はじめに

この日記は、1864年幕末に水戸天狗党が信州の和田峠で戦闘を行い、下諏訪宿から伊那谷へ通過した際に、当時下諏訪宿に住んでいた増澤久熊という人物が書き記したものを現代語に訳して掲載したものです。記載上、若干省いた部分があり、分かり肉い箇所は少し意味を変更していますので注意して下さい。

この日記は、当時の庶民の心情や行動がとてもよく表わされており、非常におもしろいものです。ぜひご覧下さい。


「下訪宿と天狗党」

〜増澤久熊の懐留から〜

 

○11月20日

 天狗党のために、土蔵残らず打ち破り、家や土蔵ともに焼き崩し、浪士の足止めにならぬようにするという風聞があった。これにより午後2時頃より土蔵へ閉まった大事な物品を、土蔵より持ち出し、土中へ穴を掘って埋めた。また、一部は畑の中に持ち出して、それは大変な騒ぎだった。

 しばらくして和田峠に行っていた人足が戻ったので話しを聞くと、浪士がもはや石小屋(和田峠付近にあったが、現在はない)を下りたとのことであった。午後4時前の頃より、峠の方から大砲の音が聞こえ始めた。勝敗がどうなったか気にしていたところ、午後5時の頃、樋橋(下諏訪町、諏訪・松本藩の本陣があった場所)から火の手があがり、黒煙が見えた。樋橋の砦が破れたとみえ、女子供を西堀岡谷市へ避難させ、男は家財を急いで取り集めた。すると、日が暮れたころに松本勢が馬や徒歩で逃げてきたので仔細を尋ねると、諏訪松本勢は7分破られたとのことで、もはや力なく拙者は病気だと言って退いてきたとのこと、そして塩尻の方へ逃げていった。そのうちに、諏訪藩の方々も次第に落ち延び始められ、最早敗れたりと言う。午後8時から9時になると、諏訪藩と松本藩も追々引き上げ、いよいよこの辺りも焼亡と覚悟をした。

 間もなく浪士の先手50人程が下諏訪へ下りて来て、春宮諏訪大社の坂頭より鉄砲を撃ちかけ、太鼓を鳴らして下諏訪町へ入ってきた。人々は家毎に逃げ、おのれも家内の人々に指図して、家財を残らず片付けていたところ、観照寺春宮近接の寺、廃仏毀釈により廃寺の坊さんが走ってきて、浪士が来たので逃げるように言った。すぐにかねてから用意していた道下の畑の中に隠れた。空を見上げると月が昇っていた。午後10時頃に、立町たつまち、下諏訪宿いせや喜惣次らも来たので、一緒にこたつに入って静かにしていた。

○11月21日

 午前4時頃より、雲が出始めたので、畑に隠れたはよいが雨が降ったらと思い始めた。夜中火事も起こらなかったので些か安堵したが、今朝は寒くて霜まで降りた。

 午前4時過ぎ頃より、浪士の人々が出立し始め、先手100人程が東堀村(岡谷市)の方へ進んでいくのが分かったので、ようやく下諏訪から立ち退くように見えた。おのれ等は畑の中で行方を見守っていたが、町辺より矢木崎(下諏訪町)へ整列し、次第に歩行して柴宮(岡谷市)の方へ進んで行った。また、小井川(おいかわ、岡谷市)の方へ通行していく者も見え、先手が岡谷村へ入る頃には夜が明けてきた。

 息子を屋敷の方へ見回りに行かせたところ、諸々で乱暴狼藉盗人が多いが、我が家の土蔵は無事とのこと。誠にありがたきこと限りなしである。家内に人が入って片付けをしても失った品は一つもなかった。

 日が昇り、小召使を湯之町(下諏訪町)へ登らせ見るに、未だ松葉屋に浪士3人が残っていたが、出立の様子とのこと。おのれは仲間と共に、立町へ登って宿内を見るに、松葉屋へ大勢浪士が入って煮炊きした形跡があり、湊屋(現在も営業中)やその他の旅籠屋も散らかされていた。会所場に行くと、空いた俵16ばかりがあり、篝火の跡も多かった。

 来迎寺(下諏訪町)にお参りに行ったところ生首が1つあり、これは浪士討死の首を樋橋から箱に入れて持ってきて、湯田町(下諏訪宿)の人へ埋葬を頼み埋めたが、今朝掘り起こしたそうで、歳は23〜24に見えた。湯田の新町木戸外れに首の無い死骸があるとのことで、見物人多し。荒縄で後ろ手にくくられていた。これは御徒目付の林様の養子で、林久太兵衛様というらしい。土波止新田(下諏訪町)の土橋殿の実子である。浪士の手に捕まり、かかる死に逢ったのは何事やと思う。武居村(下諏訪町)の番屋前に1人の男の死骸があり、これは昨年の夏から本陣の召使として働き、夏から武居祝殿方で働いていた者である。午前2時の頃、浪士に出会い、雑言を述べて非業の死を遂げたらしい。

 午前8時頃、ようやく我が家に戻り、人々も家財を持って来た。昨夜は再びこの家に帰れる気がしなかった。昼間、さっそく松本藩中の者が、生死の程が分からない人が多いとのことで、樋橋まで頻繁に往来していた。さらに松本藩の石川殿が指に浅手を負ったので、両角方宅で治療をした。

○11月23日

 今日は浪士の討手として、江戸より命じられた通行の方々、陸軍奉行御勘定大井様の歩兵496人が宿営した。和田峠にて諏訪松本藩と挟み撃ちの手はずが、大いに手違いがあり、今日諏訪藩千野様らが掛け合い(抗議)との風聞あり。

○11月24日

歩兵方未明に出立。代わって御目付の大久保様が御本陣(下諏訪宿岩波家、公開中)に止宿、さらに越後新発田藩の溝口様の手勢1400〜1500人が止宿した。

 

    下諏訪宿本陣のご紹介

  4月〜 9月は、9:00〜18:00開館

  11月〜3月は、9:00〜17:00開館

    料金  大人\400 子供\200

        0266-28-7055

 

 諏訪大社秋宮の北隣にあり、京風の数奇屋造りの屋敷で、中山道の中でも最も洗練された庭を持つ本陣だといわれる。明治天皇の御座所や和宮の宿泊した部屋などが残っている。

○11月25日

溝口藩中、今日も滞留。

○11月26日

溝口藩中、会所場にて太鼓を打ち鳴らして出立。みごとな軍装なり。

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※付録

 この和田峠の戦闘にの後において、下原村(下諏訪)で戦場の片付けをした際に発見されたり届けられた物品等を下記に示します。

 

 薪、絹ふとん、塗編笠、古陣笠、弁当長持、わらじ、まぐさ、菅笠蓑、死体、首、大砲、白箱、鉄砲、鉄具、米、松明、床几、黒小袖、槍の鞘

『浪人討取之節戦場諸事跡調帳』