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四方赤良の余談集
平成13年9月から余談を残すことにしました。このページを見ることによって、より広い長野県の歴史を知ってもらえるように願うものです。 |
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この歌をご存じの方は、かなりの長野郷土史愛好家なのでしょう。知らない人もぜひ意味を考えてみてください。有名な歌です。 ・・・四方赤良 |
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北南 それとは知らす 紫の ゆかりはかりは 末の藤原・・脇坂安元 |
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『其之 38』H15.12.4〜H15.12.31
2003年の締め括りにして。 今年も1年間ご愛好いただきまして誠にありがとうございました。 来年の2004年(平成16年)は、十干十二支で『甲申』(読み方:きのえさる 又は こうしん)にあたります。甲申は、十干と十二支の組み合わせの結果、60年に1度訪れる暦で、前回は1944年(昭和19年)でした。1944年は太平洋戦争の真っ最中で、アメリカの反撃が著しく、サイパン島が玉砕し、東条英機総理大臣が辞任した年になります。あれから60年が経ち日本も色々と変わりました。 今年も様々な新しい歴史の解明や発見があった一方で、放火や盗難事件などの悲しい出来事もありました。来年はよりよい文化財保護が実ることを期待したいと思います。 今年の反省点を漢詩で選んでみました。幕末の頼三樹三郎の心詩になります。 -春簾雨窓- (頼鴨崖) 春自往来人送迎 愛憎何事別陰晴 落花雨是催花雨 一様檐声前後情
来年もまたよろしくお願い致します。良いお年となりますように。 ......四方赤良” 『其之 37』H15.11.9〜H15.12.4
江戸時代の信濃国は、大名が領有する土地と幕府(徳川家)が領有する天領に分かれていました。慶長5年(1600 )徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した時点では、信濃国内に徳川家の領地は全くありませんでした。しかし、その後の大坂夏の陣や大名の配置転換、更には取り潰しによって 信濃国内の徳川家の領地は増え続け、江戸中期には20万石(信濃国全体の3割)にまで達っするようになりました。 天領は1箇所にまとまっておらず、広大な信濃国の至る場所に点在していました。そのため幕府は、各々の領地を支配する 方法を常に変更しながら領地を治めていきました。天領支配における最も重要な仕事は年貢の取り立になります。幕府からは勘定奉行配下の旗本が派遣され、 代官として「陣屋」と呼ばれる屋敷に赴任して政務を行っていました。虫食いのような信濃国内に点在する領地を支配するために、時代によって変遷はありますが、南 信濃に飯島陣屋(いいじまじんや、上伊那郡飯島町)、東信濃に御影陣屋(みかげじんや、小諸市)、北信濃南部に中之条陣屋(なかのじょうじんや、小県郡坂城町)、北 信濃北部に中野陣屋(なかのじんや、中野市)が設置されました。 しかし、数カ所陣屋があっても広範な領地は変わらず、陣屋から遠い村々は用事がある度に数日かけて陣屋へ行かなければならなかったので、何とかして村の近くに陣屋を設置してもらおうと誘致合戦を繰り返しました。最終的におおよそこれら4箇所 に落ち着き、明治維新まで続きました。幕府が倒れた後は、飯島陣屋が伊那県庁、中野陣屋が中野県庁となって引き続き、旧幕府領の統治に利用されました。
天領は幕府の直轄の領地であることから、生類憐れみの令や改革の直接的な影響を受ける地域でもありました。松平定信の寛政の改革では、代官の入れ替えが積極的に行われ、鈴木新吉、佐藤友五郎、野村八蔵、風祭求馬などの優秀な代官を輩出しました。天明の大飢饉 の反省を踏まえて各村に貯穀、郷蔵建設が行われ、風俗の取り締まりと道徳の引き締めが実施されました。現在の長野市の殆どは松代藩の領地でしたが、善光寺の門前である権堂周辺は中野陣屋が統治する領地でした。 終りに、江戸幕府最後の代官となった人物を紹介します。
『其之 36』H15.10.5〜H15.11.9
信濃国の藩校(「長野県教育史」より)。 戦国時代から江戸の太平な時代へと変わり、これまで武をもって進めてきた職能教育から文治政策への移行が図られ、幕府を中心に儒学が重用されるようになりました。徳川綱吉は湯島昌平坂上に林家の学舎と孔子廟を置き、徳川吉宗は庶民にも昌平坂の林家塾で学ぶことを許し、松平定信による寛政の改革では朱子学以外の儒学を禁ずる寛政異学の禁が実施されました。そして、孔子廟である聖堂再造営の際に幕府直轄学校として昌平坂学問所が創設され、幕府直轄の学問所として確立しました。こうした幕府の教育方針に連動して全国各藩に藩校が設置されます。 信濃国の藩校は、時代により藩校名が変わりますが概ね、松代藩文武学校、松本藩崇教館、上田藩明倫堂、高遠藩進徳館、高島藩長善館、飯山藩長道館、飯田藩読書場、小諸藩明倫堂、岩村田藩達道館、須坂藩立成館、龍岡藩尚友館などがありました。ここでは学校の設立に関わる歴史を述べるよりは、中身がどのようなものであったのか、1つの藩校を例に挙げて述べたいと思います。
幕末から明治維新における上田藩の明倫堂は、上田城の南で現在の上田高校の付近にあり、東寮、西寮、南寮、中寮、数学寮、洋学寮、撃剣捕亡術教場、医学寮、病院が設けられていた総合学校でした。東寮は8歳で入学して1等(ひらがな、かたかた、数字、干支、孝経、三字経)・2等(論語、孟子、洋書通用文字、加減、乗除、分数)を学びます。西寮は2等修了者を教育し、3等(論語集註、正比例、開平法、乗法、剣術、輿地図概覧)・4等(弘道館記、皇漢洋史略、作詩文楷梯、算盤用法、対数表用法、開立方、級数、剣術)の学習を教授します。中寮は寄宿舎で、南寮は通学生の年齢の高い者を教授する場、数学寮や洋学寮、医学寮は専門コースとなっていました。医学寮では、毎月5日と10日に解剖書の会読、治療書の会読、巳と亥の日に種痘の授業が行われていました。 江戸時代では留学制度もあり、江戸の昌平坂学問所で学んだ者が帰藩して藩校の教授になったりしていました。明治時代になると上田からは沼津、熊本、神戸、東京などへ遊学し、学費も補助されたりしましたが、次第に海外留学も増加していきます。明治5年上田藩士であった山口慎は、神戸で洋学を学んだ後に、アメリカのニューヨークへ5年間化学を学ぶために留学しました。
下に明治4年頃に当時明倫堂が所有していた教科書を列挙しました。冊数の多いものや、洋書で有名なものを載せましたが、更に多種の書物を保有していました。現在の歴史の教科書だけを勉強していると解体新書ぐらいしか、医洋学の世界を学んでいなかったと錯覚をし、江戸や長崎へ行かないと学べないように思えてなりませんが、江戸時代から明治にかけて、これだけ外国の書物を上田の人々が学んでいたことを知ってもらいたいと思います。差はありますが他の藩校でも同様の傾向です。
『其之 35』H15.9.22〜H15.10.5
