今でも戦国大名として根強い人気を博している福島正則(ふくしままさのり)という武将がいます。慶長5年(1600)、関ヶ原の合戦において東軍(徳川方)の主力として大活躍し、戦功によって備後国と安芸国49万8千石の大
々名となりました。しかし正則の晩年は信濃国高井野村において配所生活を送る不遇なものとなりました。その5年間という短い信濃国での人生について、あまり知られていないので本特集号で紹介します。
栄華を誇った豊臣家が滅んでから4年後の元和5年(1619)6月9日、幕府老中から牧野駿河守忠成と花房志摩守正成に下記の奉書が渡されました。内容は
、福島左衛門大夫正則の領地を没収するにあたって@広島に派遣される人選について、A正則の妻の扱いについて、B正則の財産の扱いについて指示したものでした。この様な嫌な役目の使者として牧野忠成(越後国長岡藩主)が選ばれ
ました。もしも広島召し上げを聞いた福島正則が逆上した場合、その使者は殺されるかもしれません。そういったリスクを少なくするために、
福島正則の側室の兄である牧野忠成が選ばれました。もう1人の花房正成は旧宇喜多家の家臣で、既に64歳を越えていました。宇喜多秀家が八丈島へ流されるとそこへ米を送り続けた情に厚い人物で、幕府にとっては殺されても影響の無い人物だったから選ばれたと思われます。
その後の7月2日、酒井宮内大輔忠勝と牧野駿河守忠成が、老中奉書をもって「津軽は遠路たるにより、領地の辺りに移さるべき旨」として、津軽行きの取り止めが福島正則に伝えられました。最初の改易通告からこの1ヶ月間に何があったのでしょう?
それは津軽家の大反対があったからと云われています。津軽氏は豊臣秀吉の時代に、南部氏から宿願の独立を果たして津軽郡4万5千石を手に入れました。そして慶長16年(1611)に
、数年かけて高岡城(後の弘前城)を建設し、青森の開港や新田開発などの大事業を成し遂げていました。それらの努力が福島正則との入れ替えによって水の泡と消えてしまいます。当時の領主であった津軽信枚(のぶひら)は、陸奥国大沼郡出身の天海を介して幕府に反対を申し入れました。何故津軽氏がこのような問題に巻き込まれたのでしょうか?一説には関が原の戦いにおいて、家中を二分するお家騒動を起こしたためだと
云われています。さらに津軽と福島の接点と言えば、津軽信枚の正室満天姫になります。満天姫は元々福島正則の養嗣子(別所重宗の子)であった福島伯耆守正之の正室でした。徳川家康の養女として嫁いだのですが、夫の正之は慶長12年(1607)正則に狂気した者として幽閉され、殺されてしまいました。その後、彼女は正之の子を身籠り(後の大道寺直秀)ながら津軽氏へ再婚していきました。
こういった腐れ縁も理由になっていたかもしれません。何れにしても、表向きはこれまでの功労によるものとされ、津軽信牧には加増の越後国村上10万石(一説に川中島ともある)が言い渡されました。信牧は家臣を江戸へ派遣して「ありがたい話しですが、津軽は先祖代々の土地で相伝の地でもある。先祖の墓もあり苗字と同じ地なので辞退したい。」と申し入れました。さらに「4万5千石のままにて10万石格の勤めを果たすので、移封を取り消してもらいたい」と言上しました。老中側も「尤もである」として、取り消しとなったと記録にあります。
7月22日、福島正則には津軽郡に代わって、越後国魚沼郡の内2万5千石と信濃国高井郡の内2万石の合わせて4万5千石が与えられました。
9月になっても正則が配所へ移らないので、幕府は催促しました。そして10月上旬に、高井郡高井野村の堀之内(高山村)という場所にあった、それまで幕府代官所(井上新左衛門)として使用していた屋敷に入って蟄居生活を送りました
(高井野へ移る前に須坂に2年間居住したとの説もありますが、場所や理由が不明です)。
この屋敷は現在、長野県指定史跡「福島正則屋敷跡」として一部が保存されています。当時の屋敷の大きさは、東西54間、南北50間、幅3間の土塁を巡らし、さらにその外側に3間の空堀がありました。この高井野村は正則領として最大の石高の村でした。
正則が与えられた領地は下記になります。(参考)

○高山村
高井野村、中山田村、駒場村、奥山田村、黒部村
○須坂市
村山村、中島村
○小布施町
小布施村、羽場村、矢島村、松村神田村、雁田村、清水村、六川村、山王島村、北岡村、中小塚村
○中野市
間山村、更級村、新野村、篠井村、新保村、東江部村、西江部村、草間村、立ケ花村、牛出村、安源寺村、安源寺新田村、栗林村、片塩村、吉田村、岩舟村、西條村、一本木村、竹原村、若宮村、七瀬村、大俣村、厚貝村、間長瀬村、金井村、上笠原村、下笠原村、壁田村、越村、赤岩村、柳沢村、田上村、松川村、北大熊村、荒井村、田麦村、小田中村、高遠村、灰塚村
○山ノ内町
戸狩村、夜間瀬村、上条村、寒沢村
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上記村々の名は、現在の字名となって生き続けているものもありますが、明治時代の合併によって消滅した村名もあります。参考として掲載した地図を見ても分かるとおり、福島正則領は中野市(旧豊田村除く)と高山村のほぼ全域と、山之内町と小布施町の半域を占めていました。福島正則領以外の村々は、中野市では中野村が旗本河野氏、大熊村が松代藩、小沼村と桜沢村が幕府、岩井村が飯山藩の領地
。小布施町では、押切村が飯山藩、飯田村・中条村・大島村が旗本小笠原氏の領地。山ノ内町では、佐野村・湯田中村・沓野村が幕府領。高山村では牧村だけが旗本小笠原氏領でした。
