訪大社との関係が続いていました。

 

神社の歴史を調べるには可能な限り古い絵図を見る必要があります。しかし現在新海三社神社には江戸時代以降に書かれた絵図しか残されていません。仕方なくそこから様子を窺うと、東西に花立山が聳え、その東の頂上に虚空蔵、西に愛宕が祀られています。その間に並ぶ山の麓に境内が広がり、一番手前の鳥居を通ると川が流れています。そこの橋を渡ると直線の参道が延び、両脇に小さな社が立ち並び「十二天」とあります。その突き当りに「楼門」があり、両側に建物が塀のように配置されています。楼門を通ると境内が広がり、正面奥に黒1扉の「中本社」、その西隣に黒2扉の「西本社」が並んでいます。そして境内東側の一番手前には端垣に囲まれた簡素な「親宮代(おやみやしろ)」(又は大家社・・おやしゃ)があり、その背面に神楽殿、その山手の方に三重塔が建ち、現在地と変わりません。また、楼門と別に境内の東側に神宮寺が並んでいます。楼門の東側の建物に続くように仁王門が建ち、門を通ると神宮寺境内となります。仁王門をまっすぐ進んだ左手に先ほどの神楽殿、右手に小さな鐘つき堂、そして奥の突き当たりに本寺堂(本地堂)があります。鳥居の北側を流れる川は、今でも集落の中を流れる用水で、字名が「明体」という場所で雨川から取水し、最後に田口堰と合流しています。また、十二天は神仏判然令の際に境内の東西両端に移され、現在も同様の位置にあります。

境内(中央黒森)、東西花立山(左右中位山)、山左にかけて田口城跡

 

このように、新開大神いわゆる諏訪の健御名方富命の息子にあたる興波岐命が人々を引き連れて佐久の地へ来て開いたと伝えられています。この集団はこれまで石や木などを神として崇めていた人々と違い、社をもって崇めるという文明をもっていました。そして住むべき地と定めた田口の地に暮らした集団の子孫が興波岐命を社へ祀り、神社として体系付けられる上で父である建御名方命、その兄である事代主命も合わせて祀られていったと考えられます。もう1柱の誉田別命は恐らく中世になってから武士(源頼朝)の影響のもと祀られるようになったのではないでしょうか。

国指定重要文化財の三重塔はお釈迦様の骨や舎利塔を安置する仏教のものですが、明治時代の神仏分離の際に宝物庫として残されました。建築物としての特徴は、礎石が自然石で柱は円柱(床下は八角)になります。相輪の上部にある水煙が長方形です。塔の様式は和風を主にしているが、垂木は和様と禅宗様が混在しています。頭貫木鼻が各層ごとに違っていることになります。

 

もう1つの国指定重要文化財の東本社は、木鼻が母屋のものより向拝の部分が複雑で、やや象鼻化しています。母屋の木鼻は上に笹葉を陽刻し、若葉文様に進む一段前の段階を示していると云われています。海老虹梁もあり禅宗様が入っていますが、実肘木は桁と一木で桁隠まで通っています。棟札が残っていないので正確な建築年代が不明ですが、このような海老虹梁や蓑束などから見て室町中期と想定されています。


○交 通

臼田駅から線路を越えて、県道下仁田臼田線を山の方へ1.8q程進むと左手斜面にあります。途中案内看板があるので、それに従って旧県道を行くと、再び看板があり、狭い山道を登ると到着します。

○料金、駐車場

入場無料。神社入口に砂利の大きな駐車場があり無料です。

 

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東本社
中本社側より撮影


東本社
南側より撮影