信濃国にも焼物の歴史があります。 信濃各藩では、江戸時代中期以降になると藩の財政を立直すために、商工業を奨励する政策を積極的に行いました。そしてこうして作られたのが、松代藩の松代焼、須坂藩の吉向焼、高遠藩の高遠焼、松本藩の浅間焼、飯田藩の尾林焼(おはやし焼は慶長年間創始と云われる)になります。今回紹介するは、その中でも現在続いている焼物の1つである高遠焼になります。 高遠焼は鉄分の多い土に、薄い微青がかかったような白釉や、緑釉、灰釉を用い、松薪で焼いた器で、美濃焼が起源になります。文化11年美濃の焼物師である加藤治兵衛がこの地に住み、高遠の赤土が陶器製作に適することが分かり、導水土管を必要としていた高遠藩では、さっそく加藤治兵衛の協力を得て土管の製造に取り掛かりました。この土管は、東高遠の月蔵山の灌漑用水に用いられ、現在もこの長2尺6寸、径5寸の土管が資料館に残っています。この土管が縁となって加藤治兵衛は、三峰川の岸辺に花畑窯を置き、美濃風の焼物を作るようになりました。 (花畑窯は、現在高遠ダムの湖底にあります。) 初期の高遠焼は御愛想焼と言って、殿様にお見せするために焼いた献上品で、用土も釉薬も美濃から取り寄せたものでした。しかし次第に土地の土を用いるようになり、藩主間の贈答品として用いられ、返答として貰い受けた九州などの陶磁器が残っています。高遠藩に保護されていた高遠窯は天保12年頃から民営化され、花畑窯の他に、東高遠塩ノ山の窯、多町の窯が出来ました。そして、民営化されるのと同時に、小野村(辰野町)、赤羽村(辰野町)、北小河内村(箕輪町)などにもあった窯(高遠焼とは違う)にも冥加金を課すようになりました。この頃の製品は、徳利、茶器、花器、植木鉢、皿、擂鉢などの家庭用雑器が一般的でした。 明治時代以降になると、高遠焼は相生町の安田窯、蓮華寺の柴田窯、片山の焼進窯などに10年周期ぐらいで伝承されつづけ、明治19年から昭和30年代までは丸千組製陶所に引き継がれていきました。丸千組製陶所では、家庭用雑器の他に外壁タイルの製作も行うようになり、諏訪の片倉館の玄関にタイルが現存しています。丸千組製陶所以後途絶えていた高遠焼でしたが、昭和50年高遠町によって復興された桜窯に至っています。時間があればぜひ伊那谷見物を兼ねて高遠焼を御覧ください。 『其之 34』H15.9.6〜H15.9.22
寒天にも歴史があります。 和菓子の原料になる寒天ですが、全国で最大の規模を誇る諏訪地方の寒天の歴史はあまり知られていません。諏訪の寒天の創始としては、天保末年頃(1840年頃)から諏訪郡玉川村穴山の小林嘉助が始めたと云われています。そして、寒天の歴史を述べる中で、最も引用される古文書が「中河原村留蔵口演書」になります。
これは小林嘉助が創業した数年後にあたる嘉永6年(1853)2月、ちょうどペリーが日本に来航する数カ月前に、諏訪高島藩(奉行所)に提出した口上書になります。
この古文書からは、当時は寒天(かんてん)を寒心太(かんてん)と書いていたこと、11人で寒心太の株仲間を組んでいたこと、出来上がりの悪い寒心太は捨てていたこと(品質管理)、販売先は甲斐国・上野国・善光寺であったこと、羊羹屋・菓子屋の他、料理茶屋にも一部を卸していたことなどが分かります。また、この古文書の最大の目的としては、生産の過剰を避けるために「11人が運上金として5貫500文を諏訪高島藩に上納するので、新しく製造する人を認めないでほしい」と願いを出している点になります。この他に江戸時代の諏訪地方の寒心太業の状況として、原料となる天草(海藻)の仕入先は、
〈江 戸〉 江戸〜清水(静岡)〜由井〜鰍沢(山梨)〜諏訪 〈下 田〉 下田(伊豆)〜小須〜鰍沢(山梨)〜諏訪 〈直江津〉 直江津(新潟)〜高田〜関川〜牟礼〜和田峠〜諏訪
であったようで、株仲間で共同購入して使用していたようです。
江戸の天草は房総半島産(11貫500匁)で、伊豆下田産(7貫300匁)より若干高めでした。また、製造した寒心太の種類は、細寒天と角寒天があり、細寒天は重量、角寒天は本数で販売していたようです。この様に寒心太の製造には、天草の仕入れ、煮る時に使用する薪や酢、釜、方盆、製造における手間、出荷する時の駄賃などが必要でした。時代と共に寒心太の製造業者も増え、明治時代の中央線の開通により運搬費が比較的安く抑えられ、寒心太の流通も拡大していったようです。
今年もまた諏訪地方の風物詩として、寒風吹きっすさぶ雪原の中に、多くの寒天の天日干しが見られる季節がやってきます。(日本一) 『其之 33』H15.8.23〜H15.9.6
8月12日に掲載された信濃毎日新聞の記事は衝撃的でした。 長野駅からの黒煙の写真。これまで長野空襲の体験談を文章などでしか見たことがなかったため、それほど実感がありませんでした。しかし、このリアルな写真を見てその壮絶さがまじまじと伝わってきました。今回、アメリカで保管されていた資料を公表したもので、終戦間近の長野県への攻撃状況を知る1級の資料だと言えます。 終戦2日前の昭和45年(1945)8月13日午前4時15分茨城県鹿島沖に着いたアメリカ空母「ハンコック」から艦載機12機が飛び立ち、午前6時30分から長野飛行場を攻撃しました。途中で空母「ベニントン」からの艦載機も加えて攻撃を強め、9時10分から10機、12時から11機、13時30分から4機、13時45分から11機、14時15分から4機、15時22分から10機の合計62機の艦載機で断続的に攻撃を加えました。この空襲では、長野飛行場の他に、傷痍軍人長野療養所、上田飛行場、長野機関区が攻撃を受け、現在死者47人と言われています。
「ハンコックHancock」
「ベニントンBennington」
『其之 32』H15.8.6〜H15.8.23
8月6日は広島に原爆が投下された日です。今日であれから58年が経つことになり、大勢の方が亡くなったのは周知のことですが、今回はその時に同時に失われた文化財のお話をします。 明治維新を迎え廃藩置県の後も健在だった広島城天守閣は昭和6年(1931)国宝に指定されます。その他に表御門・中御門・日清戦争時に明治天皇が在所していた大本営など幾つかの建物が現存していましたが、昭和45年8月6日の原爆投下により破壊されました。当時の広島城には中国軍管区司令部をはじめ、陸軍幼年学校、広島第1・2陸軍病院、歩兵第1補充隊、歩兵補充隊など9000人の兵員に囲まれ、まさに軍都と呼ばれるほど栄えていたそうです。 原爆はその南に落とされ、軍事施設は一瞬の内に破壊され、二の丸にあった御門橋・表御門・平櫓・多聞櫓・太鼓櫓・中御門・中国軍管区司令部は倒壊炎上しました。また二の丸に比べて爆心地から若干離れた本丸では、旧大本営の建物は倒壊し、天守閣は爆風のために空中に浮いた後、自重で落ちて潰れました。2ヶ月経った天守閣の潰れた写真を見ると、屋根瓦などは特に見えず、太い材木も曲がり折れたり引きちぎれ、細かい木材などは吹き飛んでいったように見えます。堀一面に広がっていた蓮もまったく無く、爆風のすさまじさが分かります。現在も広島城周辺を散歩していると、焦げた石垣や樹木が残っています。これ程巨大な城郭がこのような被害を受けると築城した毛利輝元や福島正則、浅野長晟らは考えもしなかったと思います。 この日亡くなった方達のご冥福をお祈りします。 『其之 31』H15.7.8〜H15.8.6