よくこの時の記述に「福島正則は川中島2万石を」と書かれたものを見掛けますが、実際には旗本の近藤重直と井上庸名が伊那郡へ移封されるのと引き換えに、川中島ではなくもっと北側を与えられました。当時の呼称で川中島に該当する松代は、広島城受け取りにも出向いた酒井忠勝の領地でした。正則がここを与えられたのは、酒井忠勝がその監視役に選ばれ、
移封し易い旗本領がちょうどその北側にあったためであるとも云われます。先に述べた7月2日酒井忠勝が使者となった書状に「領地の辺りに移さるべき」とあり、自領の川中島の付近の事を差しているともとれます。
福島正則は、家老の津田三郎兵衛、星野甚左衛門、津田四郎兵衛、大岡猪右衛門など30人ばかりだけを引き連れて、信濃国へ移封しました。そして出家して「高斎」と名乗りました。その他判明している家臣としては、中村忠左衛門、大西孫左衛門、松浦庄左衛門、滝惣左衛門、林九郎左衛門、水谷又左衛門、牧村喜兵衛、小泉九郎右衛門などで、多くに正則と同じ「左衛門」と付いているのが興味深いです。それから1年も経たない元和6年
(1620)、ともに関ヶ原などで戦ってきた嗣子の福島忠勝が病死しました。忠勝は高井郡小河原村(須坂市)の大乗寺に葬られました。大乗寺には大きな石塔が残っていますが、「正勝」と刻まれています。元々正勝という名で、将軍秀忠より「忠」の字を賜って忠勝と名乗っていたので、このような不遇な扱いを受けた恨みも重なって「忠」の字を外して墓石としたのかもしれません。これによって正則は、理由は明かではないのですが越後国魚沼郡2万5千石を幕府へ返上しました。
元和7年(1621)3月、江戸にあった屋敷を幕府に没収され、姫路藩主の池田忠雄に与えられました。
この頃から福島正則は領内の検地や新田開発をしきりに行いました。この時に築いた「大夫千両堤」という長さ80m余の堤防が高山村を千曲川に向かって流れる松川沿いに残されています。
寛永元年(1624)7月13日福島正則は死亡しました。享年64歳。幕府は堀田勘左衛門正利を検使として配所へ派遣しますが、家臣の津田三郎兵衛が事前に雁田村岩松院(小布施町)において火葬してしまい、それにより領地2万石は没収となりました。京都の妙心寺に墓所を設け、高井郡雁田村の岩松院には霊廟を造りました。
これにて福島家は無禄となるかと思われましたが、福島正則の息子である正利は、徳川秀忠(正宗の刀、青木國次の脇差、きのめの肩衝)、徳川家光(大光忠の刀、大森義光の脇差、あふらの茶入)、徳川忠長(切刃貞宗の刀、義光の脇差、修理肩衝)へ宝物を献上しました。この甲斐もあってか寛永5年
(1625)2月、正利に大熊村、高井野村、雁田村、駒場村、山王島村、中島村
の3千石が与えられ旗本となりました。旗本なので、正利自身は江戸で過ごし、高井野村へ来ることは無かったと思われます。そして正利は12年後の寛永14年(1637)に死亡し、子が無かったために再び福島家は領地没収となりました。それから45年後の天和2年(1682)、京都に居住していた福島忠勝妾腹の福島正長の子正勝、いわゆる福島正則のひ孫が、旗本として2千石を与えられ御家の存続が叶いました。
現在、福島正則死後の旧領民が書いた文書が残っています。そこには「高斎」と呼び捨てにされています。通常は○○殿や○○様と敬称を付けたり、名の前を一行空けたりしますが、正則はされていません。当時の村々の者達にとっては単に流罪人に過ぎなかったのかもしれません。
福島政則年表
| 1561年 |
尾張国美和にて生誕。
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| 1583年 |
賤ヶ岳の戦いで戦功をたてる。
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| 1595年 |
清洲城主となる。
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| 1600年 |
会津征伐・小山会議・岐阜城攻撃・関ヶ原の戦い
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| 1615年 |
豊臣家滅亡の際には、江戸城にて留守部隊を命じられる。
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| 1619年 |
減封、蟄居。
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| 1620年 |
正則嫡子、正勝死去。越後の所領を返上する。
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| 1621年 |
領内の総検地を行う。
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| 1624年 |
死去する。享年64歳。
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●岩松院(信州小布施町)について
正則は仏教を深く信仰し、岩松院を菩提寺と定め海福寺の寺号をつけました。墓は高さ2.5mの五輪塔、台石に「海福寺殿前三品相公月翁正印大居士」と刻まれています。岩松院は、葛飾北斎の鳳凰天井画でも有名です。