江戸時代の武家社会においては、子孫を永続させることよりも、御家の存続が優先されました。よって1つの藩においても決してその純血が引き継がれたわけではなく、御家の名だけが引き継がれた藩も決して多くありません。今回はその1例として松代藩真田家を挙げます。 松代藩真田家と言えば、真田昌幸の長男で真田幸村の兄である真田信之から始まる武勇を馳せた名家です。上田から松代に転封となり10万石の大名として明治時代まで続きました。真田家は、信之−信政−幸道−信弘−信安−幸弘と6代続きますが、この真田幸弘の時代で途絶えることになります。幸弘には男子が無かった為に、彦根藩井伊直幸の四男順介(真田幸専)を養子に迎え、幸弘の娘の千代を順介に嫁がせ、取り敢えず血統を保とうとします。 しかし、真田幸専の死にのぞんで、幸専に男子が無かった為に、今度は井上正甫の娘を養子に迎え、その相手として松平定信の次男である次郎(真田幸貫)を継養子として迎えました。これにより真田昌幸や信之の血統は完全に絶たれたと言っても過言はありません。 その後においても真田幸貫−幸教と続きますが、ここでまた血筋が途絶えます。第9代幸教に男子が無かった為に、その後継として伊予宇和島藩伊達宗城の次男であった保麿(真田幸民)が迎えられます。第10代真田幸民は、幕末動乱の中で早くも朝廷側につき、維新後は松代藩知事、子爵、後に伯爵となり松代藩の最後を向かえた人物でした。 この様に、「松代藩真田家」は確かに明治の世まで続いたのですが、真田昌幸の真田家では無い様にも見えます。最後の幸民に至っては、私は信州松代藩伊達家と以前から呼んでいます。この点について異論賛成はあるかと思いますが、笠谷和比古『武士道の思想』二〇〇二年を読むとより武士と御家は何なのか理解が深まると思います。 『其之 30』H15.6.17〜H15.7.8
60年前の出来事ですらよく分からない内に時間は次々と過ぎていきます。先日祖父の遺品を整理していた時に、子供の頃に話してもらった松本連隊の事を久しぶりに思い出しました。 戦時中の大本営の直下には軍管区というものが置かれ、長野県は東部軍管区(第12方面軍司令部)に所属し、その中では昭和15年(1940)は宇都宮師管、昭和16年(1941太平洋戦争開始)では金沢師管、昭和20年(1945終戦年)1月は長野師管の松本連隊(第50歩兵連隊・第150歩兵連隊)として組織されていました。両連隊の中には本部・中隊・小隊などがあります。長野師管時代では既に空襲も激しくなり、作戦区域が本土決戦を想定した「関東」とされ、東京を後方支援する任務を担っていました。また県内各所における土木工事等に充てられ、その遺構は現在でも語り継がれ保存されているものもあります。 昭和20年8月終戦後に出された第12方面軍司令部中止命令を見ると、『軽井沢御用横穴式地下壕工事』『松代倉庫工事』『松代「チ」号倉庫工事・附帯施設工事』『中央特殊情報部受信及情報予備施設工事』『上田付近三菱重工業株式会社第五製作所分散防護工事』などの中止命令が出されています。 松代の倉庫工事とはイ、ロ、ハ号などもあり、いわゆる松代大本営の工事にあたります。また上田の三菱の工事とは、地下工場・半地下工場・倉庫・事務所などを建設する5万uを超える大規模な工事でした。 この他に須坂においても大規模な工事が行われいます。その目的は重要軍需品の分散で、昭和20年2月から本格的に作業が始まり、材料は塩尻集積所から運ばれ、臥竜山・鎌田山・十三崖に44抗が3月までに掘られました。 まだ様々な物がありますが、このように県内各所でこの時代の歴史を語る重要な出来事がありました。正しい歴史認識をする上でこういった事を知ることも大切ですが、ほとんど知られていないことが残念です。 松本連隊は、通称「健脚部隊」と言われたように行軍の練習を頻繁に行っていました。本部は現在の信州大学医学部(現松本市)にありましたが、演習などは有明(現穂高町)で行い、北アルプスの行軍や、冬には杖突峠越え演習をするなど、ハードな訓練を行っていました。両松本連隊は、昭和14年(1939)中国より帰還しましたが、昭和18年(1943)第150歩兵連隊はトラック諸島に移動となり、激しい戦闘の中で終戦を向かえます。しかし、第50歩兵連隊は昭和16年(1941)南満州の遼陽に配置された後、昭和19年(1944)サイパンとテニアン島に配備され、6ヶ月後の8月2日にアメリカ軍の攻撃で全滅しました。この第50歩兵連隊が守ろうとしたテニアンの飛行場は、アメリカ軍の最大のB29基地となり、全滅の1年後に原爆を投下するB29がここから広島と長崎に飛び立つことになります。 『其之 29』H15.5.16〜H15.6.17
諏訪湖の北側にある下諏訪町に、諏訪大社の下社(秋宮・春宮)という大きな神社が2つあります。社殿等は重要文化財に指定され、来年は7年に1度の御柱祭が予定されています。現在は、神社としての諏訪大社しかここでは垣間見ることができませんが、その昔、推定900年〜1000年間、この諏訪大社の横に広大な寺院が建ち並んでいました。 それは本地垂迹説に基づき、全国の大きな神社には必ずと言っていいほど設置された神宮寺というお寺です。 下社の秋宮には神宮寺(海岸孤絶山)、三精寺(松林山)。 春宮には観照寺(和光山)が置かれました。 江戸時代初期の寛保2年(1742)の記録によると神宮寺は、境内門末6院20坊・門末寺院21ケ寺を有し、観照寺は単独、三精寺は9坊を有していた事が判っています。特に広大な敷地を持つ神宮寺は、現在の秋宮の南付近一帯を占め、大坊・仁王門・三重塔・千手堂・鐘楼などから成り、その周りを白壁の塀が囲んでいたそうです。地形的に微高地にあることから、諏訪湖の対岸からこの白壁が美しく見えたそうです。神宮寺の本尊は千手千眼観音菩薩で、観照寺は薬師如来になります。神宮寺の記録による初見は鎌倉時代ですが、既に平安時代の頃から存在していたと云われています。 これら3寺は、時代により盛者必衰を辿り、幕末期における神宮寺は、大坊と本覚坊だけになっていました。そして、明治の廃仏毀釈により、神宮寺・三精寺・観照寺ともに完全に破却され、その歴史に幕を閉じました。その時、神宮寺の住職は神山斎宮と名を改め、諏訪大社の神官に加わりました。 今、地元の人達でさえ神宮寺のことを知る人はほとんどいません。明治から戦前までの政策などにより神宮寺の事はいつしか人々に忘れ去られていきました。 『其之 28』H15.4.14〜H15.5.16
汚れてしまった諏訪湖も徐々にきれいになってきています。そんな諏訪湖で昔行われていた漁法の1つを紹介したいと思います。 屋塚、石塚とも書く「ヤツカ」という漁法があります。沿岸の深さ2mくらいの湖中に、15p〜20pの角張った石300〜400個ほどを隙間ができるように入れます。ここに冬ごもりのコイ・フナ・エビ・ウナギ・ナマズなどが住処として集まってきます。湖が結氷したら、氷の上を歩いて行き、入れておいた石の上の氷を割って、竹のすだれのようなもので周りを囲みます。そして、熊手のような長い鍬で石を取り除き、石に隠れていた魚を一網打尽に捕まえます。 今はこの漁法は行われていません。昔は湖岸にヤツカ用の石がゴロゴロしていたそうですが、諏訪湖岸の改修によりヤツカの石は買収され、無くなっていきました。現在この漁法を知るには諏訪湖博物館に模型があるので、行くと良いでしょう。 『其之 27』H15.4.1〜H15.4.14
今回は、少し信州から離れた話題にふれたいと思います。 大坂城と言えば剰りにも有名過ぎる城ではないでしょうか。真田幸村に関係する場所を見てみようと思い、先日久しぶりに大坂城に行ってみました。 修復が完了した天守閣の上から南の難波京大極殿跡の方向を眺めていたら、本丸の中に古びたスクラッチタイルの建物が目に止まりました。スクラッチタイルは、関東大震災後〜昭和初期にかけて利用された工法なので、何の建物だろうと近づいて見ると、旧陸軍の第4師団舎だったものを最近まで大阪府立博物館として使用していたものでした。 大坂城の天守閣は、1868年1月鳥羽伏見の戦いに端を発した混乱の中で、徳川慶喜が城を脱出した後に出火し、焼失しました。敗退する幕府軍を追うように入城した官軍は城を占領し、以後大坂城は日本陸軍の中枢として位置付けられていきます。そして、大坂陸軍所が設置され、城内には兵部省役庁・兵学寮・兵隊屯所・軍事病院・造兵司などが建設されました。こうして過去の城郭としての機能から軍隊の基地として大坂城は生まれ変わりました。1871年大坂陸軍所は廃止され、大坂鎮台が置かれます。これにより軍の中心は東京に移され、さらに1888年には師団制の創設により、大坂城にも第4師団が設置されました。この建物はこうした経緯の中で建設されたようです。現在は、この建物も博物館としての役割を終え、南に立つNHK大阪放送局と合体した巨大なビルに博物館としての機能を譲っています。 お金を払って石段を登り、天守閣の入口に向かうと、長さ3mほどの薄緑色の大砲が右側に置いてあります。これは陸軍所が開設された当時、まだ焼け焦げた材木が転げ落ちていた天守台の横で、陸軍の時計として音を鳴らしていた大砲です。このように史跡などでは、気にもしない場所や物にも大切な歴史が詰まっています。どこかに訪れた時には小さな物でも気に止めてみると面白いと思います。 『其之 26』H15.3.6〜H15.4.1
赤松小三郎、この人の事をいつ載せようかと随分迷っていましたが、そろそろ話してみることにしました。おそらく殆どの人は聞いたこともない名だと思います。しかし幕末の信濃の歴史を語るには佐久間象山と同じぐらい重要な人物だと私はみています。 赤松小三郎(1831〜1867)は、上田藩士芦田勘兵衛の2男として生まれ、名を芦田清次郎友裕→芦田惟敬→赤松小三郎と変えていきます。幼少より算学を好み、江戸の内田弥太郎の瑪得瑪弟加塾や下曽根金三郎の稽古所に通って、数学・蘭学・砲術などを学びます。そして、安政2年からは長崎海軍伝習所に勝海舟の内侍として参加して測量や航海術を学び、大老井伊直弼により伝習所が廃止された後は上田藩の調練調方御用掛(軍事)となり、長州征伐の時には横浜での軍需品の購入や、品川から大坂への船による武器輸送の役目を果しました。 そして、この頃に金沢藩士とイギリスの書である『Feild exercise and evolution of infantry 』を共同で翻訳して出版した『英国歩兵練法』が世間に注目されることとなり、当時幕末動乱の中で英国式の兵制に目をつけていた薩摩藩が小三郎に接近していくことになります。薩摩藩は小三郎に『英国歩兵練法』の改定と練兵を依頼し、小三郎は京都で塾を開き、そこに多くの薩摩藩士が通い、英国兵制を学ぶことになりました。現在でも聞く「左ヘナラエ」「休メ」などの言葉は、この時に小三郎が日本語に訳して作った初めての言葉になります。しかし慶応3年9月3日京都市中において小三郎は斬られて死亡しました。 小三郎を斬ったのは、当時小三郎の塾に通っていた薩摩藩士桐野利秋(中村半次郎)等で、彼の日記には「赤松小三郎が、このたび上田藩の命令により帰国すると聞いたが、春には将軍にも拝謁したし、会津や壬生浪士の弟子もいるので、彼は幕府側の人間に違いない!無事に帰すわけにはいかない」として斬ったとされています。後年、山県有朋と桐野利秋が「あんなに簡単に幕府が倒れるなら、赤松を殺すのではなかった」と言ったそうです。 また、小三郎が殺された2ヶ月後の11月15日同じく京都で坂本竜馬が殺害されました。明治維新までもう1年程のことでした・・・(赤松小三郎のことは上田市立博物館に行けば良く分かります) 『其之 25』H15.2.19〜H15.3.6
長野県の東側に佐久町という所があります。その群馬県境に大日向という地区があるのですが、戦前は大日向村と言い、歴史の中ではある事について全国的に有名な場所です。 昭和10年(1935)頃の大日向村は、養蚕と炭焼きで生活を支えていましたが、不況により税金も納められない状況で、村役場職員の給料も支払うことさえできないありさまでした。その頃、満州国の開拓政策をことごとく失敗していた軍部は、村や県ごとにまとまった一団を送り込むことで、その挽回を図ろうと考えていました。そんな時に白羽の矢が立てられたのが、大日向村です。 大日向村は全国初の分村移民モデルとして、昭和13年(1937)満州へ村の半数にあたる約350戸600人程が渡海します。渡海した人達は、村にいても土地を与えられるあてのない次男・3男・炭焼業の若者がほとんどで、吉林省舒蘭県四家房に入植しました。新しい村は、「満州大日向村」と名付けられ、神社・小学校・役場なども建設されました。 この入植は軍の手でその成功が宣伝され、さらに多くの人を満州へと駆り立てる道具にされました。村人は、厳しい寒さと慣れない土地での生活に耐え、耕作を営んでいましたが、昭和20年(1945)ソ連軍の侵攻に遭い、開拓民はひたすら逃げ続けました。日本まで帰れたのは半数の300名ほどですが、日本の大日向村に帰っても、もはや帰る家のない人たちがほとんどで、付近での難民生活が続きました。 以上の歴史は、通常の日本側の史料に記載されている歴史の1幕ですが、この開拓の背景に潜んでいる日本人が満州で行った行為、現地の方々の土地や収穫物の強制収奪、差別的行為やその他が行われた事もしっかりと学んでおく必要があると思います。 歴史は偉大で、格好の良いものばかりではありません!生きていた人間の歴史です。 『其之 24』H15.2.3〜H15.2.19
近頃の話題と言えば市町村の合併問題があります。長野県でも更埴市を中心とした「千曲市」という名称が住民投票によって決まった事が報道されました。市町村合併とは、そもそも今この時に始まったものなのでしょうか?実は明治時代に『町村』という概念ができてから頻繁に行われてきたことなのです。 長野県の南部に上伊那という地方があります。現在、伊那市、駒ヶ根市、辰野町、箕輪町、高遠町、飯島町、南箕輪村、宮田村、長谷村、中川村の2市4町4村で構成されていますが、この状態が確立されたのは昭和39年頃、いわゆる戦後になります。江戸時代に上伊那地方は、徳川幕府天領4割、高遠藩6割に分割統治されており、さらに幕府天領は5種の知行地に分割されていたのでバラバラの状態でした。明治なって筑摩県に編入され、強制的に28町村に合併させられました。これに反発した地元は、明治17年に57町村に分裂し、その5年後には31町村に合併されました。 そして昭和20年、31町村のまま太平洋戦争の終結を向かえます。昭和29年伊那市と駒ヶ根市が合併により誕生します。そして、昭和30年箕輪町、辰野町。翌年高遠町、飯島町。昭和33年中川村。昭和34年長谷村が合併により誕生しました。 しかし、ここからが争いの始まりです。市となる条件に○万人という条件があったため、とりあえず合併に協力した宮田村が昭和31年駒ヶ根市から分裂します。また、小野村は、塩尻か辰野か岡谷に合併するか住民投票を行い、昭和36年辰野町に合併しました。さらに、合併に最後まで反対していた西春近村は、昭和39年伊那市へ。河南村も昭和40年に高遠町に合併され、今日に至ります。このような争いの中で、唯一独自の路線を進んできたのが、南箕輪村です。明治の町村制が誕生してより、その立場を今日まで変えてこなかった唯一の歴史ある村になります。 『其之 23』H15.1.17〜H15.2.3
関所と言えば、時代劇の影響などにより、厳しい取り締まりにより、通行人が緊張気味に通行するといったイメージがあるかと思います。江戸時代の人々は本当にその様な厳しい監視下の元で通行していたのでしょうか? 実際は、町人・百姓・職人など旅をしようとする男は、誰でも住んでいる庄屋や旦那寺が発行する「往来証文」か「往来一札」という身分証明書を所持していれば通行ができました。また、若者は度胸試しとして、証明書を持たずに夜の内に山を越えて、関所破りをするなどをしていたそうです。娯楽の無いこの時代では旅が人々の楽しみで、予想以上の人々が関所を往来しています。特に収穫の終えた冬などは、一生に一度の伊勢参りや善光寺詣・金比羅参りの人々で賑わっていました。 しかし、女性は違います。女性は「女手形」という物が必要で、これがまた入手し難い物になります。幕府は「女手形」を発行する権利を各国1〜2の大名に与え、信濃国では松本藩が与えられていました。よって、松代真田家中のある武士の娘が江戸に向かう場合、まず真田の殿様に願い出て、真田家はわざわざその願いを松本藩まで行って願い、そこで発行された「女手形」を松代まで持ち帰って、ようやく手に入れることができるといった具合でした。武士の女性でこのような大変な手続きをしていたので、町人はもっと大変でした。この「女手形」は3人で申請すれば3人で通行をしなければならず、途中で1人でも病気になったり、死んだりした場合は、手紙などで誰かに頼み、松本まで行ってもらい、2人分の「女手形」を再度手に入れるまで、通行ができませんでした。 信濃国には碓井関所と福島関所の2大関所がありました。関所博物館に展示されている鉄砲手形の内容を見ると、これまで「火縄銃5挺」などの記載から、幕末になると「ゲーヘル銃3挺」などと、開国の影響を感じさせるところが楽しく感じます。こうした関所も明治の世になり、その不便さから廃止されました。 『其之 22』H14.12.31〜H15.1.17
新年あけましておめでとうございます。 論文草稿のため、2ヶ月程ご無沙汰を致しました。右往左往している間に新年を迎えてしまい申し訳なく思います。本年もよろしくお願いします。 さっそくですが、長野県の南佐久郡に臼田町という町があります。その千曲川の東側一帯の田園地帯の中に☆型をした城跡があります。幕末に建設されたフランス式城郭で、函館の五稜郭と並ぶものですが、何故このような山奥に☆型の城があるのでしょうか? 幕末にこの地域を支配していたのは田野口藩という小藩で、その時の藩主は松平乗謨(まつだいらのりかた)と言います。彼は若年ながら幕府の陸軍改革(フランス兵制)に大いに貢献した1人で、自藩においても農民から兵士を募集し、洋式の服装と新鋭銃による歩兵部隊を編成しています。1863年に若年寄、1865年に陸軍奉行、さらには徳川幕府が終焉する前の1866年に陸軍総裁に任命され、京都において徳川慶喜のもとで働いています。いかに幕府の陸軍のトップとして期待されていたかが分かります。1868年幕府の終焉とともに、陸軍総裁を解任され、彼が築いた軍隊は朝廷軍の1部として活躍していくことになります(越後出兵)。 明治の世になり、大給恒(おぎゅうゆずる)と名を改め、西南戦争の頃に志ある人らと「博愛社」を創設し、日本赤十字の為に心血を注いでいきます。一方彼が築いた五稜郭は、田口小学校となり今に至っています。 『其之 21』H14.10.12〜H14.12.31
背景にある一見愛くるしい目をした竜は、長野県と新潟県境にある霊山戸隠連峰の麓にある戸隠神社中社(ちゅうしゃ)にあった天井絵である。これも現在は焼失のために失われた過去の遺産であるが、神社では寄付を募って復興を目指している。そもそも戸隠神社は奥社・中社・宝光社の3つから成り、とくに奥社は険しい崖山である戸隠連峰への入口として、その荘厳さに見とれてしまう。駐車場から続く2qほどの参道には樹齢数百年の杉が延々と続き、その奥裾にはミズナラ・ブナ・トチの森が鬱蒼としている。信州の自然と信仰をとてもよく実感させてくれる場所として最適ではないでしょうか。昨今、新ソバと紅葉の季節で大勢の観光客で賑わっているが、それはもうじき来る冬の知らせである。 『其之 21』H14.8.23〜H14.9.23
「菱田春草」、「西郷弧月」という人物をご存じでしょうか? 日本美術院の第1期と2期の生徒で、横山大観と共に日本美術院4天王と賞された人物です。春草は飯田市の出身(1874〜1911)で、西郷は松本市の出身(1873〜1912)です。日本画から線を無くしたり、西洋画の印象派の様な「空気」を取り入れた日本画を描き、伝統を重んずる向きから「朦朧体」(ぼんやりしていてはっきりとしない)と酷評されたりしました。戦後になると2人の画法は見直され、現在はその作品に多くの人が魅了されています。 今度、長野市にオープンした水野美術館には2人の画があります。空気を取り入れたその画は、静寂さや落ち着き、気持ちよさがしみじみと伝わって、非常に趣の良い画でした。 また、春草の生まれ故郷である飯田市美術博物館には、その作品として『蓬来山』『帰樵』『秋渓』『鳩』『菊』などが展示されています。さらに、現在個人所蔵の『菊慈童』『牧童』の作品を購入するために市議会への予算要求や市民の寄付活動をしているそうです。最近は熊本城再建や名古屋城本丸御殿の復元などで、市民に寄付を集っています。広く地元の文化財意識を芽生えさせる良いきっかけになるのではないかと期待しています。 『其之 20』H14.7.25〜H14.8.23
江戸時代の旅日記で有名な菅江真道という人物がいます。 彼が記した旅日記の中で一際有名なものが『委寧能中路』(いなのなかみち)になります。これは読みの如く、伊那谷を旅した記録 になります。菅江真道は三河国から出羽国秋田へ向かう途中、信濃国を通過しました。その時に書き記したもので、浪合−飯田−高森−飯島−駒ヶ根−宮田−伊那−箕輪−辰野−塩尻−松本 の事が書かれています。(記載地名は現在の市町村名) 信濃での菅江真道は、旧知の友人を訪ねたり、古来の伝承を思い浮かべたり、また気に入った場所や人に会うと和歌を詠んだりしていました。この日記を見ることによって当時の伊那谷の人々の生々しい生活の様子が分かり、読んでいる方も楽し く感じます。旅をした時期が1783年の天明の大飢饉(浅間山大噴火)の時期にあたるので、全国的な歴史を述べる際にも多く用いられています。『委寧能中路』塩尻における7月8日の記録に、浅間山の噴火の様子が描かれて います。「雲のいや高ふ涌出るがごとく」、「神のごとく」と、夜半に家から見た感想が書かれています。信濃国にはこの他多くの旅日記が残り、当時の人が書いた自分の住む地域の日記を読んでみるのも良い でしょう。 『其之 19』H14.7.2〜H14.7.25
韓国と共催したワールドカップもついに終わり、それ以前とは比較にならないくらい韓国を身近に感じた人も多いかと思います。このような韓国との 関係の高まりは、江戸時代の朝鮮通信使以来ではないでしょうか。 江戸時代を 通じて11回の通信使が日本にやって来ました。それは朝貢を目的としたものではなく、正式な外交使節団でした。使節団には当時の一流文化人が任命されたため、日本の学者はこぞって使節団との文化交流を望みました。 使節団の豪華で盛大な行列は、民衆に大きな印象を与え、絵画の対象となったり、お祭りの原型となるなど、現在でもその形跡を窺うことができます。
通信使の行程は、舟で瀬戸内海から大坂の淀川を遡り、京都〜彦根〜名古屋〜箱根〜江戸 と陸路で至りました。この道程からすると信濃国からは外れているので関係無いかと思われますが、実は朝鮮通信使の接待に一役買っていました。使節団は猪肉や鹿肉を好んで食べたので、幕府の直轄領で山奥である 信濃国で肉を確保しました。ある時は遠く近江国まで肉を運んでいました。こうした友好関係が200年ぶりに復活したわけで、今後も続くことを願います。 『其之 18』H14.6.11〜H14.7.2
江戸時代の信濃国には、飯山藩、長沼藩、須坂藩、松代藩、 川中島藩、上田藩、小諸藩、岩村田藩、田野口藩、松本藩、高島藩、高遠藩、飯田藩の大名が存在していました。これらの大名は1年毎に江戸へ参勤交代していましたが、 一体何処に住んでいたのでしょうか?
各大名は、江戸に上屋敷、中屋敷、下屋敷を持ち、さらに幕府より拝領した屋敷や借地も所有してい ました。上屋敷は基本的に江戸城近くに置かれていましたが、中と下屋敷は江戸の郊外に散在していました。 信濃 一の大藩である松本藩の上屋敷は、時代によって変化はありますが、現在の東京駅八重洲口にありました。八重洲口の前面にある道路は、当時江戸城の外堀で、上屋敷の道を挟んで隣が北町奉行所、その反対隣は上総国の鶴藩、裏隣が下総国の関宿藩で した。 松代藩 (真田氏)の上屋敷は、現在官公庁街になっている霞ヶ関の郵政省の位置にあり、中屋敷は現在のアメリカ大使館にありました。 こうした屋敷のほとんどが 千坪から5千坪の敷地でしたが、内藤新宿にあった貧乏大名の高遠藩の中屋敷は、江戸時代を通じて拡大し続け、最終的に9万坪を超える広大なものでした。現在の新宿御苑 になります。 『其之 17』H14.6.1〜H14.6.11
広島県には世界遺産に指定されている厳島神社があります。長野県内において も松本城や中山道の世界遺産指定を目指しての活動が始まっていたので、厳島神社とはどのような神社なのか、大変興味と期待を持って訪問しました。 宮島港からフェリー に乗り、近づく赤鳥居に視線が釘付けとなり、桟橋に着いた時にはワクワクしていました。しかし、タラップを下りて見た景色は想像していた場所と異な り、少し残念に思いました。「商い」と「神」の混在とでも言いましょうか、建築物としての厳島神社は確かにあるのですが、神を祀る場所に 見えず、霊験を感じることができませんでした。島として大切な海も汚れていました。島内のあちこちには、多くの鹿がいて人間に餌付けされ、参道の至る所に糞が 落ちていました。そして神社内は集団のツアー客が並び、拝見していると本殿での参拝も5秒で終わりといったところでした。神社の背面 は小高い山となっているのですが、ここも商業化され、神聖というものがまるで感じられませんでした。こういった雰囲気を感じているのは私だけでなく、大勢の観光客も同じように感じてい るのだと思います。しかし、江戸時代の厳島の様子を描いた絵を見た時に考えを改めさせられました。そこには参拝客を目当てにした商業 の島としての厳島が描かれていました。数百年間、商と神が連れ添ってきたのです。儀式的なものだけに傾倒するのではなく、 そこに住む人々にとっての厳島であるのだと感じました。
厳島の10%にも満たない範囲しか拝見していないので、全体を見させる工夫も必要なのかなと思いました。まだ厳島にも直すべき事柄も多くありますが、松本城の世界遺産指定も、住む人々の生活と一体に成る事こそが大切なのです。 『其之 16』H14.5.2〜H14.6.1
全国各地の神社を訪問した際、境内の中にはその神社の主神を祀る本殿の他に、小さな祠が隣や境内の端にいくつか整然と並んでいるのを 見掛けます。これらの神社は一体何なのでしょう? これは、時代における様々な理由がありますが、ほとんどは明治36年(1903)〜大正3年(1914)に行われた神社整理によります。明治政府の方針で、これまで全国各地に設置されていた村神様などを統合して、 1町村1社を目標にして強制的に合祀をさせました。各村の「一致協力」の気風を高めるといった精神的な狙いから行われたようで、全国の神社はこれによって42%減少し ました。 今度神社を訪問した際、少し離れた隅にある小祠 を見付けて下さい。中には10社以上小祠がある神社もあります。近郷の村々を長年守ってきた地神様もいますので、お参りをして下さい。 『其之 15』H14.4.20〜H14.5.2
世間で販売されている朝鮮史 の本を読むと、必ずといって「近くて遠い国」といった語句があります。それを象徴するかのように、世間では日本の教科書問題が取り沙汰されていますが、多くの日本人に とって何を怒っているのかサッパリ理解できないと思います。それは、現在の日本の歴史教科書の内容が、朝鮮と日本との関わりを殆ど載せていないからになります。図書館に行けば朝鮮史の本があるので、時間があれば朝鮮王朝から大韓帝国 の終焉まで学んで下さい。朝鮮史の至る所に日本を見ることができます。戦前に長野県からも満州開拓団として数万人の人々が、朝鮮半島を通って満州に向かいました。私達と全く関係のない歴史で はないのです。 話は少し外れますが、こういった世界史の本を読む時「上海=シャンハイ」と中国音表記で読みが記載され ているものもあれば「遼東=りょうとう」と日本音で表記されている場合もあります。これはいけないと思います。朝鮮史でも有名な「大院君=だいいんくん(日本語読み)=テオングン(ハングル読み)」 も、本によって読み方が違っています。他国の歴史を学ぶ場合、その国における読み方(呼ばれ方)で学ぶのが正当ではない でしょうか。場合によって、名詞だけは英語やギリシャ語や中国語でもよいくらいです。 『其之 14』H14.4.1〜H14.4.20
どこかで聞いたことがある神社。そんな神社が 「熊野神社」ではないでしょうか。長野県内には50社以上の熊野神社があり、お隣の新潟県ではさらに多い140社を超えます。熊野神社とは一体どの様な神社なので しょうか? そもそも熊野神社とは、和歌山県にある「熊野本宮大社」、「熊野那智大社」、「熊野速玉大社」の三つを総称して指し、合わせて熊野三山と 呼ばれています。長野県から熊野へ行く場合、名古屋〜伊勢〜尾鷲〜新宮と、車で片道7〜8時間掛かります。さらに三山が各々離れた場所に位置しているので、 全てを参拝するには、より時間を必要とします。
それでは何故?長野県から遠く離れた神様が多く祭られたのでしょう?それは、御師と呼ばれる人々が、「牛王神符」と言われる、起請文や魔除けの際に使用された紙(御札)を全国各地で配 り、熊野の霊験を説いて全国をまわっていたからです。「牛王神符」には、熊野神社は三本足の烏を神の使いとしているので、烏を使った絵文字が描かれています。昔の人々は、この紙を購入してその裏に約束事を記入し、もしも約束を破 れば神罰が下ると信じていました。信濃国の武士でも、熊野の御札を頻繁に使用していた事から、熊野神社というものを常に身近に感じていたと思われます。蟻の熊野詣と言われた程、信仰を集めた神社 でした。参拝記念や深い信仰心から、信濃国各地でも熊野神社が勧進されていきました。皆さんも近所の熊野神社を探してみてください。 『其之 13』H14.3.6〜H14.4.1
東京の目黒駅近くに 「東京庭園美術館」という施設があります。美術史家には愛好の的。これは久邇宮家から分家した朝香宮鳩彦の屋敷で、フランスを代表するアール・デコ様式(Art Deco)を要した建物になります。戦後は吉田茂総理大臣邸になるなど近代の日本史を担ってきた建物ですが、建物自体が芸術性を帯びた美術品となっています。 太平洋戦争に突入する寸前に、欧米とこのような接触があったのもまた不思議に感じます。同じように、長野県内の近代建築物を挙げると「中込学校」、「開智学校 」、「三笠ホテル」の重要文化財に指定されているものもありますが、その他、松本市のあがたの森公園内にある「旧制松本高等学校校舎」、「山辺学校(現歴史民俗資料館) 」、上田城大手門前通りにある「石井鶴三美術館」が大正時代以前の 建物としてあります。 こういった建物は、街中を歩いていると一際目立った存在です。長野県から程近い 、愛知県犬山市に明治村という明治建築を野外保存しているテーマパークがあります。西郷隆盛の弟で海軍大臣にもなった西郷従道邸などが保存され、一般公開されてい ます。長野県内の近代施設についても、この明治村と同じように何らかの形であれ保存し続けてもらいたいものです。 『其之 12』H14.2.24〜H14.3.6
松本市の「木下尚江記念館」を訪問した 際、田園風景の中にひときわ大きな古い建物が建っているのを見掛けました。思わず何か良い物を見つけた感覚を受け、近づいてみると、県宝指定「旧長野地方裁判所松本支部 」でした。明治41年(1908)松本城の二之丸に建てられていたものを、ここに移築保存したものでした。 これまで明治期の裁判所としては、愛知県犬山市の明治村にある宮津裁判所(京都府)しか見たことがなかったので 参考になりました。歴史の真実味を与えてくれる非常に良物になります。明治時代に撮られた白黒写真を見ると、松本城天守と一緒に裁判所も写っており、それによると入口の破風が唐風から和風に 変更されていますが、殆ど当時のままです。建物の中は、検事室、大法廷、書記室などがあり、最近まで使用されていたような人間 臭さを感じることができます。設計は旧開智学校と同じく立石清重になります。
この博物館の特色は、古文書などの史料が豊富であるということです。そこには分かり易い解説が付いており、一般の人にも理解してもらえるように努力しているよう に感じられました。司法や加助騒動に関する古文書などを片端から読んでいましたが、訪問した時期がちょうど冬だったので、足下など非常に寒かったのが辛かったです。明治 時代の建物は、暖房を使用しないとこれ程寒いものかと身をもって体感しました。 ここを見た後に、時々道路沿いに見る昭和初期の建物も、もう40年もすれば同じような価値を感じるようになるのかと、少し不思議な感じがしました。 『其之 11』H14.2.17〜H14.2.24
木下尚江 (きのしたなおえ)という人物がいます。 受験生があまり好まない高校日本史B教科書の近代社会運動の項目に彼の名前が載っています。そこには、「幸徳秋水、安部磯雄、片山潜らと社会民主党を結成した 」と書かれています。その一節では何をした人なのかよく分かりませんが、彼の紹介を下に記します。
木下尚江の生家は松本城の北東(北深志2丁目)にありましたが、現在は移築されて中央自動車道の松本IC近くに保存されています。そこは「木下尚江記念館」 となり、隣接して「日本司法博物館」、「工女宿」、「製糸工場」が一緒に保存され、「松本歴史の里」という1つの大きな施設となっています。司法博物館の建物は 、長野県宝に指定されています。松本城と同じく市民の根強い保存運動によって取り壊しを避けることができ現在に至っているもので、大変喜ばしく思います。 『其之 10』H14.2.1〜H14.2.17
1月26日に松本城を世界遺産にしようというフォーラムがあ りました。 フォーラムの内容によると、多額のお金と労働力を投入して世界遺産に登録され、その後どうしたいという事がまだ見えていない気が しました。城だけでなく「これから松本をどうしたいのだろう?」その点ではないでしょうか。 これまで全国の文化財や博物館を巡ってきましたが、美しいなり、驚きなり、人に感動を与える場所が一番であると思えるようになりました。そういった場所は決まって 、文化財とそれを映える美しい自然があります。そこに伝統文化などの地域性のエッセンスが加味されて感動を巻き起こしているのです。松本には古の松本に生きてきた動植物や 人々の生活があるはずです。それを写実的に、観光客や住む人自体に与えることができないと、せっかく造り上げた建物などが空振りをします。 しかし、そこに住む人々がそういった事に同意せず、非協力であればいつまでも変わりません。その間に失われていく文化財も多々あります。なかなか難しい問題なのです。 どこへ行っても、同じ公園、同じ歩道、同じ建物 、これではいけません。都会の人達に関わらず現代の人々が何を感じたいのか、どうしたら人を惹きつけられるのか、方法はいくらでもあります。外堀と二之丸御殿を復元する前にもっと考えた方がいい と思います。本丸以外の場所が重要なのです。 最近の文化財 保存運動の中で「Educater」(普及員)という言葉を耳にします。普及員は、子供への文化財教育や教員自身への教育、情報や解説を如何に人々へ知らせるか、広い視野を持ったコーディネイターのような 職業になります。これからの市民に必要なのは、学芸員的な知識ではなく、こういった普及員のような役割ではないかと思います。 『其之 9』H14.1.17〜H14.2.1
『日本現報善悪霊異記』が奈良平安 時代の辞典とすると、江戸時代の辞典は『和漢三才図絵(わかんさんさいずえ)』になるかもしれません。三才図絵は、江戸時代の元禄前後(1700年頃)に寺島良安という人物によって書かれた百科事典で、星座 、芸能、道具、動物、虫、魚、兵器、鉱物などを紹介しています。そして、地理という分野にも踏み込んだ書物で、全国の国ごとに山、川、神社、歴史、和歌などを紹介してい ます。もちろん信濃国も巻第68に越後国、越中国とともに書かれています。そこには信濃国の土産として次のようにあります。
上記以外、平安時代に藤原明衡によって書かれた『新猿楽記』に、信濃国名物として梨子があります。これら産物を見て気付く方もいるかと思いますが、多くが現在において も長野県の名産品として販売されている物で、歴史の上に成り立った産業であることが分かります。 『三才図絵』を読むと、300年も前から昔の人達がどんな教育や研究をしてきたかがよく分かります。数学の面積計算や方程式も江戸時代では当たり前のように学習されていた。もっと日本の昔のことを広範に勉強し、自分探しをして下さい。
参考に江戸時代、木曽の特産品を記した『御国産吟味之留』というのがあるので紹介します。
『其之 8』H14.1.1〜H14.1.17
新年あけましておめでとうございます。 平成14年(2002)という新たな歴史が刻まれました。 『日本国現報善悪霊異記』という書物があります。これは平安時代初期に薬師寺の僧景戒が編集した上中下の3巻から成るもので、景戒が上巻のはじめに こう言っています。
自分も、まさにこんなところだろうと反省するところです。略して『霊異記』は、現代人が講読してもなかなか面白い物語で、人生訓にもなるのではないでしょうか。全116話の中で信濃 国の話題が有るか探したところ、下巻22話と23話に、小県郡の人が写経を心がけた為に地獄から生き返って善に生きていくという話が載っていました。良い年になりますように。 『其之7』H13.12.27〜H14.1.1
今年もあと数日で終ろうとしています。色々ありがとうございました。年末の締めくくりとして毎年恒例の京都調査に行ってきましたが、今年は新田義貞の首塚を御参りしてきました。 京都嵯峨野に滝口寺という所があります。入口が人一人が通れる程で狭い事と、手前の祇王寺の一部と間違えられて訪れる人は少ないようですが、滝口入道物語で有名な寺です。その拝観入口のすぐ横に新田義貞の首塚はあります。この嵯峨野にはその他に嵯峨天皇御陵はもちろん、その皇后橘嘉智子の墓、豊臣秀頼首塚、源融墓所、角倉了以墓所、楠正行・室町幕府第2代将軍足利義詮墓所など様々な人物が眠っています。何か特別な力を感じる場所です。嵐山観光のついでに嵯峨野まで足を伸ばしてはいかがでしょうか。年末の時期ということもあって、少し長野から離れた話題に触れてみました。 『其之6』H13.12.3〜12.27
秋晴れの中、岐阜県境にある中山道の妻籠宿(つまごじゅく、木曽郡南木曽町)から馬籠宿(まごめじゅく、岐阜県中津川市)まで歩いてみました。標高430mの妻籠宿から馬籠宿までの7割程は登りになります。途中、大妻籠、男滝女滝 、標高801mの馬籠峠を越えて馬籠宿に到ります。 妻籠城址(写真中央手前の山)、中山道はこの右側を抜けていく。
出発点は、妻籠宿の北側にある県指定史跡「妻籠城址」。ここは普通の観光客も殆ど訪れない穴場です。江戸時代の旅人も長い道程で疲れている中、わざわざ頂上まで登る人はあまりいなかったかもしれません。しかし、中山道を遮るような形で縄張りを持つことから、戦国時代後期から江戸時代初期には特に重要視された城になります。最も活躍したのが天正12年(1584)の小牧長久手の戦いになります。この徳川家康と豊臣秀吉の争いの主戦場は、美濃国から尾張国の東側一帯となっていますが、徳川家康が豊臣軍の背後を衝くためにここを攻撃させました。徳川軍として攻撃したのは、飯田城の菅沼 定利、高遠城の保科正直、高島城の諏訪頼忠など。徳川家康に服従してまだ2年も経たない南信濃の者達になります。彼等7,000人は、妻籠城も守っていた木曽義昌の家臣である山村良勝300人を攻めました。 徳川軍は蘭川を挟んで対岸の愛宕山に本陣を置き、妻籠城内を見下ろしました。城方は木曽川を泳いで弾薬を補給したり、三留野の山に紙旗と篝火を炊いて援軍と見せたりして、何とか攻撃に耐えていました。結局、城は落ちずに徳川と豊臣の和睦となり 、妻籠城の戦いも終わりました。 また、6年後の関が原の戦いにおいては、上田で遅れを取った徳川秀忠が、急いで大坂へ向かいましたが、この妻籠城において関ヶ原で味方が勝利した事を知らされたと云われています。 中山道から整備された城址の遊歩道を登って行くと、二之郭に入ります。左手の自然な沢に沿って行くと、本丸である帯郭と二之郭が細い土手で繋がり(上写真)、両側は空堀となっていました。帯郭に入るとその名のとおり、輪が段々となって頂上まで続いています。頂上は山頂を平らに削って、その土で周囲に土手を築き、内部が死角となるように工夫されていました。これまで登ってきたのと反対側の斜面は、木曽川まで落ちる 高低差120m以上の絶壁となっています。木曽川の氾濫のため、現在の国道19号のように川に沿って南下する道は無く、必ず妻籠城を通らねばなりませんでした。頂上に立って南を望むと、蛇のような妻籠宿の街並みと、これから越える馬籠峠が遠くに見えました。「何と良い景色だろうか」 、ここから見える山も含めた景色全体が、重要伝統的建造物群保存地区(昭和51年指定) 妻籠宿保存地区1245.5haとして指定されています。この城に籠もった木曽の土豪衆は、島崎、丸山、林、勝野、鮎沢、森、広瀬などになります。彼等は江戸時代となって、馬籠宿、妻籠宿、三留野宿の本陣や脇本陣を務め、周辺の村の代官や庄屋にも任命されました。元和2年(1616)、一国一城令により廃城となり、門や障子などを島崎や林が賜ったと記録にあります。
城を下りて中山道を南へ10分も歩けば妻籠宿に入ります。折れ て無惨な姿となった「鯉岩」が宿場の入口付近にありました。江戸時代のここは妻籠村。戦国時代には殆ど家も無かった村が、江戸幕府によって宿場として整備され発展し続けました。恋野、下町、中町、上町、寺下、尾又と約800mにおよぶ伝統的建造物を見ながら宿場を抜けました。 ここには「売らない、貸さない、壊さない」という住民憲章があるというのだから驚きです。国道256号を横断して南へ向かい、大妻籠 と下り谷の集落を通ってアスファルトの県道中津川南木曽線へ出たり入ったりしながら山道を登っていきました。所々には昭和45年から復元された石畳など、昔の趣を残す古道が見られました。休日であったためか、多くの観光客と擦れ違いました。 男だる川に沿って男滝女滝に着くと、霧状の水飛沫が出迎えてくれます。ここを過ぎて500m程進むと、白木改番所跡がありました。番所とあるように、関所とは違います。藩が独自に物資などの統制を行う場所で、貴重な財源であった木材をここで改めていました。江戸時代の木曽郡は尾張藩(元和元年〜)の領地でした。江戸を中心に大建築時代を向かえ、木材の乱伐によって木曽の山が荒れ、土砂崩れなどを頻繁に発生していました。これに対して尾張藩は木材の統制を始めることにし、寛文年間(1660年代)にこの番所を設置したと云われています。木曽五木(ひのき・さわら・あすなろ・こうやまき・ねずこ)などの伐採禁止木の出荷を統制していました。道中、五木が生えていましたが、その違いはなかなか判りません。ここを過ぎるとじきに馬籠峠、ここを越えて江戸時代の馬籠村に入りました。後は馬籠宿まで下りが続きますが、こちらの道は殆どがアスファルトで残念に思いました。 もちろん国指定史跡名勝天然記念物「中山道」として指定されているのも、馬籠峠までになります(北は大桑村根の上峠までの部分的8.5km)。結局、妻籠から馬籠まで3時間かかりました。白雲や青葉若葉の三十里 『其之5』H13.10.14〜12.3
ある新聞に、小泉純一郎総理大臣が「若者よもっと歴史小説を読め」という発言をしたと書かれていました。しかし、単に歴史小説と言っても問題があります。若者、特に歴史好き の人達が崇拝する戦国武将についてですが、見方を変えると大量殺人者となります。その頂点に立った者達が、創られた文字や映像によって英雄化されて人気を博してい るのが残念でなりません。歴史はもっと違ったものを学ぶものになります。
科学技術などからすると、過去より現代は優れているという認識が当然生まれてきますが、人間性については本当にそのよう なことが言えるのか疑問です。何万人という人が書いた書物を読んでいると、到底そんな事は言えなくなってきます。同じ過ちを犯さないといった基本思想は、 既に縄文時代の人間から穢(けがれ)として読み取れます。 現代人の少ない時間量の中でこういった英雄化された 人物の情報だけでなく、もっと様々な過去の人間の考えを酌み取ってもらいたいと思います。そういった歴史小説が自分のためにもなり、面白いのです。
『其之4』H13.10.4〜10.14 アーネストメイソンサトウ(Ernest Mason Satow)という人物をご存じでしょうか?幕末から明治時代にかけての外国人として有名な人になります。彼は若い頃 、黒船を率いて日本へ来航したペリーが書いた『日本遠征記』を読んで日本に関心を持ちました。そして17歳でイギリス公使パークスの下で通訳生、日本語書記官として日本にやって 来ました。サトウは仕事上、日本の至る所を往来しますが、それは公式的な移動にすぎませんでした。しかし、日米修好通商条約の改定にともなって外国人の旅行規制緩和が実施されると、彼は何度も 長野県を旅行しました。
サトウが歩んだ長野県内の行程は以上のようになります。地図を閲覧しながら読んでいくと、より分かり易いと思います。この時代にこれほど長野県内を旅行し た外国人がいたとは驚きです。サトウは『アーネストサトウ日記』という日記を残しました。これにはこの時の旅行のことが書かれ、外国人を見た事がない長野県人 とサトウとの細かなやり取りが面白可笑しく記されています。サトウは日本の登山、植物、民俗、音楽に興味を持ち、日記の中に多くの 当時における長野県の様子を窺い知る情報を残しました。それから約30年後、日本アルプスを世界に紹介したウォルターウエストンは、サトウに日本登山や地理の アドバイスを受けて日本にやって来ました。
『其之3』H13.9.21〜10.4
NHK大河ドラマで北条時宗 が放送されました。 このドラマが鎌倉や博多を舞台にした遠い場所の物語だと思ったら大間違いです。実は長野県に 深く関係した人が出演していました。それは渡辺徹さんが演じる北条義政になります。北条義政は北条(極楽寺)重時の息子で、執権北条時宗を補佐する連署という役に就き、幕府で 2番目の権力者の地位にありました。父の北条重時は信濃国守護に任命され、信州国塩田荘(上田市)に守護所を置いたと云われています。それを継いだ子の義時は、文永の役後に 塩田荘に隠遁し、余生を過ごしました。以後、塩田荘の北条氏は塩田北条氏と呼ばれ、元弘3年(1333)の鎌倉幕府滅亡と共に滅びます。 『其之2』H13.9.13〜9.21
先日、長野市の川中島古戦場(八幡原史跡公園)にある「長野市立博物館」を訪ねてみ ました。 ほとんど複製品ですが、1階入口から時代順に長野市内の出土品を展示しており、1階は古代〜奈良時代、2階は奈良時代〜現代といった構成になっていました。建物全体で長野市の歴史を表現しようと、様々な工夫が成されており、 千曲市にある長野県立歴史館と同じように、かなり分かり易くなっていました。人によって興味のある時代がありますが、長野市立博物館では古文書を多く展示しているので、原文を読むいい勉強にな ります。 『其之1』〜H13.9.13
先日、岡谷 市の蚕糸博物館を訪ねてみました。 嘉永5年(1858)、日米修好通商条約によって横浜港が開港されると 、良質な日本製の生糸がそこから輸出されるようになりました。それによって信濃国では多くの製糸工場と桑畑ができ、明治以降日本最大の蚕糸産業地として世界にその名を 轟かせました。その中心となったのがここ岡谷であり、現在その博物館が岡谷市内にあ ります。やや暗い建物内に入ると、部屋内にギッシリと蚕糸に関する器械類が並んでいました。しばらくすると変な臭いがします。これが蚕をゆでた時の臭いで、昔はどこでも嗅いだものでした。本を読むだけと比べて、実際に工程を見るとその感じ方は全く違います。ここを訪れて、蚕の飼育や糸の取り方など試行錯誤を繰り返してきた 人の歴史をご覧下さい。
ロマンや興奮などが無いため歴史好きの人達にも 、とかく敬遠されがちな分野ですが、太平洋戦争の頃まで祖父、曾祖父など皆さんの先祖のほとんどが、この蚕によって生活していました。歴史の概要は教科書に載っている一部の人達 だけが関わった大きな事件で書き纏められていますが、平民といわれる全人口の9割以上の人達がどういった生活をしてきたのかを知る事こそ、本当に歴史を勉強することだと思 います。
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(其之83以降) (其之82以前) (其之76以前) (其之71以前) (其之63以前) (其之52以前) 四方赤良余談 (其之38以前)
四方赤良とは 1749〜1823 平賀源内との出会いを契機に19歳で狂詩集「寝惚先生文集」を出版。以後、狂歌・洒落本・黄表紙と活動の範囲を広げる。また「菊寿草」「岡目八目」は黄表紙の評判記として影響力をもった。軽妙な笑いと機知は広く歓迎され、天明期を制するが、寛政の改革に抵触して筆を断つ。晩年、役人の仕事に専念する。
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